ネコと四葉
深く息を吐く。白い煙が青空へと上っていくのをボーっと見上げて、再び煙草を口に銜えた。
体育館裏。裏山と体育館に挟まれたその場所が、俺の喫煙スポットだ。最初からここに捨てられていた錆びたパイプ椅子に、裏山に背を向けるかたちで座っている。
先程まで、俺を含むバスケ部メンバーが練習に励んでいたわけでが、正午を過ぎた今は静かなものだった。午後からはバレー部が使う事になっているらしいが、流石にこの時間から来ている者はいないらしい。
県庁所在地でもある大きな町に圧迫されるようにポツンと存在する、海に面した小さな町。その小さな町に一校だけある小さな中学校がここだ。
小さな町にある、三つの小さな小学校から主に生徒が集まり、一学年四クラス。全校生徒は三百五十人程度。ここより小さな中学校など山ほどあるのかもしれないが、それでも、小さな、という表現は間違っていないだろう。同じ田舎でも、二つ隣の町には八クラスある中学校だってあるのだから。
俺が所属するバスケ部は弱い。ここら辺の中学校では最低かも知れない。学校や町の規模が小さく、生徒数が少ないから――なんて言い訳も出来なくはないが、県内でも強豪として知られているサッカー部がいるのだからどうしようもない。それでもバスケ部の中には、それを平気で口にしてしまう奴がいるわけだが。
そんなんだから、喫煙者よりも下手くそばっかなんだよ。
不意に浮かんできた苛立ちを押さえるように煙草を吸ってから、深呼吸するように吐く。
三年生が引退してからは特に酷い。小学校の頃からバスケをしている一年より下手くそな二年も少なくないし、そういう奴に限って態度がデカい。一年も一応言う事は聞いているようだが、傍から見たら不満を持っているのは丸分かりだ。
俺も二年だが、まぁ、関係ない。どうせ年末には――二学期が終わったら、部活を辞めるつもりだからだ。それまでは後輩に優しくしてやろう、なんてキャラでもないし。
「あ」
不意にそんな小さな声が聞こえて、反射的にそちらを見る。声からして大人ではないことは分かっていたため、慌てることは無かった。
目を小さく見開いていたのは、制服姿の女子だった。ただ、この中学校の制服である白と紺色の一般的なセーラー服姿ではない。紺色のブレザー姿で、鼠色のスカートと、胸元に着けている赤色のタイにはチェックが入っている。高校生の服装みたいだった。しかし、それを着ている女子の容姿は、とてもじゃないが歳上には見えない。
見た事のない顔だった。人の顔や名前を覚えるのは得意じゃなかったが、確信が持てた。
何故なら、その女子は可愛かったから。
それだけの理由だ。だが、当時の俺にとっては衝撃だった。どのくらい衝撃だったかというと、銜えていた煙草をズボンの上に落として焦げ痕を作ってしまうくらい。
あれは、人生初の一目惚れだったんだと思う。
人生初で、多分、最初で最後の。
彼女の名前は黒羽四葉といった。
中学校では珍しくない程度に小柄で、普通に明るい性格で、普通に可愛い転校生だった。
他の生徒より一足先に顔を合わせて自己紹介を済ませていたためか、俺と四葉がよく話す仲になるまで、そう時間は掛からなかった。大人しいクラスで、自分から積極的に転校生に話し掛けるクラスメートが少なかったことも理由の一つかもしれない。
とはいえ、当時、俺達は思春期真っ只中の中学生だったし、何よりも俺は四葉に一目惚れしていたから、クラスで長い間話すようなことはあまりなかった。
二人で話をするのは、放課後、あるいは昼休み、俺が喫煙スポットで一服している時だ。
今になって考えると、人気のないところで男女二人なんて状況は、クラスで仲良く話をしている以上に変な噂が立ちそうなものだが、幸か不幸か、それとも俺が気付かなかっただけなのかは分からないが、中学生活でそういう噂を耳にしたことは無かった。
四葉が転校してきて一週間が経つ頃には、その状況にも慣れて、最初の頃のように彼女に見惚れたり、急に話しかけられて心臓が止まりそうになったりする事も無くなった。
知り合って間もない俺達が何を話していたかというと、
「ネコ君、また背中曲がってる」
不満そうな声にしかめ面を返してから、パイプ椅子の背もたれに背中をくっつけると、四葉は満足そうに笑顔を浮かべて頷いた。
姿勢の話が多い。何故か、彼女は俺の姿勢の悪さが気になるらしく、ことあるごとに指摘、そして改善を要求してくる。猫背を直す歩き方、座り方、立ち方、ストレッチなど、いろいろ教えてくれるのはいいのだが、あまり成果は見られていない。俺に直す気が無いのが一番の問題なのだろうが。
「姿勢が悪いと、腰痛とか、肩こりとか、あと風邪をひきやすくなったりもするんだからね」
「へぇ、そうなんだ」
ポケットから煙草を取り出しながら返事をすると、四葉は一歩引いた。それはいつものことだった。彼女は煙草の匂いが嫌いらしい。
「今日は部活出るの?」
体育館の白い壁を見ながら、四葉はふとそう言った。体育館からはボールの弾む音や掛け声が聞こえてくる。
四葉とここで話をするようになってから一週間。その間、部活に出たのは半数ほど。四葉と話をしたいから行っていないわけではなく、元々、俺の出席率はこの程度だ。
しかし、今日は出るつもりだった。理由は特にないが、そういう気分なのだ。
「出るよ。これ、吸い終わったら行くつもり」
「のんびりしてていいんだ?」
「どうせ最初の三十分くらいはずっとお喋りしてんだから、大丈夫」
お喋りというか、一年生をいじって遊んでいるだけだが。
まぁ、そんな光景は去年だってあった。ただ、中にはさっさと練習を始めてしまう先輩達もいた。しかし、今年はそれがいない。結局は程度の差だ。
「部活、面白い?」
「バスケは面白い」
「でも辞めちゃうんだ?」
うぐ、と喉に何か詰まったような声が出た。その事は、四葉には言っていない。とはいえ、バスケ部の顧問や部員には言ってあるから、そこから広まってもおかしくは無いが。
「……まぁな。どうせこのまま続けてても試合には出れないだろうし」
「ネコ君、バスケは上手いから、サボらずに出ればレギュラーになれるって聞いたよ?」
「誰に」
「綺音ちゃん」
「伊藤かよ」と、思わず苦々しい顔をしてしまう。クラスに一人はいる、情報通を気取った女子からの情報ならまだしも、バスケ部の先輩と付き合っていて、俺とは小学校からの付き合いになる伊藤綺音からの情報だと、信憑性が桁違いだ。実際、先輩もそう言っていたのだろう。そんなことは俺だって分かっているし、顧問から同じ様な事を言われたことがあった。
確か、その時も俺は同じように答えた。
「これからちゃんと出たとしても、それまで気分で部活に出てた奴にレギュラー取られたらどうだよ?」
それに、喫煙が見つかったら部の責任にもなるだろう。じゃあ煙草をやめろ、と言われても困るから口にはしないが。
「そりゃ、確かにそうかもしんないけど……。でも、バスケ好きなんでしょ?」
「だから、趣味程度に続けていくつもり」
「……ふぅん」
納得したようには見えないが、四葉はそう言って黙ってしまう。
静かなのは好きだが、誰かといるのに静かなのは落ち着かない。本当の静寂ってのは一人の時にこそ訪れるものだ。
「四葉は?」
その名前をスラッと言えたことに、内心で安堵する。
初めのうちこそ他の女子と同じように四葉のことも苗字で呼んでいたのだが、つい先日、本人から名前で呼ぶように言われた。理由は、『私の名字、悪者っぽいから』というよく分からないものだったが、わざわざ嫌がっていることをするほど……――名字で呼ばれたことをプンスカと抗議する四葉を思い浮かべる――……面白いかもしれない。
眉間に皺を寄せていた四葉は、俺の問いに目を丸くして、「なにが?」と訊き返す。
「いや、黒羽はやりたい部活とかないのかと思って」
「ないわけじゃないけど……。ていうか、なんで今、名字に言い直したの?」
「やりたい部活って?」
「テニスとか、バスケとか……。ていうか、なんでさっき、名字に言い直したの?」
「やってみたらいい……って言っても、今更か」
「うん。それに、運動苦手だし。ていうか、なんでさっき――」
こいつ、意外と根に持ちやがる。ふざけているだけか、それとも、それほどまでに名字が嫌なのか。
黒羽という名字は確かに珍しく思うが、そんなに変でもなければ悪者っぽくもないと思う。黒い羽といえば、カラスや黒揚羽が連想される。あとは悪魔とかだろうか。あぁ、確かにそういう風に考えれば悪者っぽいかもしれない。
「なんでバスケとテニス? 両方とも全身使うタイプの競技だよな」
「テニスは、昔からなんとなく。バスケは、最近なんとなく」
結局、理由はなんとなくらしい。俺がバスケ部に入った理由も、知り合いに誘われてなんとなくだから人の事をどうこう言えないが。
ふと、町内にある広い空地(何とか広場という名前があるらしいが、パッと見はただの空地なのだ)が頭に浮かんだ。そこには一台だけバスケットゴールがあって、暇な放課後や休日に遊び半分の自主練に行く事があるのだ。
バスケに興味があるなら、自主練に誘ってみようか、と思った。四葉がどこに住んでいるのかは知らないが、町自体が小さいから自転車で来れない距離ではないだろうし、近くにバス停だってある。
「どうかしたの?」
そう問われて初めて、四葉をじっと見ていたことに気付く。
「い、いや、なんでもな、うおっ」
煙草を持っている方の手を振ってしまい、灰が制服の上に落ちて、慌てて払う。
「ネコ君、初めて会った時も同じような動きしてたよね」
その時の事を思い出したらしく、口元に両手を持って行って可笑しそうに笑う。俺としては思い出したくないし、思い出されたくない過去だ。もう少し格好よく出会いたかった。
しばらく経ってもまだクスクスと笑っている四葉を見ていると妙な恥ずかしさを覚えて、俺は顔を俯ける。いつの間にか煙草の火はフィルターの近くまで進んでいた。
そう言えば、先程真っ直ぐにしたばかりの背中が猫背に戻っている。まぁ、四葉も気付いていないようだし、よしとしよう。
煙草の火を地面でもみ消してから、ポケットから携帯灰皿を取り出してそこに入れる。トランクケースの形をした携帯灰皿。小さな傷や銀色が剥げているところもあるが、まだまだ使える。内側なんて綺麗なものだ。小学校低学年の頃に、綺麗だから、という理由で拾ったものだが、こんなに早く使用する事になるとは、当時の俺は考えもしなかっただろう。
「吸い終わっちゃったねー」
ようやく笑いが収まったらしく、携帯灰皿が入っているポケットを見つめながら四葉はそう言った。
「じゃあそろそろ行くかな」
立ち上がって大きく伸びをしてから、パイプ椅子を畳み体育館の壁に立てかける。
部室に入った時に部員、特に同学年の部員から向けられる、『今日は来たのか』という視線を思い出すと億劫になって来るが、自業自得だし、今日はバスケをしたい気分なので我慢しよう。いつもこんな気分になれば良いのだが、『集団が苦手』という、バスケというより集団競技に向いていない性格なので仕方がない。
性格など、癖になってしまった姿勢の悪さくらい改善するのは難しい。
四葉と知り合ってから二ヶ月が過ぎた。
十二月にも突入すると寒さは一層増し、雪こそ降らないが、夜のうちに降った雨で、水溜まりや道路が薄い氷を張るようになった。登校中に足を滑らせて転ぶ人を見かけることだって少なくない。特に、自転車通学で初の冬を迎える一年生が多かった。去年は俺も何度か転んだものだ。そのおかげで凍結しやすい場所を覚えて、今年は一度も転倒していない。
四葉なんかは、地面が凍ってなくても転びそうだ。と秋頃までは思っていたが、十一月半ば頃から、四葉は母親の送迎で登校するようになった。もっとも、その頃には四葉が病弱な体質であることは言わずとも知れた事だったため、誰も何も言わなかったが。
その日は休日で、早めの昼食をとった俺は、昼前頃に家を出た。
空は薄い雲が浮かんでいる程度の青空。日差しは暖かく、この季節にしては珍しいくらい絶好のストリートバスケ日和だ。
バスケットボールと手提げ鞄を籠に入れて、Tシャツにハーフパンツ姿で自転車を漕ぐこと十五分。学校の校庭のような広場に着いた。と言っても、校庭ほどキチンと整備されているわけではなく、バスケットゴールの周り以外は、背の低い雑草が生えている。もちろん、バスケットコートなどない。だが、遊ぶにはゴールさえあれば十分だし、広場には公衆便所も自動販売機(煙草のもあるから最高だ)もある。車が十台くらい停められそうな駐車場もあり、今は三台停まっていたが、この広場に用事がある人はいないらしい。
自転車から降り、バスケットボールを籠から取り出して、その場で軽くボールを弾ませてみる。そのままゆっくりとゴールの近くまで歩き、軽くシュートを放った。
昨日、一昨日と、四葉は学校を休んだ。理由は体調不良。
まぁ、最近ではそう珍しいことでもない。寒くなるとどうしても、と本人も言っていたし。
そのくせ、喫煙スポットには付いて来るのだから困りものだ。付いて来るな、そんな一言が言えない自分が一番どうしようもないけど。
そのせい――おかげ、というべきなのだろうか――最近、煙草の減りが遅くなってきている。煙草を吸わなくてイライラすることも、今のところはない。
この調子だと、猫背が改善されるより、禁煙に成功する方が先かもなぁ。なんて少し前までは考えていたのだが、四葉が学校を休むと、それまで溜め込んでいたものを消化するように、煙草に手が伸びてしまう。
理由は分かっているのだが、理解してどうにか出来るものでもない。当時の俺が行動的な少年ならどうにか出来たかもしれないが。
特に今週は酷い。週の中頃に会ったのを最後に四葉と会っていない。木曜日の煙草消費量は普段より五割増し。金曜日は普段の二倍だった。そこまで差が大きいのは、普通の大人ほど普段からスパスパ吸っていないからという理由もあるが。
実はこうして広場にやってきたのも、バスケ半分喫煙半分だった。煙草を吸っていることを、親には隠しているため、家では吸えないのだ。
最初に放ったシュートが外れて、跳ね返ってきたボールを掌で受け止めてから、ポケットを探って煙草を取り出す。
バスケットゴールのポールに背中を預けながら煙草を吸っていると、白色のセダン車が入ってきて、自動販売機の近くに停まった。飲み物目当てでここに来る人は、そう珍しくない。
駐車場と広場のほぼ境にあるバスケットゴールからは、車を斜め前から見るかたちになる。運転席に座っているのは中年くらいの男性。助手席に座って鞄を探っているのは同じくらいの年齢の女性だった。おそらく夫婦なのだろう。ここからではよく見えないが、後部座席にも誰か乗って……
煙草をフーッと吐いた時、後部座席が開き、ここ数ヶ月ですっかり見慣れた顔が車から降りてきた。驚いて、更に息を吹き出す。息の吐きすぎで少し苦く、思わず咳き込んだ。
「あ!」
背中を曲げながらゲホゲホ言っている俺に気付いた四葉は、目を大きく開けてからトテトテと小走りで近付いてきた。
学校にも着て来ているダッフルコートに、下はジーンズ。少しサイズが大きいのか、余った裾を捲っている。重ね着しているのか、いつもより全体的に丸い。四葉の私服姿を見るのは二ヶ月振りだった。もちろんそれも嬉しかったが、三日振りに会えたことの方が嬉しかった。
「久し振り」
手を肩くらいまで上げて言うと、四葉は目を丸くしてから、照れたような仕草をして「久し振り」と返してきた。
会ったのが三日振りということを忘れていたような反応に、内心、悲しくなる。それを表情に出すことはプライドが許さないからしないけど。
「バスケの練習?」
脇腹と腕に挟んでいるボールを一瞥してから首を傾げる四葉に、「まぁ」と返す。
「練習ってほどちゃんとしてるわけでもないけど、そんなとこ。……四葉は……」
肩越しに車を見ると、四葉の両親らしき人と目が合った。お辞儀をされたので慌てて頭を下げた時、自分が煙草を持っていることを思い出した。今更隠したところで無駄だろう。なんせ、さっき煙草を持った手で四葉に挨拶をしたのだから。
「私は病院の帰り。『もう大丈夫ですよー』って言われて、それでお終いだったんだけどね」
「そうなのか」
携帯灰皿に煙草を入れながら相槌を打つと、四葉は頷く。
「うん。本当は、昨日の朝にはほとんど治ってたんだけどね。親が心配性で、寝てなさい、って。もー、退屈だったよ」
まぁ、気持ちは分かる。他人の目から見ても、四葉は同年代の子供と比べると体調を崩しやすいみたいだから。
しかし本人は昨日一日分の元気が有り余っているのか、今日はいつにも増してテンションが高く、言葉と合わせて体がよく動いているように思えた。
「そんな心配性な親の前で、煙草吸ってるような奴と一緒に居ていいのか?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。二人とも、ネコ君の事知ってるし。私が話したから」
「どんな風に?」
「猫背が酷くて煙草を吸ってて部活をサボりがちな男子がいるって」
「…………」
良い所が一つもなかった。事実だからどうしようもないが。
「ネコ君、ここにはよく来るの?」
内心落ち込む俺に気付かない四葉は、バスケットゴール以外ほとんど何もない広場を見回す。
「ん? あぁ、なんだかんだで毎週来てるな」
部活は土日共あるが、二日連続で練習に参加する事なんかほとんどないし、そういう日はここに来ている。雪が降り出してしまうと、毎週というわけにはいかなくなるが。
「私も来ていい?」
予想外の問いに、一瞬、頭の中が白くなった。
「駄目?」
言葉に詰まって返事をしない(出来ない)俺を見て、四葉は不安そうに首を傾げる。
「別に駄目じゃないけど、来ても多分暇だぞ? 寒いし」
「玉拾いするよ。そうしたら、身体暖まるし」
そう言えば、いつだったか四葉がバスケに興味があると言っていたことを思い出す。
身体は大丈夫なのか? そう訊きたかったが、止めておいた。そういう質問を四葉が嫌がっていることは知っていたし、何よりも、四葉が来てくれるのは嬉しかったから。
「まぁ、来たいなら来ればいいんじゃないか?」
いつ思い出しても苦笑してしまうほど素直じゃなかった当時の俺の言葉に、四葉は目を細めて笑い、大きく頷いた。
翌週から四葉は広場に来るようになった。最初に言っていた通り、することと言えば玉拾いくらいで、疲れたらベンチに座ってボーっとしていた。
二学期が終わりバスケ部を辞めて、新年を迎え、三学期が始まっても、四葉は広場へと来ていた。もちろん体調を崩した時は姿を見せないが、それ以外の時は、ほとんどだ。普段の病弱さを知っているとどうしても気を遣ってしまい、なるべく四葉を走らせないようにと気を付けていた結果、シュート率は自分でも驚くほど上がった。
そんな日常が変化を迎えたのは、二月に入った暖かい日のことだった。
前日の金曜日に『起きたら行く』と四葉に言った通り、十時過ぎに目を覚ました俺は、朝飯や身支度を適当に済ませて、十時半過ぎには家を出た。玄関に置いてあるボールを手に取った時、少し空気が抜けていることに気付いた。この前入れたばかりだというのに。近所の人からの貰い物のボールなので、大分古いし、そろそろ替え時かも知れない。
広場に着いたのは十一時前。いつもの事だが、四葉は既に来ていた。
「相変わらず、おそよう」
ベンチに座っていた四葉は俺に気付くと、睨むように目を細めて、『おはよう』と『遅い』を掛け合わせた造語を口にした。
「相変わらず早いな、四葉は」
「私が早いんじゃないの。ネコ君が遅いの」
そういえば、このあだ名も継続している。もともと俺の猫背が原因で付けられたあだ名だ。おそらく、猫背の癖が直るまで続くのだろう。
ベンチから腰を上げて、球拾いのためにゴール下へ歩いていく四葉の背中に声を掛ける。
「なぁに?」と振り返った四葉に向けて、力を抜いてボールをパスすると、驚きながらも見事にキャッチした。少し前の四葉だったら確実に顔面コース(身体を狙っても何故か顔面で受け止めるのが四葉だ)、よくて腕で身体を守るくらいが精一杯だっただろう。
球拾い、リバウンドのキャッチ、そこからパス、そればかりしていたおかげか、四葉もキャッチとパスはそれなりに上手くなっていた。ドリブルやシュートはお世辞にも上手いとは言えないが、もともと勘がいいのか、それとも頭が良いからなのか、リバウンドボールの落下地点の予測の正解率はかなり高い。落下地点が分かっても体が追いつけないことは多々あるようだが。
ボールの横から顔を出して、急になんだ、とでも言いたげな非難の目を向けてきた四葉に、ゴールを指差して見せる。
「そろそろシュート練習してみたらいいじゃん」
四葉は途端に怯む。
「しゅ、シュート?」
「キャッチもパスも出来るようになったんだしさ」
戸惑うように俺とゴールを交互に見てから、覚悟を決めたらしく、不格好なドリブルでゴール下まで歩いていく。俺が休憩している時など、暇を持て余した四葉がたまにシュートをしているのを見たことがあるのだが、今回は妙に緊張しているようだった。
ゴール真っ正面、フリースローラインより少し前くらいの位置で手足を止めた四葉は、勇ましい表情でゴールを見る。
その表情のまま、胸より少し高い位置でボールを両手で構えて、シュートを打つ。
それより早くゴール下に来ていた俺は、数歩横に移動して、ゴールのリングに触れることなく落ちてきたボールを片手で受け止める。
「そっか、四葉はツーハンドか……」
俺が小さく呟くと、四葉は、何か言った? というように首を傾げた。「いや、なんでもない」と返事をしながら、ボールを投げ返してから、
「ちょっとワンハンドシュートしてみ? 届かないかもしれないけど」
俺がフォームを作って見せると、四葉は大きく頷いて、見様見真似のワンハンドシュートをする。
少し距離が届かず、ボールはリングに当たると、四葉のところまで戻っていった。
しっかりとしたフォームとコツを身に付ければ今の距離くらいなら届きそうだが、やはり筋力的にツーハンドの方がいいかもしれない。
しかし、そうなると少し困ったことになる。
「ねぇねぇ、ネコ君。シュート、どっちがいいかな?」
ワンハンドとツーハンドのフォームを交互に構えながら四葉は尋ねてくる。
「そりゃ、早く安定しそうなのはツーハンドだろうけど……」
「けど?」
「俺、バスケ始めたの中学からだし、ツーハンドってあんまやったことないんだよな」
一年の頃、当時の三年生の先輩に教えてもらった事はあるが、結局、あまり使う事もなかった。ミニバスなどの経験者なら詳しく教えてやることも出来るのかもしれないが……。
その事を言うと、四葉は「いいよいいよ」と首を横に振った。
「教えてもらってばっかりじゃ悪いし、自分で調べてみるよ。女子と男子の違いもあるかもしれないし。とうっ!」
悪役に蹴りを入れるヒーローのような掛け声とともに、四葉はツーハンドシュートを放った。
今度はリングに勢いよく弾かれて転がっていくボールを追いかけて手にした時、ふと思い付いた。
「なぁ、四葉」
振り向きながら名前を呼ぶと、シュートフォームの確認をしていた四葉から「なーにー?」と返事が戻ってくる。
「俺、近いうちに新しいボール買いに行くつもりなんだけど、四葉も自分のボール買ったらいいんじゃないか?」
「自分のボールかぁ。……ん? 一緒に買いに行こうってこと?」
「四葉が買うならな」
「行く! 買う!」
急に片言になった四葉の勢いに若干怯みながらも、「お、おう、そうか」と返す。
その日の夜、『これってもしかしてデートか?』と悩むことになるのだが、それについては多くを語らないでおこう。恥ずかしいから。
そんなこんなで翌日の日曜日に買いに行く約束をして、練習を再開する。
午後一時頃。少し遅めの昼食はそれぞれ家から持ってきたものを食べて、四葉より一足先に練習を再開(四葉は食べるスピードも遅ければ、食後すぐに動くことも禁止されているらしい)した時、広場の出入り口の方からキキッという鋭い音が聞こえた。自転車通学の俺にとっては聞き慣れた、ブレーキが軋む音だ。
音に反応して顔を向けると、そこには見知った顔があった。
自転車に乗って広場に入ってきたのは、バスケ部の元後輩の小松だ。
俺達二年と違い、経験者が多い一年の中で数少ない未経験者。今のところ、経験者と比べると全体的に劣るが、と練習熱心な性格で、ガタイがよく、バスケ部の中では身長が高い方なので、実力的に追い抜かずとも並べば誰よりも活躍を期待できる後輩だ。
自主練だろう。バスケ部のジャージを着て、自転車の籠には鞄とバスケットボールが入っている。この小さな町にバスケの練習が出来る公共の場は、学校を除くと三箇所しかない。
一つは、ここ、ナントカ広場。しかし、ここが一番環境的には悪いだろう。コートは無いし、ゴール台も一台しかないのだから。
もう一つは、バスケットコートやテニスコートがある運動公園。しかし、そこは、昼間は高校生や大学生、夜は地元の不良っぽい学生が集まる事もあり、中学生には少々行き辛い場所だった。
最期の一つは町立体育館。他の二か所と違って利用料金はかかるが、体育館を貸し切れることを考えれば安い、中学生でも払えるような金額だ。料金は各個人ではないため、大勢で行けばその分安くなるという利点もある。
とはいえ、やはり中学生は金欠なものだし、多少環境が悪くとも、こちらに来る奴がいても何もおかしくは無い。むしろ、今まで誰も来なかったのが不思議なくらいだった。もっとも、俺がいるのを見たら諦めて帰るだろうが。
そんな風に思っていた俺の考えとは裏腹に、小松は俺に気付くと、自転車を降りてから小さく頭を下げた。
「犬山先輩! うっす!」
「お、おう」
久しぶりに聞く大声と、顔を上げた時の人懐っこい笑みに少し怯みながら挨拶を返すと、小松はその笑顔のまま、ボールを持って俺に駆け寄ってくる。
「あの、俺も一緒に練習してもいいっすか?」
俺を見下ろしながら言う小松に、思わず顔をしかめてしまう。また身長伸びたな、こいつ。もちろん、その事で顔をしかめたわけじゃあないが。
「……駄目っすか?」
肩を落とす小松に、「そういうわけじゃないけどな」と頭を掻きながら答える。すると、小松はそこでようやく四葉に気が付いたらしく、しばらく固まってからハッと顔を上げた。
「お、お邪魔ですか?」
「ちげーよ」
こればっかりは即答しておく。バスケ部内で変な噂を流されたら堪ったもんじゃない。しかし、小松は『じゃあなんで?』と言いたそうな瞳で俺を見てくる。
「お前、バスケ部辞めたわけじゃないだろ?」
「はい。そりゃ、もちろん」
「…………」
少し前に辞めた身としては嫌味に聞こえなくもない言葉だが、こいつにその気はないだろう。
「俺なんかと練習してんのがバレたら嫌な顔されるぞ。特に、先輩に」
その先輩というのはもちろん俺の同級生の事だ。呑気な小松でも部内での俺の立場は分かっているらしく、少し悲しそうに顔を俯けた。
「そうかもしれないっすけど……俺、気にしません」
「気にした方が良いと思うぞ。結構、陰湿な奴、多いからな。つっても、お前よりは一年分、練習にせよなんにせよ経験してるわけだし、その分上手い。指導してもらいたいなら、他の奴らに教えてもらえよ。一年にだって二年よか上手い奴だっているだろ」
「でも、一番上手いのは犬山先輩っすよね?」
「俺が上手いんじゃなくて、他の奴らが下手すぎるだけだ。入部した時――つまり今の二年は未経験者ばっかりだったしな。俺なんか、三年生がいた頃のベストメンバーには歯も立たない。それに、今の一年ならすぐに上達するだろ」
そんな三年生が引退したら、俺を練習に参加させようと顧問が躍起になってきた。実は、そんな顧問がうざったかった、というのも部活を辞めた理由の一つだ。
「上手かったっすもんね、三年生。ちょっと怖かったっすけど」
練習の時、俺が三年生に一on一で負けるのを見ていたであろう小松も、素直に、そして感慨深げに頷きながら言う。
「三年生が引退しちゃったから、先輩も辞めたんすか?」
「……ま、それもあるのかもな」
三年生が引退して以来、それまで以上に部活をつまらなく感じるようになってしまった。目標が無くなったから、追い越す相手がいなくなったから。スポーツモノの物語的にはそういう理由が付くのかもしれないが、理由なんか自分でもいまいちよく分かっていない。
「というか、ここに来る前に、他の先輩にも訊いてみたんす。でも、自主練はしてないって人がほとんどで……してる人も家の敷地にあるバスケットゴールで、とか……」
「じゃあ、お前がここを使う日は来ない事にするか」
「駄目っすよ! 教えてくれる人がいなくなっちゃうじゃないっすか!」
小松は意外と我儘な奴だった。
「先輩から何言われても俺は気にしません! それに、一年のみんなは味方になってくれると思うので!」
「そうなのか?」
確かに、小牧は人から嫌われるようなタイプではないと思うが。
「うす! 一年生で犬山先輩の事を嫌いって人いないっすから!」
「……本当かよ」
俄かには信じ難い。気分で部活をサボる先輩など、我ながら好きになれる自信は無い。
「そりゃあ、部活をサボるのは良くないと思う、って人もいますけど……。でも、先輩、練習に出た時なんかは、俺達一年が質問したら、ちゃんと答えてくれるじゃないですか」
「……一応、言葉は理解できるからな」
一年生は俺の事を猿だとでも思っているのだろうか。なるほど、それなら嫌われていない理由も分かる。普通の猿と比べたら、俺だって『出来る猿』には入るだろうから。
「い、いえ! 別に先輩を馬鹿にしてるわけじゃなくて……!!」
小松は慌てたように手を振りながら身を引いてから、少し暗い表情を見せた。
「いないんすよ、なかなか。俺達の質問にちゃんと答えてくれる人って。中には『一年がそんなこと気にすんな』みたいに言う人もいて……」
「へぇ」
質問内容が分からないから反応に困る。
本当に一年が気にしなくていい事なのか、それとも答えが分からないから誤魔化したのか。
先輩バスケ部員が好きじゃないらしい一年達は後者で考えているようだが、もしかしたら前者なのかもしれない。
まぁ、どちらでもいい。おかげで一年には妙な団結力が出来ているようだし、俺の知っている限り、小松は性格上、年上からも好かれている。これなら、俺と一緒にバスケをしているくらいで二年にいびられるような事もないかもしれない。
「あ、うっす」
突然、小松が慌てて頭を下げた。
「うっす」
呑気な声に振り返ると、いつの間にか四葉がすぐ後ろに立っていた。
興味深そうな笑みで俺と小松を見てから、ふふふ、と可笑しそうに笑う。
「ネコ君、意外と良い先輩なんだ」
「うす。犬山先輩は、意外と良い先輩なんす」
意外は余計だ、と言いたかったが、良い先輩だと自分では思わないため、無言のまま顔をしかめた。
「ねぇ、教えてあげたらいいじゃん」
どこから話を聞いていたのかは知らないが、四葉は後ろで手を組みながら言う。
「別に、俺はいいんだけどな……」
頭を掻きながら小松を見ると、「ホントっすか!?」と、嬉しさ半分驚き半分の表情で言った。どうやら、二年のことは本当に気にしていないようだ。
「じゃあやるか」
「うす!!」
耳に人差し指をさして小松の大声を軽減してから、再度振り向く。
「四葉はどうする?」
「私は見学しとくよ。流石に、バスケ経験者二人の練習にはついていけないし」
四葉は小さく欠伸をしてから俺達に背中を向けてベンチに戻っていく。眠たいのか、途中で両手を上げて大きく体を伸ばしていた。
翌日。待ち合わせ場所の駅に着くと、四葉は既に来ていて、俺の姿を見ると、
「珍しい格好だ!」と驚いたような笑みを浮かべた。
呑気に笑う四葉とは反対に、俺は内心ドキッとした。
俺の格好はいつものジャージプラス防寒着という運動着ではなく、厚手のパーカーにジーンズという普段着。
昨晩、悩んだ末に選んだ服装だった。おかげで就寝時刻は予定より遅れ、待ち合わせが午後からで本当に良かった、と思った。
「別に普通だろ」
確認の意味も込めて訊くと、四葉は「そうだけど」と言う。
「これまで、いっつもジャージとかだったじゃん」
「そりゃ、バスケする時にしか会わなかったからな」
服装を変に思われなかった事に安堵しながら、待合室と受付、自動じゃない改札口くらいしか小さな駅舎に入り、一台しかない自動券売機に小銭を入れている四葉を見る。
四葉の普段着を見るのは二ヶ月振りだ。膝まである白いコート。膝の下は黒タイツしか見えない。なんとなく、大人っぽい格好だと思った。都会の中学生はみんなこういう格好なのだろうか。
ていうか、あぁいう服装って、コートで隠れているだけで、当然、短パンとか履いてるんだよな?
そんな疑問が不意に浮かんだが、自分で確かめるなんてのはもちろん、本人に訊いてみるのも何故か気が引ける。
「これでいいんだよね?」
二番目に安い切符を指差しながら振り返った四葉に「ん? あぁ」と答えながら、俺もポケットから財布を取り出す。
一時期と比べると煙草を吸う量がかなり減ったため、前ほど金欠に悩まされることもなくなった。中学生の俺にとっては決して安いものではなかった合成皮革のバスケットボールを買い換えようと思ったのは、そんな金銭事情も関係している。
待合室の椅子に腰掛けて二十分ほど待ち、俺達は電車に乗った。
車内は意外と混んでおらず、ボックスシートもロングシートも埋まっているのは半分ほど。
俺はボックスシートに座ると、目的の駅に着くまでの間、ほとんど窓の外を見ていた。
電車からの景色はなかなか面白い。普段と視点が違うためか、見慣れた踏切でも、どこか違って見える。
引っ越してきて数ヶ月の四葉が同じことを考えているのかは分からないが、四葉もほとんど口を開かずに外を見ていた。
目的の駅が近付き、電車が高架を走るようになると、遠くに海が見えた。別に、珍しくもなんともない。俺達が住む小さな町は海に面していて、俺の家なんかは数分歩けば海に出るような場所にある。
冬晴れの太陽が反射してキラキラと光る海面。近くで見ると汚いのに、遠くから見ると綺麗に見えるから不思議だ。
「うわー」
そんな景色を楽しそうに見ている四葉の瞳も煌めいているように見えた。こっちは近くで見ても綺麗だったけど。
スポーツショップは駅から二キロほどの場所にある。気温が低かったり雨や雪が降りそうだったりしたらバスで行くつもりだったが、今日の天気を見て徒歩で行くことになった。
スポーツショップは様々な店が立ち並んでいる通りがある。大学があることから学園通りと呼ばれている通りには、ファミリーレストラン、ファーストフード、ピザ、蕎麦、回転寿司などの飲食店はもちろん、書店やゲームショップ、レンタルショップ、パソコンショップなどがある。他にもネットカフェやらカー用品店などもあるのだが、店全てを挙げていたらきりがないだろう。とりあえず、大抵のものは揃うところだ。
「四葉って本読んだりすんの? 漫画以外で」
書店の前を通った時、四葉の顔が横を向いていることに気付き、そう尋ねる。言うまでもないかもしれないが、当時の俺は漫画専門の読書家だった。同時に立ち読み専門でもある。
「最近はしてないなー。ほら、本を読むのって、病院でも出来るでしょ?」
「あぁ、入院してた時にか」
四葉が広場に顔を出すようになったある日、俺は四葉からその話を聞いた。
今だって一般的に見れば病弱な四葉だが、昔は更に身体が弱く、入院することも多々あったらしい。
「そうそう。テレビは共有だから好きに見れないし、同年代の患者さんもいなかったから、読書くらいしかする事なかったの」
「じゃあ読書自体はそんなに好きじゃないのか」
「うーん。そういうわけでもないんだけど……。どうせなら入院中に出来ないことをやりたい、って気持ちが強いかなぁ」
「なるほど」と理解は出来たが共感は出来なかった。なんせ、俺は生まれてこの方、入院するような病気を患ったことも、怪我をしたようなこともない。骨折すらない。
「ねぇねぇ、ネコ君。ここら辺にハンバーガー屋さんってないの?」
周りを見ながら、四葉は唐突に訊いてくる。
「ハンバーガー? マックなら向こうの方にあるけど」
今、歩いてきた方向を指さすと、四葉は「えー」と声を上げる。
「いつの間にか通り過ぎちゃってた?」
「いや、裏道通ったから、マックの前は通ってないけど……、なに? 腹減ってんの?」
そう訊くと、四葉は腹に両手を当てて、俺から隠すように体を軽く捻りながら、「ち、違うよ」と否定した。
「お腹は減ってないけど、食べてみたいの」
「食ったことないのか?」
四葉は頷く。
「お父さんもお母さんもハンバーガー嫌いで。スーパーとかで売ってるのは食べたことあるんだけど、やっぱりハンバーガーはハンバーガー屋さんで食べたいでしょ?」
「そうか?」
「そうなの」
そうらしい。ハンバーガーなんて、値段が変わらないなら、どこで買おうが味だってそうそう変わらないと思うが。
「それに、座るのはやっぱり二階の席が良いよね!」
「そうか?」
「そうでしょ!」
そうらしい。それこそどこでもいい気がするが。
「ま、それなら帰りに寄るか。そのくらいの時間なら少しは腹減ってるだろうし、人も少なそうだし、二階なら尚更席も空いてるだろ」
よっしゃ、と小さくガッツポーズをする四葉を見て、そこまで喜ぶことだろうかと笑みが浮かんだ。
スポーツショップに着くと、トイレに行った四葉より一足先に俺はバスケのコーナーへ向かった。
他のコーナー、特に野球などと比べると小さいが、バスケショップがなく、ここのようなスポーツショップが大してない田舎では、それでも有り難い。その中でも駅から比較的近くにあるここは部活動をしている学生に人気がある。
今日も、野球、サッカー、テニスなどのコーナーの前を通ると、部活帰りなのか制服やジャージ姿の学生がいた。高校生だったり中学生だったりと年齢は様々だ。親と来ている小学生や、ゴルフコーナーで試し打ちをしている大人もいる。休日とはいえ人が多い。繁盛しているようだ。
野球コーナーで、小学校低学年くらいの男の子が父親とグローブを選んでいるのを見て微笑ましい気持ちになっていたのだが、バスケコーナーから出てきた男子と目が合い、『うげ』と言いたくなる。表情には出ていなかったと思うが、俺を見たそいつは思い切り顔をしかめた。
立ち止まったそいつの後ろから、二人の男子が付いてきて、そいつらも俺を見る。一人は特に反応もなく、もう一人は気まずそうに顔を俯けるという、三者三様の反応を見せてくれた。
三人とも、同じ中学のバスケ部員だ。
「部活辞めた奴がこんなとこに何の用だよ?」
低い声でそう言ったのは、俺と最初に目が合った石山だった。石山は身長こそ低めだが二年のバスケ部員の中では一番上手く、本人もそれが分かっているのか、いつもどこか偉そうな態度をとる奴。ただ単にそういう性格なだけかもしれないが、どちらにせよ俺は石山の事を好いてはいなかった。
「ま、趣味程度には続けていくつもりだから、新しいボール買いに来ただけ」
悪いか? というニュアンスをたっぷり込めて言うと、石山は口角を上げて、不快感を感じざるを得ない笑みを浮かべる。
「趣味、ねぇ……」
馬鹿にされていることは分かったが、相手にするのも馬鹿らしい。それに出来れば四葉が戻ってくるまでに、こいつらには帰ってもらいたい。
俺は「そうそう」と軽く流し、三人の横を通ってバスケコーナーに入る。
横を通った際、ずっと俯いていた保谷が顔を上げ、一瞬だけ目が合った。何か言いたそうな顔をしていたが、どうせ謝るくらいしかしないだろう。それを聞いたところで、そして保谷だって言ったところで何も変わらない。
ちなみにずっと黙っている男子は宮原と言う。身長は高い方だが、バスケ部内では下の上くらいの実力。無口なのは性格で、今に限ったことではない。多分、俺が部活を辞めたこともどうでもいいとでも思っているのだろう。
三人が去っていくのを盗み見ながら、内心で安堵する。石山や他のバスケ部員に何を言われようとも俺は気にしないが、四葉は過剰なくらい気にするだろうから。
「さっき入り口のところで保谷君と……あとバスケ部の人達見かけたよー」
バスケコーナーにやってきた四葉が、一口目にそう言った。ここのトイレは店に入ってすぐ横の通路にある。おそらく、四葉がトイレから出たとき、あの三人は店を出て行ったのだろう。
「ネコ君は会った?」
「話はしなかったけどな」
「ふーん……」
小さく呟き、真顔で見つめてきた。普段からニコニコしている四葉にそんな表情で見られると疑われているように感じてしまう。
「『あいつはアレだから駄目なんだ!』って、えーと、小さい人が言ってたから、ネコ君の事かなーって」
小さい人と言うのは石山の事だろうが、その言葉で俺が浮かぶのは些か悲しい。
「そうかもな」と返すと、四葉は「うんうん」と二回頷いた。四葉の中では確定らしい。やっぱり悲しい。
「でもね、保谷君がやんわりとだけど、ネコ君のこと庇ってくれてたんだよね。ネコ君って保谷君と仲良かったっけ?」
四葉が首を傾げるのも分かる。保谷と俺は同じクラスだが、話をすることはない。正しくは『なくなった』だが、一年の頃を知らない四葉からすれば、当然の疑問だ。
「一年の頃は仲良かったんだよ。俺をバスケ部に誘ったのも保谷」
更に補足すれば、中学に上がって(多分お互いに)初めて出来た友人だった。
「へぇー」
意外、とでも言いたそうな声だ。
「俺が部活をサボるようになったせいか、二年に上がってからは全然関わりないけどな」
「でも、ネコ君のこと庇ってたってことは嫌ってはないよね?」
「部活に誘われたのも結構無理やりみたいなところあったからな。少し責任感じたり、罪悪感みたいなのがあったりすんじゃねぇの? あいつ、お人好しだし、さっき会った時もなんか言いたそうにしてたし」
「じゃあちゃんと話しなよ」
「意味ないだろ。俺は別に謝ってほしいわけじゃないし。保谷が勝手に気にしてるだけだ」
「意味なくないよ。絶対、今のままよりは良くなるって」
いつにも増して自信満々の言葉に「そうかね」と呟くように返事をすると、四葉は力強く頷いた。
「それに、謝る以外にも、何か話したいことがあるかもじゃん」
なんとなく真面目な雰囲気になってきた事を感じ取って、場を茶化すように、もう一度「そうかねー」と今度は爺臭く言ってみると、四葉は『ちゃんと聞け』と言わんばかりに腰に手を当ててむくれた。
こうなるとどうしようもない。四葉ではなく、俺が。
溜め息を吐きたくなるのを抑えながら、横目で四葉を見る。
「分かったよ。機会があれば話してみる」
その言葉に、四葉はパッと明るい表情をして、大きく頷いた。
なんとなく照れ臭さを覚えた俺は、目の前の棚にあったバッシュに手を伸ばした。
「ネコ君、高校でバスケするの?」
なんで? と反射的に訊き返す前に、四葉の視線が、俺が持っているバッシュに向けられていることに気付く。
あぁ、確かに。バスケ部辞めたばっかりの奴がバッシュを手に取ったら、そう思われても不思議じゃない。
俺は「さぁ、多分やらないと思う」と返事をして、バッシュを棚に戻してからボールの棚に向かう。
「やればいいのにー」と言う言葉を背中で聞きながらボールの棚に到着。部活をやっているわけでもなければ遊びでしか使わないのだから安物のボールでもいい。と頭では考えるのだが、なんとなくボールの値段は今のものより下げたくはなかった。
適当なボールを手に取りながら、ふと思い付いた質問を口にする。
「そういや、四葉の進路ってどこの高校? 学力的に南高辺りか?」
「え? うーんと、ネコ君は?」
「俺? 全然決めてない」
「じゃあ私もそれで」
「なんだそりゃ」
四葉はクスクスと笑いながら、目の前のボールを手に取る。
「あ、これいい感じかも」
「それ、七号球。中学生は六号球」
「わお」
「それに、ここのは少し高い。合成皮革だからゴム製とボールと比べると、駄目になるのも早い」
「でもネコ君、これ買うの?」
「こっちのが試合とかで使うボールと感覚近いからな。今使ってるのもこれだし」
「試合、出ないじゃん」
「……まぁ、こっちに慣れてるからな」
「ふーん」
十分ほど悩んだ後、結局、二人とも合成皮革のボールを買うことに決めたのだが、ハンバーガーを食べるにはまだ早いということでスポーツショップ内を見て回ってから店を出た。
進路について誤魔化されたことなど、気にも止めないまま。
半年ほどの時が過ぎた。中学最後の夏休みも、あと一週間で終わる。
あれから広場には小松や後輩バスケ部員達が来るようになった。最近では今年入った一年の部員も来るようになり、昔のように一人でバスケをする事の方が少なくなったと思う。
四葉は相変わらずだ。たまに体調を崩すこともあったが、数日後には元気な顔を見せてくれるし、広場にも顔を出していた。『バスケ部の人優先』というのは四葉自身が言い出したことで、一緒にバスケをする機会が少なくなったのは残念だが、少しずつ上達していく後輩を見るのは、思いのほか退屈しなかった。
俺と四葉の関係も変わらないままだ。中学三年生にもなると周囲で付き合い始めただの、別れただの、そんな話もチラホラとあったが、俺は誰かと付き合うということが未だによく分かっていなかった。
付き合ったら何か変わるのだろうか。ただ好き合っているだけでは駄目なのか。俺はそれで十分だと思っていた。わざわざ『付き合う』という形を取らなければ好き合えもしない同級生を見下していた気持ちさえあった。
その日の広場は、珍しく午後からも俺と四葉の二人きりだった。空を見上げると、夜から雨の予報ということもあり、灰色の雲が空に広がっていた。
俺は自転車の後輪部分に傘を差しているが、四葉は傘を持ってきていないし、片手運転も出来ない。
時刻は午後四時を回ったところ。帰るにはまだ少し早いが、雨に打たれて四葉が体調を崩すのは避けたい。
リングに当たって跳ね返ってきたボールを取ると、ベンチで休憩している四葉の元へ歩いていく。
「雨降りそうだし、そろそろ帰るか」
眠たいのか、俯いていた四葉は驚いたように顔を上げた。
「もう帰るの?」
「雨、降りそうだし」
言葉を繰り返しながら空を指さすと、灰色の雲に気付いていなかったらしく四葉は「うわぁ」と口を開いた。
「気付いてなかったのかよ」と呆れながら言うと、四葉は「あはは」と誤魔化すような照れ笑いをした。
四葉が立ち上がる様子を見せないので、俺は隣に腰かけた。拳骨三つ分ほど空いている二人の距離は、なかなか縮まらないが、それでも構わなかった。
ふぅ、と息を吐きながら見上げると、先程よりも雲の黒色と空の暗さが増していた。あんまりのんびりしている暇はなさそうだ。
「疲れたか?」
問うと、四葉は俯き加減で首を横に振る。
「そういえば、ネコ君、いつの間にか煙草吸わなくなったよね」
「ん……、そ、そうだな」
確かに、四葉や後輩たちの前で吸うことはなくなったが、四葉が学校を休んだ時は未だに吸っている。以前と比べれば本数は激減したが。
思わず口ごもると、四葉は目を細めて疑うような視線を向けてきた。
「まだ吸ってるんだ」
「……簡単に禁煙できるなら禁煙グッズなんて売れてないっての」
それに、何となく吸う気にならない時が多くなったから本数が減っているだけで、俺自身は禁煙する気はない。
四葉は溜息を吐きながら「もー」と言ってから、ふと思い付いたように顔を上げた。
「そういえば、なんでネコ君って煙草吸うようになったの? いつから? やっぱ悪いものに憧れたの? なめ猫とか」
「随分古いネタだな、おい」
俺達が生まれる何年も前のネタだ。昔懐かし~系のテレビ番組でしか見た事が無いくらいだ。
というか、別になめ猫は悪い奴じゃない。
「吸い始めたのは中学に上がる少し前。理由は……特にないか」
自分では、中学校という新しい場所への不安と、少し早めの反抗期と、四葉が言った通り子供特有の悪いものへの憧れが重なった結果だと考えているが、それを言うのはどこか情けないというか、恥ずかしく思えた。
「理由もなく煙草って吸い始めるものなの?」
どこか責めるような口調に聞こえなくもないが、キョトンとした表情を見るに、純粋な疑問らしい。
「じゃあ逆に、煙草を吸い始める大した理由って何だよ」
「悪に憧れて」
「四葉にとって大した事なのか、それ」
「うーん、家庭の問題とか」
「普通の家だぞ、うちは。それに、色々ある奴全員が喫煙にはしる訳じゃないだろ」
「猫背」
「なんでだ」
「ううん。そうじゃなくて、ネコ君、また猫背になってる」
自分の姿勢に意識を向けると、なるほど、四葉の言うとおりだった。
「ネコだからしょうがないだろ」
「開き直らないの」
バンバンと強めに背中を叩かれて、仕方なく背筋を伸ばす。
「こっちはなかなか改善が見られないねー」
「そうだなー」
「他人事みたいに言わない」
その言葉に小さく笑い合い、俺は腰を上げた。会話も一区切りついたし、流石にこれ以上の長居はまずそうだ、と厚く黒い雲で覆われた空を見上げながら思う。
「いい加減帰らないと、マジで降り出すな」
「ねぇ、ネコ君」
俺の声にかぶせるように口を開いた四葉を「ん?」と振り返る。
「私ね、中学卒業したら引っ越すの」
いつの間にか、四葉は右手の人差し指と親指で俺の服を掴んでいた。
そして、笑っていた。
「元々、そういう予定だったの。お父さんの仕事の都合で。確定してたわけじゃないから言わなかったけど、やっぱりそうなるだろうって、この前……」
言葉を失う俺に、四葉は悲しそうな笑顔のまま理由を説明する。大した理由じゃなかった。少なくとも、俺達にとっては。でも、俺達子供にとって重要なのは理由なんかじゃなく、そう決まったという事実だ。理由がどうであれ、その事実に抗うことなど出来ない。
誰が悪いわけでもない。それが分からないほど俺達は子供ではなく、しかし全てを仕方ないで済ませられるほど大人でもなかった。
俺は、なんと言えば良いのだろう。どんな言葉が正しくて、間違いなのか。
雨が降り出し、広場から立ち去る四葉の背中に何も言えないまま、俺は立ち尽くしていた。




