ルート6 浄土の芳香 土川楠花(なか)⑤
「っ、なんだい、こりゃあっ!」
それは、きっと世界の悲鳴だったのだろう。誰もかもが空から聞いた。大いなるもののあまりに低音で不明な轟きを。
そして、気づけばこれまで一般的な視界には映ることのなかった死線の赤が、瞬きの後一部を滴りとして誰の目の中にも存在するようになっている。
そう、空は紅く真っ直ぐに引き裂かれて、紅く紅く真っ直ぐに汁を見せていた。
創傷、というよりもただ無理に一枚の表皮がズレてしまったかのような、そんな有り様。紅く泣く青はあまりにも象徴的過ぎて、知らず仰いで膝を落とす者も多々。
そしてそんな、血のように滴る世界の終わりの最先端に一人。
「少し、やり過ぎてしまいましたかね?」
それは、当たり前のように空に在り、当然の権利のように空に手をかけて紅く毀損していた。暗い色の長髪が風に靡いて辺りに散るが、それを気にせず彼女は騒乱に浮つく眼下を興味深そうに眺める。
終わりの世界の被膜を破って更に著しく弱らせたこの少女は、どんな世界にも存在しうる単一の無敵、山田静。三千世界を山田静という単一ルールで繋げてしまっているルール上のバグは、数多の一般的な凸凹を望みながら彼らの瞳の色が恐ればかりであることを察して少し居心地悪そうにした。
「ふふ……愛のない視線をこうも浴びるのはあまりないので、ちょっと楽しいですね」
静のその普遍を体現したアベレージの見目は、生半可なアイドル達も逃げ出す程の、一切合切問題なし。見本的な、ヒトガタである。
だから、平素であるならば、彼女は欲や愛に染まった瞳で見つめられるのが然り。それが、今や破滅の大王のように見上げられているのだから、最悪に育てられたことで少し悪どいタイプのこの世界の山田静は。
「まあまあ引き裂けたので……それでは、次は抉り出して見せちゃいましょうか♫」
そう呟いて、戯ける。そんな様子がどう見ても悪意のない愛らしさを帯びているのがまた恐ろしくて、衆生は悲鳴を上げた。
世界とはある種次元をまたぐ途方もなく巨大な生き物のようであり、故にその変遷の象徴は赤である。もっとも種類と属のような差異も世界に存在するために様態がほぼ違う場合もあった。
だが取り敢えずその全てに有り、間違って在り方の欄に九十九歳までの大過ない生存が《《書き込まれている》》山田静はその違いすら理解ってしまう、楠の鬼以上のマエストロ。
どこか空気に血の味のするこの世界はやはり、《《血の通った人の空想》》のようである。なら、次は大きな臓器を傷つけて抉りでもしてしまえば疾く終わらせられるな、と思った静はずっぷりとその手を引き裂き滴らせたばかりの赤に投入しようとした。
「待ちなよ」
「あら。楠の人。待っていましたよ?」
「どこがだい……私が一歩でも遅けりゃ、この世は終わってただろうに!」
「そうですね。まあ、一秒でもいただければトドメをさせたとは思います」
「お前……!」
遠慮なしに、真実を語る無敵の人。エックスの巨体に因する全力で静を掴んでもそのあまりの確度の差から、静止の手はするりとすり抜けられる。
それは魔法どころではない、無法或いは脱法。絶対にやり合いたくない相手だった山田静は、楠花の全貌を知りながらも私に知ったことかとひたすら笑顔。
そして、後ろ手に手のひらを合わせて、とても楽しそうに彼女は怒る鬼の前で空にステップを踏むのだった。
「でも、強制終了させてしまう前に、貴女が来てくれて良かったです。貴女くらい大げさな存在なら、私を楽しませることも出来ますよね?」
「静、お前がこんな事をした理由は……」
「ええ。暇だったので、善人に倣って終末を加速させてみました」
「っ!」
とはいえ、これくらいなら一日二日は余白を残せたでしょうと胸を張って続ける静に、心底楠花は戦慄する。
以前から感じてはいたが、やはりコレは単に無敵過ぎて何もかもを参照できるのに人の心が分からない。最悪よりも手の施しようがない、と多少関わりながらも何も変えられなかったことに鬼は自責の念を覚えるのだった。
まあ末端たる楠花は知る由もないが、実際のところはこの世界の山田静が悪を傾向としていただけで善の山田静も多元世界を眺めれば相当の数存在する。むしろ、このように人を人と見ない彼女は少数派でレアケース。ある世界ではシスコンの静だって無論在り得たし、恋愛に現を抜かす静だって当然有り得た。
とはいえ、楠花の目の前に居る山田静が最悪に近いというのは彼女の感想の通り間違いない。サイバーパンクも魔法と剣の異世界も知識にはある彼女も、暇故に最近楽しんでいるものがあった。
あんまりな物言いに愕然としていた鬼に理解の火を灯してあげようと、静は動画サイトをたとえにこう続ける。
「あら。楠の方は気になる動画を良きところまで早送りしてみることなどはないのですか?」
「それとこれとは、違うだろう……お前さんが終わりにまで移動させたせいでどれだけの命が寿命以前に落っこちてしまったことか……」
「映画だとこれくらいだとエンドロールに値する頃ですものね。登場人物も文字記号しか残らない頃合いで……だからお気に召さなかったのですか?」
「巫山戯るなっ!」
「いいえ。少し楽しいのでふざけますよ?」
「っ!」
分からず屋に、グーが出た。そんなの、感情が起こす平凡だろう。しかし、ありきたりの組成の人に、種では最弱でもそもそも三千世界で最大級の鬼の全力の拳が向けられるなんて、本来ならばオーバーキルに過ぎた。
是正どころか見たくもないという否定の行為。あんまりの大質量の急速な移動により掠めた世界は一部紅く弾けてその威力の程を物語るが。
「うふふ。貴女がいくら焦がれて……それこそ赤熱しようとも、私に影響を及ぼすことなんて無理ですよ?」
「ちっ!」
案の定兵どもを潰してきた力を向けてもこれっぽっちも山田静は変わりない。静はそもそも、欄外を生きる無関係。間違った入力がありとあらゆる世界にて実現してしまったバグである。
故に、三千世界の大部分を貫く程度の鬼でしかなければ、それを打倒するには物足りない。死の概念すら遠い彼女を本当に殺すならば全世界を道理ごと一重に破壊しなければならないだろう。
そんなの生物には無理なことである。今も彼女に鬼は触れられない。ただただ楠花の力みばかりが紅く、鋭いばかり。
やはり無理だったかと、彼女は舌打ちをする。鬼は、今にも雫が紅く滴りそうな空を横目に、怒気を必死に抑えながらこう問った。
「……楽しいかい?」
「ええ。悔しがる貴女の顔、ちょっと面白いです」
「そっかい。なら別にこんな大袈裟なことせずに、私を呼べば良かったってのに……」
楠花は、敵対したくなかった相手と向かい合うことすら本心から嫌で、そう呟く。
元々彼女は、彼女のことが嫌いではない。上水善人絡みで知り合ってからは、付かず離れず。下手に刺激をしないようにしつつ、それでも面倒を見てやってはいたと楠花は自負している。
もっとも、この世界の静は善人と仲が良かった。悪を黙認して、むしろその悪ぶりを応援する立場ですらあったのだ。具体的には、彼彼女は友人同士。
それを思うに、今回の騒動の原因は恨みから来るものだと思い、ならば私の首を差し出そうかと頭を垂れる鬼であったが。
「ああ……それもそうですね。それは私が少し間違っていたかもしれません」
「はぁ? 訳知り顔で、失敗したってのかい?」
「ええ。それも当然でしょう。多くを見聞きしていようとも別に、私はさほど賢くはありませんから」
むしろえへんと、馬鹿を誇る静にもう、楠花は何も言えない。この異次元スケールの無敵を一般的な倫理と尺度で考えていた自分を恥じて。
山田静は、間違いを間違いと思えない。何せ、幾ら過とうと彼女には本質的に関係ないのだ。どんな道を辿ろうがそれこそ宇宙に放り出されようが《《九十九歳までの大過ない生存》》が約束されている。食えなくても飢えず、病の中でも死なずに寿命まで暮らせるのだ。
それはこの世界が終わったとしても一緒。きっと誰もかもが赤き粒と化して廻天する中で無関係なまま生きて勝手に死ぬことだろう。
そんな生き物と友と勘違いしていたとは。今更ながらに痛恨ではあるが、しかし改めてこの綺麗なばかりの身勝手を見つめていると、そんな気の迷いが正しそうにも思えた。
しかし、ただ無力に見つめるばかりの鬼に何を感じたのか、静は言う。
「まあ、私はせっかちな方かもしれませんが、決してデウス・エクス・マキナなんかではありません。余計な茶々なんて、これっぽっちです」
「……茶々?」
よく分からないが茶々、と来た。疑念が今更に実は静よりも賢くない楠花の頭の中に渦を巻く。
そういえば、これまで彼女はただただ楽しそうだった。それこそ、世界滅亡を明らかにするなんて愚行をむしろ誇るようにしていて。
ひょっとすると私は勘違いしていのかと思う鬼に、明かす静は。
「ええ。ふるいにかけることなんて、お料理でもする当たり前でしょう。罪にもならぬ、罰要らずの行いです」
実のところ無常にもこの世を篩って、手本を見せていて。
「全てを掬う手のひらなんてなければ、何もかもは全て己で選択せねばならない」
その無関係の手のひらで遠慮なく楠花の固めな手をむんずと握る。
冷たくも温かくもない平温を浴び、目をパチパチと瞬かせる鬼に、彼女は笑ってこう告げた。
「さあ、鬼さん。貴女はまだ何にでもなれる……それこそ、幸せになってしまっても良いのですよ?」
そう、あの日誰かさんにどうせならそうして欲しいと言った際よりもずっと楽しそうに、贔屓を見せたのである。
彼女は、やはり友達だった彼女に問う。
「……お前さんは、私が嫌いじゃないのかい?」
「何を仰るかと思えばそんなこと……私はただ暇だから、愚図な貴女の背中を押しに来ただけですよ?」
「そうかい……」
二人にしか分からない、迷いを断絶するための言の葉。やっと終わりの終わりの際に来て、消えゆく身体に悲鳴を挙げる人共の合唱を他所に鬼はそれを聞き入れた。
幸せになる。彼女にとってそれはつまり、全てを賭して幸せにすることだ。
鬼故に、それは決して正道にはならず、下手をしたらただの自己犠牲に映るかもしれない。だが。
「分かったよ……そう、しよう」
「良かった!」
頷く楠花の隣空にてこれでダメならどうしようかと思いました、と両手を叩いて微笑む静。
ウザいなと思いながらもこうして、彼女は在り方に逆らう勇気を得たが。
「だが、静。お前はやり過ぎだ! 一回本気でぶっ飛ばしてやらなきゃ気が済まないねえ!」
「ああ、それは私の望むべきところですね。やれるものならやってみせて下さい」
しかし、世界の滅びに加担した目の前の女をピースメーカーとして赦すわけにはいかなかった。
それには、友だからこそ、目のもの見せてやりたいという心があったのだが、それを隠して。
「はんっ、言ったね」
笑みのように、鬼は牙を剥く。
「あら」
それは瞬きよりも尚速い。
楠の鬼は世界に穴を開けて侵入する能力がある。だが、そんなものを使わなくたって、ただその大質量をバネにするだけで。
「貴女が見えないですね」
人間のスケールでしかない無敵の動体視力では追いつけない速度を出せた。
「困りましたね……えいっ♪」
四方八方を巡る鬼を求め、静は真っ直ぐ手を伸ばす。そして柔らかなそれにて瞳に残らぬ軌跡を断じようとした。
無敵の彼女の移動を妨げることは、万有引力等どんな下位の道理であっても不可能。空を歩けるのも、世界を引き裂けるのもその延長であるからには、鬼の軌跡をむんずと掴んでその足を引っ張ろうと彼女は目論んだのだが。
「かかったねっ!」
「あら?」
しかし、そんな接触行動と同タイミングにて鬼はこれまで空を駆けて付けていた助走の勢いそのままに、上半身を爆ぜさせる。
最弱の鬼がかけられる全体重を用いたそのフルスイングの先端は違えることなく静の伸ばした手の先に合って。
「なるほど」
静に鬼の威勢の故を納得させたのだった。
確かに、静の移動を妨げる道理は全てなかったことになる。だが、彼女が触れようと求めていた者、接触許可を出した存在が不許可を出す間もなく彼女の手のひらを手のひらで押し出してしまったならば。
追い出すその勢いを静は得られてしまう。そして楠の鬼の全霊の押し出しは見事にこの世を越えるレベルであり、そして改めて静の移動は妨げられることはなく。
結果は、視界を過ぎる赤の次に黒。そして。
「私はじめて、負けましたね」
目まぐるしい移動の後に山田静が見上げたのは、別の世界の青い空。
ここはなるほど終わりは遠そうでちょっとピンクな匂いもするが、まあもう私には関係ないと彼女は結論づける。
「お見事。このようなこと次はないように気をつけないとですね……」
何せ、ありとあらゆる世界に存在する山田静は当然越えてやって来たこの世界にも存在しており、同存在はあり得ないという、静の無敵を支えていたのと同じ程度の上位の道理が彼女を今是正してしまっているのだから。
つまり、同期の後に終の世界から来た山田静は消える。それが、道理に守られた彼女にも納得できる、ルール通り。なるほど暇なんて忘れるくらいに衝撃的な結果である。
これまで見据えてあのへそ曲がりな友人は苦しそうに私を罰したのかと申し訳なくも静は思うが、だがしかし。
「直に見れないのは残念ですが……最期にあの子達の幸せでも祈っておきましょうか――――」
ただ退屈だった余所者でしかない命を落とすことが出来た嬉しさの感謝に、まるで異世界で随分悪どかったようには思えない程の笑顔を広げながら、朝日の下に山田静は消えるのだった。