ルート7 水月の大望 水野葵③
『この娘が金沢真弓、ちゃんかあ……』
一枚にすら足りていない、透明至極。そんなレベルの魂のような何かである葵は、看護師の背中のリレーを二日ほど続けて、ようやく目的の場所へとやって来た。
一人部屋なのは、親の愛の証かそれとも単に片方が弁護士な彼らの財力の結果か。取り敢えずは静かに寝入るばかりの真弓を良しとして遠慮なく体位交換を行い出す太り気味の看護師を他所に、葵はヒロイン候補だった彼女をベッドの脇から望んでみる。
『可愛い、わね』
そして、葵が呟いたそれは真っ当な感想。勝ち気を柔和に。動と静が混じっているような美の様子は、幼さと戦いながらも間違いなくそこにあった。
兄と共に巻き込まれたという事故の後の脳挫傷の経過は明らかに良好であり、血色も良さそうである。今にも起き上がって欠伸を一つでもしそうな健康体に見えるが、しかし彼女はこの後最低四年以上起きないだろう。その故を、ご都合主義を葵は知っていた。
『以前線として集めた情報の内で確度は落ちるけど……ファンブックに書かれた設定に、この娘は私が何をしなくてもタイムリミット手前には起きるらしいわね。まあ、いちヒロインをただ衰弱に死なすには惜しかったのでしょう』
なら、百合だって活かしてあげて欲しかったなとは言わずに思い、葵はおもむろに寝息感じる真弓の顔に手を伸ばす。
整い似通った、聞けば遠戚らしいまこと丁度いい彼女にそのまま触れ、一に足りない彼女はその上更に指先に力を籠めて。
『ん』
葵は透ける身体を利用し、真弓の脳、そして心にまで影響するのだった。
人には多種の防壁がある。身体は反射機能と皮膜や筋肉など分かりやすい代物で守護されてはいるのだが、勿論心にだって似たようなものが存在した。
不信に恐怖というものはそもそも他との境の生成にすら用いられているが、それに及ばずとも無関心や不理解といった理解と逆向きの動きも愛という危険から心を逃がすのに有意だ。
『中々の、急流ね!』
そして薄いからこそ感情という思索の下敷きをすら肌で感じられる葵は、真弓の持つ抵抗を非常に強いものと理解する。これでは、傍にて安堵するという希望を叶えることどころか、あっという間に追い出されてしまうのが当然。
まるで、寝入った彼女から嫌いだと叫ばれているような拒絶の感に、侵入は遅々として進まない。これは、気軽に世界に孔を開けて同居をはじめるのを得意とする楠花にコツでも聞いておけば良かったと今更に後悔する葵。
『あれ?』
しかし轟轟という流れに必死に前を向こうとする彼女は、その内騒音が声であることに気づくのだった。
葵は、まるで他者を容れずに騒ぐ彼女の心がここでようやく気になって、前のめりになる。すると、自然あれほど押し寄せていた嫌忌が和らぎ、少女への理解を促進させるのだった。
そして聞くに真弓は独り、こう叫び続けていたようだ。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!』
『なるほどね……』
それは、謝罪。恐らくは、巻き込んで殺してしまった兄へのものか。生き延びてしまったことやこれまで思えなかったことすら材料にしながら、その反省と言うには自罰的過ぎる繰り返しは続いていく。
そして真弓はそれにばかり必死。己を生かすことすら蔑ろにしているようだ。そのため、起きないのか。なんとなく見物者もそう察する。
壮絶な、時間の無駄遣い。限りある全てを哀悼に使う彼女は壊れている。
『これは、ごめんなさいにごめん、かな』
『――誰?』
だが、あんまりな現状に絶句してしまった葵とて、生きなければならない。泣きじゃくり過ぎてふやけきった心に向けて、一歩。
すると、小学生のまま停まった容姿の怯える真弓が見て取れた。何だ生きて動いている方がよっぽど愛らしいと思った葵は、けれどもそれを上手に顔に出すこともなく。
『私は水野葵よ、金沢真弓ちゃん』
カーテシーの真似事をして戯けながら、自己紹介をするのだった。
反応としては瞳をぱちぱち、そしてきょとん。子供らしい応答にくすりとした葵に、見下されている真弓はもう届かぬ謝罪どころではなく、驚きこう返す。
『葵、お姉ちゃん?』
『ぷっ』
そして、返ってきた意外な呼び名に本来同い年である葵は、高校生の容姿で笑みを噴出させた。確かに血は少し似通っているようであるが、それでも姉には遠くて年齢は共通。ならば、この呼び方は間違っていて、でも真面目な真弓がちょっと面白くて。
そんなこんなを味わっていたところ、少女は予想外の返答のなさに不安になる。スカートの端を強く握った彼女に、葵は慌てて返した。
『え、と……』
『ああ、ごめんね。私、本当は貴女と同じくらいの年なのよ』
『お姉さん、じゃないの?』
『うん。だから葵でいいよ』
『あ、葵』
『いいね』
酷い挫折により気弱になってしまった真弓は、機嫌を伺うように下から闖入者を見上げる。これに、葵は少し庇護欲を誘われた。
撫でるには、まだ遠い。けれども笑顔を届けるにはこれでも楽だった。
『うー……』
『あ、隠れちゃったかー』
元より最高クラスに調整されている葵の笑みに、一年間独りぼっちだった真弓は照れに隠れざるを得ない。とはいえ心の襞にて顔を隠す子供は、非常に愛らしいもの。
惚れられたら面倒だなと思いながらも、自己紹介には少し先では足りていないと気づいた葵は恥ずかしがり屋の情動を気にせず畳み掛けるように続けるのだった。
『まあ、そのまま聞いてくれればいいけど……実は私主人公でね。真弓の心に訪れたのは、避難のためなの』
『え、う……葵、主人公なの?』
『そう。ちょっと失敗して過去に来たらお化けみたいになっちゃって、だから出来れば貴女の心の隙間を借りたいのだけれど……』
『うー……よく分かんない……』
『そっか』
『それに、ちょっと信じられないよ……』
不安ごとまとめて受け入れてくれればありがたいな、とは考えていたが幼いといえども真弓もお利口さんでならした子。分からないものをごくんとしてしまう程馬鹿ではないし、そもそも主人公なんてどこにもいないから各々に主観があるのだと考えてもいた。
だから、お化けと聞いて余計不安になった少女は消え入りそうな小声で正直に不信を吐露する。
そんな組み難さをむしろ葵は喜んだ。百合程の純真というか単純はそんなにあって良いものとは思えないし、彼女は怖がりを絆すのも楽しそうと考える。
それに何より洗脳のような押しつけは好みではない自由意志を大切にする元主人公さんは、だからこそ対話のために、こう本心ばかりを告げた。
『ま、信じてくれなくてもいいよ。でも――――貴女には、どれだけ私が百合を好きなのかだけは、分かってほしいな』
もう何に語ったところで意味はないのかもしれないが別に、相手は壁ではない。ならば、反応は何かしらあると踏んでいたが、実際それは劇的で。
『……百合?』
『そう。私の全て』
最初は花の名前かなと考えた真弓も、しかし相手の頬の紅さにそれどころではない想いがありそうだと察した彼女は内心びっくり仰天。
女の人が、女の人を愛しているのだと察し、あまり身近にないそれに瞳を限界まで開けてそんなのアリなんだと少女は蒙を啓く。
しかし、そんな驚き前にてあまりに綺麗な人は自然体。どこまで本心かどうかは分からないけれども、葵が愛を事実としている様子は間違いない。
それがあまりに自罰に転んでいた少女にとって刺激的であり、故に真弓は心のまま。
『その子、どんな子なの?』
『ふふ……えっと、ね』
お姉さんから心の隙間を借りたいだの、その他貰った情報や感想等の全てを放り投げて、百合という存在を気にしたのだった。
そこに何となく素質を覚えた葵はだからこそ。
『可愛くて優しい、天使だよ』
自らの保険として、そんな言葉足らずの真実を真弓に教えてあげるのだった。