5.
地上に近づくほどに、苔が毛布のようにくるみ、青い蔦が絡みついている石積みに、木材や、打ち捨てられた馬車の車輪などが、物置き場よろしく積み上げられて、ちょうど良い足場を作っていた。アウリスがそれらを降りていくと、待っていた人物がすかさず回り込んできた。
「なにやってたんだよ? あんな高いところで」
アウリスは内心眉をしかめた。少年の顔には見覚えがある。数日前に、アウリスの水汲みの最中に立ち塞がった一団の一人だ。
「今からなんか予定あるの?」
男の子が更に声をかけてきて、着地のときに土の中についた手を叩きつつ、アウリスは不審げに一瞥した。
「なんの用ですか、肉だんご」
「どっ、どういう意味だよ!?」
肉だんごがトマト並みに火照ったとき、わざとのように遠くで鐘の打つ音が響いた。
「合図だ」
アウリスが川べりに向けてさっさと坂を行くと、肉だんごは転がるようにして追いかけてきた。
「ちょっと待てってば! どこ行くんだよ?」
後ろから迫る声を無視して、アウリスは木立の中を進む。ほんとうに何の用なのだろう。また新入りだとか文句をつけにきたのだろうか、あまり関わりたくない。
喬木の森では、頭上の茂りが陽射しの明るさと宙で交差して、足元に光と影のモザイクを作っていた。そこに僅かな音を添え、秋に向けて積もりはじめた落ち葉が揺れている。
アウリスが静けさに耳を澄ましていると、当然のように二つ目の足音が隣に並んだ。
「どこ行くんだよ? 今のは仕事の時間の合図だろ? 飯炊きの準備に行くんだろ? 僕も一緒に行くよ」
「へえ、厳しい訓練はどうしたんですか?」
「今日は午後から休みなんだ」
見るからに能天気そうな肉だんごには皮肉が通じないらしい。相手が更にベルトに提げている剣を抜き晒したので、思わずアウリスは立ち止まっていた。
「今日はこれでずっと素振りしてたんだ。下流の水浴び場の近くでね」
「それ、装備小屋の?」
「ひとつ拝借したんだ。午後に暇だったからさ。毎日やってるとこれの感触に慣れるんだよ。一日一回は触っとかなきゃ、なんか気持ち悪いっていうか」
肉だんごは得意げに二度、三度と刃を凪いだ。この前のような木刀ではなく、芯の細い両刃の真剣だ。片手で握る型で、振ると蜂のはばたくような短い音がした。
アウリスは僅かに目を見開いて見ていたが、ふと見惚れているじぶんに気づくと眉をしかめた。仏頂面になって背を向けると、慌てた手振りで刀身を鞘に納めるのが聞こえてきた。
「その帰りに君を見たんだ。ええと、名前は」
「アウリス」
「アウリス。あんなところで何してたんだよ? 周りに人もいないし、降りられなくなったら大変だよ。落ちたって誰も助けてくれないし。危ないよ」
(余計なお世話よ)
ジークリンデの家に居た頃には、もっと高いところに登っていたが、一度も落ちたことなんかない。けれど、そう説明すると真剣に肉だんごを相手にしていることになる感じがしたので、アウリスは返事をする代わりのように、黙って歩調を速めた。
腰丈のシダや藪を避けていくと、やがて、黒い岩肌がちらほらと土を割る川べりに着いた。飯炊き係りは既に集まっていて、年長の者や年端のいかない子供たちが一緒になり、焚き火を炊いたり、料理具を並べたりするのをはじめている。
アウリスは小走りで子供たちに混じると、木壁にある桶棒と桶を担いだ。
「桶、一つ持つよ」
(まだいたのか)
アウリスは桶棒をもう一つ取って、肉だんごに突きつけた。
絹のように滑らかな川の流れを上流へ向かうと、アウリスと同じ恰好の子供たちの背中が見えてくる。彼らだけではない。まだ食事の鐘は鳴っていないというのに、気の早い訓練所の教官や訓練生たちまでもが、そうそうに集まってきていた。
「あ」
桶棒を担ぐのに手間取っていた肉だんごが、やっとアウリスの横へ来るや否や、彼女の後ろに隠れた。
「……なにしてるんですか、いやがらせ?」
「しっ」
背中を丸くした肉だんごが、人差し指を唇にあててきた。見つからないようにしているのだろうか。小柄なじぶんはともかく、その哀しい横幅のせいで誰を隠れ蓑にしたって苦しいと思うのだけれど。
アウリスが眉をひそめてふりかえると、そのタイミングで二人の大人がそばを通って行った。後ろ姿には、黒い上衣が斜めにかかっており、皮製のベストが胴体をきりっと締めてある。
肉だんごが、その円い頭をアウリスの背中から覗かせた。
「ジークとエンディ。朝練の教官だよ」
「どうして隠れたんですか?」
「僕、見つかってなかった?」
「さあ」
アウリスはそっけなく肩を竦め、肉だんごのせいで遅れた分を挽回するために歩きだした。
「待てよ。ちょっと、休もう」
「なに言ってるんですか。毎日の訓練で鍛えてるんでしょう?」
アウリスはしらけた。彼女の嫌味がやっと通じたのか、肉だんごは息が苦しそうにしつつ、しょげるように俯いた。
「あのときは、ごめん。僕たちもやり過ぎたんだ。新入りなのに挨拶もしない奴だから、ちょっとからかってやろうとしたんだよ」
肉だんごがため息をついた。
「この剣、ほんとうは今朝から借りっぱなしのままなんだ。真剣の手合いがあったんだ」
「手合い? 素ぶりに借りたんじゃなかったんですか」
「うん。一週間にいちど、朝練のときに手合いがあるんだ。僕は今日、三敗」
唐突に肉だんごが立ち止まった。
「前の週も、その前の週も、三戦三敗。だから、教官たちに会いたくないんだ。みんなにはもっと、会いたくない」
みんな、というのは数日前にアウリスが遭遇した一団のことだろう。
アウリスは肉だんごをふりかえった。両手を膝について前かがみになり、肉だんごは火照った顔をして、息を整える間に噛みしめるように続けた。
「来年の春、みんなで一緒に戦場に出ようって言ってるんだ。一緒にほんものの傭兵になろうって。僕どうしよう。僕だけ、訓練所に残ることになったら」
「ならないです」
肉だんごが酸欠そのものという苦しそうな顔でアウリスを仰いだ。
「ほんものの刃を向けられたら、だれでも怖いです。はじめは持つのも怖いです。肉だんごはどっちもやってきたんでしょう。その度胸があれば大丈夫じゃないですか。だから、すぐ立ち止まるのをよして、さっさと行きましょう。お婆に怒られたくないので」
言う傍から、アウリスの頭にはお婆の怒鳴り顔が浮かんだ。立ち止まったままの肉だんごは置いていくことに決めて、アウリスは小走りになって土手を降りると、木々を避け、陽射しの混じる川の流れの方へ寄った。
黒い岩肌に滑らないように進み、アウリスは浅瀬で膝をついた。手を伸ばして、水底の土が巻かないように、そっと桶を浸す。ここ上流では、そのまま飲めるくらいに水は綺麗らしいが、浅いのが少々問題なのだ。だから、桶を動かそうとせずに、流れを受け止めるようにして水を掬う。
やっと背後に足音が落ちると、アウリスは両手に桶を持ち、佇む肉だんごの方へ翳した。意図は伝わったらしく、肉だんごは桶をひとつ外しアウリスに渡しては、重くなったそれを棒にかけなおすのをくりかえした。
「さっき言ってたけど、戦場ってどこのことですか?」
アウリスはふと興味を惹かれて聞いた。大人しくしょげていた肉だんごは、考えるような間を置いたあと「どこでもだよ」、と答えた。
「どこでも?」
「そう、黒炭は傭兵団だ。だから、呼ばれたときに呼ばれた戦場に赴く。二十年近く前に七年戦争は終わったけど、戦場はまだなくなってない。例えば、残党とか」
「ざんとう?」
「七年戦争のときの残党がまだ、国内に残ってるだろ?」
七年戦争の話については、アウリスはあまり知らない。彼女が生まれる前に終止符を打った戦のことは、父がそこで名誉の勲章をいただき、王宮付きの参謀会の一人になった、というくらいの認識しかなかった。
「残党が内乱を起こしたりすると、黒炭が国家騎士団に次いで呼ばれることがあるんだってさ」
「へえ」
じぶんで聞いたものの、話は今やアウリスにはあまり興味のない方向に進んでいた。アウリスは気のない返事をしたあとに立ち上がり、二人で桶棒を担ぎなおすと、元来た道を戻りだした。飯炊き場では、まるで急かすように焚き火の音がちらついている。
「それだけじゃない。ヴァルトール王国は他の国や部族に囲まれてるだろ? だから国境では小競り合いが絶えないんだ」
「肉だんご。しゃべってもいいですけど、ちゃんと歩いてください」
肉だんごは桶棒の下でもがくように息をしていた。その状態でしゃべろうとするものだから、自然とのろまになっているのだ。アウリスは注意が聞こえていないかのような肉だんごに眉を寄せたが、彼はどうにも気づかないらしい。
「きっとまたいつか、戦になる。教官たちはそう言ってるよ。ヴァルトール王国は、戦で歴史を積んできた国だからだ」
「なんか、戦になってほしいみたいな言い方に聞こえますけど」
「そういうわけじゃないと思うよ。でもまあ、戦場がないと黒炭の出番もないわけだけど」
傭兵団は確かに腕自慢だ。平和な時代になると必要とされなくなるのだろう。戦場がなければお払い箱になる。
(戦いに行く以外の依頼も、受けてるみたいだけど)
肉だんごの話を聞いているうちに、アウリスは己の身に起こった出来事を思いださせられ、複雑な気持ちになった。
ジークリンデの領内の狩り場で、毒針を受けたのはもう、二週間近く前のことだ。あのとき、猫じゃらしはアウリスを殺す手筈だったに違いない。それはいったい、誰の依頼だったのだろうか。唐突に去っていった男には、そこを聞くことは出来ずじまいだけれど、当然、アウリスはじぶんの命を狙ったという依頼主のことを知りたいと思っている。
(猫じゃらし、いつ帰ってくるのかな)
あの男には、聞きたいことがたくさんある。
「次はなに?」
肉だんごの言葉がアウリスの考えごとを中断させた。
「まだ終わってませんよ」
えー、と間延びした声を上げる肉だんごを無視して、アウリスは辿りついた飯炊き場を見渡した。
河原には調理中の熱気がうずまいていた。忙しく行きかう飯炊き係りの顔には汗の玉が浮かんでいる。
アウリスは湯気に包まれた炉場に辿り着くと、桶をいちど足元に下ろした。鍋は空焚きをしているようだ。アウリスは火かき棒を手に一つずつ蓋を開けていき、空の鍋を見つけて桶水を注いだ。
「こっち、火をお願いします」
焚き火係の少年を呼びつけたとき、その骨と皮の手が彼女の肩を掴んだ。
「いたっ、……お婆」
アウリスは思わず棒立ちになっていた。だって、この昼は喧嘩をして飛び出してきたばかりだったのだ。
アウリスの気まずそうな顔を見て、お婆は皴だらけの顔をくしゃりと歪めた。
「なんだい、幽霊でも見たような顔して。しゃんとしな。そろそろ仕事に慣れてきた頃だろう。おまえには、今日から給士の手伝いもしてもらうよ」
お婆はそう言ってアウリスの肩をお玉で押した。それから何かに気づいたように、ふと背景の方へ目線を上げた。
「なんだい、あれは?」
アウリスがお婆の見る方を向けば、白い湯気の滲む道端で、肉だんごが桶棒を肩に四苦八苦していた。忙しい人通りの中を歩くのに苦労しているのだろう。
「肉だんご。朝練と素振りでへとへとみたい」
お婆はしかめ面でアウリスの言葉を聞いた。
「まあいい。あいつにも手伝ってもらいな。給士に来るときに、ついでに一つ、米の鍋を持っていくんだ。二人なら運べるだろう」
アウリスがぽかんと見ていると、お婆は機嫌の悪そうに舌打ちした。
「なんだい。返事は?」
――そろそろ、仕事に慣れてきた頃だろう。さっきのお婆の言葉がもういちど頭に響き、アウリスは慌ててうなずいた。
お婆はふんと鼻を鳴らした。そのまま首に巻いた手拭いで汗を拭いつつ、彼女が立ち去ったところで、交代のようにやっと肉だんごが追いついてきた。
「なあ、アウリス、アウリス。さっき歩いてて拾ったんだけどさ」
肉だんごは両手を一杯に開いて見せてきた。
「なにそれ」
「オオグルミ。煎って食べれないかな?」
「好きにしてください。仕事の邪魔はしないでくださいね」
肉だんごが嬉しそうに木の実を握りしめる。アウリスはその隣で、お婆のふりかえらない背中をもうしばらく眺めていたが、やがて両の袖をまくって気合いを入れた。