9.
「こっちは炊き終わったよ!」
肉だんごが白い湯気の中に現れて言った。この一角では、おかずを作るのに石釜と料理鍋が所狭しと並べられていて、飯炊き場でも特に忙しい。というのに、肉だんごは手の中の例の火掻き棒もどきを振り回して、周りの人間に嫌な顔をさせている。
アウリスはすぐに隣に屈んでいた少年の方をふりかえったが、相手はすでに立ち上がっていた。
「火を消しに行くよ」
焚き火係りの少年の言葉に、慌てたように肉だんごが両手を前に出して振る。
「いいよ、俺が消した。最後の釜だったから、お米はこれで終わりだよ」
「ちゃんと土をかけて消しましたか?」
アウリスが思いたって言えば、肉だんごは少しムッとしたようだった。
「もちろんだよ。前に教えてもらっただろ?」
消化のときに木炭に水をかけてはいけない。しけてしまって、次に使い勝手が悪くなるからだ。そこで、籠に詰まった土をかぶせるのが正しいやり方だった。
確かに、肉だんごにはもう教えているのだが、火掻き棒もどきの熱い方の先端を誤って握って、火傷をしかけた前歴があるので、にわかには信用が置けない。しかも、火傷をしかけたのは二、三度のことではないのだ。
「とりあえず見てくるよ」
案の定、火の番の少年がそう言うと手を伸べた。彼の胡乱げな目つきを受けて、肉だんごはいっそう不機嫌になったようだったが、それでも文句を堪えて相手に火掻き棒もどきを渡す。
「じゃあ、シチューの鍋を一つ給仕の方に持ってってくれる? 二人なら運べるだろ?」
「はい」
「もう戻らなくていいよ。後の分は俺が見とくから」
「給仕の手伝いに行けばいいんですね。わかりました」
アウリスは肉だんごに目配せをして立ち上がった。番をしていた石釜ではまだ、二つの料理鍋が湯気をたたせて吹き続けている。目当ての料理鍋はその後ろにあり、水を含んだ泥の中で冷まされているところだ。
常連となりつつある肉だんごに力を貸してもらって、二人でへっぴり腰になり、料理鍋を河原の給仕の元へ運ぶ。
今や、肉だんごは米当番と言っても過言ではないだろう。木の実を煎るついでに任せているのだが、おかげで、アウリスはおかずの手伝いの方に多く出るようになって、仕事もずいぶんはかどっていた。
けれどそれ以上に、肉だんごが前と変わらずに木の実を持ってくるから、いつの間にか二人の間で仲直りが出来ていたことが、アウリスにはありがたかった。本人の前でそんな気持ちを言葉にすることこそ、ないけれど。
黄緑色の柳の木に差しかかったとき、その木陰に背を預けている人物が目に入った。風に乗って、おいでおいでをする紐状のさみだれをかいくぐり、鮮やかな朱色の頭が見え隠れしている。意外でも何でもないが、セツも一緒だ。
「ああ、今思いだしたんだけど、アウリスさ。おまえがずっと気にしてる……」
このとき、しゃべりだした肉だんごを制したことを、アウリスは近いうちにひどく後悔することになるだろう。
料理鍋を二腕の先にぶらさげ、アウリスは柳の木影を見ていたが、やがて歩きだした。何事かと立ち止まっている肉だんごを置いて早足になると、鍋を軸に百八十度回転するような形で先頭に立ってしまう。
「ちょっと、速いよ!」
肉だんごから悲痛な悲鳴が上がったが、アウリスは無視した。もともと、給仕場は目と鼻の先にあるのだから、一時だけ全力で集中したらすぐに着くものなのだ。
アウリスが頑として譲らなかったおかげで、給仕係りを見つける頃には、肉だんごは熟れたトマトみたいな顔になっていた。そこで、今度は彼をおいて、給仕係りに用事を聞き、木工の網の形をした濾し器と、火掻き棒を手に、給水場の浄水作業をしに向かう。
手早く終えて戻ってきたアウリスに、給仕係りは彼女が待っていた言葉をかけた。
「他が揃うまでは休憩してていいよ。先にあるもので食べてもいいけど、どうする?」
「いえ。食べるのは後でいいです」
アウリスが断りを入れていると、肉だんごがちゃっかり、仕事の済んだところを見たようにやって来た。
「アウリス、取って」
肉だんごが親指の先ほどの大きさの実を投げてよこした。アウリスの好きなオオグルミだ。丁寧に皮を割り、中身だけを取りだしてある。
アウリスはクルミを口に放り込み、代わりのように注いだばかりの水筒を肉だんごに投げた。
「あ、ありがとう! 喉乾いてたんだ」
肉だんごの声がアウリスの歩きだした背中にかかる。どうやら完全に復活しているらしい。水筒を手に、おいしそうに喉を上下させる気配が、アウリスに遅れてのろのろと登ってくる。
かがり火が斜めに生えている、ゆるやかな斜面を逆戻りしていきながら、アウリスの鼓動は少しずつ上がってきた。さっきの柳の木が見えてくる。そこにはまだ、人影が動かずにあった。
(……う、やっぱり声をかけない方がいいんじゃ)
セツとアルヴィーンの姿を見たとたん、目当ての相手がまだいることにホッとするのと、緊張するのと、なぜだか両方の気持ちがアウリスを襲う。
「え?」
逡巡して立ち止まっていると、肉だんごがさらりと素通りしていった。驚いたアウリスは慌てて引きとめようと手を伸ばしたが、すでに遅い。進行方向では、不穏な気配を感知したセツが勢いよく立ち上がった。
「とまれ! それ以上近づくな。アティレットの御仁は昼寝の最中である。邪魔をするな!」
セツは、そっちこそアルヴィーンを起こしかねないだろう大声で怒鳴りつけてくる。
肉だんごが足を止めないからか、セツは更に柳の木陰から出てきた。日光を浴びて、睫毛が煩わしげに伏せられる。そこでやっと、セツは閃いたという顔つきになって、肉だんごと、その後ろに仕方なくついてきているアウリスの顔を見た。
「そうか。またおまえたち給仕の係りらか。懲りずに何の用だ?」
「まあまあ」
しかめ面のセツに、肉だんごが両手を捏ねるような動作で近づいていく。
「食事の準備が出来たみたいだよ。行こうよ、セツ」
「はあ? なぜ、おまえらなんぞと食卓を共にせねばならん。だいたい、俺はアルヴィーン様の昼寝の番をしているんだ。さっきの話を聞いていなかったのか?」
「まあまあ」
セツの双眸がとび色の炎を噴かんように睨みつけるが、肉だんごは怯む様子もなくセツの腕を掴み、あいた手で彼に何か握らせた。
「これでも食べろよ」
「ん? なんだこれは」
「他の人には出ないんだよ。甘いよ」
「甘いのか。いや、待て。俺はここでアルヴィーン様の昼寝の番を」
「まあまあ」
肉だんごは巧みに丸い体つきを利用してセツを押し退け、ついには会話で気の逸れている相手を歩きださせるのに成功してしまった。なかなかの邪魔者捌きだ。ふだんは鈍感な肉だんごだけれど、ここぞというところで気をまわしてくれているのだろうか。
二人の背中が、かがり火の影になるまで見送ったところで、アウリスは居住いを正すかに小さな咳払いをし、それからやっとアルヴィーンの前へ進んだ。亜麻色の髪の少年は、柳の微妙に傾いだ幹に頭を預け、仰向けに寝転んでいる。隣でそっと膝をついて屈んでも、起き上がる様子はなかった。
明るい輝きを放つ髪の前が、それより濃い色の睫毛にかかっている。今は普段束ねられている髪がほどかれていて、色のついた水のように滑らかに肩へ流れている。
目を覚ます気配のないアルヴィーンを見ていると、アウリスは動揺に顔が赤くなるのを感じた。
アルヴィーンとしゃべったのは一回きり。顔を覚えたときから、気づくと視線で探すようになっていた。その原因には後味の悪さが大きかっただろう。けれど、一度近くで見た彼の色鮮やかな姿は、アウリスの視界の中でどうにも目立ってしかたがなかった。
地面に両手をついて、アウリスはアルヴィーンの寝顔を眺める。柳の枝が風に揺られ、その乾いた音が辺りに満ちていた。アルヴィーンの前髪も一緒に舞っている。一つ一つ、丁寧に手入れをされた、収穫時の光り輝く稲穂の海のような光彩を帯びた髪。
まるで吸い込まれるように、日光を淡くしたようなその色に見入っていた。
(触っても、いいかな……?)
好奇心なのか、べつのものだったのか、アウリス自身にもじぶんの気持ちはよくわからなかったが、ただ衝動のままに手を伸べて、亜麻色の髪に触れようとした。指で滑らかな頬に触れ、そこにかかる一房を掬って絹のような感触を楽しもうとしたとき、前髪のあいまに琥珀色の瞳が覗いた。
アウリスは目をしばたかせた。アルヴィーンの表情は、寝顔のときとまったく変わらずに静かなものだから、はじめは見間違いみたいに思えたけれど、今は相手の瞳が意志を持ち、まっすぐにこちらを見ている。
いつから起きていたんだろう。急に目があったせいで思考がうまく働かず、アウリスが呆けたような顔で固まっていると、そこへいっそう、驚く感触が触れた。
身が総毛だつ。アウリスが思わず信じられないものを見る目つきになれば、一方、眉ひとつ動かさず、刃を抜き晒したアルヴィーンは、手に若干力をこめるように刃の角度を変えた。鋼鉄の冷たさがアウリスの肌に滲む。
「……あ」
今度こそ完全に硬直したアウリスの方へ、アルヴィーンが身を起こした。ぶれない手で刀身をアウリスの細い首に宛がったまま、蒼褪める彼女を覗くように近寄る。
吐く息が届いてしまうような距離まで詰められて、アウリスは思わず居心地の悪さに身じろぎした。アルヴィーンの琥珀色の瞳が僅かに見開く。
「ああ、給仕の」
それだけ呟き、アルヴィーンは太刀を下ろした。遅れて身を退き、流れるような動作で立ち上がりついでに剣を鞘に戻すと、その足で去っていく。亜麻色の髪が揺れる長身の後ろ姿を見上げながら、アウリスはまだ衝撃の中にいた。
(寝ぼけてたの?)
まだ今起こったことが整理できていないうちに、歩きだしたはずのアルヴィーンに振り返られてしまい、思わずアウリスの身が固くなった。その反応をどうとったのか、アルヴィーンが眉をひそめた。
「泣くな」
「えっ? あ、いえ、泣いてません、……」
聞くべきところは聞いたというようにアルヴィーンが再び背を向けるので、アウリスは慌てて立ちあがった。
「あ、あの、さすがにびっくりしたけど、だいじょうぶです。怖いっていうより、驚いたっていうか。でも、こっちがびっくりさせてしまったんですよね。ごめんなさい。ごはんがもうすぐはじまるから、起こすべきかなあ、と思って。ちょうど仕事で近くを通ったときに、あなたを見かけたんです。それで、ついでだからと思って……」
じぶんでも押しつけがましいと思ったが、偶然通りすがって親切心を出した、という以外に言い訳が思い浮かばない。ここしばらく、アルヴィーンをいつも目で探していたということを知られるよりはましな気がした。
(でも、覚えててくれた……)
アウリスにはそれが何よりうれしかった。アルヴィーンは背が高くて、顔が整っていて、それに髪が目立つ。会う人間に必ず覚えられるくらいには印象深い。けれど、逆に彼もアウリスのことを忘れなかったらしい。
(少しでも印象に残った、ってことかな)
毎日三回、給仕のたびにお鍋越しに会うからこちらの顔を知っているんだろう、という冷静な思考は、頭の隅でひっそり潰しておくことにする。
「それ、装備小屋にあるものとは違いますね」
アウリスの指摘に、前を歩いているアルヴィーンの歩みは緩まったようだった。アウリスは小走りでそちら側に回り込み、隣に立って見下ろす。
革製のベストを前開きで纏う体躯の腰元には、先ほど抜き晒されたばかりの真剣がしっかりおさまっていた。握りの長さは訓練用の双刃のものの1.5倍程で、鍔部分には、薄い金属が花弁を並べるような風雅な型を作っている。危ないくらい近くで観察する羽目になったその刃渡りは、均一な美しさで光を反射する細身なものだった。アウリスには剣の種類はよくわからないけれど、この訓練所では見たことがないのはもちろん、かなり高価な品だろう、ということは安易に察することができる。
「ここへ来る前に、お家の方にいただいたんですか?」
思わず聞いてしまったあとになり、アウリスはしまったと思った。前回のじぶんの失態を遅れて思いださせられたのだ。
案の定、アルヴィーンにむっつり黙り込まれてしまい、隣のアウリスはどうしようかと手をこまねいた。この訓練所の子供たちの間では、出自の話は禁句に近い。数少ない話し相手の肉だんごも特に語ってくれた覚えがなかった。どんな生活をしていたのか。どんな家庭に生まれ、どんな事情で傭兵団に入ったのか。
アウリスにとっては、出自を明かせないという猫じゃらしとの約束の手前、不便だとは思わないし、逆に話題が出ないことは楽かもしれない。歩く宣伝係りよろしいセツの態度に、周囲が石投げの的という冷たい態度を取るのも、ここの空気の読めなさのせいだろう。
それだけではない。そもそも、面倒だとか、側に来るなとか、アルヴィーンには散々言われているのだ。そこで、そっとしておけばよかったのだろうか。話しかけたりして、じぶんはわざわざ、このひとにより一層嫌われるようなことをしているんじゃないだろうか。
急に我に返ったかに、消極的な思考が次々にアウリスの内に沸く。
(寝てたときは近づきやすかったのにな)
目を覚ましたアルヴィーンにすげない態度を取られるだろうことはある程度予想内ではあったものの、そうなるとやっぱり落ち込む。アルヴィーンは多分、アウリスにほっておいてもらいたいのだろう。けれど、やっとこぶりにアルヴィーンと言葉を交わしたばかりのアウリスには、このまま彼の背中を見送るのみということは出来そうになかった。結局、覚悟を決めて彼の隣に並ぶしかない。
「ごめんなさい、アルヴィーン」
アウリスは小走りで横に来て、おずおずと口を開いた。
「前みたいに、嫌な発言はしません。したときはちゃんと注意してもらっていいです。しないようにじぶんでも気をつけます。だから今日また、みんなで一緒に食べませんか?」
思いきってアウリスが目線を上げれば、アルヴィーンは気配を感じたかにこちらをふりかえり、少し怪訝とした表情になった。アウリスの真剣なほどの目つきの理由がわからなかったのかもしれない。
(ここは押すべきか)
「お、男同士、水入らずで。一緒にね?」
アウリスが畳みかけたとたん、アルヴィーンの目つきは何やら悪化した。その澄んだ瞳で胡散げなものを見るように見られ、そのうえ何も言わずに前を向かれてしまい、アウリスは大いに落胆する。やはり引くべきだったのだろうか。
留め具を手に後ろ髪を掻き上げたアルヴィーンが、我関せずと言わんばかりに髪を束ねだした。隣でトボトボとしょぼくれて歩く子供のことなんてまったく目に入っていないような素振りだったが、作業のあいまにふとアウリスを一瞥した。
「泣くな」
「泣いてません」
アウリスが魂の抜けた顔を向けると、アルヴィーンは琥珀色の瞳をわずらわしそうに細めた。
「好きな場所で食べればいい」
静かに諭すように言われて、アウリスには理解するのに数秒を要した。直後に彼女の頬に滑らかな赤みが差す。
「あ、ありがとう」
興奮をどうにか堪えた声で言って、アウリスは、はにかんだ笑みを浮かべた。背中で両手を組み、喜びも頂点といった風に大股で歩きだした彼女の横で、アルヴィーンは浮かない顔をして、早くも己の言葉を後悔したようなため息をつくのだった。
給仕場につくと、アウリスはいつものように米鍋の後ろにつき、最後の一人に食事が行き渡るのを待って、皆に遅れてやっとのこと河原を降りた。飯炊きの仕事がこんなに恨めしいと感じたのは初めてだったろう。
アルヴィーンは定位置の倒れた樹木にかけていた。その横顔には、あえて川のせせらぎの近くで耳を傾けるといった風な粋な静けさがある。……かに見えるが、近づくほどに静けさではなくて、あの機械のように的確なスプーン捌きが目に飛び込んできた。
(やっぱり、ラファエさまみたい)
無機質なくらいに真面目な顔で食事に取り組むアルヴィーンの隣に、アウリスは邪魔をしないように極力静かに腰を下ろした。
「おい! 近いぞ!」
番犬セツが彼の岩の椅子から何やらすかさず吠えたてているが、アウリスにはまったく気にならない。それよりも、じぶんの逆の隣にて大胆な勢いで座った肉だんごから伝う鈍い振動の方に、何をするのかとやきもきさせられる。アルヴィーンの前で、膝の上におかずを零したりしたら、どうしてくれるのか。もっと怖いのが、アルヴィーンが零して恥ずかしい想いをさせてしまったらもう、今度こそ挽回できない。
「オオグルミでちょっとおなか膨れちゃったなあ」
呑気に呟く肉だんごを、アウリスは敵意をこめて睨んだ。
「それ、いつも言ってるじゃないですか。そのくせ毎回椀の底を舐める勢いで完食するでしょう。それより、あんまり揺らさないでください。シチューが零れそうです」
「欲張ってたくさん注ぐからだろ? アウリスは」
「肉だんごにも同じくらいあげたでしょう? 文句言うなら返してください。さあ」
「文句言ったのはアウリスだろ!」
うだうだと言い争いを交えつつ、気づくとお腹が膨れているのが最近の食事風景だったのだが、今日は二人だけではない。何故そうなったのかはわからないうちに、お互いの椀を取りあいはじめていたアウリスと肉だんごの背中に、セツの一喝が飛んだ。
「落ち着いて食べられん! おまえたち、けんかするのなら余所でやれ!」
「黙れよ! 一番うるさいのはおまえだろ!」
「な、何だと……」
よもや言い返されるとは思っていなかったのか、セツが絶句する。しかし、そこは口から生まれたに違いない饒舌な本性をすぐに現し、肉だんごと激しい言い争いをはじめた。さすが男の子同士の怒鳴り合いは迫力で、少しアウリスを怖気づかせるほどである。
(二人は仲良くなったわけじゃなかったのか)
アウリスが給仕場に現れたとき、肉だんごとセツは二人でたむろし、彼女がアルヴィーンを連れてくるのを待っていたから、てっきり一緒にいて楽しんでいたのかと思っていた。ともあれ、こうして一人でセツの注意を惹いてくれていると、アウリスにとっては、アルヴィーンと話す機会が増えるかもしれない。
せっかくの肉だんごの働きをむだにしてはいけない。そんな風にじぶんを納得させて、気持ちを強くしようとしていたアウリスは、まるで計画していたかのようなタイミングで立ち上がったセツに驚いた。
「貴様! それ以上愚弄する気なら……」
どこかで聞いたような台詞付きで、セツがベルトに提げた木刀に手をかける。どういう経過があったにしろ、意外に手が速いのか。巻き添えはくらいたくない。
アウリスはすぐさま遠巻きに傍観する構えになりかけていたが、そのとき何の前触れもなく異変が起きた。
セツの体がのめりこむように傾いだ。その場の全員が、何が起こったのかわからなかっただろう。
しゃがみこむセツの足元に、鈍い音をたてて石つぶてが転がる。河原のどこにでもある、何の変哲もない拳程度の大きさの黒い石だ。しかし、ぶつけられればさすがに打撃が大きいだろう。
となりの肉だんごが応戦した気配がなかったのは確かだ。何かを探すようにアウリスの目線が漂い、川の浅瀬を歩いてくる少年の姿に留まった。朱金の髪と、あからさまに垂れ目と釣り眉の、人相の悪い面立ち。
「グレウ!」
肉だんごが顔を輝かせる。やはり、肉だんごが初めて現れたときに一緒にいた一団の一人だ。あのときと同じに気だるげな調子で立ち塞がった彼が、足元でうずくまるセツを醒めた目で見下ろした。
「うるせえ」
ポツリと、特に何の感慨もこもっていない声だった。グレウと呼ばれた少年は、滑るように横へ目を動かした。身構えているアウリスにはまったく興味を示さず、その隣の肉だんごの方へ軽く睨む。
「最近妙なのばっかとつるんでんな、おまえ」
「グレウは? もう飯終わったのかよ」
「ああ」
グレウがおもむろに皮製の太いベルトに手をかけた。木刀を小気味の良い音を上げて抜く。それに触発されたのか、セツが痛みを堪えた物凄い仏頂面で彼を睨んだが、当のグレウは知らん顔だ。
「明日は手合いの日だろ。今から練習行くぞ」
そう言って、グレウが川の方へ顎をしゃくるのに、肉だんごが今まで一度も見せたことがないような嬉しげな顔をした。
(そっか、肉だんごが毎回三戦三敗だとかいう、真剣の手合いだ)
アウリスはぴんときた。春先に他の子たちと一緒に訓練所を卒業出来なかったらどうしよう、と肉団子は仲間外れになる心配をしていたようだった。グレウの誘いからはそんな必要はなかったように見える。
果たして、肉だんごは小躍りしそうな様子で立ち上がり、椅子にしていた樹木をその図体には驚異的な身軽さで飛び越えていった。その彼に、まるでついでのように空の椀を突きつけられたアウリスは、やや不満げな顔になる。
(混ぜてほしいけど)
手合いの練習は楽しそうだし、他の誰かとだったら、肉だんごも一緒にいるからとついて行こうとしたかもしれない。けれど、グレウだけは微妙なのだ。アウリスの中では初対面の印象からして当然、彼に警戒心が芽生えているのだった。
「おまえはどうする? アルヴィーン」
意外にも、グレウがもう一人に声をかけた。従者セツに思いきり石をぶつけた出来事については気まずくならないのだろうか。
罪悪感の欠片もない軽々しい口調を受け、アルヴィーンは肩越しに目線のみを上げる。どうするつもりなのだろうかとハラハラして見ているアウリスの鼻先に、いきなり彼は椀を差しだした。
ほぼ反射的に両手で受け取ったアウリスは、遅れて目の前が陰るのに見上げた。椀の持ち主が音もなく立ちあがり、やはり衣擦れの音の一つたたない動作で抜き晒した。ベルトの左手前の、真剣ではなくて木刀の方だ。
「珍しいじゃねぇか、てめえがやる気だすの」
アルヴィーンが木刀を手に歩いてくるのに、誘った当人ですら驚いた様子をしている。アルヴィーンは手のひらの中で柄を一回転させた。
「たまには、いい」
「つか、チビのお守りに鬱憤溜まってんじゃねえの」
グレウが喉を鳴らすような獰猛な笑い声を上げた。
「おい、俺は先にアルヴィーンと打つ。いいか?」
「おう!」
肉だんごに異存はないらしく、それどころか、なぜか興奮した風に赤くなっていた。グレウに手を伸べられると、肉だんごは彼自身の木刀を引いて放つ。器用に宙で柄を取ったグレウが、逆の手に己のベルトを探らせ、そこにある二本目の木刀を抜いた。
背筋のきれいに伸びた後ろ姿が外側に剣を提げ、もう片やでは、気だるげに頭を傾いだ後ろ姿が、左右に撫で下ろすように二つの剣を携えて続く。その周囲では、先ほどの会話が合図だったかに、人々が馬車道の石垣のように左右に別れて集まってきた。
そのときになり、やっとアウリスはグレウの先ほどの言葉の意味に思いあたり、のんびり首を捻っていた。
(チビのお守りって、……わたしのこと?)
仮に「チビ」がじぶんのことだとしたって、アルヴィーンが誘いに乗ったのとは関係ないだろう。今日はアルヴィーンの機嫌を損ねるようなことは言っていないし、まさか、ここで一緒にいるのが嫌でじぶんを置いて行った、なんてことはないはずだ、多分。
「まだ食べ終わってないのかよ、アウリス」
不安を退けようと必死に言い聞かせているアウリスの胸内など知るところではなく、肉だんごがせっついた。
「早く来いよ、ほら、椀は持ってやるから」
「はい。あの、楽しそうですね」
奇妙なくらいに明るい肉だんごを、アウリスは胡散臭そうな目つきで見やる。肉だんごは当然だという風に大きく笑んだ。
「いいもん見られるよ。グレウとアルヴィーンが打ちあうなんて、そうそうないんだからな。教官たちが許さないんだよ。いいか? あいつらはな、お互い太刀筋が違うんだ。けど、同じ流儀の奴には誰にも負けねえ。そんくらい強いんだ。どっちもすげえ強くて、それにすげえ頑固でさ。しかもな、誰か怪我するまでやめねえんだよ」
「え、教官が許さないのに、それっていいんですか?」
「剣の腕の一位争いなんだよ、これは!」
(……聞いてない)
興奮気味の肉だんごに綺麗に無視され、アウリスはむくれた。しかし、手合いの様子はぜひ見てみたい。アルヴィーンのことを心配しつつ、危なくなったときにはすぐ呼べるようにと、アウリスは教官らしい姿を探して辺りを見回す。
「待て!」
ふいにアウリスは、追いついてくるセツと目があった。
「アルヴィーン様の椀は俺が持つ」
セツはそう言って、アウリスが立ち上がりついでに肉だんごに渡しておいた二つの椀のうち、一つを毟り取った。
この少年も唐突に勃発した対戦に興味があるのだろうか。そこなのか、というアウリスと肉だんごのうろんとした目つきに気づかないのか、気づかないふりをしているのか、セツは堂々と野次馬根性を露にして、人だかりを追いかけるアウリスたちの隣に並んだのだった。