4.
川べりの方角に高く聳える、古い石積みの壁のてっぺん近くで、アウリスはそこに開く大穴の一つに身を預けていた。
皮の手袋を嵌めたから、冷たい石をよじ登る間にもあまり寒くならなかった。それらを外し、穴の外を見上げれば、雲一つない空一杯にまぶしい陽射しが集まっている。
アウリスは顔をしかめ、ネコのように背中を丸めて隅に行くと、そこで両膝を抱えた。細かい草が壁のあちこちに生えていて、風が吹くと泡のように揺れる。
今日は昼ごはんの前にお婆とまた大喧嘩をした。アウリスがご飯を焦がしてしまったからだ。ちょっとボンヤリして他のことを考えていたら、炉場の一つの中でいつの間にか火が燃え尽きていたのだった。
「……べつにあんな怒らなくなっていいのに。だいたいここのお米は茶色いじゃない。焦げたってわからないわよ。あーあ、うちの白いお米が食べたいなあ。白いお米ー……」
ぶちぶちとアウリスはくだを巻いた。
「どうせまずいじゃない。あんなパサパサの茶色いお米。安っぽ。べつに食事抜きでもいいし、食べられなくていいし」
アウリスは仏頂面でため息をついた。
ほんとうは、じぶんがヘマをしたということは、じぶんでわかっている。なのにお婆に言い返して、喧嘩になった。そうやって日々溜まっていくゆううつを発散しようとしたのだろう。お婆に対して、ただの八つ当たりだったのはわかっているのだ。けれど、ばかばかしい意地が出てとうとう、謝ることができなかった。
そのあと、アウリスは一人になりたくて、少し前に目をつけていた石積みの壁に足を運んだ。辛いことがあると高い所に登りたくなる。ジークリンデの家でもよくやっていた。ヘリーネに後でいくら咎められても、何かあるとまた、ダメだと思うのに城壁の方へ足を向けてしまうのだ。
(今年にラファエさまが来た日も、そうだったっけ……)
ちょうど今と同じように、石積みの城壁のてっぺんに登り、自然にできたらしい亀裂の中で、一人息を潜めていた。すると、遠くの丘の連なりに煌びやかな行列が来るのが見えたのだ。王の行列は、一つの大きな箱馬車と、黒と白の馬、黄金と黒の甲冑を纏う騎士たちからなっていて、緑色の茶碗をひっくり返したような綺麗な形の丘を下っていた。
一頭の馬が列を離れるのを見ると、アウリスは亀裂から這いだした。誰がその白馬を駆けているのかすぐにわかったからだ。早馬というのは、貴人の到着をいち早く目的地に伝えるという役目があり、ふつうは護衛の騎士の一人がやってくるものだった。けれど、今日は違う。
アウリスのお気に入りのひび割れた城壁は、敷地内ではどんな喬木をも見下ろす高度だ。それを降りきるのには当然時間がかかり、アウリスがやっと正門の前に辿り着いたときには、ラファエアート王子はすでに到着していた。出迎えには、アウリスの姉のリシェールをはじめ、侍女頭と警備頭の騎士、その他多くの城付きの人間たちが集まっていた。
「ラファエさ」
駆け寄ろうとしたアウリスの腕は、素早くヘリーネに掴まった。忽然とじぶんの背後に現れた乳母に、アウリスは顔をしかめた。どうして、と問うように正門をふりかえると、そこに立つ王子の懐から鮮やかな赤い色彩が咲いた。
「リシェール嬢」
「まあ」
「待ちきれずに馬を駆けてまいりました。追い風に花びらが散ってはならないと服の下に抱いていたのですが、少し形が崩れてしまいました。見苦しさを許してください」
控え目に一歩寄り、両手で花束を受け取ったリシェールに、ラファエアートが教本を朗読するように澱みなく告げた。二人の足元では、リシェールのローブが僅かな風に静かになびいていた。リシェールの美しい色の瞳を意識したらしい、花緑青色の絹のレースだった。
「王子の十四歳の誕生日を祝おうと宴の準備をしてありますのに」
リシェールはそう言って、困った風に笑った。
「先にこちらが贈り物を受け取ってしまうなんて、どうしましょう」
「美しい女性に花を贈るのに口実は必要ありません」
おっとり頬に手をそえるリシェールと、穏やかな笑みで見下ろすラファエアート。文字通り花びらが飛んでいる景色を注視していたアウリスは、「あまり邪魔にならないように挨拶だけしなさい」と乳母に背中を押されて王子の前に出た。
そのあと、アウリスはやはりまっすぐ、ひび割れた城壁に向かったのだった。
(……ラファエさま)
両手を翳すと、光粒子が指の間を零れていく。日々穏やかになっていく陽射しと、長くなっていく夜に、アウリスの心はざわつく。秋晴れの風が吹き上げてきて、アウリスの短くなった髪の毛先をうなじの方に揺らした。
ラファエアート王子はいつ、じぶんを迎えに来るのだろうか。
秋は、誰かを待つことはなく、水がたゆたうのと同じくらい自然に深くなっていく。川べりの森の向こうに白い馬が現われるのは、いつなのだろうか。
ラファエは昔からアウリスを見つけるのがうまかった。城壁のひびの隠れ場所のことだって知っていた。
あの日も、宴の直前まで雲隠れしていたアウリスを見つけに来たラファエは、亀裂の中でのけぞり、隅っこに避難しようとしている少女を見て苦笑いした。
「エッタ、どうして俺から逃げるの」
アウリスはラファエを無視していた。壁の中のひびの事を知られてもかまわないのは友達だからで、こんな風に顔を合わせたくないときに迎えに来てもらうためではない。
「今夜の宴は中庭であると聞いたよ。ここジークリンデ領の羊肉はおいしい。いつも楽しみにして来るんだ」
ラファエは頭を屈めて亀裂の中を覗いた。
「エッタは宴に出ないの?」
少女が返事をしないと、ラファエは身を低くして彼女の隣にやってきた。とたんにアウリスは彼に背中を向けた。膝を抱き、壁を睨んでいると、アウリスの背後では衣擦れの音がして、王子はそれ以上追いかけてこなくなった。
「レアトール領の大狼の話を知ってる?」
唐突な話題に、アウリスは眉をひそめた。
「今年の夏、極北のレアトール領の狩猟祭りに参加したんだ。レアトールの大狼はふつうのオオカミじゃない。他のどんなオオカミとも違う」
ラファエは目を伏せて上衣の裏側を漁った。
「レアトールの大狼は銀色の毛皮に覆われている。彼らは冬になると、厳しい寒さに包まれる山奥で、氷を砕いて餌を探す。だから、その前爪はあまりに鋭くて頑丈なんだ。そして、その牙は鋼のように固く、黒い」
その言葉とともに、白い手袋に覆われた手がアウリスの顔の横へ差しだされた。
アウリスは目をしばたかせた。白い布地の上には、大粒の黒曜石が乗っていたのだ。
「レアトールの大狼の牙だ。俺が初めて射た」
驚きに思わず背後の王子を見たアウリスに、ラファエは柔らかに笑んだ。
「これはエッタにあげる。もらってくれ」
返事を聞かないうちに、王子はアウリスの手を仰向けに握り、そこへ転がすようにして落とした。彼に指を放されると、アウリスはそれを翳してみた。しなやかな弓張り型にとがった、大粒の牙。アウリスの親指を二つ合わせてもまだ大きい。表面は硬くザラザラしており、けれどどういうわけか、滑らかな宝石のように、薄暗い亀裂の中で光を集めている。
「いらない」
アウリスはラファエを見上げた。それから、予想外のことだったのか固まっているラファエの服の袖を、やや強引に引いた。
「これはラファエさまのでしょう。ラファエさまの牙です。だったら、ラファエさまが持ってたらいいです。いつか、わたしだってじぶんでオオカミの牙をとります」
硬くて大きなラファエの手の五指を包むようにして、黒い牙を握らせた。それから、アウリスは両手を繋いだまま、ラファエに笑んだ。
きれいな贈り物は、リシェール姉様にあげればいい。
物語の中の花の王子のような雅ぶった物腰も、歯の浮くような言葉も、リシェールにしてあげればいい。
ほんとうは、アウリスだってもう、わかっているのだから。
姉のリシェールが十四歳になった夏、王都のヴァルトール王家が初めて、ここジークリンデ領に遊びにきた。
第一王子のラファエアートは当時十歳だった。王家はそれから毎年、欠かさずに来るようになった。そして、王子が婚礼期の十四歳になった今年、十八歳のリシェールは例年になく美しく飾られた。
姉だけではない。今日ばかりは、アウリスがいなくなっていようと誰も気づかないだろう。城に仕える者達は一様に走り回って、屋内を外を、周到に丁寧に磨き上げていた。正門には、黒地に金糸の王家の紋章と、花緑青のジークリンデ家の紋章が翳され、宴の席には生け花が咲き乱れていた。
万年不在のあの父が、唯一ジークリンデの居城に戻って来るのもまた、同じ夏の時期だった。ふだんは王都浸りの父のその様子は、懐かしい実家に帰ってきたという風ではなく、万事うまく進んでいることを事務的に確認しにきているだけ、という印象だった。
だから、アウリスにはわかっていた。
「宴がはじまります、ラファエさま」
アウリスは石畳に冷えてしまっていた腰を上げた。それからふと、ラファエの肩の留め具によって流れ下ろされている、黒に金糸の上衣を見た。またこんなものを着たまま、登ってきて。
「お召しものを替えないといけないかも。早く行きましょう」
入り口に溜まった夕日の方へ歩きだそうとしたところで、アウリスは王子に手首を掴まれた。
「……エッタ」
薄暗い秘密基地の中では、天井のすれすれに頭を屈めるラファエの表情は、逆光にあたって見えなかった。石壁に反響した彼の声だけは、何故だかひどく困っているように聞こえたのだった。そして、ラファエはアウリスの怪訝とした表情を見つめ、彼女の手のひらを開かせた。
あれは、狩りに出る一週間くらい前の出来事だろうか。
その日のことを反芻しつつ、アウリスはため息をつく。ふきっさらしの石積みの壁に一人でいると、なんだか、ひどく広く感じた。
「……ラファエさま」
熱いものが目に滲んだのを感じ、アウリスは慌てて手袋に突っ伏した。こんなところでしょげていても仕方がない。川べりの森の向こうにはまだ白馬は現れていなかった。それに、そろそろ夕飯の飯炊きがはじまる時間だ。
いちど顔を拭ったあと、アウリスは手袋を嵌めなおし立ち上がった。ジークリンデの城での秘密基地とは違った高い天井の下を、苦労なく進み、夕日に濡れている外壁で背中を見せるように反転した。
そのとき、僅かに人の声が聞こえた。アウリスはギョッとして、石積みにかけた足のずっと下を見た。苔と蔦のに包まれた深緑色の大地には、誰かが立っている。
はじめは勘違いかと思ったが、こんなところにいるのはじぶん一人で、地上の相手は確かに上を向いて声を張り上げているようだった。じぶんは見つかったようだ。
(誰だろう?)
アウリスは眉をひそめた。とりあえず下りて確認してみるしかない。
「今行きます!」
どんなに声を張り上げたって、この高さでは多分届かないだろう。アウリスは急かされるように穴の周りに手をかけると、慎重な足取りで石積みの壁を降りていった。




