◆救出
扉がミシミシと音をたてている。鍵も、蝶番も今にもはじけとびそうだ。
ナタリーは冷汗をかきながらバスルームで息を潜めている。
(扉が壊れたら誰だか知らないけど、決して善人じゃない人が入ってくるわ。そしたらあたしは…死ぬのかしら)
扉をぶち壊そうとしている者は人殺しか、誘拐犯か、あるいは空き巣か――。
(空き巣がこんな物音たてないわ。前者のほうね、きっと)
叩きつけられ、歪んで今にもはずれそうな扉は
もう限界だ。
時間稼ぎももう終わり。覚悟を決めなければならない。
(―――次の衝撃で扉は壊れる。来るわ――)
ナタリーは汗ばんだ手を胸の上でギュッと握りしめて覚悟を決める。
そして――。
バキャアッ…!!
家が壊れてしまうのではないかと思うほどの大きな音と共に、脱衣所の扉は限界を迎え、バタンと枠から外れて倒れた。
そしてズリッ…ズリッ…と床を引きずる足音が耳に響いてくる。
(――来た。入ってくるわ――戦わなきゃ…戦わなきゃやられる)
しかし気持ちとは裏腹、身体が、手が、恐怖心に脅えカタカタ震え始める。
心臓が早鐘を打っている。覚悟したつもりなのに、侵入者と自分を隔てる壁が一枚壊されてしまったかと思うと、決意した心が簡単に折れてしまいそうになる。
(ナタリーしっかりしなさい。あたしは父様と母様のぶんまで生きるって決めたんだから。ここで人殺しに殺されるわけには行かないのよ。それに隙をつけば振り切れるかもしれないじゃない)
緊張する中、ナタリーはバスルームをぐるっと見渡した。
そしてあるものに目が止まった。
(そうだわ。これなら一瞬の隙をついて逃げられるかもしれない)
頭に浮かんだ打開策。
これなら――。
ナタリーはすぐに行動に移す。
もう侵入者がすぐそこまできている。
時間はなかった。
(早く早く!)
急がなければ――!
狭いバスルームの切羽詰まった状況で、ナタリーはあるものを準備した。
そしてついにその瞬間が来た――…
ダァン!!!
「きゃあ!」
凄まじい勢いでバスルームの扉が弾き壊される。まるで大砲の弾でも撃ち込まれたような衝撃だ。身構えていたナタリーでさえ、予想だにしなかったあまりの衝撃に耐えきれず、狭いバスルームの壁に華奢な身体を強く打ち付けることとなる。
「あぅっ!」
少女は背中を強打し、床にずるりと崩れ落ちる。
「…っ……」
(…何?今の。人間の力じゃない)
何が起きたか分からない。けれど身体中が痛くて動けそうにないのは分かる。
激痛で意識が遠退きそうになる中、半開きの目で事態を把握しようと試みる。
「……?!」
(な…)
ナタリーは絶句した。目の前の光景が嘘であって欲しいと切に願う。
(…なんで…)
そこにいるのは人殺しでも、空き巣でも、そもそも人間でもないものが存在していた。
カタカタと身体が震える。唇が急激に渇いて体温が低下していく。
ナタリーに絶望が襲いかかる。
敵うわけない。
そもそも人間ですらない。
そう、獲物を仕留めた獣のような赤い瞳で見てくるコイツは……
―下級バンパイア―
「なん…で……なんで……?」
どうして狙われるのは自分なのか。目の前にたたずむ黒い化け物は荒い呼吸をし、口元からは、だらだらと涎を流してバスルームの床を汚している。初めて近くで見るそれは、皮膚は黒く、よく見ると小さな突起が無数に広がっている。
頭は髪の毛は一切生えておらず、顔に鼻はない。エリクソンを思わせる深紅の瞳と左右にパックリ裂けた大きな口があるだけだ。ただ、深紅の瞳はエリクソンのほうが遥に綺麗で妖艶な光を宿しているとナタリーは思う。
目の前の化け物は、ただ本能のままに獲物を喰うことに専念しており、瞳孔は開ききって完全に狂気の化け物でしかない。そのグロテスクな姿と全身を襲う恐怖に吐き気がする。
さっきまで隙をつけば逃げられるかもしれないという浅はかな考えはもうナタリーの脳裏にはない。
熱湯でもって相手を怯ませて逃げ出そうなんて。化け物相手に通じる策ではない。
「うっ……」
化け物がぼつぼつした黒い腕を伸ばし、ナタリーの首を掴んで持ち上げた。化け物は嫌らしく舌なめずりしてあたしを見てる。
(殺される。生き血を啜られて、あたしは死ぬんだ)
涎の垂れた汚い口元からのぞく鋭い牙。これに噛み付かれたら終わり。
(ここで死んだら、エリクからも開放されて父様と母様のもとに逝けるのかしら)
そんな考えが頭をよぎる。
そうだ。エリク。侵入者から逃れることばかり考えていて彼の存在をすっかり忘れていた。
今こそ彼の出番なのではないか。
けれど、彼は昨日から出かけていて一瞬もその姿を見ていない。
今朝だって家の中に彼の気配は感じなかった。
(盟約だなんだってあたしにうるさく言ってたくせに。肝心な時に来ないじゃない。馬鹿)
首を絞められ、意識が今度こそ消え入りそうになる中、呼吸もままならない状態でナタリーは精一杯悪態をついた。
死を目前に、通常ならもうあきらめているはずの状態。
だが、彼を思い出した途端もしかしたら来てくれるのではないかとナタリーの心は期待し始めていた。
それが化け物を目の前にしても、死を目の前にしても、悪態をつけるほどの生きる活力を彼女の中に呼び覚ましたのかもしれない。
(早く来なさいよ。エリク。あなたがわざわざ刻印までつけた人間は今にも殺されそうよ。いいの?それとも他に美味しい血液をもった人間でも見つけたわけ?もしそうだとしてあたしを助けに来ないんだったら、これまであたしにした暴言と盟約違反で一生怨んでやるんだから!)
気道をふさがれ、ヒュウヒュウと喉がなる。体から力が抜けていく。もう意識も持ちそうにない。
残された意識で壊されたバスルームの扉の奥を見つめても、エリクソンの姿はない。
化け物の腕に力がはいり、いよいよ見るのもおぞましい顔がナタリーに近づいてくる。
(ああ…、もうダメ…)
ナタリーは力が抜け落ち、思い瞼を閉じた。
《ギャアアアアア!!》
化け物の苦痛を訴える一声が響きわたる。
化け物は身悶え、床を転げ回る。ナタリーは床に落下し、咳き込む。
彼女を捕らえていた化け物の腕は綺麗に切断されていた。
彼女がそれを確認すると、頭上から聞き慣れた男の声が耳に入ってきた。
「まさかこんなところにいるとはな」
エリクソンはやれやれと化け物に向かって呟いた。そして足元に倒れているナタリーを見下ろし、弱弱しく見上げる彼女と目を合わせた。
「随分ぼろぼろにされてんな…」
エリクソンはその場にしゃがみ込むと、まるで彼女を労わるかのようにあおく痣になった首筋にそっと手を触れた。
温かい彼の手が、残された傷痕を確かめるように首を這う。
まだ呼吸が整っていない彼女は咳き込みながらおとなしくいつになく優しい彼の手の平を感じていた。
本当に心配してくれているのかと錯覚してしまうほど、それは優しい。 ちゃんと来てくれた。 そのことが素直に嬉しく、胸が安らぐ。盟約なのだからこれはエリクソンにとっては義務。当然のことだ。盟約を交わしたナタリーにとっても助ける行為は彼に与える血の代価として支払われるべき当然のことなのだ。
彼が盟約だからという理由で助けてくれるのだとしても、命を救ってもらって喜ばない人間なんていないだろう。
(変なの。エリクがきてくれて嬉しいなんて。これは当たり前のことなのよ。それにあたしの血が欲しいからエリクはそうしているだけ)
それでも彼の温かい手が触れたところから、心身ともに緊迫が解けていく自分がいるのは事実だ。
(エリクがいてこんなに安心するなんて)
両親が亡くなってから、一人気丈に振る舞い、人に頼ることをやめた彼女にとってこんな気持ちになるのはカトレアといる時以外では初めてのことだ。
(しかも相手はバンパイアなのに)
彼女自身、彼にこんな気持ちを少しでも感じてしまったことに戸惑いを隠せないのだった。
エリクソンは彼女の首の痕を確かめると、スクッと立ち上がり、のたうちまわっている化け物に向かって吐き捨てる。
「てめぇ…、覚悟できてるんだろうな」
エリクソンはボキボキと手を鳴らして怒りを露にしている。
怒気をぶつけられた化け物はエリクソン睨みをきかせ、ぐっと身構える。だが、その目はまだナタリー一点を捕らえていた。
「余裕だなお前。俺に目ぇつけられてコイツを狙うとは良い度胸だ。その上、村の人間にまで手ぇだして……。こっちとしては無駄な労力つかうから嫌なんだっつの。なんとかしろ、その無駄な感染能力。これ以上面倒増やすな、下衆」
エリクソンなんて眼中なしの化け物に少々苛立ちを覚えたが、静かに右手を化け物に向け―。
「死ね」
光の球が放たれたと同時に、化け物は声を出す間もなくあとかたもなく消え去った。




