お兄ちゃんを探す冒険
過去作です。
アクセスありがとうございます。
雰囲気とかですます文体とか、そういうところを楽しんでいただければ幸い。
☆
それは、友人の茜ちゃんと教室でお昼ご飯を食べているときのことでした。
「妹萌えってのはブームじゃないのよ。それはすでにセオリー、もしくは一つのジャンル体系を形成しているから古いとかマンネリとかじゃないのよね。わかる?」
いきなりなにを言い出すんだろうこの人。
私はそう思いました。同意を求められても、話がさっぱり見えません。
「茜ちゃんは妹萌えなの?」
お弁当の玉子焼きを飲み込み、私はそう聞き返します。だしがきいていて優しい味でした。
「なんであたしが妹萌えなのよ。そりゃ妹は妹で、実際にいたら可愛いと思うけど。そうじゃないの、妹ってことは、兄か姉がいることが前提よね?」
この話はまだ続くようです。私の受け答えが悪かったのでしょうか。
「う、うん多分」
「そこよ。妹ってのは単体では成立しえない概念なのに、主観者である兄や姉に焦点が当たってないのは一面的な見方だと思うわ。たいていの場合、兄から見た妹なわけでしょ?」
私は頭の中が真っ白になる感覚を覚えながらも、必死に茜ちゃんの言葉を咀嚼します。
たしかに妹と言うのは、兄か姉がいるから妹です。
そして、萌えと言う観点から見た妹は多くの場合、兄との関係において成立しているようです。
「確かにそうだと思う。茜ちゃんすごいね。そんなところに目をつけるなんて」
適当に同意してこの話題をやり過ごそうと思いました。
だって、なんの話かまったくわからないのですから。
「レナ、この程度は誰でも考えることなのよ。あたしはここから先を考えるの」
誰でも考える、なんて言われても。少なくとも私は考えません。
そんな私の困惑をよそに、茜ちゃんは力強く言い切りました。
「あたしは兄萌えを追求するわっ。理想のお兄ちゃんキャラを見つけるのよ! 協力してくれるわよね、レナ?」
「え? ああ、う、うん」
どうして承諾してしまったのでしょうか。
お弁当がいつにも増して美味しかったせいで、茜ちゃんの話に集中できなかったことも原因の一つでしょう。
なんにしても、流されやすい自分の性格を恨まざるを得ません。
☆
「じゃあ、レナも探して来て! 理想のお兄ちゃんを作る方法!」
そう言って茜ちゃんは、授業が終わるなり図書館に走って行きました。
図書館でなにがわかるのでしょうか? 彼女の行動はいつでも無軌道で理解が及びません。
探せと言われてもなにをしていいのかわからない私は、とりあえず家に帰りました。
わからないことはインターネットの検索エンジンで調べるに限ります。
よくよく考えると、茜ちゃんにとっての理想がなんのかを聞いていませんでした。
結局私は、家にあるパソコンでジョニー・デップやブラッド・ピットが若かったころの画像ばかり漁っていました。
こんなお兄ちゃんがいたらいいなあ、なんてうっとりしながら。茜ちゃんもわかってくれると思います。
☆
「茜ちゃん、ギルバート・グレイプは名作だよ……」
翌日の朝、私は寝不足の目をこすりながら茜ちゃんと学校に向かっていました。
ジョニー・デップにすっかりはまってしまい、ツタヤへ行って主演映画を借りて来たのです。
デップがディカプリオのお兄ちゃん役を演じているヒューマンドラマでした。
いまだ感動の余韻から覚めません。
「なにそれ? ところで例のお兄ちゃん計画、今日の放課後から動くからね。善は急げよ」
例の、と言われても事情がよくわかりません。
まさかこの人、本当に何らかの手段でお兄ちゃんを作るか手に入れるかするつもりでしょうか。
犯罪に足を踏み入れないことを祈ります。
「動くって、いったいなにをするの? まさかそれっぽい人を拉致監禁とか……」
「物騒なこと言わないでよ。とりあえずこれを書いておいて」
一枚の紙を渡されました。
それは履歴書のような形式で、プロフィール項目を書き込む欄がびっしりと並んでいます。
「理想のお兄ちゃんについて、空欄を埋めなさい」
見出しにはそう記されています。
パソコンのエクセルか何かで作られた、きちんとした書式でした。
他にすることがないのでしょうかこの人は。
「これを書いておけばいいのね。私はやっぱり優しくてかっこいいお兄ちゃんがいいなあ」
流されて乗ってしまう私も、やはり暇人なのでしょう。
「ふふ、甘いわねレナ。そんなありきたりなイイ男だと、真のお兄ちゃんには程遠いわ」
わからない。高校入学から一年半の付き合いになるけど、この人の言っていることはしょっちゅうわからない。
それでも私は言われるまま、授業の合間を縫って渡された紙に理想のお兄ちゃんの条件を書き連ねていました。
ジョニー・デップは高望み過ぎるので、見た目は普通でも優しくて面白い人がいいです。
項目が埋まっていくにつれ、単なる妄想なのに何故だかドキドキしている自分がいます。
☆
「お、書きあがってるじゃない。見せて見せてっ」
授業が終わったあと、私の手から用紙をひったくる茜ちゃん。
「うんうん、しっかり埋めてくれたわね。イメージってのはリアルに思い描けば思い描くほど実現に近付くのよ。じゃ、これをもとに早速準備にとりかかろ」
そう言って茜ちゃんはペタペタと上履きを鳴らして外へ駆けて行きました。
私は足が遅いので、見失わないようにするのに必死です。
校舎から離れて少しの場所にある公園に私たちは着きました。
遊んでいる子供たちを遠巻きに、私と茜ちゃんは何故か植え込みの陰に隠れています。
「ねえ茜ちゃん、なんで隠れるの?」
「馬鹿ねレナ、これからやる儀式を誰かに見られないようによ。あたしが寝ないで必死に調べたり考えたりしたんだから、他の誰かにパクられたら困るじゃない」
この広い世界で、誰が私たちのような小さな存在に興味を持つのでしょう。
そう疑問に思いながら茜ちゃんの行動を見ていると、先ほどの紙を裏返して、赤ペンでなにやら書いています。
丸の中に上下を向いた三角形が二つ。六ぼう星というのでしょうか。
「そのマークにはなんの意味があるの?」
「やっぱり願いをかなえるマークといえばコレでしょ。もう、この世のものとは思えないものがわんさか出てくるわよ。すごいんだから」
理想のお兄ちゃんはどこに行ったのでしょうか。
さっきから私は疑問ばかりです。茜ちゃんと一緒にいるときはいつもなんですけどね。
「なむみょーほーれん、ホニャララ弥陀仏、はらそーぎゃーてー、ボジソワカ。素敵なお兄ちゃんを、いやむしろ、ぷりちーなお兄ちゃんを我に与えたまえ! アーメン」
ダビデの星が書かれた理想のお兄ちゃんメモを手にし、小声でありながら力強く念じる茜ちゃん。
その瞳は爛々と輝き、真剣そのものです。
「なにをボーっとしてるのよ。レナもはやくっ。日が落ちると効果がないんだからね」
「そ、そういうルールなんだ。ええと、私にも素敵ななお兄ちゃんを」
「違う! ぷりちーなお兄ちゃん! これ重要!」
「ご、ごめんね。ぷりちーなお兄ちゃんをください。神さま仏さまミシャクジさま」
私が願い終えたのを見て、茜ちゃんは満足そうにうなずいています。
そして、二枚のお兄ちゃんメモを小さく折り畳み、植え込みの根元に埋めてしまいました。
「あ、ずるいよ茜ちゃん。私、茜ちゃんの理想のお兄ちゃんがどんなのか見てない」
「ふふふ、秘密よ。さあ儀式は終わったわ。いよいよ原口茜プロデュースによる、ぷりちーお兄ちゃん大作戦の本格始動ね! 今年の夏は暑くなるわよ!」
そのネーミングセンスはどうかと思います。でも来週からは夏休み。
いまいち茜ちゃんがなにをしたいのかはわかりませんけど、とりあえず退屈しないで済みそうです。
☆
家に帰った私は、この夜もツタヤから借りてきた映画を見ていました。
お母さんは仕事で帰りが遅く、音のない家に一人でいるのは寂しいものです。
死んだお父さんは、かっこよくはなかったけど優しくて面白い人でした。
家の中はいつもにぎやかで、夕食時にテレビをつけていなくてもお茶の間では誰かが笑っていました。
だから今でも私はテレビをあまりつけません。
代わりにパソコンでネットをしたりDVDを見たりする習慣がつきました。
茜ちゃんに渡された紙には、お父さんの面影を思い出して書いてしまった部分がたくさんあったように思います。見られちゃって恥ずかしいな。
「ただいまー。ごめんね遅くなって。ちょっとだけ知り合いと会ってたから。あ、ジョニー・デップの『フェイク』じゃない。お母さんも好きよ、その映画」
お母さんが帰ってきました。ほんのりとお酒の香りがします。
お父さんが死んでから五年以上。お母さんに恋人ができても不思議ではありません。
でもお母さんはあまりそういう話をしません。私に遠慮しているのでしょうか。
私ももう子供ではないつもりなので、それなりに聞き分けるつもりではいるんですけど。
☆
「さあ、夏休みになったわよレナ! 高校二年の夏休みと書いて青春のピークと読む! その心はわかるわね?」
一学期の終業日、茜ちゃんのテンションはマックスになっています。なんだか小学生みたいです。
休みの最終日にどれだけの憂鬱が彼女を襲っているのか、今から楽しみで仕方がありません。
「来年は受験だし、さすがにあんまり遊び呆けてれらないよね」
「そう、私たちも永遠に光り輝く乙女ではいられないの。花はいつか枯れるからこそ、咲き誇る美しさ、その一瞬に価値があるのよ。ここが勝負どころなのよ!」
その理屈だと、どうやら明日になるのを待たずに私たちは海に行かなければならないようです。
確かに今日の授業は午前中で終わっているので、これから列車に乗れば遊泳場に着いてからもゆっくり遊べますけど。
「そんなに気合入れて、ナンパでもするつもり? 私、そういうの経験ないから、ちょっと緊張するなあ」
「なに言ってるのよ、理想のお兄ちゃんを探すんじゃない。ナンパなんて低俗な庶民の遊びとはわけが違うのよ。こっちは萌えを科学してなおかつ実践で検証する崇高な目的があるのよ」
「あー、それまだ続いてたんだ。てっきり忘れてた」
それのどこがどうナンパと違うのだろう。私はそう思います。
☆
だって海に着いて水着に着替えた茜ちゃんは、いつの間にか見知らぬ男の子に声をかけていたのですから。
「ねえねえちょっとそこの君、アンケートに答えてくれるかしら?」
「俺? いいけど、なに?」
赤い三角ビキニの美少女がいきなり話しかけてきて、男の子は微妙ににやけています。
若いっていいですね。
「黄忠と張遼だったらどっちが強いと思う? この二人って確か戦ってないのよねー」
いきなりそんな事を言われた相手は、当然のように面食らった顔をしていました。
私も同じ顔をしていたことでしょう。
ビーチの真ん中で見知らぬ可愛い女の子が三国志ネタを振ってくるなんて、想定の範囲外に違いありません。
「えと、ごめん、なんだって?」
「だから、蜀の黄忠と魏の張遼よ。実績も存在感も十分なこの二人が同じ兵力で野戦をしたらどっちが勝つのかなって話。私は六対四で張遼が有利かなと思うんだけどねー」
「ちょ、ちょっと難しくてわかんないな。じゃあ、連れがあっちで待ってるから……」
当然のように、あっさり逃げられてしまいました。
「残念だったね、茜ちゃん。ちょっとマニアックすぎたと思うよ」
「そんなことないわよ。二人とも三国志の武将では超メジャーじゃない。それくらい即答できないようじゃ、ぷりちーお兄ちゃんには程遠いわね」
茜ちゃんが思い描く理想のお兄ちゃんは、少なくとも三国志マニアでなくてはならないようです。
私はたまたま、図書館にある漫画や小説版を読んで知っていましたけど。
それでもどっちが強いかを即答するのは難しそうですね。
私たちは売店で買ったかき氷を食べながら、浜辺に座ってお兄ちゃん探しを続けます。
よく晴れた夏の始まり。
真っ青な空と海を目の前にして、白雪のようにきめ細かい氷のシャーベットを口に運ぶ。
甘いシロップが解けた氷と混ざり合って、口の中をさわやかな空気が満たします。
ああ、幸せ。
水平線にもこもことそびえ立つ入道雲までが美味しそうです。
「ねえ、レナ。あっちに座って焼きそば食べてる男を見てよ、結構いい感じじゃない?」
この人、本当にお兄ちゃん探しに来てるんでしょうか。
今の台詞、誰がどう聞いても色気を出して男あさりに来た暇な女の子としか思えないんですけど。
茜ちゃんが指す方向を見ると、ビニールシートに座って食事をとっている若い男の人がいます。
背が高くてしっかりとした体つきをした、中々のいい男。
「ねえ茜ちゃん、あの人、焼きそばを一分くらいで食べ終わっちゃったよ」
「さっきからそうなのよ。あたしが見ているちょっとの間に、サザエのつぼ焼きを二つと、ジャンボフランクフルトを一つと、焼き鳥を何本か食べてるの。ぷりちーお兄ちゃんの条件その七『なにも考えてなさそうにメシをガツガツ食べる』を見事に満たしてるじゃない」
そんな条件がリストに記されていたんだ。茜ちゃんが書いたのも見ればよかったな。
「ねえ、さっきはあたしが失敗したから、次はレナの番よ。あの男を見事、お兄ちゃん予備軍として捕獲してきて!」
「私なんかじゃ無理だよ。茜ちゃんのビキニ姿で悩殺したほうが確実だと思う。変なことしゃべらなければ茜ちゃんは最高の素材だよ」
「なにげに失礼なこと言われてる気がするけど、まあいいわ。大丈夫、レナには極上のもち肌と、深い深い胸の谷間があるでしょ!」
お兄ちゃん捕獲作戦とどんどん離れていく予感を覚えながら、結局私はその男性のところへ向かいました。
少し距離を置いて、茜ちゃんが見守ってくれています。
☆
「あのう、すみません。私のお兄ちゃんになっていただけないでしょうか」
私は茜ちゃんの指示通りに、若干前かがみの姿勢で胸の谷間を強調しながら、座って食事をとっている男の人にお願いしました。
その人は少し驚いたように目を見開いて、かじっていたウーロン茶の氷をごくりと飲み干します。
上下に動いた喉仏に男の色気を感じました。
「いきなりなんだいアンタ。新手のキャッチセールスか」
「いえ、そんなことはありません。とってもお得なお話です。あなたにはなんのリスクもなく、ぴちぴちの可愛い女子高生が二人も妹になる。こんなチャンスは見逃せませんよ」
相手からの生ぬるい視線を感じます。
どう考えても怪しい人です、今の私。
「そいつは夢のある話だけど、遠慮しとくよ。今、彼女がトイレに行ってるからさ。戻ってきたら面倒だし。他を当たってくれ」
よく見ると、その人の背中の陰には女物のスポーツバッグが置かれていました。
ああ、やはりいい男には先約があるのですね。
私があきらめてその場を去ろうと思ったとき、後ろから茜ちゃんが割り込んできました。
「レナ、調子はどう? 住所氏名年齢電話番号及び賞罰歴くらいは聞き出せた?」
「茜ちゃん、この人は彼女と一緒に来てるからダメだって。しかたないよね」
「別にそんなのどうでもいいわよ。あたしたちはナンパしてるわけじゃないんだし……あれ、この男どっかで見た記憶があるわね。もしかして西高の生徒じゃない?」
西高は私たちが通っている学校です。
そう言われてよく見てみると、確かに見覚えがある気がします。
制服姿ではないので遠目ではわかりませんでした。
「ああそうだよ。西高一年の……って、やべ! 彼女来た! マジで誤解されるから向こう行ってくれアンタら!」
☆
追い払われた私たちは、海面を漂ったり泳いだり、やっと海らしい遊びに突入しています。
「まさか年下だなんて思わなかったわ。どうにもならないじゃない。高一のくせに、無駄に身体がデカすぎなのよ。しかも彼女連れて海に来るなんて生意気な。地獄に落ちろってのよ」
スポーツ万能だけどなぜか泳ぎだけは苦手な茜ちゃんは、ジャンボ浮き輪装備でのんびりと浮かんでいます。
パチパチと水面を叩くしぐさが可愛いです。
「弟じゃダメなんだ? 年下の男の子はそれで可愛いと思うけどなあ」
「年下がぷりちーなのは当たり前なのよ。そんなところに萌えの開拓はありえないの。年上なのに子供っぽくてバカでドジでちょっとスケベで頼りない、そんなお兄ちゃんが萌えるんじゃない」
なんだか、茜ちゃんの好みがわかってきた気がします。
いかにも男の子っぽい、少年性を持った人がいいのでしょう。
三国志とか大食いとかはその一例なんですね。
茜ちゃんのエネルギーに負けないような、そして同レベルでおバカを張り合えるような、そんな楽しいお兄ちゃん。
家にいたら、楽しいだろうな。帰っても寂しい思いをしなくてすむだろうな……。
あ、なんかちょっと暗くなっちゃいました。
そんなことを考えていると、空の明るさも減退してきました。
夕方が近づいていることと、さっきまではるか向こうに見えていた入道雲が、心なしか大きく迫ってきていることが原因でしょうか。
結局私たちは、なんの収穫もないままビーチをあとにしました。
風も出てきたので、あまり長居していると身体が冷えてしまいます。
「なんか雲行きが怪しくなってきたわね。って、降り始めたじゃないの! 降水確率10%って言うから海に来たってのに、天気予報の役立たず!」
電車の窓から空を睨んでいる茜ちゃん。ポツリポツリと、雨のしずくが窓ガラスにぶつかります。
お兄ちゃん探しの成果はなかったのに、そのことはあまり気にしていないようです。
ただ単に海に来たかっただけなのでしょうか。
「遊んでるときに降られなくてよかったね。でもあんまり大雨にならないでほしいなあ。駅まで自転車で来たし……」
そんな私の願いもむなしく、雨はどんどん強くなっていきます。
電車を降りたころにはすっかり、どしゃぶりと言っていい勢いです。
雷雲が引っ張ってきたにわか雨であることを祈ります。
「茜ちゃん、私ちょっと雨宿りしてから帰るよ。止みそうになかったらバスに乗っちゃうし。悪いから先に帰ってくれていいよ」
「なに言ってるのよ、ここの駅前は微妙に民度が低くて危ないんだから。レナみたいなポーっとした女の子を一人きりになんてできないわ」
茜ちゃんに言われてはおしまいだと思いました。
「あたしのうち、すぐ近くのマンションだから寄って行きなさい。雨が止まなかったらオヤジの車で送ってもらうし、なんなら泊まってってもいいから」
あかねちゃんの家にお呼ばれされてしまいました。
助かったことは確かなので、雨宿りとしてその言葉に甘えることにしました。
☆
茜ちゃんの家は本当にすぐ近くでした。
駅前から歩いて二分もかからない場所の分譲マンション、立地も建物自体もとてもいい物件です。
一年生の頃から付き合いを続けているのに、こんなところに住んでいるのは知りませんでした。
「あれ、電気がついてる。オヤジが帰って来てるのかな。お姫さまのお帰りだよー。別の国からお姫さまをもう一人さらってきたよー。ジュースとお菓子を用意しやがれー」
なんという横暴なお姫さまでしょう。国民が不憫でなりません。付近の治安も乱れると言うものです。いずれ革命が起きるに違いありませんね。
茜ちゃんの呼び声に反応して、一人の男の人が玄関で出迎えてくれました。お父さんでしょうか。
背格好は中肉中背、しょうゆ顔の典型的な日本人男性。落ち着いた雰囲気の人です。
でも、なにかおかしいです。とっても普通の人に見えるのに、確実におかしいです。
「お帰り、友だち連れて来たのか。ひょっとしてきみがレナちゃんかな。いつも茜と仲良くしてくれてありがとう。こいつ、高校に入ってからレナちゃんのことばっかり話してるからさ」
それは嬉しくもあり、恥ずかしくもあります。いやそれよりも。
「こ、こんにちは、お邪魔します。茜ちゃんのお父さんですか?」
この人どう見ても、二十歳前後にしか見えないんですけど。
「ははは、オヤジはまだ帰って来てないよ。茜が言うとおり、面白い子だね」
笑われてしまいました。
「オヤジ、今日も遅いのかな? どこをほっつき歩いてんのかしら、あの不良中年。レナ、ゲームでもして待ってようよ。アクションゲームばっかりだけど、簡単なのもあるから」
男の人は茶の間に戻って行きました。
カチャカチャという食器の音が聞こえます。ジュースを用意してくれているのでしょうか。
「え、う、うん。ねえ茜ちゃん、今の人は茜ちゃんの旦那さん?」
「はあ? ちょっとレナ、気持ち悪いこと言わないでよ。アニキに決まってるじゃないの」
今明かされる衝撃の事実!
茜ちゃんには、お兄ちゃんがいたのです!
☆
半ば自失した状態で、私は茜ちゃんの部屋にいます。
目の前にはバニラアイスとジンジャーエール、そして数種類のスナック菓子。
「ジンジャーフロートを考えた人は天才だと思うわ」
茜ちゃんはためらうことなく、アイスをジュースの中にインしました。
「私は、別々のほうがいいかな……それよりも茜ちゃん、お兄ちゃんがいたんだね」
アイスの味もジュースの味も、なんだかよくわかりません。
それ以上に、茜ちゃんがよくわかりません。
「あれはアニキであって、お兄ちゃんとは別の生き物よ。ましてやぷりちーとは程遠い存在だわ。もっとダメなオーラを滲み出してくれないと」
「ダメなオーラが少ないなら、それで十分だと思うんだけど……」
私が遊びに来ているのは突然の事態です。それでも今こうしてアイスを食べている。
ひょっとするとこれ、お兄ちゃんの分だったのではないでしょうか。
確かに茜ちゃんのお兄ちゃんは、一見して目立つようなタイプではありません。
でも第一印象はとてもいいです。落ち着いていて優しそうで。
「まあそもそも、血のつながった兄弟に萌えなんて必要ないし、なによりそんなこと言ってたら気持ち悪いじゃない」
「いや、それなら兄萌えがどうのこうのって時点で、根本的に間違ってると思うよ。別方向で萌えを模索しようよ」
ああ、なんでしょうこの不毛な議論。そしてこの胸に押し寄せる空虚な気持ちは。
理想のお兄ちゃんキャラを探そう。
それはそれで、私は楽しんでいたのです。
ジョニー・デップにうっとりしたり、空想のお兄ちゃんに焦がれたり、ナンパもどきの捕獲作戦にドキドキしたり。
やはり思春期の女の子ですから、魅力的な男の人についてああでもない、こうでもないと女同士で話し合う、それだけで十分楽しかった。
それは茜ちゃんも同じ気持ちなんだろうな、そう思っていたのです。
でも茜ちゃんにはちゃんとしたお兄ちゃんがいて。
それはただの、ないものねだりでしかなくて。
いえ、隣の芝生が青く見えているだけで。
「茜ちゃんは、贅沢だよ。家に帰ったら、ただいまお兄ちゃん、って言える相手がいるのに」
「うーん、小学生のときからアニキって呼んでたからね。今更って感じもするし」
「私なんて家に帰ってもお母さん、帰りが遅くて。最近本当に、家にお兄ちゃんがいたらなあって、思うようになって。晩ご飯も一人で、もそもそ食べなくてもいいのにって。き、きっと茜ちゃんもそうなんだろうなって、勝手に、勝手に勘違いしちゃって……」
あれ、なんだろう。声が、身体がなんか震えて上手くしゃべれなくなっています。
私、泣いてるんでしょうか?
コップを握っている手に、涙らしきものが落ちてしまいました。
「ちょ、ちょっとレナ、どうしたの急に?」
「萌えなんてなくても、お兄ちゃんって呼んで、いっぱい仲良くして、いっぱい甘えて、それでいいじゃない……わ、私、一人っ子だし、お父さんも死んじゃったし、お母さん仕事で忙しいし、甘えたくても甘える相手なんか、家に帰っても、誰も……うっ、ううっ」
ああ、ダメですね。
茜ちゃんの遊びに付き合って、ぷりちーなお兄ちゃん萌え萌えとか言っているうちに、私のほうが本当にお兄ちゃんが欲しくなっていたんです。
茜ちゃんは、あくまでも遊びだったのでしょう。
そりゃそうですよね。
でも私はいつの間にか、自分の寂しさを知ってしまったんです。
いつも明るい彼女や、優しそうなお兄ちゃん。
きっとこの家は毎日笑いが絶えなくて、楽しいんです。それがうらやましくて……。
「ごめんね、茜ちゃんごめんね、私、今日なんか変だよね。疲れてるのかな?」
堰を切ったように、私の目からは涙がとめどなく溢れて行きます。
そう、私は疲れているのでしょう。
茜ちゃんと遊んでいるときの楽しさ、家に帰ったときの寂しさ。
その落差が最近どんどん強くなり、知らず知らずにいろいろなものが鬱積していたのです。
それがこんなタイミングで決壊してしまった。
茜ちゃんは私の欲しいものを持っているのに贅沢を言っている、そんな些細な嫉妬が引き金になってしまうなんて、すごく醜いことです。
でも、そんな自分を思うと余計に涙が後から後から流れてくるのです。
「せっかく、はじめて茜ちゃんの家に遊びに来たのにごめんね。私、いやな子だよね。も、もう帰るから、本当にごめんね」
立ち上がって部屋を出ようとした私。その体を茜ちゃんが力いっぱい抱きしめて止めようとします。
そのとき私は、彼女の身体もなぜか震えていることに気づきました。
「ば、バカっ! そんな状態で帰せるわけないじゃないの! それに、悪いのはあたしじゃない、レナにお父さんがいないのは知ってたのに、あたしが無神経だったから……ごめんねえ、レナ、本当にごめんねえ。だから泣かないでよ、レナに泣かれるとあたし、どうして良いかわかんないんだもん……」
茜ちゃんも、私につられて泣き始めてしまいました。
私たちが抱き合ったまま、なにも言えず泣き続けていると、部屋の扉をノックする音が聞こえました。
茜ちゃんのお兄ちゃんでしょう。
「茜、レナちゃんもちょっといいかな」
「な、なによバカアニキ! 今それどころじゃないのよ! 空気読みなさいよ!」
ドア越しに茜ちゃんの怒声が放たれます。
なんだか申し訳ない気分です。お兄ちゃんは悪くないのに。
「あ、取り込み中か。さっきオヤジから、帰りが遅くなるんで先にメシ食ってろって電話あったからさ。出前とろうと思うんだけど、せっかくだからレナちゃんもと思って」
間がいいのか悪いのか、その話を聞いて私のお腹がクウウと切ない音を鳴らしてしまいました。
恥ずかしくて顔から火が出そうです。
お兄ちゃんに水を差されてしまい、私たちの涙はいつしか止まっています。
かぴかぴになったお互いの顔を見合わせて、なぜだか無性におかしくなり、二人で盛大に笑いました。
☆
「ここのラーメン、娘さんが新しく別の店を始めたって聞いたけどまだ行ったことないな」
「そうなんだ。レナ、次は出前じゃなくてその娘さんの店の方に食べに行きましょ。アニキが奢るから」
兄と妹の会話。そこに私もいる。そんな光景。
私たちは三人でラーメンを食べています。
現金なもので、美味しいラーメンを食べているうちにすっかり元気が戻ってきました。
思いっきり泣いたことでストレス解消になったのかもしれません。
「い、いいんですか、奢ってもらっちゃって」
「別にラーメンくらい構わないよ。とにかく元気になってくれてよかった」
泣き腫らした目で部屋から私たちが出てきたときは、茜ちゃんのお兄ちゃんも驚いた顔をしていました。
それでも元気にご飯を食べている姿を見て安心してくれたようで、優しげな微笑を浮かべながら私たちのやり取りに耳を傾けています。
「ねえアニキ、オヤジさあ、どっかで飲んでるのかな? だったらレナを車で送れないよね」
「ああ、なんか酔ってるみたいだったな。レナちゃん、帰りはどうするんだい」
「あ、バスがあるから、それで帰ります」
まだまだ外はどしゃぶりの有様です。駅に停めておいた自転車は明日にでも取りに来ることにしましょう。
「もうこの際だから泊まって行きなよレナ。夏休み初日から遊び倒すんだっていう、いい景気付けになるわ。対戦ゲームの協力プレイでアニキをボコりまくろっ」
「おいおい、茜とサシでやったって勝てないのに、二人がかりなんて絶望的じゃないか。俺が買ったゲームなのに、なんでお前のほうが上手いんだかな」
この二人と夜を明かしてゲーム三昧。それは確かに魅力的です。
ついつい誘惑に負けてしまいそうになります。それでも突然の外泊は我が家のルールではNGなのです。
「夜には帰るって書置きしちゃったから……うん、今度泊まりに来るね。茜ちゃんも、いつかうちに泊まりに来てよ。ジョニー・デップ祭りで徹夜しよう」
「ちぇ。アニキがさっさと車の免許とればいいのよ。そうすれば近場のしけた海なんかじゃなく、富士山麓の樹海ツアーにでも繰り出すのに。レナなんて霊感強そうだから、きっと愉快な連中をたくさん連れて帰ってきちゃうわね」
「茜はたまに金縛りにでもあったほうがいいな、少しは大人しくなるぞ」
思わず笑ってしまいました。さすが、茜ちゃんの家族なだけあって上手い切り返しです。
ああ、やっぱりいいなあ。こんな兄妹。
花火のような茜ちゃんと、ろうそくの炎のように穏やかなお兄ちゃん。
うらやましいという気持ちは拭い去れません。
それでも、私がさっきまで持ってしまった、暗い嫉妬は消えています。
茜ちゃんもイヤミでお兄ちゃん探しをしていたわけでなく、ただ面白ければいいやと言う以外になにも考えていないだけなのです。
ときどき茜ちゃんのことがわからなくなるけど、わからないのは当然です。
理屈なんてありはしないのですから。
そして、そんな無軌道な茜ちゃんだからこそ、私は一緒にいて楽しいし、ワクワクするのです。
☆
家に帰った私は海に行った疲れもあって、寂しさを感じる間もなく眠りに着きました。
お母さんは私が寝ている間に帰ってきたようで、お帰りを言えなかったのは悪かったかなと思います。
でも、遊び歩いていたのはお互い様です。仕事でそんなに遅くなることはめったにありませんから。
私が朝起きると、少し遅れてお母さんも起きてきました。
おはようを言って二人で朝ごはんのトーストを食べているときのことです。
お母さんが戸惑いながら、私に質問してきました。
「昨日は茜ちゃんの家に寄ってから帰ったのよね?」
「うん。あ、ラーメンごちそうになっちゃった。出前の。すっごく美味しかったよ」
今思い出してもよだれが出そうです。
「ちゃんと改めてお礼をしないといけないわね。ところでお兄さんもいたんじゃない?」
「いたよ。一緒にラーメン食べた。優しそうなお兄さんだったなあ」
茜ちゃんにお兄ちゃんがいることを、なぜうちのお母さんが知っているのでしょう。
少なくとも私は昨日知ったくらいですから、その話をお母さんにしたことはありません。
「……も、もしレナにそんなお兄さんがいたら、どう思う?」
どうしてそんなことを聞くのでしょう。なにやら怪しい話になってきました。
「どうって言われても……そりゃ、嫌じゃないし、楽しいかなとは思うけど」
「そ、そう。実はねレナ。お母さんと茜ちゃんのお父さん、お付き合いしてるのよ……」
驚天動地!
帰りが遅い日がちょくちょくあると思ったら、大人二人はお互いの子供たちに内緒で逢引きをしていたのです!
☆
「まさかうちのオヤジとレナのお母さんがそんなことになってるとはね……」
後日、いつぞやの公園で私と茜ちゃんは溜息をついています。
私のお母さんと茜ちゃんのお父さんは、再婚を真剣に考えるほど深い仲になっていたようです。
それでもお互いの子供が大きいこと、茜ちゃんと私が実際のクラスメイトだからということから、なかなか言い出せなかったのでしょう。
茜ちゃんは大事なお友達で、そのお兄さんはとても優しくていい人に見えました。
こんな兄妹いいなあ。こんな家族楽しそうだなあと心の底から思いました。
しかし、本当に私の家族になってしまうなんて、誰が想像できるでしょうか。
「茜ちゃんは、イヤ……なのかな?」
おずおずと聞いた私を、茜ちゃんはムッとした顔で睨みます。
「お、怒るわよレナ。あたしがレナと一緒の家族に、姉妹になれることが、イヤなわけないじゃない」
顔を赤くしてぷいとそっぽを向いた茜ちゃんは、地面の石を蹴っ飛ばして言いました。
「嬉しいに、決まってるじゃない。でも子供に隠れて親同士がってのに、なんだか納得がいってないだけよ。レナと一緒に暮らせる、家族になれるのは嬉しいのに、オヤジにはなんか腹が立つの。そんな自分が、よくわかんないのよ……」
珍しく、茜ちゃんが懊悩しています。
私は少しいたずら心が出てしまいました。今なら茜ちゃんより精神的優位に立てる。
誕生日は私の方が早いのです。
親同士が再婚したなら、名目上の長女は私になるのです。
「私は、すごく嬉しいよ茜ちゃん。茜ちゃんが私の妹になるのが」
そう言って茜ちゃんを軽く抱きしめ、そのほっぺたにキスをしました。
「ッ~~~~~~!! たかだか一か月くらいの差なのに、やっぱりあたしが妹になっちゃうのね……」
すごく悔しそうに、恥ずかしそうに顔を真っ赤にして悶々とする茜ちゃんが、とても可愛く、愛おしい。
☆
夕方まで、その公園で二人でおしゃべりして過ごしました。
そうしていると、見覚えのある一人の男性が道を走って行くのが見えます。
作業ズボンにタンクトップ姿の痩せマッチョ。
「アニキじゃない。バイト終ったのかしら」
茜ちゃんのお兄ちゃんでした。
「走って帰ってるんだ……体力あるんだね」
茜ちゃんはお兄ちゃんを呼び寄せて、強引に自販機でジュースを三本買わせました。
ベンチに腰かけて、そろってジュースを飲みます。
これからのこと。わたしたちのこと。
家族に、兄妹になっていくこと。
「こうなったらやっぱり、アレやっておかなきゃダメよね」
「「アレ?」」
茜ちゃんの唐突な発言に、お兄ちゃんと私とが揃って疑問を返します。
「三兄弟の契りなんだから桃園の誓いに決まってるじゃない。まあここは普通の公園だから公園の誓いだけど」
また三国志ですか。
お兄ちゃんと私、呆れるように顔を合わせて笑いました。
「さああたしに続けて盃を掲げるのよ! 我ら三人、生まれし日、時は違えども!」
茜ちゃんに続き、お兄さんが宣誓します。
「兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う」
次は私の番です。オーラスが回ってきました。
普通の女子高生は、三国志演義の桃園の誓いを暗唱できません。
「同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん!!」
でも私はすらすらと言えてしまいました。
これも茜ちゃんとずっと一緒に遊んでいたからでしょう。
私は茜ちゃんと姉妹になることを運命づけられていたのでしょうか。
こうして私たちは、名実ともに本当の兄妹になったのでした。
お兄ちゃんを探して遊んでいたら、本当にお兄ちゃんができてしまった。
茜ちゃんにはいくら感謝しても足りません。
それでも一つだけ残念と言うか、さびしいこともあるのですけど。
それを茜ちゃんやお兄ちゃんに悟られるわけにはいかないので、ずっと私の心にしまっておこうと思います。
素敵な兄妹が新しくできた。
それ以上のことを望んではいけないのです。
兄妹なら兄妹なりの「好き」で十分尊いし、温かいのですから。
完




