神武東征について
古事記の中で、我が国の建国者神武天皇は出身地の宮崎を出て、海岸沿いに広島、岡山、和歌山を支配下に組み入れ、そこからは陸地を進んで大和入りしたと伝えられる。いわゆる神武東征である。考古学的には弥生時代のことだ。
おそらく、神武天皇、当時天皇号はなかったので、日本を建国しただれか、としてもよいが、彼の生きた時代には、すでに西日本ではある程度勢力が固まっていたと思われる。
ここで弥生時代について語りたいのだが、私は古代日本については古事記で読んだことしか知らないので、同時代のガリア(のちの西ヨーロッパ。ラテン語ならガリア、ギリシア語ならケルト)を参考にしたい。
ローマに制服される以前のガリアは無数の部族たちがひしめき合う状態にあった。やがて有力な部族、ローマと友好関係を結んでいたヘドゥイ族や、アレシア攻防戦でガリア部族連合30万を率いてユリウス・カエサル率いるローマ軍と対したヴェルチンジェトリックスの出身であるオーヴェルニュ族などの有力部族があらわれ、周辺の部族を傘下に置くようになってくる。これにより、カエサルはガリア遠征のさい、いくつかの有力部族と対決するだけでガリア全土を支配下に置くことができた。神武天皇が生きた時代はちょうどこのころのガリアと同じような状況であったと思われる。神武天皇も宮崎を根拠地とする有力部族の族長であったのだろう。
当時、西日本の最大勢力は出雲であった。出雲は大陸との交易も行い、鉄器すら有していた。当然、ほかの部族は出雲に押されることになる。そこに現れたのが神武天皇だ。
神武天皇は出雲を仮想敵国とした連合の結成を呼びかけたのだろう。実際、出身地の宮崎を出た神武天皇の足跡は一度北上し、そののち東へ向かって大阪にたどり着く。日本地図を見てもらえばわかるが、これは出雲(島根県)を囲む形になっている。また同時にこれは瀬戸内海を囲むことにもなった。ローマは地中海を「我らが海」ないし「内海」と呼んでいたが、神武天皇が結成した連合(以後、連合と称す)にとっては瀬戸内海が「我らが海」であり「内海」であった。
内海を持つことは軍事、経済、政治の上で強力な武器になる。海を背にした街を攻略するには陸から攻めるだけでは不十分で、海上戦力が必須となる。当時の海上氏族といえば安曇氏と宗方氏だが、この二部族は早々に連合に加入していた。また、連合の国々は瀬戸内海を囲んでいたため、海岸はすべて連合側が持っている。つまり、神武天皇は海岸地帯を支配下に置き、海上戦力を独占することで瀬戸内海の制海権を得た。そして海を移動するのは陸よりも圧倒的に早い。移動が速ければ情報のやり取りもさかんになる。つまり、海上貿易、海軍力、瀬戸内沿いの部族たちとの情報ネットワーク、この三つが「我らが海」を持つ連合が得たものである。
神武天皇の統治哲学はふたつ、
一、八紘一宇
二、奪え合えば足りないが分け合えば足る
であったと言われている。この理念に胸打たれて連合に参加した部族が多かったと思いたいが、実際には出雲の恐怖を利用した極めて即物的な連合だったと思う。大衆を動かすのはいつだって目先の感情であるのだから。
まとめると、神武東征とは、神武天皇による反出雲の瀬戸内海連合結束の足跡であり、宮崎と大和は瀬戸内海の東と西の端であり、この要を抑えることが、宮崎を出て大和へ向かった神武天皇の真意であったと思う。