ルート1 熾火の恋人 火膳ふよう⑤
冬の折。ざわめく空から、雪が降りる。一つ一つ幾何学模様を取りながらも極めて軽やかに、柔らかくそれらは天から地へと舞い降りた。
随分赤くなっちゃったねと、最近空を見上げることすら億劫な様子の百合であったが、流石に雪華を歓迎しない程に少女を辞めてはいない。
赤い赤い頬に乗っかったひと粒にひんやり。思わずぶるりと震えた百合は跳び上がって歓迎するように手を広げた後、十歩程離れた愛すべき人に向かって叫ぶように言うのだった。
「わあ、ふようさん! 雪だよー! ふわふわで、可愛い!」
「百合の方が可愛い」
「えー。あたしこんなにふわふわじゃないのに?」
「うん。私は百合より可愛いものを知らない」
「きゃあ。口説き文句だっ。ふようさんったらあたしを何度も惚れさせてどうするつもりなのー」
亡くなりかけている元気を努めてきゃっきゃ囀るお子様に、しかしふようは魅入る。
まるまるとまではしていないが、ダウンコートで痩身を隠した百合は頬以外の全体の真白さから雪ん子とも取れた。そう百合は真、脆さすら似通った粉雪。感動だけを心に遺し、小さな小さな雫の濡れ後に変じるばかりの一瞬の奇跡。
でも、未だここに居るのだ。揺れて痛んで悼みながらも、それでも壊れきらずに私を認めて。そう思い返したふようは、口の端から煙のような白い息を細く立ち上らせながら、笑顔に向けてこう短く返した。
「キス」
「えっ?」
「今直ぐなら、キスをしたい」
「ふようさん、えっちだー。そういうのはお外でしちゃダメ!」
「むぅ……」
しかし、百合の答えは、ノー。軽くいやいやをしてから、恋人よりも揺れ落ちる雪の軌跡にばかり気を取られる。
つれない人、とふようは思う。この乙女は口吻如きで溢れ出てしまう程に満ち満ちた、愛の器。雪の精と空目する、平温にすら殺される脆き奇跡だ。
キスにいやらしいよと首を振るが、そもそも、接触すら日田百合には本来辛いことなのかもしれなかった。
恋が熱情ならば、雪ん子が持つべきではない。だが、百合は間違ってそれを今持ってしまい、持ち前の寿命を更に縮めてしまっているようだった。
なら、熱を感染してしまったふようはどうするべきか。選択肢はあまり多くなく、故に彼女は彼女を見つめる瞳をより細くした。
「はいはい、いちゃつかないで姉さん達! 特に百合姉さん、あんまりはしゃいで駆けてると転んじゃうわよ?」
そんなこんなを見ていた二人の妹、日田アヤメは層になりだした粉雪をぎしりと踏みしめながら、注意する。
努めずとも笑顔のアヤメがするそれは、半ば形式上のこと。線香花火の最後の輝きを眺める妹は、苦しみ表に出てさえいなければ別に無理や恥は構わないと本心は思っている。
心の底からの好きの隣に、好きになれた人が寄り添う。それを嫌う程アヤメは妹を辞めていなかった。
せめて終わりに悼まず。泣くのは影に、笑顔の仮面はなるだけぴったりと。
そんな妹の努力を二人のお姉さんたちは当たり前のように知っていた。
「はーい! 随分と濡れてるし、気を付けるね……わ、ふようさん?」
「……キスがダメなら、手を繋ぐよ。それなら、転んだとしても一緒」
「わーい! そうだねっ、ふようさんとなら一緒にずぶ濡れも面白いかも!」
ふようは冷たく小さな細い指先をそっと左手で包む。ちょっと空元気に動きすぎる百合の肌は細かくひび割れていて、想像以上に心地よいものではない。
それでもふようは恋人の弱々しくも動く血潮に安心は出来た。頼むからそんなノリで洗濯物増やさないで、という妹分の悲鳴のような声に微笑みながら、彼女は。
「うん。百合と一緒ならもう、何も怖くない」
薄くとも精一杯の笑みと共に、雪細工のような少女にぎゅっと縋る。
それが、愛に不勉強だった頭でっかちの孤独な少女の、独りを卒業して得られた結論だった。
「こほこほ」
「百合……」
隣を生きる。いずれそれが難しくなることなんて、利発な少女には分かっていたことだ。
だが、それもただ予期していただけでいざそこに至ったところで心は未だ追いつかない。
天から降りた雪のようだった百合は、そんなだから当然のように熱に体をなくしていく。
限界が来たのは、卒業式を前に桜の蕾がぱんぱんに膨らんできた頃合い。
晴天の開花を前に、彼女は膝から崩れて以降ずっと、ベッドの主だ。百合に見せるためにサイドテーブルの上に貰ってきた卒業証書を広げたのも、ふようには最早懐かしい。
「こほ……ゴメンね、ふようさん。あたし、咳ばっかで……こほ」
「私は、気にしない。話せなくても、百合なら安心できるから」
「こほこほ……ありがとう」
何もないのに、乾いた咳が続く。骨が浮き出る程に弱った体にはそんな小さな拒絶の動きですら辛いものだというのに、それは止まらない。
ふようには、理由が予想できる。きっとそろそろ、終わる世界に百合の身体が耐えられないのだろう。
百合にだけ見えるのだという空の紅い罅を気にせずアンテナを特に高くしなくても、終末の文句は嫌という程耳に入ってくるようになった。
争う誰彼に、顕在化する力と狂気。ふようは、もう地球に裏側は存在せずまるで平面のように解けてしまっているとは聞きたくなかったし、元恋のライバルがピースメーカーと呼ばれる鬼であったと知りたくもなかった。
ただ、それらの進行に応じて苦しむ百合の様子が、ふようにある仮説を作らせるのだ。
ひょっとしたら、日田百合というのは天使なんかですらないのではないか。むしろ、もっと無情なこの世の適温を測る程度のものでしかないのでは。
苦しむ百合にだって現在進行形で向けられているのは、世界に対するふようの観察眼。
表面は痩けて青ざめている程度だが、内は罅が鬆と鬆を通ってしまい血塗れ。取り付けられた複数の管で必死に血を入れ余計となった液を排出しているその様は哀れであろうとも、それでいいと決めたのは確かに少女の意思である。
「こほ」
「百合」
「ふよう、さん……こほ」
手はもう、百合の自力では上げられない。末期に近い無力も、しかしふようが拾ってあげれば笑みの材料になる。この期に及んでも、百合の笑顔は過日のままだった。
弱きものが命に瀕じてしまうなんて、この世のありきたり。何度も本のそんな下りで涙した覚えのあるふようは、でも。
「っ」
「泣かないで、こほ。ふようさん」
「ぐっ、うう……」
ふようは、こんなの慣れるわけがないと泣きじゃくる。物語のように、ドラマでやっていたように涙は流れない。ぼたりぼたりと止めどない落涙は百合の手のひらに溢れ、しかしその熱ももうこの世に実感を殆ど残せていない百合には分からなかった。
でも暗黒だらけの視界の中で百合はふようを真ん中に置けている幸運を神様にありがとうと思いすらして、こう続けるのだ。
「あたしは、こほ、こほ、これで、いいんだ」
「っ、ううっ……」
「良かったよ。ふようさんを、好きにごほ。なれて」
「う、あああっ――――!」
百合は今で間違いなかったと、言う。死ぬのだって滅びるのだって横にして、ただ貴女と恋できて良かったよと傷んだ笑みを見せるのだった。
勿論、そんな百合のこんな感想だけを求めてふようは彼女を愛した訳ではない。本当ならばもっと一緒にありたかったし、もっとくっつきあいたかったし、もっと辛くない恋をしたかった。
だが現状に愛なんてどこにもなく、この終わりの世界を百合の身体は見切ってしまい今にも張り裂けそうで、でもそんな消滅の痛みをすら飲み込んだ少女は。
「だから、あたしなんてごほ、ごほ……忘れて?」
情愛なんかよりも賢さばかりが取り柄だった筈のキャラクターに対して、そんな無理難題を押し付けるのだった。
「百合、ゆり……ああっ」
「ん、うぅ……」
そして、病人はこの頃一日の半分を費やしている眠りに落ちる。もう、ふようが握った百合の手を幾ら擦っても、熱も力も返ってこない。
声も届かず、眼下には真白いだけの少女が無理に生かされているだけ。わずか膨らむ胸元にのみ希望を持って、でもそれにばかりは縋れない。何しろ、余命宣告の日付も過ぎてひと月。何時この子が亡くなってしまうかなんて分かったものではないのだから。
「う、ぅうん……」
「……百合……貴女は……」
忘れて、と言われた少女はしかし夜の限界まで少女の手を握り続けた。少しでも温とくなるよう、心の底まで冷めないようにと、願いながら。
ああきっと百合は、天国から射し入れられた体温計。もし百合がこの世の悲しみに耐えられずにパリンと割れてしまうのならば。
「きっと何もかもが救われない」
救われた私だって、当然に。ふようは、そう続けることさえなく、ただどうこの終わりに救いを持たせるべきか思考を続けるのだった。