エピローグ~猫と四葉のクローバー~
奈々の苦手な季節は冬だ。理由はとても単純なもので、寒がりだから。そこに朝が苦手な事までかかると、冬の朝は大の苦手となる。
季節は十二月下旬。朝は地面が凍結し、積もるまではいかずとも、時たま雪や霙、霰を見るようになった頃、俺は、居間にある炬燵で新聞を読んでいた。左手にはコーンスープが入ったカップを持っていて、新聞に目を通しながらスープを飲み、暖かそうに一息吐くという行動を繰り返している。
ふと壁掛け時計を見ると、時刻は既に午前九時半を回っていた。奈々が冬の朝を苦手としていることは当然知っているが、普段であればそろそろ起きているはずの時間だ。
昨日、零時前に二階の寝室へ行ったところ、奈々の部屋の明かりはまだついていた。もしかしたら珍しく夜更かしでもしたのかもしれない。
とはいえ、特に出掛ける用事があるわけでもないし、学校は昨日から冬休みに入っている。寝かせておこう、と決めて、俺は暖かいスープを少しだけ飲んでから新聞に視線を落とした。
それから三十分ほど経った頃、新聞を読み終わり、ほとんど一週間分録り溜めていたドラマを見ていると、ドダダダダダ、という物凄い勢いで階段を降りる(しかし一段ずつのようだ)音が聞こえ、なんだ? とそちらに顔を向けると同時に、廊下側の襖が勢いよく開いた。
冷たい空気と共に姿を見せたのはパジャマ姿の奈々で、何故か目に涙を溜めている。
「奈々? 小指でもぶつけた?」
階段を降りてきたスピードを考えて問うが、奈々は首を横に振った。
「……寝坊しちゃった」
「は? もしかして、どっか出掛ける用事あった?」
コクコクと頷く奈々。
「あと、小指ぶつけて痛い」
やっぱり小指もぶつけていたらしい。
「何時から?」
「十時半」
「どこで集合?」
「駅」
「うわっちゃー」
思わず額に手を当てる。自宅から最寄りの駅まで自転車だと二十分はかかる上に、支度の時間を考えると、どう楽観的に見ても時間はオーバーする。
「まぁいいや。じゃあ俺が駅まで送るから、奈々は急いで支度しな」
奈々は頷くと、急いで洗面所の方へ走っていった。俺が、空になったカップを流し台に置いてから、自分も着替えようと廊下に出ると、
「……奈々、どうした?」
そこには、洗面所に半分入った状態で片膝をついている奈々の姿があった。両手が左足の小指付近にあることから予想はついたが、一応質問する。
「ま、また小指ぶつけた……」
奈々は、先ほど以上の、もうほとんど泣いていると言ってもいいくらいの涙目で俺を見上げる。隣にしゃがむと、少し赤くなっている左足の小指を見て、
「爪も剥げたりしてないし大丈夫そうだけど、痛みが引かないようだったら言えよ? 足の小指って、普段使う事が少ないから骨折してても分からない場合があるらしいから」
「怖いこと言わないでよー……」
「まぁ、とにかく急ごう。最低でも、そのボサボサの寝癖は直さないとね」
奈々は大きく頷くと、ゆっくり立ち上がって洗面台の前に立った。
俺も自分の支度を進めようと洗面所を出ようとして、何気なく頭に浮かんだ質問をした。
「そう言えば、今日は誰と遊びに? 音々ちゃん?」
「ううんー」と奈々は鏡を見たまま否定して、
「クマ……じゃなくて、黒田先輩と」
「黒田君と? 他には誰が?」
「え? 二人だけだよ?」
「デート?」
「クリスマスデートなのです」
「へぇー」
いつの間に、と思う。そりゃあ、黒田君を煽ったのは自分自身だから、二人が付き合う事に口出しする気はないけども。
「……もしかして、初デート?」
「うぇ!? なんで分かったの!?」
「だから緊張したり、服選んだりして寝れなかったのかと思って」
「うおー。流石、私のお父さん」
俺からすると『流石、俺の娘』と言いたいところだけど、娘に自分の恋愛話を聞かせるような趣味も時間もない。俺はなんとなく笑みを返すと、奈々も同じように笑った。
奈々の支度が終わったのは十時二十分を回ったところで、今から行けば十時半ちょうどか、少しオーバーするくらい。予想よりは早く着くようだ。
早く早くと玄関で足踏みをしている奈々の声を聞きながら、ダイニングテーブルの上に置いてある鍵を取る。
車、家の鍵をまとめているキーホルダーは奈々が今年の誕生日にプレゼントしてくれたもので、四葉のクローバーの形をしたレザー素材の装飾が付いている。
このクローバーが運んできてくれるのは特別な幸せなのか、ありふれた幸せなのか、それとも何か願いを叶えてくれるのか、それは分からない。
でも、もしも、何か願いを叶えてくれるというのなら、
「お父さん、早く!」
「うん。じゃあ行こうか」
俺が願うのは、きっとこの子達の幸せなのだろう。




