8.
その日、アウリスは石積みの壁を訪れたけれど、高い所に登ると上向きになるはずの気持ちは、どうしてだか少しも晴れなかった。実際、アウリスの不安はもっと奥のところに根付いていたのだろう。
アルヴィーンに拒絶された日を境に、アウリスはあまり人と話さなくなった。一人だけ剣術を習っていないというところで、アウリスはもともと浮いた存在だったけれど、遠巻きにも同期の子供たちの輪に入りたいと思わなくなった。仕事の間は忙しくしたが、休憩時間には一人で石積みの壁にいることが多くなった。
訓練所には、コの字型に開いた二階建ての施設がある。アウリスのお気に入りの壁と同じに年期の入った石造りの城は、二十年近く前の七年戦争の頃の亡骸だ。詳しくはわからないのだけれど、戦時中に兵站線の一つとして使われていた場所らしい。兵站、というのは軍の中継点のことだという。アウリスはそう聞いても何のことかちんぷんかんぷんだったので、それ以上踏み入ってお婆には尋ねなかった。とりあえず、前線ではなくて、前線の支援をするために設けられた施設で、追加の食料や物資、兵隊などがここを通過していたようだ。
古城の一階には、黒炭の子供たちが六人組みで寝起きする間取りが並んでいる。廊下は、窓のない、褪せた石造りをしていて、そこを歩いていくと、松明に照らされる突き当りに、小さな図書室があった。
図書室とは言え、それらしいものは奥の壁際の木工の棚一つくらいのもので、実際には物置部屋のような風体だった。本棚はお婆が運び入れたものだという。昔はどうだったのか知らないけれど、棚の中はスカスカで、指折りできる程度の数の本のみが置かれている。忘れ去られたように埃被っている様子からして、アウリスが来るまでは誰一人来たことはなかったのだろう。庶民の子供には字の読めない者は少なくないから、もともと、黒炭のような施設には向かない赴きなのかもしれない。
本棚以外には、室内は壊れた鍋や予備の食器などが積み上げられ、無法地帯よろしく雑貨を床に散らしていた。
その日も、アウリスは松明の明かりのもと、名ばかりの図書室にこもっていた。
最近では午前一杯、読書をするのが日課になっている。訓練所に来てもう何日経っただろうか。毎日、同じ時間に起きだして飯を炊き、朝ごはんが終わると、みんなが剣の訓練をしている間に川の下流へ水浴びに出た。水浴びのときには必ずお婆が見張りをしてくれて、終わりにはきれいに洗った首筋の傷跡を処置してもらう。
猫じゃらしの毒針に貫かれた箇所は、負傷してすぐに医者に診せられたおかげか、今や塞がりかかっている。一日に二回変えていた包帯も、朝の水浴びの後に一回きり、お婆に巻いてもらうだけになっていた。
ラファエアート王子の計らいによって、遠足に出ることになったのだと。アウリスは猫じゃらしに聞いている。もちろん、それだけではないだろう。森の狩り場であんな目に遭ったあとだから、幼い少女の中には漠然とした危機感は残っていた。
黒炭には女の子がいないようだから、性別を隠すのはその為だろう。また、肉だんごや他の子たちと接しているうちに、どうやら傭兵団には平民しかいないということがわかってきてもいた。アルヴィーンのような例外はちらほらいるようだが、ジークリンデの身分を隠せと言われているのは、その辺りが関係しているのかもしれない。
けれど、わからないのは、どうしてそこまでして、猫じゃらしがじぶんをこの訓練所に置いているのか、だった。ラファエの指示なのか、猫じゃらしが提案したのかは知らない。けれど、アウリスはそろそろ我慢の限界に近づいていた。
ときどき、居ても立ってもいられない焦りを感じることがある。はじめは、命を狙われていたから、姿をくらますことになったんだろうと思っていた。そう考えるのが自然だったし、多分、間違ってはいないだろう。とりあえずはそれで納得していた。
けれど、この遠足は何かが妙なのだ。
終わりがいつまでも見えない。もしかすると、事態は、あの日からいっこうに収まっていないのではないだろうか。
アウリスの暗殺を依頼したのは誰だったのか。アウリスが猫じゃらしに連れ去られたあと、ラファエ王子はどうしたのか。そもそも、ジークリンデの家はどうしているのか。第二令嬢が突然失踪したのだ。ジークリンデのみんなは、例えば父親のレオナートは、その理由をちゃんと知らされたのだろうか。アウリスが今、どこで何をしているのか。父はちゃんと知っているのだろうか。
一方のアウリスは何も知らされていない。当人のはずなのに、じぶんを連れ去った人物とその指示をした人物が姿を晦ましてしまったせいで、アウリスは何も知らないままだった。
考えても答えが出るわけではない。募るのは不安のみ。まるで真冬の小屋の上へ降る雪のように、日々、静かに。けれど確実に、いつか屋根を潰してなだれこんでくるくらいに、不安は重く重く積もっていく。
アルヴィーンに袖にされたことでひどく落ち込んだのだって、もともと心が不安定だったからだろう。そのあとは更に、肉だんごとけんかしてしまった。
(いつまでこんな生活なんだろう……)
ゆううつな気分で新しい本を開いたアウリスは、ページの挿し絵にふと目を留めた。本は食材の話をしているようだ。料理にはあまり興味のないアウリスだったが、絵の草には見覚えがあった。
「……ツルミドリ」
葉のてっぺんの形がロウソクみたいに尖っているのを、指でなぞる。同じページの説明文を斜め読みすると、年中生えている類の雑草らしい。この訓練所にも生えていただろうか。
ジークリンデの家でよくツルミドリを摘みに出ていたのは、アウリスがまだ、ずっと幼かった頃のことだ。
中庭の芝生が青く輝いていた夏、アウリスはその頃仲の良かった侍女たちと一緒に外で遊んでいた。もちろん、騎士のお供を連れずに敷地の外へは出られない。そこで、城の裏戸を開いたばかりのところで慎ましく、壁際の草摘みにふけっていたのだ。
遊び疲れ、木陰で休憩していたとき、一人の少年が中庭に現れた。供は一人も連れておらず、その身一つで現れた彼を見て、王族と一緒にやってきた騎士見習いだとも思えただろう。何しろ、アウリスは王子とはこの夏で初対面だったのだ。
けれど、その姿を一目見て、アウリスには相手が誰だかわかっていた。
――母親譲りの美しい漆黒の髪と、父親譲りの青より青い濃紺色の瞳の王子。
ヴァルトール国内で有名なものに、そんな風に謳った吟遊詩がある。今代の王、グレン国王の正妃、サラン王妃は、七年戦争が終わりを告げたときに、ミハネ王国という国から嫁いできた。王妃の美貌と聡明さを謳う詩は数えきれないくらいにあって、彼女と偉大なるヴァルトール国王との間に授かった一粒種の王子の存在は、引けを取らないくらいに国中で祝福されていた。
美しい王子を前にして、アウリスは慌てて立ちあがり、泥んこのドレスの端を抓んだ。
「ご機嫌うるわしう、王子さま」
「ジークリンデの愛らしいご令嬢」
ラファエは少し驚いた顔をしていた。昨日、正門での出迎えと宴の席で顔を合わせたのみだったけれど、アウリスを一応覚えていたようだ。
「失礼、使用人たちだけかと思っていた。ここで何を?」
「ツルミドリを摘んでいました」
「ツルミドリ?」
「そうです。ほら、そこの籠にいっぱいあるでしょう? 料理人たちが午後の紅茶の甘味を作るのに使うらしいんです」
アウリスは侍女たちから聞いたばかりの豆知識を得意げに披露したけれど、それになるほどとうなずいた王子が、次にはとんでもない行動に出た。アウリスの足元には件の草を集めた編み籠があった。王子はそれの前に跪くと、草を一掴みしてパクリと口に入れたのだ。
アウリスにも、平伏している侍女たちにも止める暇はなかった。王子の顔がしかめられ、まるで牛みたいに今咀嚼したばかりのものを地面の上に吐きだした。
「……まずい」
口の端についた青汁を拭う王子に、アウリスはかける言葉を失っていた。唖然と彼の仏頂面を見下ろしていたけれど、我に返って笑いだした。
「王子さま。ツルミドリはそのまま食べるものじゃありません」
「甘味なんだろう?」
「そうだけど、違うんです。フラムって知りませんか? えっとね、ふわっとしたスポンジの生地のお菓子なんです。牛乳と黒蜜をたっぷり染みこませて作るんだけど、このツルミドリの葉に包んで蒸すと、焦げずに柔らかく出来るんだって。仕上げにはパールシュガーとか、密漬けにした果物とか乗せるんですよ」
どれも、その日侍女に聞いたばかりの豆知識だった。そんなことは棚に上げて、腑に落ちない顔をする王子が可笑しくて、アウリスは能天気にもけたけたと笑っていた。けれど、相手と場合によっては中傷行為とめされただろう。現に、傍にいた侍女たちは、図らずとも王子に雑草を食べさせたということで、とんでもないことをしでかしたといわんばかりに真っ青になっていた。口煩い乳母のヘリーネまでもが委縮していた。
けれど、王子の言動はここから更に場を仰天させることになった。どうやら、周りの空気を読めないのはアウリスだけではなかったらしい。
「そういうことなら手伝おう。草を毟ればいいんだろう?」
アウリスはさすがに目を見張ったが、周囲ではびっくりした、くらいの騒ぎではなかった。
「殿下。発言をお許しください。そのようなことをしていただくわけにはいきません。どうか」
「発言をお許しください。王子のお手を煩わせるわけにはまいりません、どうか」
朝一番の小鳥たちみたいに侍女たちは囀りたてた。その様子を見回して、王子は平伏する集まりに厳かに告げる。
「何故だ。おまえたちはこの国の第一王子にして唯一の王子に変なものを食わせただろう。場合によっては処罰するに値する」
(えっ、そんな)
アウリスは開いた口が塞がらなかった。アウリスだけではなかっただろう。王子が勝手に食べたのに、侍女たちを責めるなんてどうかしている。
アウリスは思わず立場を忘れて言い返しかけたけれど、ドレスの裾を僅かな力で引き戻された。ふりむけば、ヘリーネが平伏したままで、むんずとアウリスの足首を布地ごと掴んでいた。目ざとくアウリスの行動を予測したのだろう。
アウリスがそうしてまごついているうちに、王子はこちらの騒ぎなんてどこ吹く風という風に続けた。
「だから、おまえたちの遊びに俺を混ぜよ。いいだろうか? ジークリンデの令嬢」
だろうか、と疑問形だが、それは命令だった。
アウリスは意表を突かれて王子を見た。もしかすると、王子は退屈しているのかもしれない。考えてみれば、王子はこの城に来るのはこれが初めてで、遊び場や遊び相手を一人では見つけられないだろう。
八歳のアウリスは王子に少し同情した。きっと一人ぽっちなのがつまらないのだ。なのに素直にそう言えないらしい。そんな、王子というより一人の子供を見て、アウリスは仲間に入れてあげようと考えたのだった。
「うーん、いいですよ」
アウリスは仕方ないなあと言わんばかりの口調で言った。王子の目前でなければ、ヘリーネに編み棒をぶつけられていただろう。この展開は、侍女たちにとってはかなりの戦慄ものだったに違いないが、王族の命令があった手前、アウリスは彼女らに強く止められたりすることはなかった。
暇人王子を連れ、芝生の敷かれた中庭を歩く。城壁の周囲では土が剥きだしになっていて、ツルミドリだけではなく無数の雑草が生えていた。それらはいくら引っこ抜いても後から後から生えてくるらしい。
アウリスは草摘みをしながら、隣に屈む王子にツルミドリの見分け方を説明した。
「俺のことはラファエと呼んでいい」
つっけんどんな王子の言い様に、アウリスは素直にうなずいた。
「じゃあ、わたしのことはアウリエッタか、エッタと呼んで下さい。ラファエさま」
王子は冗談みたいに真面目くさった顔でうなずいた。
「ではアウリエッタ、お茶の時間の前には、いつもここにいるのか?」
「毎日じゃありません。でも、天気がいいときはよく中庭に出ます。今日はツルミドリを摘もうと思って。お兄様がフラムが大好きなんです。それで、侍女に作り方を聞いたら、ツルミドリがいるんだって教えてくれたんです」
アウリスはじぶんで作ってみたかったのだけれど、侍女にせがんでも台所には立たせてもらえなかった。ヘリーネの目が怖かったからだろう。今度、こっそり料理番に教えてもらおう。
「兄というのはセルジュのことか?」
アウリスがうなずくと、王子は驚いたような顔になった。
「でも、セルジュは片親なんだろう? それを兄と呼んでいるのか?」
アウリスは再び何事もない風にうなずいたけれど、それを聞いて哀しくなった。ジークリンデの家にはあまり客人がないが、まったくないわけではない。だから、こんな風に兄のことを貶されるのは初めてのことではなかった。
祭りのときや、国の休日などに、地方の家々は揃って家族連れであいさつに来る。貴族間の形式上の付き合いなのだろう。大事な用ならば、王都に入り浸っている父の方へ直接訪れるはずだ。
その父の知名度がなまじ高いものだから、ジークリンデの家の片親の息子の噂を知らない人間はいなかった。年端のいかない、遠慮を知らない貴族の子供たちは、家に来るたびにセルジュのことをあからさまに特異な目で見ていた。中には、王子と同じ質問をする者もいた。はじめはいちいち腹をたてていたものだけれど、アウリスもそろそろ慣れっこになっていたのかもしれない。
「兄君の為に菓子作りを手伝っているのか。いい妹君だな」
王子は出過ぎたことを言ったのだと遅れて気づいたのかもしれない。バツの悪い風にそう付け足した。
「お兄様、今日はお部屋にこもりっきりなんです。だから、フラムを食べたら元気が出るかと思って」
アウリスは呟くような小声で言った。
「兄君が? 何か病気なのか?」
「体が弱いんです。でもね、剣のお稽古で少しずつ強くなるはずだって。そしたら、お部屋にこもることもなくなるって」
「そうか。確かに男児は強い方がいいと聞く。アウリエッタは? 強い男の方がいいのか?」
「強い? うーんと、健康な方がいいとは思うかな」
兄が体調のいい日には、一緒に遊んでもらえる。王子としているように一緒に草摘みをしたり、兄の馬で少し遠くまで走ってもらったりする。その楽しい時間のことを考えて、アウリスはそう返事をした。
「……リシェール嬢はどうなのだろう」
いきなり話が変わった気がする。アウリスが思わずふりかえると、王子の頬は、俯いていてもわかるくらいに耳まで赤くなっていた。
「リシェール嬢も、強い男がいいのかな?」
重ねて問われ、アウリスは黙って手元を見下ろした。新しく遊び仲間ができて浮き立っていた気持ちが急に萎えていく。
(やっぱり、このひともリシェール姉様の方がいいんだ)
しきりに落ち着かない手を動かして、草摘みに集中するフリをしている王子を見ていれば、アウリスは少し意地の悪い気持ちになった。
確かに、リシェールは美しい。豊かに波打つブルネットの髪と、二重瞼の円らな目元。花緑青の瞳は、ジークリンデの家紋と同じ色であった。父が七年戦争での功績により昇格したとき、妻の瞳の色を思って選んだという色。
瞳の色だけではない。リシェールは肖像画の中の母と瓜二つだった。アウリスとリシェールの母、サフィネはアウリスを生んで間もなく亡くなった。生前は類稀なる美貌の持ち主だったという。生まれ育った田舎町では求婚者が絶えず、王都からは恋文を持った使者が、真冬の雪の日にさえ通い詰めた、と言い伝えられているくらいだ。
リシェールは、その母親といい勝負になる程度に賛美を集めていた。「ジークリンデの令嬢が道を行けば、ほうほうの看板娘たちが恥じらいに顔を隠す」。城下町では、そんな歌が流行った程である。
アウリスにだって、六つ年上のリシェールは自慢の姉だ。けれど、それとこれとは話が違う。リシェールばかりが注目を集めるのは、アウリスにとってはあまり気分のいいものではなかった。家を訪ねる者が揃ってリシェールばかりを気にかけると、おまけのアウリスはいなくてもいい存在になってしまう。
「でも、強いのってそんなにいいかなあ」
アウリスは王子を困らせてやりたい気持ちで言った。
「今だって、わたしもリシェール姉様もセルジュ兄様が大好きですよ? お兄様は体は弱いけど、優しいし、とても紳士的なんです。いつも笑ってて、すごく落ち着いてるの。わたしはああいうのがいいと思うけどなあ。穏やかな感じで」
「そうか。優しく紳士的で、笑顔で落ち着いていて、穏やかな男児なんだな」
王子はまだ顔が赤くて、きっとその脳裏にはリシェールの面影が浮かんでいるのだろう。四つ年上の令嬢のことがいたく気に入っているようだ。
ラファエがあまりに真面目に返すから、アウリスは逆に反応に窮した。なんだか毒気を抜かれてしまった気分だ。それどころか、王子の気持ちを振り回すような真似をしたことが少しだけすまなくなった。
「……リシェール姉様はけっこう、裏手の湖に散歩に行くのが好きなんです」
「湖?」
「はい。侍女たちを連れて時々行ってます。そこに誘ったら、お姉様は喜ぶかも……」
ちょっと反省して優しい言葉をかけただけのつもりだったのに、王子は急にふりむいた。白皙の面立ちは滑らかに上気していて、その濃紺の瞳は何かとんでもないものを見たかのように大きくなっている。
「ほんとうか?」
王子は聞き返したあと、急に我に返ったかのように顔を強張らせた。そのまま焦ったみたいに俯く。
(照れ隠し?)
王子は草摘みの手元を見ていて、その漆黒の前髪のあいまでは、長い睫毛が赤みの差す頬に影を落としている。濃紺色の瞳は、苦しいように、優しいように細められている。きっとまた、頭の中にリシェールを浮かべているんだろう。
王子の多大な反応に、アウリスはたじろいでいた。王子に質問されたのをやっと思いだすと、おずおずうなずく。すると、ふいに王子の横顔に笑みが浮かんだ。ふりかえりこそしないものの、思わず見惚れてしまうような、はにかむ笑みだった。
そのとき、見ているアウリスの内に僅かな痛みが走った。それは、名前のない痛みだった。
(……おとぎ話の夜の妖精みたい)
横顔の王子を眺めながら、きっとリシェール姉様とお似合いだろうな、とアウリスは思った。こんなに美しい王子なのだ。きっと、リシェールと並んでも引けに劣らない。
そう考えると、いっそう気持ちが沈むようだった。お客人がまた、じぶんよりリシェールを気に入ったからだろうか。それで腹がたつのだろうか。アウリスにはじぶんが落ち込む理由がわからなかったけれど、それ以外には理由も思いつかない。
「……ラファエさまはジークリンデの家は初めてですし。そういう穴場とか、リシェール姉様が好きそうなところとか、よかったら案内します」
「そうか」
どっちもどっちの、わざとらしい素っ気なさで交わしたとき、遠くで王子の名を呼ぶ声が聞こえた。
アウリスは王子につられて顔を向ける。蔦の絡まる城壁の角で、ちょうど迂回してきた集まりが見えた。その先頭が王妃なのに気づくと、アウリスは王子より早くに慌てて立ちあがった。
風に木枝の長さを凪ぐ喬木の並びを背にして、王妃は軽やかなアフタヌーンドレスの姿で歩いてきた。丸い肩には、薄紫色のショールがかかっていて、奥の透きとおるように白い肌が見え隠れしている。
アウリスはドレスをつまんでお辞儀しながら、その一行に見惚れていた。
王妃は三人の使用人を連れていた。うちの一人が、手際よく水筒の水でハンカチを濡らすと、王子の元に近づいてくる。黒髪の美しい青年だ。黒髪はヴァルトール王国の者にはいない異彩だから、揃ってその色を纏う目の前の使用人たちはみんな、王妃がミハネ王国から連れてきたのだろう。
七年戦争の末、ヴァルトール王国はミハネ王国との同盟関係を結んだ。その印にと、ヴァルトール国王はミハネの王女を娶ったという。
七年戦争はそもそも、大陸中の領土争いが発展して起こったという。けれど、ほんとうは違うんじゃないだろうか。
家庭教師に習ったことを思いだしつつ、アウリスはふと奇妙な空想に駆られた。
ほんとうは、戦争はとあるお国の、美しい王女を巡って起こったんじゃないだろうか。その美しい王女とはもちろん、今のヴァルトール王国のお妃さまで、その当時には、大陸中の王様たちが我こそはと名乗りを上げて戦った。そして、最後に勝利し、彼女の心を勝ち取ったのが、今のヴァルトール王国だったのだ。めでたし、めでたし……。
「御機嫌よう、アウリエッタ」
王妃の容姿に見惚れすぎて、アウリスはじぶんの方から先に声をかけるのを失念していた。我に返って慌てて挨拶を返す。絶対王権のこの国では、当然、アウリスの方からご機嫌をうかがうべきなのだ。
けれど、目に優しい王妃は中身も優しい女性のようで、アウリスを咎めたりはしなかった。聖女のように慈愛の満ちた微笑を浮かべ、アウリスの隣を見る。
「そんなに泥んこになって、何をしていたのです? 私の愛しい王子」
「何でもありません。子供の遊びです」
王子は問われて言い訳のように王妃に返した。じぶんも楽しんでたくせ、子供の遊びとはなんだろう。アウリスは少々不機嫌になったけれど、後ろに来て跪いたヘリーネの目もあったので、じとっとした目で王子の背中を睨むのみにしておいた。
黒髪の使用人が王子の手を清め終えるまで、王族は一言、二言互いの間で交わしていたが、すぐにみんなで城内に帰ることになった。午後の紅茶の時間が近い。そろそろ身だしなみを整える時間だから、王妃も王子を迎えに来たのかもしれない。
「では、お先に失礼しますね、アウリエッタ」
「ジークリンデの愛らしいご令嬢」
王妃に続き、王子が恭しく言った。母親の手前だから、最初にこの中庭で会った時みたいに丁寧になっているのかもしれない。現に、王妃が背中を見せたあとで、そっと近寄ってきた王子の物腰は、数分前の草むしりをしていたときと同じに戻っていた。
「エッタ、城下町にはよく出るのか」
お辞儀をしたままだったアウリスは、ドレスの裾を抓んだまま、曖昧に唸った。
「お供を連れて出かけることはありますけど。あんまり自由に歩けないんです。そっちへ行っちゃだめとか、ここから先は見るようなものはないとか、注意ばっかされて」
「供を連れなければ出られない治安の悪さなのか?」
「それはないと思います。ジークリンデの城下町は安全だって、お父様が昨日の宴でも言ってたでしょう? わたしが一人で出ないのは馬に乗れないからです。だからって馬車を呼んだら、こっそり出ようとしているのが気づかれてしまうし」
この王子は怖気づいているのだろうか。そう思って、アウリスは丁寧に説明した。城下町には何度も出ているけれど、身の危険を心配するような場所ではない。町は楽しい。買い物はしなくても、ジークリンデの敷地内には見ない品物や人々がいて、とても賑やかな気分になれた。もっとも、そういう肌慣れない場所を一人で探検するということがそもそも、幼い少女には禁止事項なのかもしれないが。
「レオナート殿が進めるから、行ってみたいと思ったんだ」
王子は何事か考え込むようにしたが、すぐに悪戯げな笑みを浮かべた。
「わかった。俺が馬を繰ろう」
「えっ、城下町に?」
「ああ。二人で行こう。俺はジークリンデのことをもっと知りたいと思っている。せっかくだから、城下町でも穴場なんか探そうよ」
王子は今から楽しみなのか、くったくない笑みを浮かべた。彼の言葉を聞いて、アウリスの直前まで膨らんでいた気持ちが、風船のように萎んだことには気づいていないだろう。
王子は、ほんとうはリシェールと一緒に行きたいと思っているのだろう。そのために、リシェールが連れていって喜びそうな場所の目星をつけておきたいのだ。
「はい」
それがわかってしまったけれど、アウリスはうなずいた。
それでも王子が、エッタ、と。じぶんにしゃべりかけてきたとき、王子は「エッタ」と、ほんとうに数少ない人間しか呼ばない愛称で、じぶんのことを呼んでくれたから。
目の前で期待に満ちて微笑むラファエに、アウリスは外出の約束をした。
それから四年が経ち、物置部屋と変わらない雑多とした図書室の隅で、アウリスはあの夏のツルミドリの挿し絵を一冊の本の中に見つけていた。
ロウソクの灯りが、蝋が受け皿に零れるたびに頼りなく揺れる。気づくとアウリスは、薄暗がりにその影が躍るのを見るともなく眺めていた。
(ラファエさま、あの頃はまあまあ、やんちゃだったなあ)
やんちゃというか、落ち着きがなかったのかもしれない。見知った王都から遠く離れた場所に来て、一か月も滞在することになっていたので、少し不安もあっただろう。
それでもあの日、素直になれない気持ちを草むしりに向けていたような少年は、いつの間にか若い紳士になっていた。優しげな物腰、絶えることのない穏やかな微笑み、落ち着いた眼差し……。
リシェールに見合う男になろうとしたのかもしれない。
ツルミドリの見開きの上で、アウリスは気だるげな頬杖をつく。ロウソクの影のゆらめきに、じぶんの心も波立つのを感じる。
あの頃は、アウリスにもよく事態が把握できていなかった。あれほどに稀代の美貌の持ち主として領内外で謳われていた姉のリシェールに、一つの縁談も浮かばなかったのも。リシェールの婚礼期に入って、王族が毎年夏に訪れるようになったのも。父がその時期に限ってはいそいそと家に戻って来てくれていたことも。それらの点と点を結んで、やっと理解出来たのは、アウリスがもう少し成長した後のことだった。
(ラファエさま……)
家が恋しくなるときに、アウリスがふと浮かべるのは、誰でもなく王子だった。ジークリンデの家には、姉のリシェールや、ヘリーネ。それに、夏の今は父親もいる。だけど、気づくとラファエのことを考えている。
そんなじぶんが、アウリスにはあまり理解できなかった。戸惑いを押さえこむように、手を胸にあてる。指のあいまに、粗末な半袖の布地を強く握った。
くる夏も、くる夏も。王族はジークリンデの城を訪れた。その黒地に金糸の獅子の紋章が、居城のてっぺんに翳された。
そのさなかに、疑問に思わなかったと言えば、嘘になる。リシェールがいなかったら、ラファエはきっとこないんじゃないか、と。じぶんには会いに来てくれないんじゃないかと。じぶんはおまけなんだとわかっていたから、アウリスにはそんな風に考えてしまうことがあった。
だけど、今はちがう。
ラファエはアウリスに約束したのだ。きっと、必ず迎えに来ると。
だから、大丈夫だと言い聞かせた。こんなところでふてくされていたって何の足しにもならない。アウリスはしゃんとしてないと、王子が迎えに来てくれたときに、しみったれた古い紙の匂いと拭えなくなったムスッとした顔で出迎えることになるなんて失礼になる。
アウリスは手元の本を閉じると、化石になってしまうくらいに長い間いた椅子から立ち上がった。本棚に本を返していると、ふと廊下の方が騒がしくなる。
きっと肉だんごだろう。子供たちの寝室になっている並びを挟んだ西側には、この物置部屋くらいしか部屋はないから、通路にはふだん人っ子一人いない。肉だんごが探しに来たということは、もうすぐ昼ごはんの支度が始まる時間なのだろう。
最近のじぶんはほんとうに図書室に入り浸りすぎだ。あの鈍感な肉だんごにまで居場所を当てられてしまうのだから。
アウリスは気を取りなおして戸口へ向かった。ついでにロウソクの火を吹き消すと、煙の筋が薄暗がりを漂い、僅かなバニラの甘い香りが満ちる。それに、少しだけ気持ちは和らいだようだった。