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ルート3 砂金の真心 金沢真弓⑥


 真弓が毎日線香の煙の向こうに写真を見る金沢菖蒲という男子は、シャッターにて一瞬のみが切り取られたがためにむすっ面が常となっている。

 きっと、特別機嫌が悪い時のものが遺影となってしまったのだろう。

 写真嫌いな兄だったが、まさか家族全員の端末メモリの中を浚ってもこれよりマトモな表情をしているものがないというのは、真弓には少し悲しかった。


「お兄ちゃん……」


 黙した彼女は、今は亡き彼を想う。

 本来、菖蒲は笑顔が得意で笑窪が可愛らしい真弓自慢の兄だった。特にこの写真の頃には少し体格が良くて足は遅かった。だが、小学三年生で野球を始めてみれば直ぐに高学年が投じた球を打ち返すに至るくらいの才はあって、それにのめり込むのは自然だったのかもしれない。

 とはいえ、生真面目な彼はベースランニングを超えて、何時しかランニングまでも趣味にするようになる。


「ふふ」


 日に焼けた兄を、焼き豚と揶揄してげんこつを食らった痛みを思い出して、妹は微笑む。

 運動なんてと、電撃的な理解ばかりを愛していた真弓は蔑むように文句を言っていたが、そんなの兄が自分の入れないところで楽しくしていたがための捻くれた言葉でしかない。

 本当は、お兄ちゃんが好きを頼りに得意でないかけっこですら励むようになったのが、悔しかったのだ。私は得意なことしかできない足元におもちゃを広げた弱虫なのに、兄は笑顔で嫌を飲み込んで進んでしまう。

 それは、真剣に影踏みしている隣にて笑顔で日向に駆け出す友達を見る心地に似ている。

 これまで一緒だったのに、今は殆ど違う。それはなんて寂しいことなのだろうと、そんな小心すら認められずに苛立ったふりして、真弓は菖蒲が時に撫でようとする優しい手のひらを何時も振り払っていた。


「ありがとう……お兄ちゃんのお陰で、今日も私は生きてられる」


 だが、そんな嫌っていた兄の努力。いつの間にか長く駆けてもべそをかかなくなったどころか陸上部への勧誘もあったくらいに速くなっていた彼の脚に、寸でのところで真弓は救われたのだった。

 一つ上の兄菖蒲には好きな人がいて、でもフラれたことにざまあみろと言ってみて怒られて、その次の日にはさっぱりしたと坊主頭に丸めたそのジョリジョリした感触を馬鹿じゃないのと零しつつ楽しんで、お前は恋はまだかと妙に真剣に問われたところに私に合う相手なんているわけないじゃんと強がって。

 そんな優しい兄妹の日々が、ずっと続くものだと真弓は願わずとも確信していた。

 だって、私達は言葉以上のもので繋がっていて、好きだなんて軽々に語れない程度の愛を互いに持ち合わせている。

 なら、ずっと兄妹でいられる。確かに、それは間違っていなかったのだけれども。


「お兄ちゃんは結局私のこと、ずっと見ててくれてたなあ……」


 しかし、よそ見して駆け出した真弓を自動車の勢いから辛うじて守った菖蒲は、荼毘に付されて墓の中。

 知らない間に付けられていた眠り姫、という設定に引っ張られるようにそのまま起きなかった彼女は、だから瞳に焼き付いた兄の最後の姿は茶褐色の瞳を開いた真剣な姿ばかりだった。

 真弓は知っている。自分が兄を引きずり込まないように逡巡したために、逃げる一歩が遅れてしまったのだということを。一瞬たりとて妹のために躊躇わなかった兄は、だから私が殺したようなものだと、彼女は思っていた。


 本来私のほうが死ぬべきだったとは分かっている。でも、そんなだからこそ。


「お兄ちゃんに、どれだけ色んな楽しいことがこの世にあったのか教えてあげるためにも、もう少しだけ、私も頑張るね」


 真弓は、お父さんとお母さんが灰にも成れずに紅く崩れ落ち切った今でも、そう強がれるのだった。



 世界は終わりに近づいている。

 紅く染まってこの世から脱落する人々、通称フォーラー。もう中心を失い重力まで少なくなったのかどんどんとその数は増し、今や街を歩けばガチャンガチャンとそこらで誰かの死を見るくらい。次は私がああいった風に。そんな恐れは既に諦観になり変わっていた。


「今日は、人……少ないな」


 真弓は以前と変わらず、ランニングが趣味である。よって、彼女の赤と黄のオッドアイどころではない、不和と不安が街中に広がる様を望めていた。

 襲われかけたことは片手で利かず、しかし助けられたことと逃げ出せたことも同じ回数あった。流石に、ほぼ全身紅く染まりかけた醜男が最後に頼むよと、伸ばしてきた荒い手から逃げる足は元気にとはいかなかったが、割れる音を後ろにして彼女は止まっていない。


「あら……真弓ちゃん」

「あ……吉崎のお婆ちゃん。元気……してたんだ」

「ええ。お陰様でねえ……娘たちは落っこちてしまったけど……無事なお手伝いさんが様子を見てくれるから、どうにかねえ」

「そう……」


 しかし、親愛の視線を一度受ければ、軽快な真弓の駆け足もシワに埋もれた瞳の前に停止する。

 背筋を曲げてカートを押しながら散歩するこの老女とは知り合い、程度。だがきっと時に顔を合わせて会話をしていた程度であってもこのお婆さんには最早、数少ない大事なのだろう。半ば涙ぐみながら、彼女は真弓にこう言った。


「真弓ちゃんに会えて良かった、生きていてくれて良かったよ……本当、どうしてこんな御婆が残ってしまったかは分からないけれど……」

「それは、お婆ちゃんに娘さん達が生きていて欲しいと思ったからじゃないかな」

「まあ……こんな辛い気持ちをあの子達に味わわせなかったのは、良かったかねえ……」


 励ましに、しかし老婆は顔を下げる。歴史の長さも深さも違う相手に真弓の優しいばかりの言は、ろくに通じない。


「ありがとうねえ。御婆に優しい言葉かけてくれて……」


 ただ、親愛だけは感じ取れた彼女は、涙を地に落として。


「お婆ちゃん……」


 その中に、赤いものを見つけてしまった真弓は、気まずそうに紅いばってんばかりになった空に目を逸らすのだった。



「百合ちゃん、ただいま」

「あ……もうそんな時間? 真弓ちゃん、お疲れ様!」


 ランニング終わりに、日田の家にと着いた真弓は合鍵を持ってして百合のベッドにまでたどり着く。妹さんや叔母さんの視線を気にしないで済むというのも寂しいことだな、と思いながら彼女は止まらなかった。

 どたどたという音と高く遠慮なしな声色にて、百合のお目々も十時という遅まきながらぱっちり。もう上がらない片手はそのままに、彼女は真弓をねぎらうのだった。


「ん」


 そして、毎度の優しさに対する返答はいつもの如く、ハグ。そのこれまでの路々で温めてきた真弓なりの高温を感じ、熱をすらほぼ失っている百合は白い頬を笑みに歪めるのだった。


「わ、今日も温かい! それにあたし真弓ちゃんのちょっと汗っぽい匂い、好きだなー」

「ふふ……百合ちゃん、変態」

「なにおー! 真弓ちゃんだってびっくりする程あたしの色んなところぺろぺろしてくる変態さんの癖にー!」

「うんうん。私も変態さんだよね。一緒一緒。ちゅ」

「うむう……あたし、なんか子供扱いされてるような……」


 すっかり長くなった髪。痩けた頬までをその桃色の唇で撫でながら、真弓は微妙な表情をしている百合をそっと眺める。彼女にとっては体臭どころか赤錆て停まった機器の間で、香料の合間を漂う微かなアンモニアの匂いまでが愛するものであるが、そんなことまでは語らない。


「……もう、私達は大人でしょ?」

「……そう、だったね」


 間近で向けられた真剣な視線に何を思い出したか赤くなる、初心に過ぎる百合。

 真弓には何よりも大切な彼女の彼女で居続けることこそが、大事である。


 これまで、色々とあったと一口で纏めるのは、少し味気がなさすぎた。

 ただ、終末にかかわるあれこれを抜きに語るのであれば、存外簡単なものである。


 本気になって縋った真弓の想いを、百合は受け入れた。それだけの、話である。


『それじゃ、終わりまで一緒に居よっか』


 車椅子に乗っかりながら、それを押す真弓に百合は覚悟を決めてそう云った。

 後ろ。そんな位置取りのために百合の表情が見えなかったことは、真弓にとって痛恨だった。だが、真ん前に陣取っていた義妹がその様子を死ぬまで笑顔で黙っていたからには知る方法などもうない。


「静かだったよ」

「そうなんだ」

「もう、大分空赤いからかな」

「うん……あと、ちょっとなのかな」


 だからという訳でもなく、真弓は百合の表情の全てを見逃さないように隣に居続けることにした。

 今、空を見上げている百合の面は寂寞に溶けるようで、心はきっと遠くにあるのだろう。

 だが、何よりその痛みきった身体は私に近く。悲しみも、痛みも、悦びも、故に見て取れたのだと、真弓は内心誇る。

 彼女は、思わずこう云った。


「一度全てを諦めて、良かったよ。私は、だからこそ、百合ちゃんの全てを知ることが出来た」

「そうだね……流石にあたしもお腹の中まで見られちゃうとは思わなかったけど」

「私も、生兵法で百合ちゃんの悪い臓腑を探し回ることなるとは思わなかったよ……」

「でも、お陰で終末にまであたしの命は保ちそう。ありがとうね」

「どういたしまして」


 彼女たちが居るのは地べたの階層。決して空に近くはない。だが、どこまでも澄み切った思い達は、楽園にすら似るのかもしれなかった。

 ただ知に悟らず、熱を覚え合うだけでいい。組み合わさる手と手は恋人繋ぎ。

 電気一つ通らない街は静か極まりなく、まるでこの世に二人きりのような気さえしてしまう。


「百合ちゃん……」

「真弓ちゃん……」


 だから、このまま平和に。櫛で削られたような不完全極まりない余り物の世界を、ただ愛のみで終えるように二人はまた近づいて。


「あーわたくしとしたことが……お邪魔でしたわね!」

「わ」

「きゃ!」


 ノックもなしの闖入者に驚かされる。人恋しがりの二人は寂しくって隙あればいちゃいちゃしたがり。

 そんなことは知っていたが、もう知ったことかとやって来て、改めて見せつけられて胸焼け気味の月野光は。

 世界の希望としての音源を鬼に預けて暇になったからと、唯一のお友達の家にやって来て、赤を端々に靡かせながら。


「光、ちゃん……」

「さあ。もう直ぐ世界はグラウンド・ゼロに至ります……黄昏は直ぐそこですわよ?」


 痛みの嵐の中ウインクをして、そう誤魔化すのだった。



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