フォーリン・ダウン
青色の点滅が赤に変わる。止まれ。私は立ち止まり、左手の時計に目を落として小さく息をつく。
午後一時四十八分。約束の時間まであと十分。
遅刻はせずに済みそうだった。
まあ、どうせ今日もあの子は遅れてくるのだろうけど。
いつだってそう。誰もいないカフェのボックスに座ってため息をつきながらアイスティーを頼むのも、運ばれてきたお茶を大事に大事に飲みながら待ちぼうけを食うのも全部私の役回り。本を開けば五十ページは進んでしまうほどの時間を私はひとりでじっと待つ。そうするうちにようやくあの子がやってくる。
人一倍時間に詳しいはずのあの子は、いつも遅れて私の前に現れる。
平気な顔で。
私を倶楽部に誘ったのは、ほかでもない、あの子なのに。
少しは申しわけなさそうにするとか、なにかあるんじゃないかと思ったこともあるけれど、随分前に私はあきらめた。彼女はそういう性格なのであって、すでにできあがった川の流れを変えるような真似はできないのだと私は割り切っている。
だから、そう、たとえばここで大幅な寄り道を私が決めても誰も困りはしない。むしろ私が困らなくて済むのだからよっぽど平和的じゃないかな、と思ったりもする。
それでも私がそう思いきれないのは単に人がいいからなのか、それとももっと深刻な病気に私がかかっているからなのか。なんにしても私に道草を食うつもりはなかった。
「…………」
見ると、信号が青に変わっていた。考えごとをするうちにぼーっとしていたらしい。先をゆく人並みを追いかけるように私は一歩を踏み出し、そして、
不意に私を追い抜いていった、制服姿の女の子の背中を見つける。
古風なセーラー服にふたつ結びの黒髪。肩のカバンには小さなキャラクターのマスコット。どうやら急いでいる様子で、わずかに息を切らしながら横断歩道を駆けていく。
別に珍しい光景でもない。古くさい制服は近所の女子校のものだし、休みの日の用事なんていくらでも思いつく。部活動の帰りに友達と待ち合わせをしているのかもしれない。それでも私が彼女から目を離せなかったのは、そこに見たこともないものが絡みついていたからだ。
真っ白な彼女の制服の背中、そこに、黒い蛇のようなワイヤーのようななにかが、雁字搦めに巻きついていた。
服の模様だろうか――いや、違う。この辺りであんな模様が入った制服を着せている学校はなかったはず。それに彼女の近くを歩いていた別の子の制服は真っ白だ。
いや、そんなことは言ってしまえば些細な点だ。それよりももっと、あの子の背中の黒いなにかを模様と言いきれない現象が私には見えていた。
そう、まるで本物の生きた蛇のように。
彼女の背中の黒い影は、絶えず流動し、その形を変え続けていた。
彼女の服が波打っているから――そう考えることもできなくはない。けれど、そこまで単純な目の錯覚だというのなら、あの黒い影の密度があまりにも露骨に変化している理由を説明できない。どうしてあんなものが巻きついているのだろう。昔に流行った立体投影かなにかだろうか。
あんな不気味な模様を?
学校の制服に?
自分で考えて、自分であきれた。どう考えても不自然だ。私だって女子大生なのだから、ほんの少し前までは女子高生だったわけで、そのあたりの流行り廃りにも疎かったわけではない。けれどあんなものは見たことも聞いたこともない。それになにより不可解なのは、彼女のあの黒い模様に誰も目をやっていないということだ。あたりを見回すと、手元の携帯端末にご執心な人ばかりというわけでもなく、ちゃんと前を向いて歩いている人も多い。というのに、誰も彼女の背中に目をとめない。それも意図的に無視しているというわけではなく、本当になにも見えていないような――、
なにも、見えていない?
もしかして、と私が思ったそのとき、昼下がりの京都の街中に、けたたましい音が鳴り響いた。
それが車のブレーキ音だと気づく間に、惨劇はあれよあれよと目の前で繰り広げられた。
骨董品みたいなクラシックカーだった。
だから、安全装置も自律制御もみんなお留守だったのだろう。危険が目の前に迫ってからブレーキを踏む車なんていまどき映画でも見かけない。けれど私の目の前にそれはあった。ものすごいスピードで、ほとんどブレーキなんて意味をなさないくらいの勢いで視界の左から右へと駆け抜けた車はひとりの少女を遥か空中へと跳ねあげ、それから十メートルも走ってようやく停止した。
ゴムの焼ける匂い。
人の身体が地面を叩く、ぐしゃりというにぶい音。
犠牲になったのは、たったいままで駆け足で横断歩道を渡っていたあの女の子だった。
確かめる必要なんてなかった。あ、死んじゃったんだな――というあまりにも冷静で残酷な事実の確認。私の脳内に流れた誰のものともつかない声。舗装されたアスファルトに染みていく赤黒い血。つい数秒前まで酸素と二酸化炭素を運んでいた何リットルかの血液は、たったいまその役目を終えて外気へと解き放たれた。
遅すぎる悲鳴が路上に響き渡り、信号がもたついた点滅のあと赤に変わる。それでも人々は車道の向こう側へと渡ることができない。まるで秩序を奪われた動物のようにうろたえている。間の抜けたクラクションが不規則に響く。
私は、地面に横たわったままぴくりとも動かない「彼女」の身体を眺める。
そして、そこに確かに私は見た。
血に染まった彼女の制服、そこからまるで煙のようにゆるやかに上昇していく黒い影を。
影は、二メートルも飛んだかと思うとまるで水に溶けるインクのようにじわりと消えた。もうどこにも、その面影を見つけることはできない。
日常が引き裂かれ、不意に顔を出した血なまぐさい非日常のさなか、私はあるひとつの感覚にとらわれていた。
あの影を見たとき、なにか私の中にうずくものがあった。言葉にするのはとても難しいけれど、まるっきり気のせいだと否定することもできない。違和感のような、既視感のような、そう、どこかで味わったことのあるこの感覚は――。
――境界。
どうしてそう思ったのかわからない。けれど、胸のうちに秘めていた疑問が言葉へと変わった瞬間、違和感はいともたやすく理解に変わり腑に落ちた。
間違いないと思う。
あのとき私が見ていた線は、境界線。
でも、だとすれば、あれはいったいなんの境界だったというのだろう。
困惑する人々の間をすり抜け、血のべっとりとこびりついた横断歩道を渡りながら、私はそればかりを考えていた。
▼
結局、待ち合わせの時間に二分も遅れてしまった。
目の前で事故に出くわしたのだから仕方ないと思うこともできるけれど、それでも決めた時間に遅れるのはあまり気分のいいものじゃない。どうせあの子はいないってわかっていても、やっぱり自分の中の決めごとを反故にするのは憂鬱だ。
とはいえ、いつもと比べてなにか私の行動が変わるというわけでもない。もの静かな京都の街、その裏通りをちょっと入ったところにある喫茶店は名を「藍莉栖」といって、休日の午後でも人の入りは少ない。いつも通りにドアを引き、軽やかに鳴ったベルを開きつつ店主の老夫婦に会釈、もはや私とあの子の指定席になった窓際のボックス席へと歩を進め、そこに、
黒い帽子にネクタイ姿の、若い先客をひとり、見つける。
「…………」
私はあっけに取られた顔で、コーヒーをすする彼女の横顔を見つめていた。
すると彼女はこちらをちらりと見やり、そのために練習していたかのようなわざとらしいため息を深々とつくと、
「たまには早くと思って来てみたら、なによ、メリーだって時間通りには来ないんじゃない」
不機嫌そうな声とは裏腹に、彼女の顔にはしたり顔の笑み。いままで遅刻を繰り返した末の、たった一度の不戦勝のような偶然で勝ち誇れるのは、やっぱり、この子が宇佐見蓮子だからなのだろう。
オカルトサークル秘封俱楽部の会長にして私の同級生。
専攻は超統一物理学。
認めたくはないけど頭も切れる。
そんな蓮子はしかし、時間にだけは疎かった。いつもいつもいつもいつも遅刻して私を困らせていたのに、どうしてこんな日に限っておかしな風を吹きまわすのだろう。
私は蓮子の向かいに腰かけ、肩にかけていた小さなバッグを隣の椅子に置くと、
「今日はたまたまよ。それに蓮子に比べたら、二分なんて遅れたうちに入らないでしょ?」
「遅刻は遅刻よ。なにか正当な理由があるなら、聞いてあげないこともないけどね」
正当な理由。
つい十分前に起きたできごとを、私は頭の中に反芻する。
「……事故に巻き込まれてね。古い車が暴走して、それで遅れたのよ。いつもはもっと早く来てるわ」
「事故……?」
コーヒーカップに伸びた蓮子の手が、止まる。
見開かれたふたつの目が私を捉える。そこにはなにかを案じるような複雑な表情。小さな唇がわずかに言葉を口走るも、聞き取れない。蓮子は心ここにあらずといった様子で立ち上がるとこちらに歩み寄り、私の手を取ってじっと見つめる。
「……怪我、ない? どこか打ったとか、血が出てるとか」
ぺたぺたと、まるで人形で遊ぶ子供のように私の全身を触る蓮子。大変な怪我なら触ることも許されないだろうにと思うけれど、私は特になにを咎めることもなくされるがままにされていた。怪我なんて前に包丁で指を切ったのが最後だから、いまはどこを触られても平気だ。
「大丈夫よ。巻き込まれたって言っても、目の前で見ただけだから。傷ひとつないわ」
「……え?」
蓮子の手が動きを止め、間の抜けた返事がそれに続く。私が五体満足の健康体だと知ると蓮子は途端に手を引っ込め、「なによ、心配して損したわ」とぼやきながら元いた席に座りなおした。
つれないなあ、と私は少し寂しく思う。
けれど私は見逃さなかった。私が無事だと告げた瞬間、ほんのわずかな間を置いて、蓮子の顔に広がった深い安堵の表情を。すぐいつもの勝気な顔の裏に隠れてしまったけれど、あれが彼女の偽らざる本心であることを私は知っている。
素直じゃないから、人前ではあまり見られない顔だけれど。
感情を真っ直ぐに表した蓮子の顔は、とても綺麗だ。
「心配してくれたの? 嬉しいわ」
からかうように私が言うと、蓮子はぐい、とコーヒーをあおり一息でカップを空にして、
「たったふたりのサークルだからね。欠員出されたらかなわないわ」
「あら、そう」
私は笑いながら、カップを置いた蓮子の白い右手にかすかに触れる。
「私は蓮子が事故に巻き込まれたって聞いたら心配よ? うなされて寝込んじゃうかも」
「……なによそれ。大げさ」
あきれているのは蓮子の声だけで、その手はわずかな熱っぽさに包まれている。血の通った指が私の指に絡みつき、その温度を私に伝えてくる。
可愛い、と思う。
私が蓮子とこういう関係になったのが一体いつなのか、詳しいことを私は覚えていない。けれどそんなことは私にとってどうでもいいことだった。
私は蓮子に溺れている。
その事実が、私の中にはっきり刻み込まれてさえいれば十分だった。
蓮子を私のものにしたい。
蓮子さえいればそれでいい。
心に秘めた暗い欲望は、けして表に出しはしない。けれど絶対に忘れてはいけない。この想いを深く心の底に抱えて、私は蓮子と生きていく。
――いや、生きていくだなんて、私には贅沢な望みだ。
いっそ――。
私が「それ」に思いを馳せた瞬間、唐突に私の両目を違和感が襲った。
「…………!」
とっさに蓮子の手を離してしまいそうになって、彼女の指に引き戻される。
「……ねえ」
彼女の瞳は濡れていた。さっきまでの威勢はどこへやら、その顔はわずかに赤く、私の目を深く捉えて離さない。
熱い感情が胸をつく。ほんの小さな、口もとだけの微笑みを蓮子に投げて、私は小さくうなずく。
そして、傷ひとつない蓮子の手の甲に、そっと唇を当てる。
いまこの場所には、蓮子と私のふたりきり。マスターも奥さんも店の裏に引き上げていて姿は見えない。薄暗い空間にジャズの音だけが響いている。
私たちだけの世界が、ここにある。
――と。
そう思っていたのだけれど。
ふと目を上げた私の視界、そこには蓮子の顔があり、首があり、ほっそりとしたその柔肌にいま、黒いなにかがするりと這った。
それを私は、見てしまった。
この目の違和感も、研ぎ澄まされていく感覚も、きっと全部そのせいなのだろうと私は直感した。
「行きましょ」
「……メリー?」
立ち上がりかけた私を不思議そうに蓮子は見つめる。普段はもう少しここにとどまるのだけれど、用事ができてしまった。それもたったいま、私の気まぐれで生まれた用事だ。
あの黒い影を不吉なものだと私は考えていた。いまのいままで、見てはいけないものなのだろうと警戒していた。けれどいまではあの影も悪くないと思える。
時計を見るふりをして、私は左の手首を眺める。
そこに黒々と巻きついた蛇のような模様を見つめ、私はひとりほくそ笑んだ。
「……ね、死ぬときはふたり一緒に手を繋いで死ねたらって思わない?」
長いキスの後で、私は蓮子にそう言った。
「ん……」
とろんとした目でこちらを見た蓮子は、数秒経ったあとで小さくうなずいた。
日は暮れて、窓の外はすでに暗かった。部屋の明かりは小さな電球ひとつ。そっちの方が雰囲気が出ると思って、私はいつもそうしている。
蓮子と出かける予定だったフィールドワークも今日は中止。大丈夫、いまどうしてもやらなきゃいけないことなんて本当はひとつもない。大事なのは私たちがそれを望んでいるかどうかだけ。だからこうして蓮子とひとつになることも、私たちにとっては「正しいこと」だ。
「……ちょっと、寒いわ」
「そうね」
ベッドからのそりと起き上がると、蓮子は側に脱ぎ捨ててあった服を身に着け始めた。秋の終わりの京都で、おまけに安アパートとくればやっぱり少し肌寒い。窓は閉めてあるけれど、さすがにいつまでも裸ではいられない。私も蓮子にならって下着を身に着け、しわになったシャツに袖を通した。
「…………」
ふと見た先に蓮子の背中がある。シャツのボタンをとめながら、ときおり揺れる暗い色の髪。そこからちらりと覗く白いうなじに私の視線は吸い寄せられる。
そっと近づいて、後ろから抱きしめた。
「ちょっと、メリー……んっ」
柔らかな首筋に、吸血鬼のように吸いつく。
「……っ」
身体を小刻みに震わせながら甘い声をあげる蓮子の姿が、なによりも愛おしかった。
唇を離す。首筋に残った小さな赤い跡を見つめ、私はひとり微笑む。
蓮子を私のものにするための、これはひとつの証明だった。
「うん……これでいいわ」
ベッドの端、蓮子の右隣に座り直し、私は彼女の髪をそっとなでた。
綺麗な蓮子の髪、指の間からするりと流れていく絹のようなその茶髪が、私の指をぴりぴりと刺激する。蓮子はその髪先までもが蓮子なのだと感じずにはいられなかった。
と、不意に蓮子がこちらへと頭をもたせてきた。私はそれを受け止めて、ゆっくりと頭をなで続ける。
「……さっきの話」
「え?」
蓮子はやっと私に聞こえるか聞こえないかというくらいの声でつぶやく。
「ほら、死ぬときは一緒って」
「……やっぱり嫌?」
笑みを浮かべながら私は問う。蓮子は頭を横に振ってそれに答えた。
「そうじゃないの」
――私、メリーにだったら殺されてもいいかなって。
なんでもないことのように蓮子は言った。
事実それはなんでもないことだった。他の人にとってどうかは知らないけれど、私たちにとって死はそんなに特別なものじゃない。いつもすぐそこにあって、手を触れれば身につけられる衣服のようなものだ。
私と蓮子はいくつもの世界を渡り歩いてきた。私の夢を通じて見聞きした世界のできごと、それはどれも不思議で魅力的なものだった。
けれどいま私たちが「生きて」いるこの世界はあまりにも退屈で不毛だ。夢の奥に広がるあの世界に比べれば。
荒涼とした目の前の現世に、私も蓮子もうんざりしていた。お互い口にしたことはないけれど、そうしたものはなんとなく伝わってきたし、私も蓮子に言葉の外で伝えてきたつもりだ。
だから、私に殺してほしいと言った蓮子の言葉がきっと冗談ではないということも、私にはわかっていた。
「私もよ」
「他の誰でもだめ、触れさせるのも嫌だけれど、蓮子にだったらこの命、あげてもいい」
嬉しい、と蓮子は言った。
普段はそうした感情をストレートに表現しない蓮子だけれど、このときは違った。
本当に、嬉しかったのかもしれない。
私は蓮子の頭に置いていた手をするりと首に這わせ、空いていた右手と合わせて喉元を包み込んだ。
「……いい?」
蓮子の頭が、こくりと前に倒れて戻る。
「私を殺して……メリー」
私も、メリーのこと、ちゃんと殺してあげるから。
そう言って、蓮子はこちらを見て笑った。綺麗な笑みだった。私が蓮子と出会ってからの数ヶ月の中で、初めて本当に笑ったと思った。
蓮子の両手が私の首を捉える。ああ、これでやっと死ぬことができる。心から愛した人の両手で生を終えること――それはなんて甘美で贅沢な命の終焉なんだろう。
私の手首、そして蓮子の首には、いまもあの細く長い影が黒々と絡みついている。
これはきっと命の境界だ。私は確信している。人の命を生と死に分断する不可避の境界。あの女の子も逃げられなかった。私たちもきっと逃げられない。逃げるつもりもないけれど。
私は少しずつ腕に力を込める。蓮子は右の目から一筋涙をこぼし、口の形だけで「ありがとう」と言った。私はうなずき、そして――、
私の手からするすると離れていく影が、そのとき、見えた。
「……え?」
思いがけず、言葉が口からこぼれ落ちた。驚きを、隠すことができなかった。
影は、境界は私の手を離れて、蓮子の首に二重に巻きついていた。私のもとに戻ってくることはなく、目の前の白い肌をうねうねと這い回っている。
「そんな……どうして」
私の声は震えていた。それはあってはならないことだった。もしこの目に見えているものが本当なら、死ぬのは蓮子だけということになる。私だけが生き延び、ふたり一緒に死ぬという願いは果たされず、この世界に私だけが残される――、
そんな――、
「いけない……そんなこと」
私は蓮子の首から手を離した。離してしまった。けれどこれで蓮子は死なずに済むはずだった。私だけが取り残されることはないはずだった。
よろよろと立ち上がり、私は部屋の明かりを求めてさまよい歩いた。ほぼ手探りで探しあてたスイッチを入れ、おそるおそる振り返ったそこには、いまだ蓮子を蝕み続ける黒い影。
「…………?」
当惑する蓮子の顔に、おぞましい蛇がぬらりとまとわりつくその瞬間が、見えた。
「やめて!」
蓮子を汚さないで――叫ぶと同時に、私は彼女の頬を勢いよく叩いていた。信じられないことをしている自分に次の瞬間には気づき、私は震える声で謝罪の言葉を口にする。
「ご、ごめんなさい……あの、蓮子……」
そのとき、目をいっぱいに見開いてこちらを見つめた蓮子の顔を、私は一生忘れることができないと思う。
怯え。
一言で言えばそう。突然手をあげた私に対する怯えと不審が一体になった蓮子の表情に、私の胸は張り裂けそうになった。
こんな顔をさせるつもりはなかった。
私はどんなときも、蓮子を笑わせる存在でありたかった。
けれど、いま、私に向けられた感情の名は恐怖。死を司る黒い境界に首から上を犯されながら、なぶられながら、そのことにはつゆほども気づかずに、宇佐見蓮子は私を疑いつづけている。
耐えられなくなって、私は蓮子に背を向けた。
そのまま部屋を飛び出し、短い廊下を抜け、靴もろくに履かないで外に駆け出す。
「メリー!」
蓮子の叫びが耳に届く。愛しいはずだったその声から、いま私は逃げている。蓮子を覆う死の定めからは、どうあっても逃れられないとわかっているのに。目的もなく走ったとして、いったいどうなるというんだろう――内心の諦めとは裏腹に、私の足は止まらなかった。もしかしたらどうにかなるかもしれないという期待を、私はどこともつかぬ虚空に――あるいは幻想に――投げかけているのかもしれなかった。
冷たい夜風を受けて私は走り、通路を階段に向かって駆け抜け、その端に至ったところでひとつの影に道を塞がれた。
「待って!」
私の横から回り込み、両手を広げて進路を封じたのはほかでもない、蓮子だった。息は上がっているけれど、そこにさっきまでの恐怖の表情はない。
「メリー……いったいなにを見たの」
聡明な彼女には、私が「なにか」を見たということがわかっているようだった。けれどいまそれを話しても、もうどうにもならないということに変わりはない。蓮子の顔と首には相変わらずあの黒い影が這い回り、私の身体にはそれがない。私と蓮子の間で、いまはそれだけが変わることのない事実。
「もう嫌……私、こんな目を持って生まれなきゃよかった」
「……私にはメリーの見たものがわからない。だから教えてほしいの。ねえ、メリー」
首を振って、私はそれを拒否する。
「そこを通して、蓮子。もしかしたら、逃げられるかもしれないから」
蓮子は、上げた両手を下ろそうとはしなかった。
「なら私も連れていって。死ぬのも一緒って決めたの。私だけ置いてけぼりなんて嫌」
「駄目よ」
「どうして」
「だって、蓮子は……」
そのとき、ふと見やった蓮子の背後に、一切の足場がないことを私は発見する。
「っ! 蓮子、危ない……」
蓮子が立ち塞がったその場所は、一階へと続く階段のふちだった。そのことに彼女は気づいているのだろうか。あるいは気づいていたとしてもこのままでは――、
蓮子にそれを伝えるよりも、手を伸ばす方が早いと私は思った。思うが早いか、私は蓮子に右手を差し伸べ、
それを、暴力のひとつだと蓮子は思ったのかもしれない。
あるいはあのとき蓮子の頬を叩いていなければ、彼女はなにも反応を示さなかったのかもしれない。
けれどもうなにもかもが遅かった。私が伸ばした右手に、蓮子は反射的に一歩、後ずさってしまった。
「あ……」
乾いた声が、古びたアパートの通路に響いた。
蓮子の身体がぐらりと後ろに傾く。支えを失い、背中からよろめき、そのまま遥か階下の地上へと落ちていく。
蓮子はあっけに取られた顔で、なにが起きたかわからないという表情で、それでも私に両手を伸ばしていた。
私はその手に、その身体に触れることすらできず、落ちゆく蓮子に悲鳴を投げていた。
命の終わりは、いままで見たどんな夢よりも鮮明に私の視界に焼きついた。
蓮子の身体が叩きつけられる瞬間、彼女の首から黒い模様がするりと伸びて空中へと逃げた。
それは、私の勘違いではなかったと思う。
黒い模様と同時に、はっきりと見た。
空を舞う黒い線――逃れがたい死の境界を、初めて見たもののように目で追う蓮子と、
死の間際、一瞬の理解のあとに彼女が見せた、果てしない絶望の表情を。




