三花と犬山
宮原が運転する軽ワゴン車の助手席から窓の外の景色を眺める。後部座席から聞こえてくるのは、同じ大学のバスケサークル仲間である実透三花と、同じくバスケサークル仲間で宮原の彼女でもある鳴海京香の声だ。
九月の半ば。七月や八月のように猛暑とまでは言わないが、残暑というほど日差しが弱ってきたようには感じられない。高架上を走る高速道路から見える青々とした山や田んぼしか見えない景色は、二年ほど前までは見慣れていたものだ。バイトを始めたおかげで、結局、去年は、夏はもちろん、年末年始も帰って来られなかった。もっとも、帰って来たところで何かあるような町ではないのだが、ここよりは遥かに都会な町で生まれ育った実透にとってこんな景色はそれなりに珍しいらしく、先程からはしゃいだ声を上げている。
「ここが俺と犬山の地元だ。だけど、昼飯食うならもう少し街の方に出た方が良いから、とりあえず通り過ぎるぞ? 京香、他の奴と連絡取って、何が食べたいか訊いてみてくれないか?」
「りょーかーい!」
「はーい」
宮原の言葉に、鳴海、実透が返事をする。すぐに、「あ、もしもしー?」という鳴海の声が車内に響いた。俺達が乗っている車の後ろを走る軽自動車には同じく四人の男女が乗っていて、この夏休み小旅行の同行者だ。とはいえ、ここら辺出身なのは俺と宮原だけ。そうなると、やはり俺達が昼食の場所を決めた方が早いだろう。のんびりとドライブしながら決めるには、俺の腹はそろそろ限界に近い。
鳴海が好きらしい女性三人組ロックバンドの曲が流れているカーオーディオを見ると、午後一時を回ったところ。予定通りではあるが、少し遅い昼食となりそうだった。
「ここらへんで有名なものが良いって」
「有名なもの? 犬山、なんかあるか?」
「さぁ。海鮮料理くらい?」
俺はあまり好きではないのだが、今の腹具合なら何でもいい。
「海鮮料理だってー。……うん。うん。やっぱり普通の喫茶店でいいってー。パスタとか食べられるようなとこ」
大学生らしい反応に、俺と宮原、実透も思わず笑った。
「あ! あれもしかして学校? もしかして二人の母校?」
実透の声に反応して窓の外に目を向けると、それは確かに学校だった。
中学校。俺達が卒業した翌年から建て替えが始まり、既に新校舎は建っているがまだ完成はしていないらしく、休日の今日はグラウンドに数台の重機が止まっている。
確かにあれは俺達の母校になる。しかし、おそらくあの敷地内に俺達が知っている場所などほとんど残っていないのだろう。
宮原の肯定の返事を聞きながら、俺はそんな校舎からそっと目を逸らした。
宮原君、犬山君が高校生の頃によく行っていたという喫茶店は一週間前に潰れていた。そのタイミングの悪さに少し気力を失ってしまった私達は「もう何でもいいからご飯食べよう」という京香の言葉に賛同して、近くにあるというマックに向かった。それにしても、高校生の頃から行きつけの喫茶店があるって事は、やっぱり彼女と行ったのかな。犬山君とはそういう話……に限らず、あまり話をする機会が無いからよく分からない。
そう、よく分からないのだ。犬山君の事も、自分の気持ちも。
この小旅行の提案者は、大学に入ってから出来た友達の京香。
『彼氏の事をもっと知りたいのだ!』というのが、京香が口にした表向きの――まぁ嘘ではないんだろうけど――理由。でも、どちらかというと、あとからこっそりと耳打ちしてきた『この機会に犬山君と仲良くなっちゃえ、ひゅーひゅー』という方が目的になりつつあるような気がしている。もっとも、そんな計画を宮原君に話したら、あまり協力的な反応はされなかったらしく、出発前になって『場は整えた! あとは頑張れ!』と投げやりな事を言ってきた。
そんなこと言われても、どうしろと。
「まさか潰れてるとはなー。結構美味かったよな、あそこの店」
苦笑しながら宮原君と会話している犬山君の横顔を見て、ふぅ、と溜息を吐く。
犬山君を始めて見たのは、県のコンベンション施設で行われた大学の入学式だった。この時は本当に見掛けただけ。ただ、歩いている姿とか、パイプ椅子に座っている姿を見て、姿勢が良い人だなぁ、と印象に残っていた。
次に見かけたのは、高校の頃に入っていた女バスの先輩に誘われていて、以前から入部を決めていたバスケサークルの新歓コンパ。
私を含め、半分くらいは未成年なはずだけど、当然のように乾杯から始まり、あっという間に周囲は騒がしくなった。こういう雰囲気が苦手な私は、唯一知り合いである先輩にほとんど隠れる形でチビチビと慣れないビールを飲んでいた。
そんな時に、ふと目に入ったのが犬山君だった。犬山君は、隅の方の席で宮原君と京香と話をしていた。
「あ」
入学式の時の、姿勢が良い人だ。
思わず口からこぼれた小さな言葉を先輩は見逃さず、私の視線を追ってすぐさま、三人に近付き、あっという間に仲良くなってしまった。早くもすっかりできあがっていた京香や、それに便乗した先輩に唇を奪われるなど、様々なハプニングがありながらも、私も二人と顔見知りくらいにはなれた。同じ大学に進んだ知り合いが少なく、そのうえ人見知りするタイプの私にとって、とても嬉しい事だった。
多分、この頃から、先輩と京香の間で、私が犬山君の事を云々っていう誤解……早とちり? うーん。よく分かんない。とにかく、そういう話が生まれていたんだと思う。
それでも、これまでは陰から見守る的なポジションにいた先輩と京香だったけど、今回はこうして行動に移してしまったようだった。一応、京香の目的を知っているのは宮原君だけらしいけど、何となく他の人には勘付かれているんじゃないかと思っている。せめて犬山君だけは気付いてほしくないけど、なかなか難しいかも知れない。
『京香はこっち! 犬山君もね!』
出発前、車に乗るメンバー分けをする際、京香が私の手を引っ張って犬山君に手を振った。あの時、犬山君は不思議そうな顔をしてから、チラリと私を見た。思わず目を逸らしてしまったけど、うん、どう考えても勘付いてしまいそうな状況だった。京香が狙った事なのか、それとも何も考えずにやったことなのかは知らないけど、流石にあの時は恥ずかしさのあまり、京香に一本背負いを決めたくなった。
「何見てるのー?」
その言葉に横を見ると、京香が私を見ながらニヤニヤしていた。
「やっぱり街の方に来ると田んぼとか畑は見かけないんだなーって」
「ふーん?」
怪しむようなにやけ顔をから目を逸らして前を向く。
しばらく走って前方に見慣れた赤い看板が見えた時、ふと犬山君の顔が視界の隅に入り、私は首を傾げた。
いつもの犬山君と何か違う。気がした。
でも何が違うのかは分からず、また京香にからかわれるまで、私は首を傾げっぱなしだった。
休日という事もあって、お昼時は過ぎたというのにマックは混んでいた。それでも二階に上がると空いている席も少しはあって、私達八人は、それぞれ注文した品物が乗ったトレイを持って四人用の席に並んで座った。私は隅の席に座り、向かいには犬山君。隣には京香と宮原君が向かい合って座っている。
「実透、本当にそれだけで足りる?」
私が持っているハンバーガーを見て、犬山君がそう尋ねてきた。
「うん。大丈夫だよ。ハンバーガーって、結構お腹に溜まるし、ポテトもあるし」
ふーん、と言う犬山君の手にはビッグマック、トレイの上にはシャカシャカチキンが乗っている。他には四人で食べようと買ったLサイズのポテトがあるくらい。
「犬山君はそれで足りるの? なんか、男の人ってもっと食べるイメージ……」
「はは。俺の場合は、腹が減りすぎて、あんまり食べると腹壊しそうだから」
苦笑する犬山君の言葉に思わず、ふふ、と笑ってしまう。
「なるほど。そういうわけがありましたか」
「そういうわけがあるんです」
そんなおどけた感じの会話をしてからハンバーガーを口に運んでいると、再び前から視線を感じた。しかし、どうやら犬山君が見ているのは、私ではなく、またハンバーガーのようだった。
「どうかしたの?」
「いや、そういえば、ハンバーガーって今は百二十円もするんだなぁ、って思って。昔は八十円とか、もっと安い時は六十円とかあったのに」
「懐かしいな。六十円って、中学くらいの時だろ?」
犬山君の言葉に反応したのは宮原君だった。マックに初めて行ったのが高校の頃だった私は、二人の会話を聞くことに徹する事を決める。
「ん、……あぁ、そうだな」
しかし、予想外に二人の会話は早く終わってしまった。一見普通の返事だけど、無理矢理会話を打ち切ったように見えたのは気のせいかな。
その時、階段を上ってきた一人の女性と目が合った。少し大人っぽい感じがするけど、多分、私達と同じくらいの年齢だ。私と違って身長はスラッと高く、肩にかかるくらいの黒髪がとても綺麗だった。先輩やああいう人を見ると私も髪を伸ばしてみたくなる。いっつも、なんだかんだで切っちゃうんだけど。身長が無いとロングって似合わないって聞くし……。
思わず見惚れてしまった私から目を逸らした後、その人は犬山君に視線を止めて、
「犬山?」
と、ギリギリ私まで聞こえるくらいの声で呟いた。
その声に犬山君も気が付いたらしく、反射的にそちらに顔を向ける。
「伊藤」
どうやら知り合いみたいだった。まぁ、地元だし、知り合いと会うのは何もおかしくはないのだけど……、美人さんだなぁ。
少し驚きを含んだ犬山君の声に、伊藤さんは男の人みたいに片手を上げて、「よっ」と答えた。カッコいい。姉御って感じだ。
伊藤さんは、続いて階段を上ってきた友人らしき人達に声を掛けてから一人でこちらに向かってきた。
「こんにちは」
犬山君の後ろまで来ると、一礼。私も慌てて言葉に詰まりながらも、何とか返事をした。
「珍しく帰ってきてたんだ」
「ついさっきな」
あ、と気付く。
犬山君と伊藤さんはただの顔見知りとかじゃなく、仲が良いのだと。
「久しぶりだね、宮原君も」
宮原君とも知り合いらしく、挨拶を交わす。それを見て少し慌てた表情をした京香の顔は写真に収めておきたいくらい分かり易かった。
それから伊藤さんは私の方にチラリと視線を向けて、犬山君に「ちょっといい?」と言った。
犬山君は即答すると、「ごめん、ちょっと」と言って席を立つ。
二人が一階へ降りていくのを見届けてから、京香が口を開いた。
「さっきの美人は何者!?」
「伊藤綺音。犬山とは小学校からの付き合いで、家も近所らしい」
聞かれることは予想していたみたいだった。宮原君は即答する。
「幼馴染!?」
「本人は否定してる。別に馴染んでないって」
「でも、犬山君がしばらく実家に帰ってなかった事とか……」
「家が近所だからな。親同士が知り合いとかじゃないか? 伊藤はこの近くの大学に通ってるはずだから、実家通いだろうし」
「な、なんでそんなこと知ってるの!?」
「中学、高校と同じだったからな。犬山といる時に少し話す程度の仲だけど」
「そ、そうなんだ……じゃなくて!」
ホッとした様子の京香だが、すぐに本題を思い出す。私としては、思い出さなくても良かったんだけどなぁ。
「い、犬山君とは?」
「だから幼馴染だっての」
「付き合ってたとかは?」
「絶対にない。高校の頃は、お互いに付き合ってる奴がいたからな」
初耳だった。
「中学の頃は?」
「ないな」
「でも中学の頃はまだ犬山君と仲良くなかったんでしょ?」
「それでも、ない。断言していいぞ」
宮原君の珍しく力強い言葉にようやく安心したらしく、京香は「なぁんだ」と胸を撫で下ろして、私の肩に手を置いた。
そのまま笑みを向けてくるだけで何も言わないが、テレパシーでも使ったかのように
『よかったね』
という言葉が伝わってきた。
今現在、二人が他の人に聞かれたくないらしい内容の話をしていることには気付いていないみたいなので、このまま黙っておくことにした。
昼食を済ませた私達が次に向かったのは、犬山君と宮原君が通っていた高校。
学校棟は二棟あり、それぞれ三階建てで教室棟と特別棟になっている。二階には西渡り廊下と東渡り廊下があって、真上から見ると四角形の校舎。中庭はあるけど、掃除のとき以外は立ち入り禁止。他の建物は体育館と武道場くらい。あとはグラウンド、テニスコートくらい。
「まぁ、とりあえずの説明はこれくらいだけど……」
高校について、校門の前で色々と説明してくれたあと、犬山君は周囲を見回してから苦笑を浮かべて私を見る。
「先に入っておく? しばらく帰って来なさそうだし」
そこにいるのは私と犬山君だけ。
他に六人もいたはずのサークル仲間はというと……。
『なんか渡部が具合悪くなったらしいから、俺ら先に泊まるとこ探して休んどくわ』
と言って四人がいなくなり、ここまで私達と一緒に来た京香と宮原君も、
『うあ! マックに財布忘れた!』
という京香の言葉により、先程まで居たマックに逆戻り。犬山君の丁寧な説明が終わってしまう少し前に『見当たらない! もうちょっとかかる! 先に見学しておいてもいいよ! ふ・た・り・き・り(はぁと)』というメールが着たため、もしかしたらこれも作戦なのかもしれない。
このまま二人でここに立っていても会話が持つ気がしない。それに、困った顔で笑っている犬山君を見て、断れるはずも無く、私は頷く。
「そうだね。そうしよっか」
犬山君も頷き、私達は校門を通って高校の敷地内に入る。午後から練習している部活動は無いのか、グラウンドには人っ子一人いなかった。
教員玄関の横にある受付で学校見学の許可をもらって(来ることは予定していたので、あらかじめ連絡していたらしい)から、来客用スリッパを履いて校内に入る。
校内に入るなり辺りを見回す犬山君に「やっぱり懐かしい?」と訊くと、「うん」と小さく頷いた。
「とりあえず、教室回ってみようか」
廊下の先を指差しながら言う犬山君に頷いて返してから、私達は並んで歩きだす。
「犬山君って何組だったの?」
「一年の時は一組、二年の時は二組、三年の時は三組」
「なんか凄いね。順番通りだ」
「まぁ、四クラスしかないから、そんなに珍しくもないと思うけどね」
笑いながらそんな事を話しているうちに、早速一組についた……けど。
「三年?」
「あー、そうそう。この学校、一階が三年で、二階が二年で、三階が一年なんだ」
「へぇー。なんでだろう? 分かりにくい気がするけど……」
「俺達は『三年の年寄りに階段はきついから』って言ってたよ」
「あはは。本当にそうだったら面白いね」
一組、二組を素通りして、私達は三組に足を踏み入れた。何も書かれていない綺麗な黒板に、一部を除いて中身が無いロッカー。もちろん、机の横に鞄など掛かっていない。
「これで黒板に『卒業』とか書いてあったら、卒業式そのまんまだ」
「書いたら駄目だよ?」
「そりゃ書かないよ」
犬山君が高校最後の年を過ごした教室。ここには、その年には一体、どんな思い出が眠っているのか、なんとなく知りたくなった。
「犬山君の高校三年の頃って何かあった?」
「どうしたの、急に。というか、話すなら一年から順が良いんじゃない?」
犬山君の問いに私は首を横に振って答える。
「教室に着く度に、その年にあった思い出を話すの。面白そうじゃない?」
「実透ってたまに変なこと言いだすよね」
「え、変かな?」
「いや、いいアイデアだと思うよ」
少し慌ててしまった私を見て笑みを浮かべた犬山君は、天井を見上げると思案顔をして「三年の頃かー」と考え始めた。
十秒ほどで考えがまとまったのか、教室の前から後ろの方へ歩き、廊下側、前から四番目の机に右手を付いた。
「俺の高校生活最後の席がここで……」
そのまま顔を後ろに向けて、隣の列の前から六番目――つまりは一番後ろの席を指差した。
私がその席に手をついて、訳も分からぬまま「ここ?」と訊くと、犬山君は頷き、
「そこが、卒業する少し前まで付き合ってた彼女の席だった」と言った。
「彼女……元カノさん」
机を見ながら言うと、犬山君は頷いた。
「三年の頃の思い出って言ったら、その人と別れたって事が一番大きいかな。受験とか、最後の文化祭とか体育祭とか、言おうとすれば色々あるけどね」
「えっと、フラれちゃったの?」
首を横に振る犬山君に「どうして?」と質問を重ねる。なんの理由もなく、恋人を振るような人には見えないから。
でも犬山君は「自分勝手な理由だよ?」と前置きをした。
「俺としても、彼女としても多分、卒業して、遠距離になっても付き合い続ける気でいたんだよ。でも、卒業間近になって、ようやく気付いた。卒業したら俺は今より自由になって、俺の世界はもっと広がるって事に。そうしたら自分は何をしたいかって事に」
「……したい事って?」
「それは内緒。ま、もちろん彼女には泣かれたし、バレー部仕込みのスパイク式振り下ろしビンタを食らって意識が飛びかけたりもした」
思わず笑ってしまった。
「いや、結構マジで痛かったんだよ?」
「う、うん。それは想像出来るんだけど……ぷふっ」
それでも笑いは止まらず、犬山君はずっと困ったように頭を掻いていた。
「それでは思い出を」
二年二組に足を踏み入れた私は、早速振り返って思い出話を催促する。
「案外ノリノリだね、実透」
「うん。サークルの中で謎キャラな犬山君の過去を知るって、なんかすごい得した気分」
「謎キャラなの? 俺」
「気付いてなかったの?」
そう思われていたことがショックだったらしく、「そうなのか……」と落ち込んだ様子で呟く犬山君だったが、すぐに顔を上げて「そうそう、思い出話だったね」と言った。それほど気にしてないのかもしれない。やはり謎だ。
「出来れば元カノさんの話が良いなぁ」
「そう? じゃあ二年の時の思い出は、彼女と同じクラスになって、知り合って、付き合い始めた事かな。さっきマックで会った奴、伊藤っていって小学校から高校まで一緒だったんだけど、彼女は伊藤の友達で、俺のこと色々聞いてたらしい」
「それで付き合い始めた、と」
「うん。そんなところ」
「元カノさんの事は好きだったんだよね?」
「まぁ、そうじゃなきゃ付き合ったりしないよ」
「もしその時、卒業間近になって気付いた事が分かってたら、元カノさんと付き合ってた?」
犬山君は珍しくキョトンとした表情を浮かべてから、俯きがちに苦笑しながら首を振った。
「いや、付き合ってなかっただろうね」
「好きなのに?」
「好きだけど」
犬山君の中では確信を持って言える事らしく、諦めにも似た何かを感じさせる笑みを浮かべると、教室内を見回した。
「俺と彼女の席、どこだったっけ」
「一年の時は、宮原と同じクラスだった」
「…………」
「…………」
一年一組に流れる沈黙。
「……終わり? 二人が仲良くなった理由とか……」
「いや、この思い出を話すのって部室とかでもやるんでしょ?」
頷く。自分の中で、こうなった以上、出来る限り犬山君の事を知りたいという気持ちが少しずつ強くなっているのを感じる。
「だとしたら、その話はその時に取っておきたいんだけど……」
「誰かとの思い出じゃなくて、犬山君がどういう人だったと、今と違ったところとかは?」
「今と違ったところ……」
少し考えて思い付いたらしく、犬山君は「ああ」と顔を上げて、
「姿勢」
と、短く言った。
「シセー? 姿勢って姿勢?」
「そうそう。高校に入る少し前からだけど、姿勢直し始めたんだよ」
「へぇー、そうなんだ。犬山君が姿勢すごく良いのって、もともとだと思ってた」
「いやいや、俺、中学の頃なんて酷かったよ? こう、背中完全に丸くなってて」
猫のように丸めた背中に手を当てながら実演する犬山君。今の彼を知っていると、とてもじゃないが想像出来ない。というか、中学生の犬山君が想像出来ない。
「犬山君ってどんな中学生だったの? 今と同じ感じ?」
そう訊くと、犬山君は困ったように笑った。
「いやいや。大分、生意気な感じの子供だったよ。姿勢も悪かったし、口も悪かったし、協調性の欠片もなかったし」
「ふぅん。まぁ、詳しい事はまた中学校で聞こうかなぁ」
京香の事だから、どうせ犬山君と宮原君が通っていた中学校にも行く事になっているのだろう。あー、楽しみ。
「なんか楽しみを壊すみたいでゴメンけど、中学校には行かないみたいだよ」
「え? そうなの?」
「うん。ほら、さっき見た時に気付いたと思うけど、中学校って今、工事中なんだ。宮原が確認したら、それを理由に断られたらしいよ」
「えー、そうなんだ。じゃあ中学時代の思い出話はなし?」
「そうなるね。俺としては有難いけど。中学の頃なんて、高校の頃以上に大した話なんかないし」
犬山君の携帯が鳴ったのは、一年教室を出て階段を降りているときのことだった。
一階と二階の間にある踊場で足を止めた犬山君は、「宮原か?」と携帯を取り出し、画面を見ると少し眉を潜めた。怪しむというよりは、不思議そうな表情だ。
そんな表情を不思議そうに見ていた私に目を向けた犬山君は、「実家。なんだろ?」と言って電話に出た。
「もしもし?」という声を背中で聞きながら、私は踊場の窓から外を見る。
「あれ?」
駐車場に見覚えのある軽ワゴン車が停まっている。あれは宮原君の車じゃないのかな?
中には誰も乗っていないから確認は出来ないが、先程、あの場所は歩いたので、同じ車があったら気付いていると思う。……うーん。でも少し緊張してたし、気付かなかっただけかも。
「実透?」
「え?」
振り返ると、犬山君が携帯をポケットにしまいながら私を見ていた。
「なんか俺が帰ってきたこと実家にバレてて……まぁどうせ伊藤が言ったんだろうけど……。それで、帰ってきてるなら家に泊まれって」
困ったように頭を掻きながら言う。
「じゃあ犬山君は実家に泊まるの? 旅館、キャンセル料とか取られないかな?」
「とりあえず、友達と相談してみるって言って切ったけど、なんなら友達もうちに泊まっていいって」
「えぇ、八人もいるよ? 犬山君の家って大きいの?」
「普通の一軒家だと思うけど、まぁ八人が寝るくらいのスペースはあるよ」
ふぇー、と感心していると、階下から「あ、いた!」という声が聞こえてきた。
やっぱりあの車は宮原君のものだったらしく、そこには京香と宮原君がいた。
京香は私達と目が合うと、「ハプニング発生だよー!」と言いながら階段を駆け上って、私に抱きついてきた。
「は、ハプニングって?」
「予約した旅館! 日にち間違えて予約してたって! 今日は運悪く満室で泊まれないって!」
「他人事みたいに言ってるけど、間違えたの京香だからな」
ゆっくりと階段を上ってきた宮原君が言うと、京香は私に抱きついたまま蹴りを繰り出したが、あえなく避けられていた。
「今、あっちで違う宿探してるらしいけど、あそこより安いところそうそうないだろうからな」
もともと、大学生だけの貧乏旅行だ。金銭的な余裕は、正直、ない。
私が犬山君をチラリと見ると、目が合った。それでなんとなく、同じ事を考えていると分かった。
犬山君は苦笑しながら、宮原君と京香に向かって「実はさっき……」と話を始めた。
その日の晩、私は眠れぬ夜を過ごしていた。
実は私、誰かの家で眠るというのが小さい頃から苦手なのだ。どうしても緊張してしまうから。これが旅館とかホテルとか、公共施設ならなんともないのだけど。
豆電球がついた部屋なので、窓の横に掛けられている時計の針はぼんやりと見ることが出来る。今は夜中の二時。他のみんなが寝てしまってから一時間が経った。一階の和室で寝ている男子達も流石に寝ちゃった頃かな。みんな疲れてるだろうし。
かくいう私も疲れをそれなりに感じているのだけど、それなのに眠れないのだからどうしようもない。
時計から視線をずらすと星空が見えた。夜になって雲はどこかに行ってしまったらしく、十時頃までみんなで庭に出て満天の星空を眺めながら、明日(今日になっちゃったけど)の予定とかを話していた。男子の中に星座に詳しい人がいて、あれが何座とか教えてくれたけど、こうして見ても何がなんやら分からなかった。
トン、という小さな音が聞こえたのはそんなことを考えていた時だった。
思わず肩が震えて、私は耳を澄ます。その小さな音は一定のリズムで続いていて、少しずつだけど大きくなっていく。
階段を上る音だと気付いた後に浮かんだのは、寝る前にしていた怖い話の数々。幸いなことに階段を上ってくる系の話はなかったけれど、今にもドアが開いて何かが顔を覗かせるんじゃないかと想像してしまうと、もう出来ることといえば目を瞑って寝たふりをするだけだ。ここに布団や毛布があれば頭からかぶっていただろうけど、残念ながら私の毛布は京香に使われている。ちなみに京香の毛布も京香が使っている。ジャイアンみたいだと思ったのは内緒。
そんなふざけたことを考えていると、ガチャ、とドアを開く音が聞こえた。しかし、音の大きさ的に、開かれたのはここのドアではない。
犬山君の家の二階には、この部屋とトイレ、それから犬山君の部屋しかない。もちろん一階にもトイレはあるわけで、わざわざ二階には来ないだろうから、そうなると誰かが犬山君の部屋に行ったということだろう。
足音は一人分しか聞こえなかったし、誰かっていうのは多分……。
そっとその場で立ち上がり、友人達を踏まないよう注意しながら部屋の入り口まで爪先立ちで歩く。
ドアを開くと、短い廊下の先にある犬山君の部屋から明かりが漏れていた。話し声とかは聞こえないから、やっぱり一人みたいだ。
そっとドアを閉めて廊下を歩き、犬山君の部屋を覗いてみると、そこにはやっぱり犬山君がいて、勉強机に座って何かを見ていた。
「こ、こんばんわ」
なんと声を掛けるべきか十秒ほど考えてから、私は小さく声を掛けた。しかしいくら小さな声とは言っても、今は虫の声くらいしか聞こえない深夜。その声はよく響いて、犬山君は驚いたようにこちらを見た。
「あー、実透か。驚いた。……まだ起きてたんだな。他のみんなも?」
「ううん。みんなはもう寝ちゃったんだけど、私はなんとなく寝れなくて」
「そうなんだ。まぁ、俺もそんな感じだよ。宮原は運転で疲れてたのか一番乗りで寝るし、他の奴らは、今日は徹夜だーとか言いながらビール飲みまくってさっさと寝ちゃったし。俺は中途半端にビール飲んだせいで眠気がなかなか来なくて」
苦笑する犬山君に私も苦笑を返してから、部屋を軽く見回す。
「ここ、犬山君の部屋なんだよね」
「大学に行くまで使ってた部屋だね」
部屋の中には勉強机と本棚くらいしかない。本棚には、漫画がほとんどで、それに押しつぶされるような感じで小説が少しだけある。なんとなく意外だった。犬山君は、漫画より小説なイメージがあるから。
「昔読んでた漫画を見られるってのも結構恥ずかしいもんだね」
困ったように笑いながら言う犬山君の言葉に、そうなんだ、と思いながら、本棚から離れる。
しかし、そうなると他に気になるものは犬山君が見ていた何か――本棚の前まで歩く際、それが卒業アルバムであることは何となく分かっていた――しかない。
「卒業アルバム? 高校の?」
「ううん。中学の」
そう言うと、アルバムを閉じて表紙を見せてくれた。そこには私の知らない中学校の名前が書かれている。
「そういえば、犬山君が中学生の頃の話聞いてない」
「だって、中学校行ってないじゃん」
「でも行けないんでしょ? じゃあ今、アルバム見ながら聞かせてよー」
「駄目駄目。明日、もう一回ダメ元で中学校に電話してみるって宮原が言ってたから、それを期待してなよ」
それは初耳だった。というかダメ元って言っといて『期待してろ』と言うのはヒドい気がする。
でもあまり我が儘を言うのは嫌だし、それに絶対に話してくれないわけじゃあないみたいだから、犬山君の言うとおり、明日に期待しておくとしよう。なんか悔しいけど。
「んー、じゃあそうしておく。でもここでアルバム見るのは有り?」
今と随分違うという中学生時代の犬山君というのはやはり少し、いやかなり気になる。
渋るかと思ったけど、犬山君は軽く「いいよ」と答えると、立ち上がって私に椅子を譲ってくれた。
椅子に腰掛け、アルバムのページをめくる。校歌が書かれている最初のページを飛ばすと、集合写真があった。
「小さい中学校だったから、こんな風に卒業生全員と教員の集合写真が撮れたんだよね。……さて、俺が分かるかな」
隣に立っている犬山君が楽しむように言う。
卒業生、百四十一人。男子だけでも約七十人の中から一人を探すのは大変……と思いきや、すぐにそれらしい男の子が目に止まる。しかし、思わず首を捻った。本当にこの男の子が犬山君だろうか。なんかブスッとしてるし、目つき悪いし、こういう写真だから仕方なく服装整えてます感が半端ないんだけど……。
念の為、他の男の子もざっと見てみる。「やっぱ分かんないかなー」なんて苦笑している犬山君の言葉を聞きながら、やはり他にそれらしい男の子がいないことを確信する。
「えっと……もしかして、この子?」
「おー、よく分かったね」
嬉しそうに笑う犬山君の顔は、写真の中の犬山少年とはあまりに違う。
どうして犬山君はこんなに変わったのだろう。ただの時間による変化? それとも、誰かが犬山君を変えたのだろうか。だとしたら、誰が? 高校の時の彼女とか? それとも別の誰か?
答えを求めるように、私はページをめくる。
次は、クラスごとの写真。集合写真だけではなく、体育祭とか修学旅行とかの行事の写真もクラスごとに分かれているみたい。
「犬山君って何組だったの?」
「三年の時は四組だよ」
ささっとページをめくって四組のところへ。クラスの集合写真を見ると、さっきの写真と同じようにブスッとした犬山君が写っていた。
「犬山君、なんかいつも不機嫌そう」
「別に不機嫌だったわけじゃないよ。この頃はいっつもこんな顔してた」
「なんで? 学校嫌いだったの?」
「嫌いじゃあなかったよ。まぁ、反抗期みたいなものだったんじゃないかな。親だけじゃなくて、全方位に向けた反抗期。むしろ親に対する反抗期なんてほとんどなかったと思うし」
「ふぅん……」
この年頃の男の子ってなんか難しいなぁ。
クラス写真から視線を移して、行事の写真から犬山君を探す。
いた。第一犬山君発見。場所は多分、修学旅行先。生徒は整列して先生の話を聞いている。そんな中で眠そうな顔をしているのが犬山君だ。修学旅行が楽しみで昨晩は寝れなかったのかな?
第二犬山君もこれまた修学旅行先。さっきと違うのは自由行動中なのか、女の子と歩いて……。
「………………」
写真の中の犬山君は、私が見たことのない笑みを浮かべていた。
私がよく見る、目を細めるような笑みでも、呆れたような笑みでも苦笑でもない。強いて言うなら、宮原君と話をするとき、たまに浮かべる笑みが近いのかもしれない。
ニコリ、というよりはニヤリとした笑い方。私が知っている笑い方とどちらが友好的かアンケートを取れば間違いなく私が知っている笑みが勝つだろう。でも、写真の中の犬山君は、私が見たことないほど楽しそうで、そしてその隣の女の子も楽しそうに笑っていた。
私は犬山君のことを異性として好きなのか。その答えはまだ出ていない。でも、この写真を見て、なんとなく、本当になんとなくだけど、勝てないと思ってしまった自分がいた。
犬山君は何も言わない。多分、私がこの写真をずっと見ていることに気付いているだろうけど、何も言わない。
私も何も聞かなかった。聞けなかったのかは自分でも分からない。
何事もなかったかのように話をしながらページを進めて、アルバムを見終わると私達はそれぞれの部屋に戻った。
ただ、最後の寄せ書きページに書かれた可愛い猫の絵が、妙に頭から離れなかった。
翌日、午前十時に犬山君の家を出発した私達が向かったのは、宮原君の母校の小学校。
道中の車内で犬山君と宮原君が説明してくれたことだけど、この町には小学校が三校あり、犬山君と宮原君は違う小学校に通っていたらしい。そんなわけで、この後は犬山君の母校に行く予定になっている。
『宮原の思い出の場所を巡るんなら、俺の母校は行かなくていいんじゃない?』と言う犬山君のもっともな意見は京香によって理由の説明もなく却下された。説明されたらされたで困るんだけどね。
午後一時頃にはそれぞれの母校を見終わり、昼食となった。犬山君の母校も、宮原君の母校も両校とも先生がとても親切で、卒業アルバムを見せてくれたり、お茶を出してくれたりした。もっとも、犬山君と宮原君は小学生の頃の写真を見られて困った感じだったけど。でも二人にもあんなに可愛かった時期があったんだなぁ、としみじみ。
昼食後の予定は自由行動となっている。私、犬山君、京香、宮原君以外の四人には行きたい場所(この近くにあるお城を見に行くらしい)があるらしく、そうそうに出発してしまった。
残された私達は、中学校に電話している宮原君の様子を車の中から見ているところだ。
かれこれ五分くらいは話している。相手が友達ならまだしも、見学について聞くだけにしては随分と長話だ。
それからもう数分して電話を終え車の中に戻ってきた宮原君に、待ちきれないといった様子で京香が「どうだった!?」と訊く。
「許可もらえたぞ。相手が知ってる先生で、融通利かせてくれた」
「やった!」と喜ぶ京香に苦笑しながら犬山君は「知ってる先生って?」と宮原君に尋ねる。
「勝部先生。覚えてるか? バスケ部の顧問の」
「……あー……」
犬山君の反応を見るに覚えてはいるけど、あまりいい思い出はないみたい。
昨日、アルバムの部活欄を見たときに知ったことだけど、犬山君は中学時代、途中で部活を辞めたらしいから、それが関係しているのかも。
「あの人が、工事中の校庭には近付かないってことで特別に許可してくれた。じゃあ中学校に出発ってことでいいか?」
「もち!」
京香が親指を立てて、私が頷くと、宮原君はゆっくりと車を発進させた。
助手席をチラリと見ると犬山君と目が合って、負けた、と言うように苦笑を浮かべた。ダメ元だった賭けに勝ったのは嬉しかったけど、どうしても犬山君の表情を昨日見た写真のものと比べてしまって、ぎこちない笑みを返すことしか出来なかった。
中学校に着いた私達四人だったけど、まるで当然とでも言うかの様に京香が別行動を宣言し、車から降りると早々に宮原君の手を引いて先に行ってしまった。
残された私達は二人が校舎内に入るまで唖然と立ち尽くしていたけど、私より早く我に返った犬山君の「俺達も行こうか」という言葉でようやく足を動かし始めた。
平日であれば生徒が出入りする昇降口、ではなく、職員玄関へ向かう途中、私は遠くから聞こえる小さな声に気付いた。
「体育館はそのまんまだから、やっぱり部活の練習はしてるみたいだね」
声のするほうに顔を向けると、隣を歩いていた犬山君が足を止めてそう言った。
確かにそこには、新しい校舎と比べると古い感じのする体育館があった。そこに体育館があると気付くまでは分からなかったが、一度気付いてしまえば、足音やボールが弾む音など、声だけではない様々な音が聞こえてきた。
バスケやってるね。犬山君の横顔を見たら、その言葉は口から出て来なかった。
犬山君は体育館を見ている。見ている、と思う。だって、見た感じ、そこには体育館くらいしかない。でも、なんでだろう。犬山君の瞳に体育館は映っていないような気がした。
「犬山、か?」
その声で、犬山君の瞳がいつもと同じものに戻った。
私と犬山君、多分ほとんど同じタイミングで声のした方へ振り向くと、職員玄関の前に四十代くらいのおじさんが立っていた。
「勝部先生……」
あぁ、この人が宮原君の言ってたバスケ部の顧問だった先生なんだ。
珍しく、気まずそうな表情をしていた犬山君は、一度、深めに頭を下げた。
「はい。お久しぶりです」
私もつられて頭を下げてから、ゆっくりと顔を上げると、勝部先生は犬山君を見て目を丸くしていた。
「どうした、犬山。随分と礼儀正しくなったな」
嫌みとかではなく、本当に驚いているらしい。今の犬山君しか知らない私は『昔の犬山君はどこまで……』と思わざるを得なかった。
「そりゃあ、俺だってもう二十歳ですから」
照れながら返事をする犬山君に、勝部先生は嬉しそうに笑ってから私を見た。いきなり目が合った事に驚いて、ほとんど反射的に頭を下げる。
「犬山君の友達の実透ですっ。初めましてっ!」
「友達? さっき宮原と一緒にいた元気な子からは彼女って聞いてるぞ?」
「それは嘘です」
「それは嘘です」
私と犬山君が同時に否定すると、勝部先生は可笑しそうに笑いながら「そうなのか」とだけ言ってから、私達に道を譲るように横にズレた。
「俺は今から部活見に行くから、見学は自由にしていいぞ。帰るときに、一声掛けてくれればそれでいい」
「先生、今もバスケ部の顧問やられてるんですか?」
「いや、今は副顧問だ。バスケ経験のある若い先生がいるから、俺はただの監視役だ。犬山達が卒業してから、監視するだけでもいいからもっと部活に来てくれって部員から頼まれてな。今でもそれを続けてるってわけだ。ま、仕事の息抜きがてらな。これで煙草でも吸えたら最高なんだけどな」
「それなら体育館裏をオススメしますよ」
犬山達がそう言うと、勝部先生は楽しそうに笑ってから私達に背中を向けて体育館へ歩いていった。
「……いい先生みたいだね」
「そうだな。昔からあんな感じだったよ」
「車の中で犬山君が嫌そうな顔してたから、嫌いな先生なのかと思ってた」
「嫌いじゃあないよ。ただ、ちょっと苦手だったんだ。大人……というか教師の中でも随分まともな人だってことは、昔から分かってた」
「でも会いたくなかったの?」
「まぁ、そうだね」
犬山君は言葉を濁すように言うと職員玄関へと歩き出した。私は、足を動かす前にもう一度だけ体育館へ顔を向ける。
校舎も校庭も変わってしまった中学校で、唯一変わっていないらしい体育館。綺麗な白色の校舎の壁と比べると一目瞭然だ。
そんな、まるで取り残されたような体育館を見て、犬山君は何を思っていたのだろう。自分が知っている建物が残っている嬉しさ。それとも、もうこれしか残っていないという寂しさ?
それとも、もっと別の何かなのかな。
「教室の場所は変わってないみたいだな」
二階に上がって廊下に出たところで、犬山君が独り言のように呟いた。
「二階は一年生の階なんだね」
階段から一番近くにある一年一組を見ながら言うと、犬山君は廊下の奥を指差して、
「三階建ての筈だから、多分、奥に二年三組と四組があると思う。それで、三階に三年のクラスと二年一組と二組」
「へぇ。二年生はバラバラになっちゃうんだ」
「そうだね。って言っても、小さい町の中学だから、上も下も知り合いが多くて、高校みたいな上下関係なんてほとんどなかったよ。ま、部活では大なり小なりあったけど」
「へぇー」
「じゃあ次は三階に行こうか」
「うん。……ってちょっと待って」
早々に身を翻して階段へ向かおうとした犬山君のシャツの裾を掴む。振り返った犬山君はどこか引きつったような笑みを浮かべていた。
「教室回って思い出話って約束だよね?」
「やっぱり忘れてなかったかー」
眉尻を下げて困ったように笑う犬山君。
「……そんなにイヤなら無理強いはしないけど……」
「イヤってわけじゃないんだけどね。ちょっと恥ずかしいだけで」
「恥ずかしいんだ?」
「中学の頃は、そうだね。高校の時ほど余裕もなかったし、子供だった、って懐かい思い出に変えられるほど子供だったわけでもないし」
確かに、そう言われると私も幾つか思い当たる節がある。もちろん、それを口に出したりはしないけど。だって、恥ずかしいし。
「ま、約束だからね」
そう言って、犬山君は廊下の先を指差す。
「一年の時の教室は二組。二年が三組で、三年が四組」
「中学校の時のクラスも順番だったんだね」
「高校に上がったら、一に下がっちゃったわけです」
犬山君はおどけたように言った。
「中学一年の頃の思い出と訊かれて真っ先に頭に浮かぶのは、やっぱり、バスケ部に入ったことかな」
一年二組の教室に入ると、犬山君は早速思い出話を始めた。
「小学生の頃は部活とかやってなかったんだけど……、ここだけかもしれないけど、中学生になったら部活、みたいな風潮があって、何部にしようか迷ってたら友達に誘われて、って感じだった」
「友達って宮原君?」
「ううん。宮原と知り合ったのは部活に入ってから。俺を誘ったのは保谷って奴」
「新しい登場人物だね」
「そうだね。昨日、高校で部室に行ってたら保谷の話もしてたんだろうけど」
「そうなの?」
「俺が中二の時に部活を辞めてから気まずい感じになってて、でも高校に入ってすぐ仲直りしたって話をするつもりだったから」
「へぇー。……ってことは、その保谷君がいなかったら、こんな風に犬山君と話をすることもなかったのかも」
「そうかもね。多分、バスケもやってなかっただろうし、今の大学に行ってたかも分からないし……」
「じゃあ保谷君は犬山君の人生を変えた重要人物なんだね」
私がそう言うと、犬山君は可笑しそうに笑ってから「そうかもね」と言った。
一年二組から三つ隣の教室、二年三組に入ると、犬山君は、「ここだったかな」と呟きながら、廊下側の後ろから二番目の席に手をついた。
「犬山君の席?」
「うん。確か二学期の席がここで、三学期がそこ」
ほとんど反対側の窓側の席を指差す犬山君に、思わず「へぇー」と感心してしまう。
「よく覚えてるね」
私なんか、中学はもちろんのこと、高校の席だって覚えていない。でもこれは多分、私が多数派だと思う。
犬山君は私の言葉に「まぁね」と返してから、「えーと、中二の頃の思い出は……」と話を始めた。
その後、三年の教室で犬山君の思い出話を聞き終わって、校内をぐるっと回ってから駐車場に戻ってきても、京香と宮原君の姿は見当たらなかった。というか、私達以外は誰もいない静かな校舎内で話し声はおろか足音すら聞こえなかったことを考えると、怪しいのは校庭か体育館くらいだと思う。でも、校舎内の窓から見た校庭には誰もいなかったし、やっぱり一番怪しいのは体育館かな。
「実透もそう思うか」
そのことを伝えると、犬山君はそう言って体育館の方を見た。
体育館からは、数十分前と変わらない足音とボールの音、掛け声が届いてくる。
「……実透」
『じゃあ体育館に行ってみようか』
犬山君の横顔を見ながら次の言葉を想像したけど、それは見事に外れた。
「……少し、行きたい場所があるんだけど、いい?」
各学年の教室で犬山君が話してくれた思い出は、どれもバスケに関することだった。
一年の頃は、バスケ部に入部したこと。
二年の頃は、バスケ部を退部したこと。
三年の頃は、バスケ部の元後輩と近所の公園でバスケをしていたこと。
どの話も面白かった(特に小松君という後輩の天然エピソードは面白かった)けど、昨日、卒業アルバムで見た女の子の話が聞けるかもしれないと密かに期待していたため、少し残念なような、でもどこかホッとしたような、我ながら妙な感情を持て余していた。
「懐かしい」
体育館の横を通り、裏に回った時、犬山君は、中学校に来て初めて、その言葉を口にした。
向かって左側には体育館の壁、右側には山面がある。山面自体が結構急な角度のため、木の枝が体育館側に向かって伸びている。この時期はまだ青い葉が屋根代わりになっていて、その下は特に涼しそうだった。実際、居心地がいいのか、そこにはパイプ椅子が置かれている。誰かの指定席なのかな。
ここには、よく来てたの? そう聞こうとして犬山君に顔を向けると、見事に目が合った。
いつもなら反射的に目を逸らしてしまうのだけど、何故かこの時だけはそれが出来ずに、少しの間、見つめ合う形になる。
先に目を逸らしたのは、犬山君だった。
「実透はさ」
「うん?」
パイプ椅子の方を見たまま口を開いた犬山君に首を傾げる。
「卒業アルバムの写真で俺と一緒に写ってた女子のこと覚えてる?」
「うん」
「一応、恋愛話になるんだけど、あいつの話、聞きたい?」
「……びみょー」
正直に答えると、犬山君は困ったように笑った。
「微妙かぁ」
「うん。……でも、やっぱり聞きたいかも」
犬山君は小さく頷くと、「とりあえず座ろうか。ずっと立ってるのは疲れるし」と言って、体育館の段差に腰掛けた。
「とりあえず、写真の女子は黒羽四葉っていう名前だよ」
「黒羽四葉、さん」
隣に腰を下ろしながら復唱してみる。やっぱり知らない名前だった。
「四葉は転入生で、二年の二学期に引っ越してきた。俺が四葉と初めて会ったのがここ」
四葉、と犬山君が自然に名前を呼んでいることに気付いて、なんとも言えない気持ちがこみ上げてきた。そりゃあ、恋愛話ってことは、当時二人は付き合っていたんだろうし、恋人を名字で呼ぶ方が珍しいとは分かっているのだけど。
しかし、そんな私の考えは外れていて、犬山君と黒羽さんはそういう関係ではなかったらしい。もちろん、二人の話を聞いていると、『そんなわけないでしょう』と言いたくなるし、犬山君も『こうして思い出すと自分でも信じられない』と言っていた。でも当時二人の間にそんな話は一切なかったという。
「付き合いたいとか思わなかったの? 一目惚れだったんでしょ?」
私が訊くと、犬山君は一目惚れだったことを肯定してから、少し悩む素振りを見せた。
「付き合いたい、ってのはどうだったんだろう。なんとなく、四葉とはずっと一緒にいるって思ってて、そういうことを考えるのを避けてたところはあると思う。それで、わざわざ恋人っていう関係にならないと一緒にいられない同級生より、自分達の方が上だとも思ってた。言葉がなくても分かり合える関係ってのに憧れていたのかもしれない。そんな相手が出来たらいいな、とは今でも思うからね。
でも、昔の俺はそんな存在に憧れてばかりで、結局、自分の気持ちを言葉に……というか、表にだすことも上手く出来てなかったんだと思う。そんな俺が四葉と好き合えているって思えてたのは、決定的な言葉はなかったにしても、四葉が態度や行動でそれを示してくれていたからだったのに、相手の事を分かっただけで分かり合えた気でいた」
犬山君は真っ直ぐに前を見たまま、淡々と、報告するように話を続ける。
中学三年の夏休み、中学卒業と同時に転校することを告げられたこと。
ぎこちない会話しか出来なくても、それまでと変わらない日々を送ったこと。
「……じゃあ最後まで犬山君と黒羽さんが恋人になることはなかったんだね」
「うん」と犬山君は頷いてから、
「告白はしたんだけどね」
と言った。……って、
「え?」
思わずそんな声が出てしまった私に、犬山君は頬を指で掻きながら苦笑を浮かべる。
「卒業式の日に、勢いでね。結局、最終的には目に見える……ってわけじゃないけど、言葉に出せる繋がりが欲しくなったんだと思う」
「でも、付き合わなかったってことは、フられたの?」
「うん。まぁそうなんだけど、その前に泣かれた。というか、俺が泣かしたんだろうな。……安心したんだってさ。俺が何も言わないし何もしなかったから、ずっと心の隅で『嫌われてるんじゃないか』って不安だったって。それで、泣き止んだ後にフられた」
『でも、付き合うのは止めておこう? せっかくの高校生なんだもん。お互い、縛るもののない自由なままで満喫しようよ。ネコ君だって、私の事なんか、すぐに忘れちゃうと思うし』
「っていうのがフられた時、四葉に言われた言葉で、昔はなんでそんなことを言うのか分からなかったけど、今ならなんとなく分かる。
高校が別だったり、高校を卒業した友達と、もう長い間、連絡を取ってない。卒業アルバムの最後の方のページの寄せ書きに『また遊ぼうぜ』なんて書いた奴ばっかりだったのに、住む場所、暮らす場所が違えば、あっという間に忘れてしまって、忘れられて、縁なんか切れる。
転校生だった四葉はその事が分かっていたんじゃないかって思ってる」
でも、と犬山君は続ける。
「その頃の俺はそんな事、想像も出来なかったから、強引に約束を取り付けたんだ。俺は絶対に忘れないって啖呵切ってね。そんなの無理だって四葉が言っても、無理じゃないって言い張った。……なんか子供みたいだな、俺。同年代の中では落ち着いてる自覚あったんだけど。
まぁ、それでも無理だって言い張るから、俺達は約束したんだ」
『俺は四葉のことを忘れないし、いつか絶対に会いに行く。その時までに俺はもっとちゃんと生きて、大人になったら四葉に会いに行く』
「ちゃんと、生きる」
思わず復唱すると、犬山君は苦笑した。
「四葉にも『ちゃんと生きるってどういうこと?』って泣きながら訊かれたよ。俺も答えられなかったけど、とりあえず四葉にずっと注意されてた姿勢を良くすることと煙草をやめることにしたんだ。俺が四葉を忘れてないってことを示せるような気もしたから」
「それを黒羽さんも分かってくれたんだね」
「え?」
「え?」
急に素っ頓狂な声を上げた犬山君に、同じように返すと「いやぁ」なんて照れたように笑いながら、
「どうだろう。約束というか、ほとんど捨てゼリフみたいに言ったことだから、返事は聞いてないんだよね」
「えぇ!? じゃあそれだけ言ってサヨナラしちゃったの?」
「そうなるねー」
「えぇー……」
普段、人に呆れられてばかりの私が犬山君に呆れることなんてないと思っていたけど……。
「しかも犬山君、高校に入って彼女まで作ってるし……」
そりゃ、黒羽さんは高校生を満喫しようとは言っていたけども。
「うん。だから結局、四葉の言ってたことは半分くらい正しかったんだと思う。でも、俺は四葉を忘れきれなかった。進学して県外に行くことが決まったら、自分の中の世界が広がったような気がして、大学に入って落ち着いたら、すぐに四葉に会いに行こうと思った」
それで高校の時の彼女に別れ話を持ち出して、バレー部仕込みのスパイクビンタをくらったんだね。
「でも、いざ自由になると、今度は怖じ気づいた。四葉と別れてから姿勢は良くなったし、煙草もやめられたけど、ちゃんと生きてきたかって訊かれたら頷ける自信はなかったし……、まぁ何よりも、四葉に忘れられてるかもしれないってのが怖かった。他にも、もう彼氏がいるんじゃないかとか色んな妄想が浮かんできて……」
「もしかして、今に至る?」
犬山君は頷く。
「顔の広い伊藤に頼んで、今、四葉が住んでいる場所とかはとっくに分かってるんだ。実は昨日マックで会った時も『いつ会いに行くんだ』って怒られてた」
「ありゃりゃ。それで、なんて答えたの?」
「それを決めるために帰ってきた、って」
「へぇー……」
生返事をしながら犬山君の顔を横目で見る。その表情を見れば訊くまでもないことだけれど、やっぱり訊いておくことにした。
「それで、どうするか決まったの?」
犬山君は頷く。
「俺は四葉に会いたい。この数年間色々あったから、俺の四葉への気持ちが何なのか――ただ会いたいだけなのか、付き合いたいのか、昔みたいに一緒にいたいだけなのかもよく分からなくなってしまったけど、会っても何も変わらないかもしれないし、何も分からないままかもしれないけど、俺は四葉に会いたい」
私に、というよりは自分に向けて言ってから、犬山君はおもむろに立ち上がり、パイプ椅子の前まで歩いていった。
少し遅れて私も隣まで歩く。ところどころ錆びてはいるけど、流石に犬山君が使っていたパイプ椅子とは別物だと思う。犬山君みたいにここで休み時間を潰している生徒が今もいるのかな。
「あ」
パイプ椅子をじっと見下ろしていた犬山君が、不意に声を上げた。
私も犬山君の視線を追ってみたけど、そこには雑草しか生えていないように見える。
でも犬山君はその場にしゃがむと、「ほら」と言って、雑草、クローバーの中の一本を指差した。私もしゃがんで、凝視してみると、
「うわぁ。四葉だ!」
つい声が出た。小さい頃は公園なんかに行くと探したりしていたけど、こうして見るのは何年……もしかしたら十数年振りになるかもしれない。
「中学の三年間じゃあ一度も見つからなかったんだけどなぁ……」
苦笑しながら四葉のクローバーを見下ろす犬山君。
「その頃からここにクローバーあったんだ? なら、犬山君と黒羽さんが楽しい日常を送れたのもクローバーのご加護かもね」
「って言っても、四葉のクローバーを見つけたことはなかったからなぁ……」
「でも三つ葉はあったんでしょ?」
「うん? まぁ、あったけど……。もしかして、クローバーって三つ葉の方にもなにか意味あるの? 俺は聞いたことないけど……」
「え? だって、四葉のクローバーが『特別な幸せ』だから、三つ葉は『ありふれた幸せ』じゃないの?」
「いや、俺が知ってるのは、四葉のクローバーを見つけたら幸せになるとか、願いが叶うだけど……」
「えぇ!? そうなの? じゃあ私の勘違いかも……。ありふれた三つ葉の中にある珍しい四葉だから、そんな風にいうのかなー、とか一人で納得してたよー。人に言わなくてよかったぁ」
「今、俺に言ってるけど……あ、はい。人には言わないから睨まないで下さい」
犬山君はおどけて言うと、膝に手を付いて立ち上がった。
「あれ? これ持って行かないの?」
四葉のクローバーを指差して見上げると、犬山君は頷いた。
「うん。俺が聞いた話だと見つけただけで効果はあるらしいし、実透の話が正しくても、俺ももう二十歳だからね。自分の幸せに自分で気付けるようにならないと。だから、そのクローバーは若者に譲るよ」
「私達だって、まだ二十歳の若者だよー」
「そりゃそうだけどさ。中学生は若者である前に子供で、俺達は大人だから。四葉のクローバーに頼らなくても、そういうのを感じられるようにならないとね」
私は「そっか」と返してから、「よっこいしょ」と立ち上がる。
「いきなり若者らしくない声が聞こえたんだけど……」
「く、癖なんだからしょうがないじゃん」
多分赤くなっている私の顔を見て、犬山君が笑う。
その時、私の携帯電話が鳴った。着信ではなくメールで、差出人は京香。内容は……犬山君とどんな感じか、とか色々書いていたけど、要約すれば『そろそろ集合』とのことだった。
それを伝えると、犬山君は「じゃあ車に戻ろう」と言ってから、もう一度パイプ椅子に視線を落として、ゆっくりと背を向けた。
「実透、ごめん」と突然謝られたのは、体育館の横を歩いている時だった。
「え? えーと、なにが?」
謝られる心当たりがなく――むしろ犬山君と出会ってからの記憶を辿ると私が謝るべき記憶しかない――、私は首を傾げた。
「あんな話、実透には言うべきじゃないとは思ってたんだけど……」
私には? なんで?
その言葉の意味を少し考えて、ハッと思い付く。もしかして、犬山君は何か勘違いしているのでは? いや、この二日間が二日間だったし、勘違いしても仕方ないように思う。私だって、逆の立場だったら犬山君に好かれてるんじゃないかって勘違いしそうだし……。
「………………」
えーと、勘違い、だよね。
「………………」
それでも『勘違いだよ』の一言が何故か言えなくて、私は小さく首を横に振った。
「ううん。話、聞けて嬉しかった」
安堵するような笑みを浮かべる犬山君を見上げる。
胸がざわつく。
嬉しいような、悲しいような妙な気持ち。
「はぅ」と変な溜め息が口からこぼれて、私は空を見上げた。
いつの間にか灰色の薄い雲が広がっていて、今すぐではないけれど雨が降ってきそうな空模様だった。
ふと、前の方から聞き慣れた声が私の耳に届いた。
車の横に立っている京香が私と犬山君に手を振っていて、宮原君は、いつの間にか合流したらしい他のメンバーと話をしていた。
今から私達は帰路に着く。犬山君や宮原君にとって帰路というべきなのかは分からないけど、少なくとも今私達が暮らしている場所へ戻る。
サークルの練習は木曜日、四日後までない。
そこに犬山君はやってくるだろうか。来るとしたら、今と何か変わっているのだろうか。
それはまだ、誰にも分からない。




