月夜の散歩
ええええええっ!?私は勇者ソレットの両腕に抱えられながら、満月の月に照らされる夜空に浮かんでいた。
ついさっき迄私がいた部屋の窓から灯りが外に漏れている。その部屋がある塔もどんどん遠ざかり、ソレットさんに抱えられた私は空高く飛んで行く。
「······城があんなに小さく見える」
私は嘆息するように小声を発した。城だけでは無い。城下町も、この王都全てが空から見渡せた。
「寒くないかい?アーテリア」
ソレットさんの言葉に、私は勇者にお姫様抱っこをされている事に気づく。背中と両膝の裏に、彼の手の体温を感じた。
「だ、だだだ大丈夫です!全っ然寒くないです!」
私は赤面しながら上ずった声で答えた。六月も半ばの月夜の空気は、私の火照った身体を優しく包んでくれた。
ま、まずいわ!こんな事されたら、走り出してしまう!いや、突っ走ってしまう!いやいや!暴走してしまう!私の心が!向かってしまう!!
恋と言う名の沼の底にぃぃっ!!
脳内が大混乱を起こしている時、ソレットさんは澄んだ瞳で遠くを見ていた。な、何か話さないと。
沈黙は駄目よアーテリア。無口でつまらない女と思われるわ。い、いや待てアーテリア!ソレットさんはお喋りな女は嫌いかも!?
ど、とっち?話す女と無口な女、ソレットさんはどっちが好みなの!?ソレットさんが至近で私を見た時、私の脳内は破綻した。
「ソ、ソレットさんは恋人はいるんですかぁ!?」
月夜の静寂を破るように、私の大声が空に響いた。
······何故?何故なのアーテリア。こんなロマンチックな雰囲気の中で、相応しくない質問ナンバーワンよそれ。
私が激しい自己嫌悪に陥っていると、ソレットさんの瞳は、何故か懐かしそうなそれに変わった気がした。
「······五年前。ジャスミンと言う恋人がいた。彼女を亡くしてからは恋人はいないよ」
ソレットさんは気を悪くした様子も無く、とても穏やかな声色だった。衝撃的な事実を二つも知った私は、ただ固まって沈黙する他なかった。
それから暫く月夜を浮遊した私達は、結局何も言葉を交わさなかった。ソレットさんが私を部屋まで運んでくれた時、私は意を決して口を開いた。
「ソ、ソレットさんは今幸せですか!?」
私の突然の質問に、若き勇者は驚いた様子だった。ソレットさんは暫く考え込み、言葉を選ぶように答える。
「······余り考えた事はないな。ずっと戦いの日々だったから」
「ジャスミンさんは、きっとソレットさんの幸せを願っていると思います!!」
私は窓際の枠に両手を叩きつけ叫んだ。こんな素敵な人の恋人だったジャスミンさんなら、絶対にそう考える人に違いないわ。
「······そうかな。いや。きっとアーテリアの言う通りだ。俺の知っているジャスミンは、そう言う女性だった」
ソレットさんの故人を懐かしむような声に、お節介な質問をした私はなんだか救われたような気がした。
「きょ、今日は空の散歩に連れて行ってくれてありがとうございました。ソレットさん」
私は心から勇者にお礼を述べた。ソレットさんの返答は、私の想像を超えるものだった。
「こんな事でいいのなら何時でも連れていくよ。アーテリア。あと俺の名はソレットと呼んでくれ」
生ける伝説の勇者は、そう言い残し飛び去って行った。私はクシャミをするまで、開けっ放しの窓際に呆然と立ち尽くしていた。
······翌日からの私の頭の中は、ソレットの事で一杯だった。食事の時も。政務の時も。ベットに横になった時も。
片時もソレットの顔が頭から離れない。
······これはもうあれよ。間違いないわ。もう自分を騙せない。確実に。決定的に。寸分違わず。
······私は勇者に恋をした。
『勇者と親しくなれば、このタルニト国の巨大な後ろ盾になってくれるわ』
それは突然だった。雷のような閃光が私の頭の中に走り、脳内で誰かがそう呟いた。
······な、何を言っているの?私はそんな不純な動機でソレットを好きになったんじゃないわ。
『何を言っているのアーテリア?ソレットの目の前でナニエルを励ましたのも、彼に自分の存在をアピールする為でしょう?』
ち、違うわ!私はそんな事を計算していない!私はナニエルに自信を持って欲しかっただけ!
『幸いにもソレットは貴方に興味を持ったわ。いえ。興味どころか確実に好感を抱いている。あとは仲を深め、このタルニトの為に勇者を利用するのよ』
止めて!!ソレットを国の為に利用するなんて考えて無いわ!誰なのよアンタは!?なんで私の頭の中で、そんな勝手で酷い事を言うの!?
「女王陛下」
······乾いた声が私を現実に引き戻した。玉座に座る私の前に、黒髪のメフィスが立っていた。
メ、メフィス。いつの間に元の髪の色に戻ったの?
「ナニエルの煎じた薬を服用し戻りました。全く彼は腕の良い薬師です」
優しげな瞳は影を潜め、メフィスの両目は以前の鋭い物に変わっていた。
「ナニエルから聞きましたぞ陛下。勇者ソレットと接点を持ち、更に彼等に恩義を売った事に成功したようですな」
······メフィスのその言葉に、私の心は何かに抉られたような気分になった。
「女王陛下。この機会を逃してはなりません。勇者達と仲を深め、このタルニトの為に彼等を利用するのです」
······メフィスの乾いた声が、段々と遠ざかっていく。私の耳には何も聞こえなくなった。
······さっきの頭の中の声は、もう一人の私の声だ。もう一人の私は、女王として国の利益になる事しか考えていない。
そして目の前のメフィスは、私の腹黒い心の内の言葉をそのまま代弁している。
······影だ。私の目の前に立っているこの男は、私の影だ。
メフィスの口が動いていたが、私の耳には届かなかった。私の心の中で、権力に染まったもう一人の自分が知らず知らずの内に育っていた。
権力の象徴である玉座に座りながら、私はその事実に戦慄していた。




