ルート1 熾火の恋人 火膳ふよう⑦
奇跡とは何か。それは、単に起きるべきものだとふようは考えていた。
あり得ないものだがそうあって欲しいのが奇跡であり、つまりそれを起こしやすい存在である葵はきっと、確率を無視することが出来たのだろう。
だが世界は動く線である。スクロール。この世は過去から未来へと流れていくばかり。それが律された全ての自然。細く稀な糸をいくら辿れようとも、どんな線にだって終わりはある。
そして、ご多分に漏れずに水野葵は過去に戻ってやり直すということが出来なかった。
「葵は、主人公。でもたったそれだけだったから……」
そして、日田百合だって奇跡ではない。主人公ですらない、白。白光こそ、その実何もかもを拒絶する。
日田百合は、あり得てはいけない、があってしまった現実。現し世の毒に溺れる天使には救いなんてものがなく、人よりも尚短命に終わるのが彼女の結末だ。
痛くても怖くてもそんな何もかもに優しくしたのに、愛することすらよくあったというのに、乙女は綺麗と見上げる世界の薄汚さに殺される。
誇るべき他者愛を抱えながら、しかし百合は自己否定に羽根を広げられない。
私なんかと、己の翼を知らずに少女は堕する。比べるまでもない、美しき全てをつい彼女は見上げて比べてしまうがために。
そう、日田百合はありとあらゆるものを愛していた。故に、死にたくなってしまうくらいに生きているのが申し訳ない。
だから死ぬ/ね。
そして、そんなこと火膳ふようは当然のように知っている。
未だ百合が己の足で辛うじて立てていたあの日、ふようは一度彼女にこう問った。
「百合……好きって、何なんだろうね」
「ふようさん?」
白い肌に、紅がやけに目立つ。どうやら少女のまま、百合という乙女は死に化粧を覚えてきているようだった。
彼女が視線を上げるために本を閉じた音は、蝉の騒ぎに混じって響かない。これまで彼らの声は、線であるとふようは覚えていた。だが、それが断続的な叫びであると気づいたのは何時の頃か。
決して、涙で心は出来ない。ならば、これは哀ではなく愛によって作り出された代物なのだろうか。
紛うことないくらいにこの世界はスクロール。だが、一枚一枚を手繰ることなどこれまで読書という行為でよくやってきていたというのに、今更。
そう思えども心臓は黙らない。故に、冷たいくらいの温度を吐き出す冷房に背を向けながら、眼の前の一節のみをふようは大事にする。
今にも消えて無くなりそうな、残光の印象。その綺麗こそが百合だから。
彼女は彼女の前で取り繕うことなく、こう続けた。本音は、少女の前で形にならずに、でも届いて胸元に吸い込まれる。
「私はね。好きっていうのは全て自分のためだと思っていた。愛されるため、安堵を得るための媚びこそが好意の本質と考えていたんだ」
「それは……ちょっと嫌かな……」
百合は、ふようのあんまりな本心に眉をひそめる。好きが媚びなんて、何しろ百合にとってはあり得ないことだったから。媚びてまで生きるのは嫌だな、とわざとらしい少女はでも思うのだ。
もっとも、嫌でもそれが好きな人の本心だったとしたら軽く飲み込める度量が百合には存在した。それは底が抜けていて壊れきっているから故のことではあったが、確かに誰かの救いにはなり得る。
そして、次にしょうがないなあという微笑みに変えてくれた百合に、安心を覚えたふようは笑みを作ってから、こう言うのだった。
「うん。私もそんなの嫌だった。だから、私はこう再定義を行った」
そして、最近同僚たる研究者達の走り書きの解読、世界の難しさに親しみきったふようは、案の定硬い言葉でもって己が変わったことをあえて機械的に語る。
本当は、情動の軌跡を持って好きを改めただけなのに、どうにも恥ずかしくって。明らかに顔を赤くして、それでも真っ直ぐに彼女は百合に向けてこう告白した。
「そんなどうしようもない己をすら差し出せる程の乞いこそが、本当の好き」
「えっと……それって?」
可愛らしくも小首をかしげる百合。益々色をなくした天使の白髮が光を漉いた。思わず、ふようは目を瞑る。
痛いくらいに握った手の平を胸元に。この血潮の熱さこそ人の生きる意味であるのならば、その全てを賭けて。
彼女にとって好きの答えは、たった一つだけだった。
「つまり、私は百合のためにヒロインですらなくなるよ」
そして、少女は涙を隠すために背を向ける。それが一体全体、百合にはよく分からない。
かっかと燃える、恋の人。熾火の恋人火膳ふようは当然のように温度を別にしていて、操る言葉もそろそろ不明が多くなってきていた。
案の定、百合は再び首を傾げることになる。だが、それでも拾った言の葉に意思ばかりは強く感じた少女は決して愛おしい人に見て貰えずとも微笑んで。
「よく分からないけれど……うん。あたしのことなんて、とはもう言わない。ふようさんがしたいことなら、仕方ないよ。でもね……」
大好きな貴女に愛されて、恋された。なら百合だってもう、とっくに自分を諦めることなんて諦めるしかなかった。
変わらず無垢であっても、その光の表情が随分と柔らかくなっていたことを、百合自身は知らない。とはいえ、三つ子の魂百までと言うならば、この百合という少女はどこまでも他者に目を向け続けていて、だからこそ。
「あたしの恋するふようさんに向ける好きは、それでもきっと変わらないから」
そんな、叶わぬ理想を、続けられたのかもしれなかった。
「はぁ……ぐっ」
「ふよう……ちっ、車出すにしても一体どこに……ああっ、どこに行きゃカミサマ、オレ等を助けてくれんだよっ!」
家に来て外にて泣き叫んだ後に、愛する我が娘が倒れ込んだ。それに、慌てない親なんて居てたまるものかと、ふようの父有樹は思う。
しかし慌てて神に中指を立てたところで無意味だとは彼も知っている。多くが突然赤くなって砕けて消えゆくこの終末の時勢。老若男女は関係なく忍び寄る死に怯えまいと生きてはいたが、いざ目の前に無慈悲が提示されただけで、男の心は散り散りに乱れてしまった。
「……大、丈夫」
「これで大丈夫な訳ねえだろ! 取り敢えず家ん中入って横になって……」
よく見れば、赤い。端からひび割れるように、ふようは赤く結晶化している。大切極まりない愛良を教えてくれた娘が、最早在り来りの落ちて割れるばかりの石と化していく。
それが、この子が世界に不要とされているかのようであまりに有樹にとっては悲しかった。
「駄目……」
「駄目なもんかっての! ふよう。お前は頑張ったんだ。少しくらい休んだって誰も文句つけるもんか……つけたころで、オレは認めねえ!」
「お父さん……」
ああ、この娘は優しくもこんなどうしようもなくなっちまった何もかもがどうにかなるために人が誰も居なくなった研究所で赤にまみれながら研究を続けていたというのに。
それが誰のためっていうのは明白だが、愛のためなんてこいつらしくて誰からも認めていいだろうものだろうに、許されない。
こんなの、許されるものかと父は赫怒に胸張り裂けんばかりだった。だが、それでも我が娘のために優しく、笑顔を作りながらこう言う。
「……百合には、上手く伝えとくさ。だが、お前をこんな外で死なせる訳にはいかねえよ。母さん……あいつだって、きっとそう思ってる」
「そう……かもね」
膝で懸命に立ち上がり、しかし半ば項垂れながらふようは内蔵まで硝子のようになりつつある身体を動かし言葉を返す。
有樹の柔らかな言葉に思い出すのは、しばらく前に再会した彼女の母。父と違いどうしたって人間不信なまま誰も愛せず最後を迎えて、でも一人じゃなくて良かったという一言ばかりは遺してくれた、大切だった人。
ふようは、思い、愛を咀嚼する。そして、それだけでもう彼女にとっては十分だった。
火膳ふようは真っ直ぐに、青い空を見上げる。そして、赤く今にも落ちて消えてしまいそうな指先を持ち上げて、動かした。
「おい、ふよう! 無理に動くんじゃねえっ! その身体だった赤いのが落ちて……」
「赤。これは情報であり、世界に対する……顔料」
「……ふよう?」
思わず、有樹は目を瞠る。娘からうわ言のように紡がれるそれ。よく分からない内容がどうしてだか、納得を持って腑に落ちる。なるほど一目瞭然というのはこのことか。
彼女は意思を持って明らかに空のブルースクリーンにその身の赤を並べて。
「そして全ては落ちているのではなく、処理に従い流れているばかりで……なら」
その言語の種類など不明だ。だが、その形は同輩達の赤を組み替えて試したことで大凡理解は出来ている。
ならば、まず行うのはサニティテストからか。ノック代わりに、人差し指まるまる使い切るくらいの赤をふようは規則的に並べる。そして。
――Hello world――
「……出来た」
「は?」
現象としては光降る、ただそれだけ。しかし、祝福とともにカーソルが合い、少女は冠を被った。
目に見えるくらいに、位が変わる。ふようの一挙手一投足に重みが宿った。まるでこれは先に願ったカミサマが降臨したかのようで、しかし未だ彼女はひび割れており、父は混乱した。
「なんだ……おい」
「ん……」
そんな父の眼からは奇跡を起こしたとしか思えない全ては、しかし彼女には当然至極の文脈通り。一度目を瞑って開けて、彼女は結論づける。
「やっぱり、この世界はゲームだったみたい」
そしてこの世の全てがゲームなら、それはひと繋がりに綴られているに決まっていた。
そう、火膳ふようはこの滅びの世界にてただ一人、システムに手を付けた登場人物となって。
「主人公でもヒロインでもない……エンドロールに、私はいらない」
盤外にて、エンドロールクレジットからその身を除かせるのだった。
「……やったよ」
やがて、ぱりんと火膳ふようだったテキストは赤を使い切って砕け散る。
「ふよう……さん?」
これはそんな、彼女の終わり。




