7.
目に入る高さで伸び放題になっている木枝に注意をして歩いていくと、目当ての人物はすぐに見つかった。亜麻色の頭は、くすんだ川べりの背景にポタリと垂れた夕日の雫のようだ。
アウリスは土手の滑りやすい地面を降り、アルヴィーンの元へ歩いた。背後では、無断でついてくる肉だんごの足音が続く。
「なんだ、おまえたち」
近づく二人に最初に気づいたのは、セツだった。彼の椅子代わりにする岩の前をアウリスが素通りすると、すかさず、彼は怒鳴りつけてくる。
「おい! ここにおわすのはアティレットの御仁であるぞ。少しは遠慮しろ!」
(だったら、わたしが肩を並べてもおかしくないじゃない)
もっとも、アウリスにはセツの言葉にまっこうから耳を貸すつもりもない。
アウリスは遠慮なく、目当ての相手の正面に立ち止まった。浅瀬に倒れた木幹の上に一人で腰おろし、傍の騒ぎには目もくれずに食事を続けていたアルヴィーンは、やっと彼女を見上げてきた。
「こ、こんにちは」
少年の耳元では、亜麻色の髪の後れ毛が飾り物のように揺れている。それに視線を惹かれつつ、アウリスはやや緊張気味に声をかけた。
「となり、いいですか?」
「おい!」
セツの制止の声を聞いて、アルヴィーンは目線のみを彼の方へ向けたものの、何も言わずに食事に戻った。
アウリスは戸惑って固まった。アルヴィーンは寡黙な方らしい。けれど、嫌だったら何かしら拒絶するだろう。そう思うことにして、アウリスはその場で身を翻すと、少し勢い余って尻もちをつくように木幹に座った。
それまで遠巻きにしていた肉だんごが、アウリスの横に来て腰を下ろす。
「いただきます」
肉だんごは意外と行儀のよいところを見せたあと、皮ベストのポケットを漁った。ケムシのように太い指を丸めて、拳いっぱいのオオグルミを出してくると、椀の米とおかずの上にまぶした。
そう言えば、木の実を炉場の火で煎たのだった。嬉々として椀を持ちなおした肉だんごを見ていたが、アウリスはふと思いたった。
「それ、ひとつください」
「え? オオグルミ? 嫌だよ、なんで」
「炉場を使わせてあげたじゃないですか。いいからください」
肉だんごは嫌そうに眉をしかめた。それから、やれやれといった表情になって、スプーンでのろのろと椀の中を掬う。
アウリスはじぶんのスプーンをだして木の実を受け取ると、続いて反対側を向き、アルヴィーンの椀の上に差しだした。小さく傾けたスプーンから、オオグルミが一粒、食べかけの炒め物に乗った。
「オオグルミです。甘くておいしいらしいから」
慌てて取ってつけたような説明を足し、アウリスはおずおずとアルヴィーンの様子を伺う。アルヴィーンは、はじめは椀の中を注視していたが、やがて宙で止まっていたスプーンを動かした。アウリスには永遠にも思える時間だった。
「ありがとう」
こちらを見ずに言う声は平坦で、真心以前に、魂がこもっていないかのような感じがしたかもしれない。アウリスはそれでも満足だった。
オオグルミをスプーンごと口に含んだアルヴィーンを見て、アウリスは自然と笑みを浮かべた。黙って口を動かす少年の隣で、そのままじぶんもスプーンを手に食べはじめる。ふと気配を感じて振り向けば、セツが苛立ちも露なしかめ面をして睨んできていた。その刺々しさはべつに気にならなかったので、知らんふりでアウリスは背を向けた。
スプーンの先だけを浸すようにして口に運ぶと、ソースのとろみが舌を暖める。
野菜と魚の白肉の炒めものは、あっさりしていて、そこに、にんじんとキノコの甘苦い煮立ちが味を添えていた。その下には、山奥の訓練所の田畑で収穫したばかりの、茶色いお米。米の種類こそ白だったけれど、ジークリンデの朝食によく出ていたリゾットに似ているな、とアウリスは思った。
「これって、ちょっとおかゆと似てますよね」
アウリスは話しかけたけれど、アルヴィーンは聞こえていないかのように返事をしない。ふりむくことなんてなく、機械的なまでに単調に、口と椀との間にスプーンを行き来させているのみだった。
(ちゃんと味わって食べてるのかな)
アウリスは、相手の方を横目でしきりに観察した。アルヴィーンの顔は伏せられていて、そこに、陽の光を凝縮したかのような明るい色の髪が揺れている。うっとうしくないのだろうか。
アウリスの考えが伝わったかに、ふとアルヴィーンが、何気ないように前髪を掻き上げた。彼が手を放せばすぐ元通りになってしまったけれど、そうして髪が揺れるあいまには、やや切れ長なせいか、鷹のように鋭利な感じのする目元が見え隠れしている。その伏せられた睫毛の長さは、朱色をひとさし混ぜたような琥珀色の瞳に僅かな影をつけていた。
(男の子って、食事のときはみんな静かになるのかな)
アウリスはじぶんの周りの異性を思い浮かべた。七つ上の兄のセルジュ。ラファエアート王子殿下。あと、城下町の平民の子供たち。
次々に浮かべていると、アウリスは懐かしさがこみあげてくるのを感じた。特に、ラファエは夕食の時間を重宝していた。彼はジークリンデの領の羊肉をおおいに気に入っていて、夏にやって来るたびに楽しみな様子だった。アウリスの家では、殆ど一月通して羊肉が夕飯に出ていたほどだ。
十歳の夏だっただろうか。ある晩、馬を想定外に遠くまで駆けてしまったアウリスとラファエは、遅れて夕食に顔を出した。
ジークリンデの城では、主の家族と使用人たちは同じ食堂で食事を取るようになっていた。一方で、大事なお客人用の長方形の食卓は、シャンデリアの輝きの下、一番奥の三つほど段差の上がったところに設けられていた。そこには紅色のテーブルクロスが敷かれ、丹精をこめて整えられた料理が端から端へ展示される。
その夜、上座の食卓では、王と王妃、それに、アウリスの父のレオナート、姉のリシェールが席についていた。
遅れて現れたアウリスたちに、それぞれ、使用人たちが水の入ったボウルと手拭いを持って、近づいてきた。目の前で跪く仏頂面のヘリーネに手を清められつつ、アウリスは怪訝に思った。王の家族はいつもの位置だけれど、父や姉はどうしたのだろうか。
「王子は遠乗りに夢中だったようですね」
ハープの音色のような声が食卓を超えてかかった。宵の群青色のガウンを纏った王妃は、その美しい漆黒の髪の編みこみに触れて、困ったような笑いを浮かべていた。
アウリスの隣で手を洗い終えた王子が苦笑いした。
「もうしわけありません、母君」
「ジークリンデの幼いお嬢様にあまり無理をさせてはいけませんよ。ねえ、アウリエッタ?」
「いいえ、楽しかったです」
急に声をかけられて戸惑ったものの、アウリスはすぐに返事した。
「わたしは馬をはじめたばかりで、まだあまり上手に駆け足ができません。だから、王子はわたしを丘まで乗せて走ってくれたんです」
「そう、それはよかったわね」
王妃はそう言って微笑み、息子の方へ片手を伸べた。
「さあ、二人ともここへお座りなさい」
アウリスはそれを聞いて面食らった。だって、ふだんはリシェールと二人で、別のテーブルについて食べるのに。朝は自室で食べることもあるけれど、夕食の間は必ず食堂に赴き、仲の良い侍女たちを席に呼んで話をしたりするのが日課だったのだ。
同じに疑問に思ったのか、王子までが怪訝そうにアウリスの方をふりかえっている。そこへ、王妃の絹のように滑らかな声が響いた。
「今宵はリシェールと二人で過ごしていたのです。いろいろな話をしたのですよ、ここのジークリンデの領地のことや、城のことなども。私の愛しい国王が、レオナートを借りっぱなしになっているでしょう? だから仕方のないこととはいえ、主のいない城は荒れて当然です」
王妃が食卓の隅のリシェールへ促すように見た。リシェールは静かに微笑んだようだったが、何も言わずに目を伏せてしまった。その仕草はどこかぎくしゃくしている感じがした。
アウリスは妙に思ったけれど、何事もないかのように、王妃は言葉を重ねていた。
「使用人と隣同士のテーブルにつくのが、日課だとか。あんまりだとは思いませんか。前々から目についていたのですけれど、今夜はよくリシェールに言って聞かせたのですよ」
「やめないか」
王がふいに小さく呟いたことで、その話はやめになった。アウリスはまだ困惑していたけれど、とりあえずは目の前の三つの段差を登った。静かな食卓を回り込み、落ち着かない気持ちを隠すために目を伏せつつ、リシェールの隣の席についた。
使用人の引く椅子に座ると、アウリスの口からは、気を取りなおすようにため息が漏れる。父と姉がこうしているのだから、間違いではないのだろう。
実際、このときの幼いじぶんはそれで解決した気分になったけれど、今思えば、王妃は多分かなり失礼なことを言っていたのだろう。
とは言え、実際に食事がはじまると、はじめの居心地の悪さはすぐに吹き飛んでしまった。まず、王子がオードブルをすっとばしてスペアリブの皿を引き寄せた。それを見ていつものように、リシェールが五指で口を隠して、ふ、と吹きだした。王子がきたことで機嫌が上向いたらしい王妃も、困ったように笑ってそれを許していた。ラファエの羊肉好きはほんとうに、面白いくらいに突きぬけているのだ。ラファエが大きい欠片を選ぼうと真剣な顔をしているのには、見ている使用人たちの顔にまで笑みが浮かぶ。
「王子、お口の横に」
「あ? ああ、すまない。リシェール嬢」
リシェールがおっとり、彼女自身のえくぼを指で押さえて見せたので、王子は慌ててナプキンでじぶんの口を拭う。その様子を見ていた王妃が、微笑ましげに言った。
「私の愛しい王子。好物があるのはいいことですけれど、そればかりではいけませんよ。ほら、オリーブのサラダはいかが?」
「良いではないか。男子は肉を食ってこそ強くなるんだ。なあ、ラファエアート」
王が味方についたのが嬉しかったのか、王子は笑みを浮かべた。蛮族か何かのように口に入りきらない大きさの肉を切り取って畳むと、それをフォークで口の中いっぱいに詰めた。
思えば、ジークリンデでの晩餐に王が同席していることは珍しかったのだろう。国王は、初めての訪問があった夏にこそ一か月近く滞在したものの、次からは二、三日後に王都へトンボ返りをするようになっていた。執務が忙しかったのかもしれない。
父親の手前、変な方向にはりきって肉を食べ散らかす王子を見ていると、アウリスも心が浮き立った。
ふだんはあまりしないことだけれど、アウリスはその方角へ、控えめな視線を向けた。万年不在のジークリンデの家主、レオナートは静かにカトラリーを動かしていた。辺りの騒ぎからは一歩離れたような距離感は、まるで、彼だけがこの場で見ず知らずのお客人みたいだ。
けれど、そんな父の存在感が、アウリスは嫌いではなかった。今家族と呼ぶことを許されている人間が全員、ここに揃っているのだ。それだけではない。今夜は、大好きなラファエがここにいる。
そう思ったら、アウリスはいつもと同じような献立を前に、何か大きく得したような気分になったのだった。
(そう言えば、あのときからなんだな。ラファエさまと同じ席で食べるようになったの……)
アウリスとリシェールは、ふだんから上座に座るようになった。あの夏、王族が去ったあとに、アウリスは当然のように以前に戻り、侍女たちと並んで食事を取ろうとした。けれどリシェールは上座に座り続けることを選んだ。アウリスはそんな姉の側にくっついていって、いつの間にか、それが常識になっていた。
なつかしい思い出に馳せながら、アウリスは隣のアルヴィーンを見つめた。その口の端に米が一粒ついているのを見つけ、自然と手を伸ばした。
「アルヴィーン、口の横に」
アルヴィーンが初めてこちらを見た。アウリスは親指に拭った米粒を食べ、彼に笑んだ。わりかし食事中に注意が散漫だ。アルヴィーンのそんなところはさりげなくラファエ王子と重なる。
「ここってナプキンがないんですよね」
無言のアルヴィーンに、アウリスはくすくす笑った。
「それに、テーブルもないし。ご飯をこぼしたら悲惨です。カトラリーもないし。このスプーン一本だし。あんまりですよね、今日のお魚とか、食べにくくないですか? 押さえる為のピックがないもの。あとそれに、お米。茶色いんですよね。初めて見たときにびっくりしませんでした? 味も違うんですよね。なんて言うんだろう、白いお米とはぜったい何か……」
アルヴィーンが唐突に立ち上がった。アウリスは驚いて言葉を切った。問うように相手を見上げる間に、衣擦れの音をたて、その背中が離れていく。
「あ、あの」
つられるように立ち上がりかけたとき、その気配が伝わったのか、アルヴィーンが足を止めた。
「側に来るな」
「え?」
低く発せられた言葉に、聞き違いかと思った。戸惑うアウリスの方をアルヴィーンがふりかえる。
「面倒だ」
アウリスは唖然として、去っていくアルヴィーンの背中を見送った。いったい、急になんだというのか。
頭の中が衝撃にボウッとして、立ち尽くすことしかできないでいると、アウリスの隣に肉だんごが並んだ。
「なんだよ、感じ悪いよ」
まったくもって心境を的確に表してくれたその言葉に、アウリスはなんとかうなずく。
「どうしたんでしょうね」
「じゃなくて。アウリスだよ」
「え?」
「感じ悪い。茶色い米、なんか悪いのか?」
肉だんごの声には明らかな険があった。驚かされてふりむいたアウリスに、肉だんごは眉をひそめ、勢いよく空の椀を突きつけた。
「僕はここに来るまで米を食わせてもらったことなんか、なかったよ」
小さく呟くように言って、肉だんごは踵を返した。アウリスは追いかけそびれ、半歩踏みだしたままで固まる。
「……なによ?」
次から次に、よってたかって何だというのか。
アウリスは、手鞠みたいに丸い背中が遠くなるのを見ていたが、釘付けになっていた視線を無理に引き剥がした。手元に残った二つの椀を見下ろす。
後味の悪さがじわじわと胸を締めつけた。遅れて思いあたる節があるのに気づいたのだ。
けれど、今さらどうすればいいのかわからなくて、やがて、アウリスの後悔は無意味な苛立ちへとすり替えられた。
アウリスは不機嫌に木幹に腰をおろした。肉だんごに押しつけられた椀を、仕方なく膝元に乗せていると、後ろから声がかかる。
「仕方がない。俺もまだ食べ終わってないんだ。おまえが一緒したいって言うなら、ここに来てもいいぞ」
ふだんはむだに高圧的なセツが、珍しく優しげな言葉をくれる。けれどなぜだか、アウリスはそのせいでより惨めな気分になった。アウリスは食事の残りを少々行儀悪く掻き込むと、水筒の水を一気にあけ、早々にその場を立ち去った。




