ルート7 水月の大望 水野葵②
百合のために過去を変えようとして戻った水野葵は、幽霊よりも見えない薄くレイヤの裏に隠れて存在する程度の微かな存在となっている。
バタフライ・エフェクトも期待できない超微小。カオス理論としても初期変化とは言えずにそもそも誰知らず予定調和に組み込まれてすらいるのであるからには、葵はただそのまま存在し観測する以外に何も出来やしない。
プレイヤーに操られる程度の薄っぺらい自分が見えないまでに薄まったと思えば笑えるなと最初は彼女も考えていたが、流石にもう笑顔も凍えた。
『存外、一人というのは淋しいものね』
光という子供の手からすら離れて、一人彷徨う葵は人の間にすら埋もれることすら出来ずに、他人に感じてもらうことすら出来なければ、彼女もまた他人を覚えられない。
百合の傍に居たいと切に思う元恋人は、でもそれが正しいとも思えなかった。
『だって、愛してあげられないのもまた、辛いから』
愛おしい、日田百合。彼女のことなら上から下まで余すこと無く愛せるし、その内に潜む絶望だって愛でるには充分。
水野葵は本心より彼女のもとで生きて死にたいが、しかし百合を前にして活きることも出来なければ何時か狂気に飲まれてしまうだろうと予想してもいた。
それくらいに、彼女は彼女が大好きなのだ。
『なら、時が来るまでこの流れに消えゆくばかりの私を保つ場所が必要ね』
そうして、元主人公が来たるべき日まで自己保存を第一にしようと考えるのは、早かった。光の手の温もりを忘れる前に、時に殺される前にこの微少女は過去を生き抜こうとしたのである。
『体を保つには長く動かず、でも生きたスペースが最適……なら、あの子が使えるかもしれないわ』
百合と違って葵は比較的に怜悧だ。賢ければ、割り切れもした。他人は利用するものでもあっていい。そんなの、プレイヤーの快のために存在していた彼女にとって自然の理解でもあった。
元主人公としての知識として、選択の余地のあった彼女の仔細が浮かぶ。
今回使うべきは砂金の真心、金沢真弓。誰も選ぶことがなければ余った奇跡によって救っただろう、病弱系女子だった。
見目としては七曜の少女たちの倣いで当然の権利のように美しい。性格としても高飛車が一度折れていることもあって手軽な愛らしさが予想できる。
眠り姫としてのキャリアは既に一年。百合も通う西郡総合病院にて、真弓の身は安堵されていることだろう。そこに入り込めれば、しばらくはその身をシェルターとして使えると葵は見た。都合二人が一つの身に入る際の自他の窮屈さは我慢しないと、と飲み込んで。
『外道な元主人公だこと……』
そして、そんな起きる見込みのない身体に寄生することを選ぶなんていう己の無様に、改めて葵も自嘲する。
奇跡の力による巻き戻しに失敗するまでゲームのような世界の中心とされて満ち足りた生を送ってきたというのに。運命、線というレールを操りなぞり、それに絡まって頼っていた死に損ないが、今は薄弱にも動かぬ見捨てた誰かの身体に縋る。そんなのは、間違っているとは知っていた。
だが正しさは与えられるものでなければ、選び取るもの。過日の無垢、天の欠片たる日田百合ならば或いは違うのかもしれないが、奇跡的な人間でしかない葵は選ばなければいけないのだ。大人しく死ぬか、みっともなく生きてそれを叶えるか、を。
『無論、生きないとね』
頷き、葵はそのまま人の流れに付いていく。百合という少女の物語をこの世の誰より知るマニアさんは、だからこそ死ねない。
彼女がどれだけ努めて苦しんで命を続けているか、彼女は理解している。また、愛に資格なんて要らないが、それでも死んでしまえば何も無いのだ。
本物の幽霊である木ノ下紫陽花よりもよっぽどそれらしく、人の影を踏んでそれにくっついて運ばれること、しばし。
目的地が生存に必要な場所であるから、着くのはしかし思いの外早かっただろうか。肩がなんか重いなと考えながら葵を乗っけていた中年女性から、気づけば葵も細身の看護師に乗り換えることに成功していた。
こうなれば、後は早いだろうと、省エネ的に憑いて移動してばかりの葵もにんまり。今日は首元がやけに冷えるなと不安がる彼女の後ろにぴたりと憑いていくのだった。
『永井……なるほど、この人は外来担当の看護師なのね……可能なら病棟看護師の人に憑いていきたいけど……あ』
しばらく後ろから葵は女性の仕事ぶりを興味深そうに覗いていたが、永井という名札を付けた彼女は病棟奥には向かわず、医者の傍で甲斐甲斐しく外来患者のカルテの世話などの担当し続けている。
タイムテーブル的に入院しているに違いない真弓の元へと向かうには、この看護師に憑き続けても叶わないかと、早々に葵も理解する。
とはいえ、少し目元の皺が深い手近の女医に憑き替えたところで、担当的にこの後病棟深くに向かうことは考えにくい。
ならば、ベテランっぽい看護師を次に見つけたら賭けでそっちに乗り換えてみようと画策する葵。もう幸運が味方することのない彼女はこの後そんな賭けに二桁回数失敗するのだが、そんなの元主人公さんには予想の外。
ただ、今は新しく看護師が持ってきたカルテに乗っかった名前に目を大きく開くのだった。
「先生、次の患者さんは……」
「うん。あの子だよね、分かってるよ。もう呼んで大丈夫」
「はい」
「失礼します……今日もよろしくお願いします」
『百合っ!』
そして、現れたのは四年前の百合。中学に上がりたての彼女は、ふっくらしたところが頬ばかりの痩躯であった。
また、そんなあまりの余裕のなさは心にも影響するのか、葵にとっては馴染みの元気も今は僅か。血の気の欠けた白ばかりを纏って、百合は薄く微笑むばかりだった。
『っ』
「……あれ?」
思わず、予想外に眼の前に用意された最愛に手を伸ばす、葵だったもの。しかし、その手は触れる前に引っ込んでいく。その際に僅か過分な涼を覚えた百合も、クーラーの加減かなと勘違いしてそのまま椅子に座った。
そして、これ以上葵が何をすることもなく、診察は以降順調に進んでいく。医者は端末に明るく、赤字ばかりの分かりやすくバツな結果の集まりを百合に指し示すのだった。
「それで、この前の検査結果だけれどね……うん。取り敢えず一緒に見てみましょうか」
「はい……あ、ちょっと良くなってます?」
「うん……数値的には多少、ね。ただ横ばいと言うか、悪い中でのブレに近いと言うか……多分これでも、百合ちゃんは苦しいままよね」
「はい……」
「弱い痛み止めは、気休めにしかならない……でも、続けてね。増血剤も百合ちゃん貧血気味で致し方ないからこれからも飲み続けて欲しいけれど、両方胃薬と一緒に飲むのは忘れないでね」
「はい。気をつけますね」
『……ああ』
黙して聞いてから、どうしようもない現実に葵は嘆息する。実に辛そうではあり炎症反応、C反応タンパク質の値等が異常極まりないが、この時期の百合は実のところまだ大丈夫な方だ。
実際小学生時代に内臓の一部をたちの悪い医師の手により摘出されて、そのために彼女は体重ごと症状を僅かに軽くしている。目的が実験なためにその男は院内で問題となりクビとなったが、当の百合は全身についたメスの痕のお陰で長生きできているのだと、彼に内心で感謝すらしていた。
現行の担当医は、そんなことすら熟知しながらどうにか内科的療法にて症状の安定を求めていたが、実際処方にも限度があって苦しんでいる。
そんな全てを、日田百合は死ぬために存在しているのだというどうしようもない設定を理解している葵は悲しまずにいられなかった。
続き、話を聞きながら薬の量の調整の段階に入った医師は、そういえばと百合に問う。
「それと、解熱剤と抗生物質は百合ちゃんには強すぎるからって熱が起きたときの頓用として出してるけど、使ってる?」
「えっと、あの錠剤ですよね……あたし多分、一回も使ってないです」
「……百合ちゃん。薬に頼りすぎないのは良いけれど、別に薬は頼りにならない訳じゃないのよ?」
「分かって、ますけれど……ちょっと熱の違いが分からなくって」
「そうね……百合ちゃんは平熱高めだから……一度プラス……いえ三十八度近くになったら使った方がいいかも」
「えっと、気をつけます……」
「……熱は朝昼晩ちゃんと計ってる?」
「はい……ご飯の前に。ただ、あたし馬鹿だから時々アヤメ……妹に注意されたりしますけど、何とか出来てます」
「それなら良かった。もしそれ以外でも熱を感じたら計るのよ?」
「はい」
医師の心より心配そうな表情を、百合は都度残念そうに受け止める。彼女にとって感情というものは喜びこそ群を抜いて歓迎すべきものであり、相手を悲しませるのなんて論外だった。それを思うに、今の百合は自分なんかがこんな素敵な人を悲しませてしまうなんてどうにかしないと、と思っているに違いないのだ。
『どうにか、してあげたかった……』
きっと自殺という選択すら脳裏にちらつく中、それでも命を選び続ける彼女に心から尊敬の念を覚えながらも、未だ葵には後悔ばかりが残る。
この後、日田百合は幸せを装うことを学んでしまう。薄いチークに紫色を誤魔化すリップ。最初は下手に塗っていたそれらに慣れて、次第に彼女は愛らしい桃色になった。
葵は、どんどん綺麗になったものだと他人事のように思っていたが、しかしその裏には他人を心配させたくないという少女の懸命が隠れていて。
きっと、百合を根本から治せただろう奇跡を持っていた葵は無理にでも治してあげるべきだったと、今更ながら思う。
まあ、天のものである百合を地のものに替えるというのは葵の命の全てを賭けたところで難しかったに違いない。だが、それでもこの子になら何もかもを賭けてもいいと思ったのに。
「ありがとうございました」
『どうして、貴女は奇跡/私を否定したの?』
お利口さんにもお辞儀して、白い引き扉を閉じて去っていく百合に葵はそんな恨み言一つ。彼女は彼女のつれなさに、しかし今更涙をも零せないのだった。
次の準備に忙しい医者と看護師を視界に、未来の過去に引っ張られ続ける葵は幽霊としても恋人としても失格であり、だからこそ。
『早く、這入らないと』
最早指先は、彼女の目からも薄く透けるようにこの世に消化されている。細き末端から飲まれるのが自然と思えば、そろそろ流れる時に対処しなければと彼女も考えるが。
『はぁ……死にたくないのに、死にたい気持ちってあるのね』
そう呟いて、冷えるから冷房の温度をあげようと相談する周囲を聞き流して、その場にしばらく存在し続けるのだった。




