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ルート4 佳日の希望 日田アヤメ⑤

 日田百合は、賢くはない。


 時々頑張りの成果を優れた点数で披露することはあるのだが、普段頑張っていない類の考察は実に苦手だ。

 ましてや心。特に、安心を一番に置いていた妹に対して深く考えるなんて彼女には難しいことだった。

 互いが好き。それで仲良く心地良い。だが、アヤメはそれだけでは嫌な様子だ。


 そうはいっても百合は、せっかくここまで深めた姉妹愛を棄てて恋愛などを育てるつもりは更々ない。彼女的に女の子同士でも大丈夫とはいえそれが誰にも認められることではないと知っていたし、そもそも妹に対して興奮するような性質でもなかった。

 どう考えても、アヤメは可愛いだけだよなあと思ってしまうお姉ちゃんは、悩んだ果てに身近の頼りになる人に相談をすることにする。


 それは、近頃朝方はベッドに入って惰眠を貪ることを辞めて弁当作りを始めるようになった、お母さん代わりの大切な人。

 更けた夜、日田菊子の肩辺りから少し曲がった背中に、百合は遠慮なく問いかけるのだった。


「ねえ、菊子さん。アヤメがあたしから欲しがってる好きって何なの?」

「はぁ……百合。あんた、それを私に聞くのかい?」

「うん! 最近アヤメと仲の良い菊子さんなら、分かると思って!」

「仲の良さなら、あんたら姉妹には構わないが、そうだねえ……」


 晩酌も途中に顎に手を当て、叔母さんは姪っ子達のことについて考える。べったりシスコン同士の、端から見ればアレな日田の家のきっと最後になるだろう子達を。


 たとえば死にかけの癖して百合が子供と遊んで三日間の全身筋肉痛という憂き目に遭ったことに悩んだのは記憶に新しいものだ。

 だが、そんな痛みを引きずりもうこれから決して治らずとも、それにすら慣れてしまった我慢強い子が、妹のためとはいえこうして多少のわがままを見せてくれたのは嬉しくはある。

 また基本的に良好な仲の娘っぽい子達には楽観していたが、しかし遂に姉に宣告された余命を鑑みても元気なうちに何かしらの決着は欲しいところ。改めて、どうしてとっととくっつけることが出来るか菊子は画策する。


 取り敢えず、なんでこんな可愛いおねだりを百合が始めたのか気になって、菊子は酌をはじめたがる彼女を遮り酒類を片付けながらこう聞いた。


「ねえ百合。どうしてそんなに、あんたはあの子にしてあげたいのかい? 焦っても良いことはないが……」

「してあげたい……あ、そっか! あたしアヤメを甘やかしてあげたいんだ! あたし、そういえばあんまりアヤメからこうして欲しいって聞かなかったから……」

「なるほどねえ……ちっとも靡かないわけだ。あんた、兄さんそっくりだよ」

「えっと、それってつまりあたし達のお父さん?」

「ああ。唐変木の、色気のない……嫌な兄」

「わあ! お父さんってそんな人なんだ……うーん……でもあたし、嫌なのは駄目だよねー」

「そうだ。駄目なんだよ、あんなのになっちゃ」


 枝豆のさつま揚げをつまみながら、訳知り顔に菊子は知らなかったと口をぽかんと開ける百合に語る。嫌で駄目。過去に恋した血縁者をゴミ箱に捨てるように気軽に言いながら、しかし胸元で想いは燻っていた。


 だが実際のところ、菊子の兄である楓太は、唐変木で色気もないところは正解だが、嫌味のないさっぱりとした人間である。酒浸りになった父の面倒を見て、家も立て直すのだと頑張りを一生涯続けた彼は、しかし最期にどうしてだか自ら命を絶った。

 癇癪玉のようだった父を看取り、二人目の娘を授かったと聞いた直後にどうして。

 葬式の最中でも友だった者達が大いに疑問に湧いた、そんな彼が誰にも隠していた真実を知っていたのは、喪主として歯を食いしばりながらその場を取り仕切っていた妹ばかりである。


「頑張るなら、最期まで続けなければ嘘だよ。間違っても、誰かのために成っていた人間が、誰かのためになるのが辛かったって、そんな理由で諦めちゃいけない」

「……菊子、さん?」

「百合。あんたは強いよ正しいよ。でも、それは間違った強さで、弱い正義だ。あんたは誰にだって優しいけれど……アヤメにだって一緒なのは残酷だよ」

「あたし……やっぱり、良くないの?」

「ああ。与えるばかりが命じゃない。奪うつもりで、食いついてでも生きるのだけが良くも悪くも輝きさ」

「生きる……」


 年上の持論に呆然と生きる、だけを繰り返す、百合。菊子は箸を置きながら、こんなことまで言うつもりはなかったのになと後悔しながらも自分の言に間違いないとも思うのだ。

 命は正しくも、間違っている。そして、それをバチバチとぶつけ合うのが生きるということだ。それは、金銭を得るためだけに通った職場である水商売から介護の現場の両方に、そして人生にまで通じる文句だった。


 人を踏みにじるのが得意な嬢が、人に取り入ることが得意な嬢に負けるのも、その後前者の嬢が招き入れた暴力で勝負も何も無くなった際の憶え。そして、孤独で偏屈者な車椅子の老婆の、しかしそれでも一番に食事処に向かうことを得意としている生き方に感じたこと。


『なあ、俺の代わりに百合を……そしてもう一人の娘を大事にしてくれよ』

『大事にしてやるものかよ……誰が、あんたなんかの代わりになんてなってやるか!』

『そっか……』


 そして何より、最愛の兄が天使の輪なんて上等な代物ではなく荒縄で出来た輪っかで首を括ってぷらぷら浮かんだその前の日。はじめて飲んだのだという酒による赤ら顔から出た本心を嫌って吐いた自分の言葉が、あまりに痛くって。


「人は、人の代わりになれないんだ……だから精一杯愛して、生きるしかないんだよ……」

「菊子さん……」


 故に、絶対に日田菊子は無償の愛なんて認められなかった。

 でも、百合のこの兄の持っていたような親愛を裏切って、自分を信じられなくなってしまうのが怖いから指摘だけはしなかったのだが、もう限界だったのだろう。


「うっ、うう……」


 女は、少女のために泣いた。ごめんね姉さんのようになれず、そして兄のようになろうとも思わずにこれまで貴女たちを避けていて、と。


「あたしなんかのために……泣いてるの?」

「そう、だよ……うっ」


 それを、心の底から不思議がるは、眼の前のま白い唐変木。ああ、年増女の酔いの先のこんな哀しみなんて酒のせいにしてしまえばいいのに、真っ直ぐ受け取って、不思議がって。

 可愛らしく傾いだその頭の下を流れる殆ど全ての血が赤い小さな罅の塊と化して、今も全身尽くを痛め続けているだろうに。それでも生きて、周りを見てキレイと言って、ただそれだけ。

 どうしてお前さんは、私を愛してとは言えないのか。もっと泣いて、騒いで欲しいのに。


「あ、うぅうう、うう」

「菊子、さん」


 そんな彼女の思いの何ひとつも言葉には、何もならなかった。

 でも、泣いてそんな風に腹を括ったからこそ、叔母は姪っ子に遠慮なく触れられて、その小ささに哀しみ、その熱のなさに絶望しながらも。


「あたしを抱きしめて、くれるの?」

「っ!」


 湿潤した頷きは、少女の肩の上にて。

 愛。百合はこれを、分からない。分からないけれど、温かいなとは思った。でも、こんなのあたしに勿体ないよと身体を離そうとして、しかし必死な抱擁を解くことなんて出来ずに。

 つい、つい彼女は愛に隠していた本心を呟いてしまう。


「こんなの、遅いよ……あたしは、ダメな子で、だから誰にも守ってもらえなくて、だから一人で泣いても叫んでも神様に幾ら願っても、助けてなんて貰えなかったのに。だから、諦めていられたのに……」

「っ、う……!」

「嫌いだよ……あたしはあたしが大嫌いで、そうじゃなければ、あたしは」


 いやいやは、弱い。だがこればかりが日田百合の精一杯の反抗。

 価値のない己を、恥じ入って押し込めて皆を愛してばかりいることが逃避とは賢くはない彼女も知っていた。でも、今更それを辞められるだろうか。

 自棄こそ百合のレゾン・デートル。寒さに震えることに慣れても寒いのは変わらないけれど。でも、笑っていれば心配されることだけはないから。

 そんな私なんて、と思う俺なんかと自らを殺しきった人を父と持つ少女は。



「――――でも、そんなあたしを世界で一番に好きだって、アヤメは言ってくれたんだ」



 ただ、父とは違って彼を否定し続けたその妹の熱によって、その過ちを理解するのだった。

 今更好きには思えない。けれども、背伸びしてあの愛おしい妹に合わせるならば、いつまでも縮こまってはいられないから。


「ありがとう、あたしのもう一人のお母さん」

「ううっ……!」


 だから、返事の代わりに百合の小さな手のひらは老いに全盛と比べ細くなった菊子の身体を包み込むように撫でた。今でも、あたしがこんなことをしていいのかとも、彼女は思う。でも、真っ赤になった瞳がそれでいいと頷いたから。


「あたし、アヤメと幸せになるよ」


 そう、百合は決めるのだった。




『ああ……』


 世界は終わる。それを散歩に見知って、夜に帰った。

 すると、どうも寝間着を替えた百合が天井を眺めている。深く握り込んだ手。そこにはもう呑気では居られない程の真剣が現れている。


『そっか……もう、ボクはお役御免かな』


 その様子を見て、木ノ下紫陽花は少女に芽吹いた一人を大事にする自愛を感じた。それこそ、見知らぬお化けを受け入れる余地なんてないくらいに、この子は生き始めたのだろう。

 もう、この子はボクを見ることはなく、見たくもなくなるに違いなかった。でも百合ちゃんはもうオバケじゃない。それは嬉しいな、と本物の幽霊は思い、だからそのまま黙って去ろうとした。


「紫陽花、ちゃん?」

『あれ、もう見えないし聞こえないはずなのに……あはは。やっぱり百合ちゃんは凄いや』


 だが、別離をどうしてか察して、百合は淡色の部屋へ首をきょろきょろ。大切だった筈のものを探し、やがて見つけられなくなっていることに歯噛みする。

 彼女は、でも彼女に言った。


「ごめんね、紫陽花ちゃん……紫陽花ちゃんの気持ち、あたし分かってなかったよ」

『あは。そう、だったんだろうね……』

「でも、でもねっ!」

『うん?』


 向けた視線はその隣。心も少し通わなくなっていれば、幽霊への言葉も漫ろ。だが、それでも、お化けに対してこれだけは言わなくちゃと、百合は死に体同然の上半身を上げて。


「あたしはこれから生きるよ! ありがとう!」


 見当外れの方向にお辞儀して、精一杯の謝意を示すのだった。

 百合のつむじを横から見た紫陽花は、それに本心から満足して成仏したいくらいだけれど無理だなあと笑ってから。


『あはは。うん、ボクの代わりにも精一杯生きてね』


 どろん、と幽霊の尾っぽすらも定かでないくらいにオバケの少女は夜に溶けて。


「ありがとう……」


 俯きに涙はなく。百合は自分ひとりのために、今生の別れをしたのだった。


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