ルート6 浄土の芳香 土川楠花(なか)④
楠の鬼とは、本来群れるものである。根っこなど雑多に複数あるために、それぞれ姓という冠に分かりやすく楠の文字を付けるのが定常だった。
しかし、このあまりに狭苦しいちっぽけでニッチなゲームの世界に侵入出来たのはそれこそ楠花一本ばかり。
つまり、珍しく単で最強となってしまったのが彼女だった。
正直発生したての江戸の頃には彼女も孤独に大分荒れて、妖怪変化共と人間界にちょっかいをかけることを遊びとしていたくらいだ。幕末は舶来の者に紛れ込むのも楽しかったなと、少女は想起する。
そんな私を見てという駄々の際に頂点の角を見た者に鬼と間違えられたのを良いことに、楠花は次第に特別な存在として現し世に馴染んだ。首をたたっ斬ってやっても死ねない、でも忘れ去られれば失くなってしまう本物の鬼どもにはズルいと叫ばれたが、しかし酒とともに彼らを看取った後は静かなもの。
その後楠花は樹木に類する存在である大元と同じように何となく、西郡という土壌の良い安置を守ることにした。
戦争なんて人共の小競り合いなんてものに関わることさえなかったが、それでも怪獣だの怪人だのでも国ごと西郡を害す可能性のある危険物はなるべく早く潰していたから、彼女は実を知ることの出来る人間たちにはそれなり以上に有名だ。鬼扱いどころか裏ではピースメーカーなんて大層な呼び名を得ながらも、しかし彼女は木の先端らしく大人しく利用されてやるばかりだった。
そちらに史上最大の兵器があるなら、こちらには世界最強の鬼器がある。
そんなことを他国に言い放って偉ぶった馬鹿は流石にぺちゃんこにして見せしめにしてやったが、まあ彼女はそれなり以上にどうしようもない悪をお偉方やそうでもない知り合いと相談しながら処断していた。
ほぼ爪を掠めるだけで潰せたそんな数多の中でも極めつけの者を挙げるならば、二つ。
まず人でなしで厄介者だったのは、赤マントという怪人。花子さんの怪談によって数多殺された子供たちの憧憬が形になったそれは、無数で無貌。それが文字通り人の皮を血塗れに被っていたのだから、たまらない。
『鬼ごっこは、懐かしかったヨ』
潰しても潰しても湧き出てくる呪わしきそれを何とかするには、流石の楠の鬼でさえも本気で対処するしかなかった。
具体的には両手でパン。無量大数どころではない質量が彼らのために手を合わせたことは物理的な威力以上の慰めとなったようで、以降赤マントは顕れていない。
とはいえ虫を潰すように厄介者を倒したことには、赤マントから散々なストーキング被害にあっていた花子さんも苦笑いを禁じ得なかった。
忘れられた今はトイレに己を地縛させている、過去やんちゃだった彼女は楠花をこう語る。
『ケケケ……楠花さんは、面白くないね』
助けてやったのにそんな言い草をする餓鬼には鬼も消えないレベルでの拳骨をくれてやったが、しかしそれは間違いないなと楠花は思う。
何せただのデカいだけで勝ててしまう彼女は、心を震わせたためしなど殆どないものだったから。
もっとも、それで言うならば人であり悪極まりなかったかの存在は楠花を苛立たすには足りていたのかもしれない。
そのラベル名は上水善人。彼は世界六大グループの上水会と同じ姓を冠っているが、それも当然。
善人こそが、そんな他社から益を吸って蒐める団体をいちから創らせた存在なのだから。男は、即ち棲む日本でもどうしようもないくらいに影響力を持って根を張っていた。
また、彼は人共の実験により造られた人間ではあるが、その際の大失敗のために足し算が掛け算となり最早人の価値を軽々と超えている。具体的には、人共を生み出したような神格達と同じレベル。
ただ近似位置にあるだけで他を幸福にさせるに充分である筈のそれは、しかしテュポーンのように魔王として振る舞うことを好んだ。
何故かと言うと、それは。
『オレは、誰かが苦しむこと以外あまり楽しくないな』
人の不幸以外の蜜を感じられなかった善人の不幸のためだった。
とはいえ、彼とてモデルが人であるからには、足るを知ることも可能。賢さもまずまずだった男は、早々に世界を滅ぼさなくても毎日自分が満足するだけの不幸に関われるようなシステムを構築した。
それこそ、名こそ高けれどもその実内容はグレーと知れ渡っている上水会という組織。彼は、人を操り多くを損ねて日々を楽しんだ。そのストレスの無い生き方は、彼を老化させることもなく、四十を超えて尚楠花に子供と感じさせたくらいである。
兎にも角にも、男の悪は日々世の中に湿潤していた。
『法を歪める程歪んだ者を創るためにと、お前さんは妹のために悪にされたのかい……』
『違うわ。私は私の思いのままに、生きてる』
『間抜け! 親を殺して己を殺して、妹ゆきを強くするためだけに生きているお前さんの今が歪められていない訳ないだろうに!』
『かもね……でも。私はあの方のことを愛している。だから、私はあの方の愉快のために貴女という鬼に挑んで死ぬわ』
『そう……かよっ!』
まあ、それが鬼の逆鱗にまで触れるのも、ある種時間の問題だったのかもしれない。
上水善人は賢くも人の心の奥底までは分からなかった。だから思いの方向は操れても、そもそも他者の心を利己のために動かす行為があまりにグロテスクなことだと知れない。
『善人……どうしてお前さんはそうあって欲しいと願われたその名の通りになれなかった』
『いや、他者の悪であるこれでも善しだとオレは思っていたが……違うのか?』
『違うんだよ……お前さんがやっていることは、命の真逆さ』
『ふむ……オレは己を悪の加速装置だとは思っていたが……それは初めて知ったな』
そう。男はあまりに稚かったのだ。もしかしたら、彼には教えてあげて頭を撫でてくれる身内が必要だったのかも知れない。
だが、鬼が助けてやれないくらいに、善人はあまりに手遅れであり、実際既に彼は鬼の前に彼を神と崇めるそこらの人々を盾にして幾ら潰されても気にせずあった。
歯噛みする楠花。これに比べたら鬼とされる己はあまりに優しいのだなと、鋭角極まりない尖りは今更に気づいて。
『まあ、一体全体悪であっても別にそれで好い。そもそも生存こそが罪悪滔天。その点オレとも比べ物にならないくらいに楠花、お前は悪だからな』
『っ!』
しかし、命を死へと解放する黒鍵を広げて本気を出した男の言葉に気圧される。
正味、紙一重で善人は鬼殺しを成せない。神のごとくとはいえ結局のところ餌食となるばかりの下等である。
それが分かっていても尚、土川楠花は、最弱の楠の鬼は本物の悪に本質的なところで克てない。
最悪の人間はだからこそ、鬼の急所を笑顔で押すのだった。
『好かったよ……鬼なんて最悪が居てくれたから、オレはオレをそんなに悪いと思えなかった』
『っ、ああああああっ!』
生き汚い。それこそ、楠の基であるエックスの本質。その生存のために世界を越えて拡張拡大を続ける己が、慎み深くも勝手に死んでしまうすべての命たちの前に本当に胸を張るべきだったか。
もう、彼女は彼のために分からない。少女は否定のために大きく何度も手を降った。
史上最悪の戦いは国内外に被害を多分に出して、やがて終息する。
『はぁ……はぁ……』
その日生まれて初めて全力で自分を殺しかねない相手を殺して、返り血ばかりを浴びた鬼はその場に独り、勝ってもだが震えるばかりだ。
しばらく、最悪が消えて変遷していく世の中を他所に楠花は大人しくしていた。
生きることは悪。彼女はそれに返す言葉もない。そして、ずっと言い訳すら出来ないのだった。
似合わぬ悩みに耽る彼女。勿論、そんな時期こそがこの鬼の唯一の攻略のチャンスだと空の線により識っていた少女、水野葵は。
『楠花。貴女はなら、生かすことを考えてはどう?』
嫌々、好きでも嫌いでもない人でなしの前で物語のためにこう紡いだのだった。
『やれやれ……そう簡単に言ってくれるがねえ……お前さん、私が何を生かせるってんだい?』
水野葵の極めて美しいという主人公設定。それを付加価値として理解する鬼は、簡単には誑かされることはない。
『そんなの、なんでも良いとは思うのだけれど……そうね』
とはいえ思い通りにならないこと。それはこの主人公さんにとっては中々に物珍しい。
反発されることも楽しいなと想う少女は、故に簡単にこの相手を手に取れるための文句、私をと指し示すことなくこう続けるのだった。
『私の愛する最弱を、死ぬまで生かしてはくれないかしら、最強さん?』
『はぁ?』
そう、水野葵は己が愛のために、鬼をすら利用する。
そして、この世の中心の手引きによって、底辺と最上位は邂逅した。
はじめて楠花が見たその弱々しい生き物は、日田百合と名乗る前にまず頬を綻ばして小さな手を広げる。
白が、黒い世界に美しく広がった。
『わあ、この人とてもキレイ!』
そして、キレイと評されたのにはもう、笑うしかない。
こんなに生きるために汚い最悪の命を見て、この死に損ないはそうも憧れるか。
こんな角のような根っこを晒している人でなしを、この可愛い少女は認めてくれるのか。
綺羅綺羅とした百合の輝きばかりの瞳にはもう呪い一つ映ってやいないが、しかし抵抗するように楠花は頭頂の尖りを指して、こう返す。
『けらけら。そんなに私は綺麗かい? こんな余計なものが付いているのに?』
そう、本当に疑問ではある。古来より人でなしは許されず。そもそも生きるのは最悪で、誰だろうと足の裏は悪だらけの筈なのに。
どうして、この多くに踏みつけられるばかりだっただろう弱々しい女の子は、私を愛するべき命と認められるのか。
口をぽかんとする鬼に、その牙の鋭さに花丸すら付ける優しさは。
『うん! だって―――貴女はあたしみたいなオバケじゃないから』
そう言い張って、最強を一人の恋する少女に墜としたのだった。
「そんなこと、あったねえ……」
「むにゃ……」
過去を思うこと、それは痛みに向き合うことに似ている。しかし、だからこそ思い返して結果的に微笑めたのは彼女にとってあまりの好材料。
辛くて、でも結果的に隣に百合が居てくれる。それがどんなに救いになっていたのか、計り知れない。
きっと、百合をよろしくと遺した彼女もこんな日々を欲していたのだろうが、だからこそ迷惑にももっとを願ってもいたのだ。
だが、鬼は少女に自愛までを求めず、ただおっかなびっくり愛玩をする。
「けらけら……明日もこんな日が続けば良いねえ」
そう、隣に寝入る裸ん坊の恋人を撫でつつ、鬼は笑った。
「なんだか、飽きましたね」
しかし、彼女に類するそんな平和を享受していながらも、山田静はそれに飽く。
また、近くに生まれたからと物理的に手も出せぬ最悪から影響だけを受けた普遍は、付近の世界の彼女より少しピリ辛な思考をしていた。
何より確かな存在、特権的な静は空を当たり前に征くし、手を伸ばせば世界の傷口たる赤色に触れられる。そして別に世界が終わってしまっても遺る二粒の一つでもあった。
安全安心。回る世界で彼女は彼女。しかし、だからって少女が無聊をかこつことは止められない。
そして、折角手が届くならば別にちょっといじめてあげても良いのだろうと開き直った彼女は。
「えいっ♪」
目も覚めるような悲鳴を聞くために、ばかんと、青の中を真っ直ぐに赤々とした空の傷口を破った。




