ルート1 熾火の恋人 火膳ふよう⑥
火膳ふようは百合恋愛ゲームにおけるただの賢そうなだけの攻略キャラクターだった。
意味深なムーブをしておきその実本当は頭でっかちの臆病者というテンプレートを元に製造された量産型ヒロイン。彼女が頭いいキャラという雑な設定の走り書きから生まれたことなんて、ファンならよく知っている。
ふようの弱みははっきりと愛を知らないことで、それに恋を教えることで依存されることこそ読者というか選択者に対してのカタルシス。彼女の可愛いとは、可哀想なまでの一途さに依っていた。
見た目に反してちょろい、攻略推奨順一番目。かの本来の主人公たる水野葵からすれば楽すぎる攻略対象だったのだろう。
「……攻略、されなくてよかった」
呟くは、生きてしまった物語の欠片。そして、生じて生きてしまえば幸せを求めて成長するのは当然至極。
この主人公亡きバッドエンドの世界にて選ばれることのなかったふようは、終わりの空のもと恋ではなく愛をも知っていた。最早少女の眼は既に開かれていて、決して大好きなのは恋人ばかりのキャラクターではないのだ。
「百合が、居てくれた」
そう、そればかりが孤独だった彼女の救い。
過去、不審に頭を垂れる光を望めない冷たいばかりのモノクロームの世界では己ばかりが鮮明だった。隣人に異なるところばかりを見つけてしまえば、何もかもに頷けない。
ふようが持っていたのは、世界中が敵に覚えてしまうほどの刺々しい心。ヤマアラシのトゲの空隙だって、なぞっていけば同じトゲのような形と採れる。
なるほど実はわかり易く、トゲとトゲはぴたりと合わさって向き合うものなのだろう。嫌えば嫌われる。最初はやはり、愛からはじめるのが常道なのかもしれない。
そんな、ヤマアラシどころかウニのように見境なしにトゲを向けていたふように、円かなものが欲しければ、自分から信じなければいけないと教えてくれたのは、同じ恋愛ゲームのいちキャラクターである百合だった。
「あの子だけは、私を私と見てくれた!」
小さく檄するふようは、しかしもう自らの不幸を誰のせいにもできない。むしろ、今や彼女は何を嫌うことだって無理だった。ぱきり、と左の爪の先が縋りに弾けた。
トゲなんてもう一つもいらない。忘れていたけれども世界はどこまでも輝いていて、思わず生きたくなってしまうくらいに温いものだったから。
悪がある。だが、それだって愛を光らす妙味であるとするならば。
「みんな好き……好きっ!」
不信がヒトガタを取っていたばかりのキャラクターが言い張るのはどうかとふようも思わないでもないが、でも本心から好きなのである。
火膳ふようにとって、大切な人達とそれを包む世界はどうしたって愛おしい。頭を働かせてダメージを避けるばかりだった子供はもう、恋のためにそうなってしまったのだ。
どうしようもなくごく当たり前に、隣人を愛せた。それが誇らしくって、どうしよう。
もう、そんな好きになってしまった何もかもが直ぐに終わってしまうというのに。
「っ……」
ふようはどこにもなかったはずの、愛を想う。リリックにも自らの内にあるそれをなぞるようにしながら、その温かさに感じて。
けれども閉ざした瞳の奥に、確かに赤をも覚えるのだった。
「ああ」
再び目を瞑って、そして開く。間違いなくそれは網膜が一番に慣れた景色。
視界に多分に映るのはこげ茶色に、黒。この暗色の門構えは父の趣味なのだとはふようも最近聞いた。百合が入院している隣町の総合病院の近くに日田の義妹と居を移してから一度も戻っていなかったが、それは間違いなく生家ではある。
辛くとも微笑むばかりの恋人から逃げるようにして、ふようは今日はじまりの地へと戻っていた。バスに乗ってしばらくメランコリックに浸っていた少女も、そろそろ真っ直ぐに前を見なければならない。
何せ、破滅は待ってくれないのだから。
今日は休日、ではある。以前は付き合いだと用事を作っては休みの日も遅くまで帰宅しなかったふようの父、火膳有樹もこの昼前の頃には居てくれたようで自動車が止まっていた。白い可愛らしいそれが、妙にふようの心に触れる。
以前は大して好きでなかった娘にすら自慢していたくらいに有樹は車に凝っていたが、今は旧い軽自動車に乗って文句も言わずに毎日欠かさず数キロの道を仕事のために通っている。
大手エンジニアリング企業にて中間管理職として勤務を続けるのは楽ではないと聞いていた。また、趣味は掃除と車の改造くらいしかない人だったのはふようもよく知っている。
「……ごめんね」
そんな父が自慢の赤いスポーツカーを手放したのは、娘のため。正確には、愛する娘たちのためだった。
最新の手術、そして現状の維持。最早死に体の百合を生かすだけで湯水のように金は消えていく。小金持ちだった日田の両親達の遺してくれた貯蓄等も心許なくなってくれば、ふようももう学ぶのなんてと進学した大学を辞めて働かんと決意するのも仕方ない。
こうなったら、水商売だろうが何だろうが関係なく、勤めなければ。そんなふようの拙速な判断に待ったをかけたのは、何を隠そう彼女のお父さんである。
「ありがとう……」
インターホンに反応がないのを気にも留めず、ふようは、何度口にしたかも覚えていない感謝を白が剥げた木肌が足下に広がる扉に手をかけながら、溢した。
そのうち世界が終わるなんて、仕事柄インフラにも関わる有樹が理解できない筈もない。だが、捨て鉢になることなくふようの父は百合の生きたいという気持ちに賛同して、お前昔から勉強好きだったろ、と言って娘に学びを続けさせた。
すべてを聞いた百合は、お義父さんありがとー、と泣き、有樹は、お義父さんって言うなっての、と恥ずかしげに返してそればかり。
何故なら、たったそれだけで彼らは良かったのだから。彼女らは滅びを前に、蔓延る自死を煽る宗教もどき達と正反対に未来を望んでいた。
そして、百合の調子を見る限りきっと一年どころか半年も経たずに破綻するだろう現状維持は、情によって今も続いている。
「ん……宗教かセールスだろってインターホンを無視してたらなんだ、ふようか。そういや今日来るとか言ってたっけか……」
「ん、ただいま……」
有樹はふようの元気のない足音を聞いて振り返る。白髪混じりに多少痩せたくらいで健在の父に、彼女は上手く表情を作ることは出来なかった。
「はは。あんまり見舞いできちゃいないが聞きゃ、百合のやつは結構やべーって話なのに、ふよう。お前はまだ大丈夫そうだな」
笑顔すら満足にできない娘に、しかし有樹は満足そうに笑う。
あまりに赤く割れて落っこちてしまう人間の多い中、娘が未だ五体満足というだけで嬉しいもの。終わりの近い今はそんな時勢だ。
下手をしたら苦しみながらも落っこちずに生き延びてはいる百合が贅沢とも取れてしまうくらいの末期に、男は親子の情にばかり救いを見出していたのかもしれない。
だが。その日愛すべき火膳ふようは頭を振る。そして、ぽろりと一つ涙を落としてから。
「お父さん……」
「っ、どうしたふよう。改まって……っ」
「ごめんなさい!」
そして、大学途中でとある企業に雇われ現在進行的に滅びる世界の研究を行っているふようは、自分を育てくれた彼に深く頭を下げた。
彼女は広い袖の下に隠していた左手を真っ直ぐ差し出し、泣きじゃくりながらこんな、終わりを叫ぶ。
「――――私はあの子のヒロインになれなかった!」
ふようの左手は既に赤く染まりきっていてひび割れていて、もう今にも落っこちそうであって。
その涙すら血のような赤が紛れて混ざって汚れていたのだった。