3.
「まったく、なんて手のかかるガキだ」
お婆は口の中だけでブツブツ唱えている。アウリスは、あちこちで上がる焚き火に桶があたらないように注意しつつ、大股で追いかけていく。
「一人で水汲みも任せられないとはね」
「けんかを売ってきたのはあっちよ」
「ほう? そんなもん、無視したらいいだろうが」
思わず言い返したアウリスをふりかえりもせず、お婆はまっすぐ伸ばした腰に両手を回し、なだらかな坂になった河原を降りていく。
「徒党を組む連中ってのは、実は羊なのさ。羊は群れたがり、狼は一匹で夜道を歩く。聞いた事があるだろう?」
アウリスは眉をひそめた。
「ちがうわ。狼は群れで生きてる。ほんとうよ、群れの中には一番強い狼と、そのつがいのメスがいるの。その二匹がだいたい十匹くらいの群れのリーダーなんだって。群れは夜出歩いて狩りをするときも、寝るときも一緒だって」
「あっそう。絵本で読んだのかい?」
「ちがう。動物図鑑」
お婆の小馬鹿にするような口調に、アウリスはいっそうむきになった。
「それに、羊だって群れているだけじゃないわ。鈴付きのオスが一人で前を歩いてる。その後ろに、勝手にみんながぞろぞろついて来るだけ」
「羊が勝手に群れてくれりゃあ、羊飼いの仕事はねえさ」
「ほら、羊は群れないんじゃない」
してやったり、と立ち止まったアウリスをふりかえるお婆の目が光った。
「……あ、うん。ときどき群れるのかも」
お婆がそれを聞いてため息をつく。
「家畜の話なんざ、どうでもいいね。うちには羊なんぞ一匹もいないんだ」
(言いだしたのはそっちなのに)
何事もなかったかにまた歩きだしたお婆の背中にそんなことを思いつつ、薄ぼんやりと身の危険を感じて言い返せないアウリスである。
「おまえ、あれをどこで習ってきたんだい?」
「え? え、と、牧場のトマス」
「羊から離れんか」
お婆は背を向けているけれど、煩わしそうに顔をしかめたのがわかった。腰に回された手にある木製のお玉が小さく跳ねる。
「珍しい両手の構えをしてたね。剣のけいこ、してたんかい?」
「あ、はい」
お婆は、先ほどのアウリスと少年たちの手合いの話をしているのだと気づいて、アウリスはうなずいた。アウリスが木刀を持って暴れていたのを、どこかで見ていたのだろう。
「家に剣の先生が来てる」
「あんたに稽古をつけにかい?」
意外そうなお婆の声に、アウリスはまたむきになった。
「女の子だからって剣が握れない理由はないし」
「ふうん。そりゃあ、もっともか」
お婆が意外にも賛同したので、アウリスは思わず立ち止まりかけた。乳母のヘリーネ相手だとこうはいかないのだから。
「けいこは週三回、先生は午後のお茶の後に来て、陽が落ちるまで見てくれてる」
アウリスは少し調子に乗って、機嫌のいい声で続けた。
「剣を習うのは好き。九歳の誕生日のときにね、お兄様の稽古場に一緒に連れてってもらったの。よく城下町に出たときに対戦して遊んでる。そのときは木刀だけど。牧場のトマスともそこで会った遊び仲間なの」
「城下町の子供と泥んこ遊びかい。あんたはようよう賢い親をもってるようだね」
どういう意味だろう。
「よく、ヘリーネの目を盗んで町に出るから」
城下町の子供と泥んこになって遊ぼうが、アウリスにはそれを見咎める親はいなかった。とはいえ、剣を習う手配をしてくれたのは当然、あの万年不在の父なのだから、理解の良い親ではあるのかもしれない。
「お婆」
アウリスは前を行く相手に声をかけようとしたが、巨大な鍋に鼻先を横切られた。アウリスと同じくらいの背丈の少年が、二人がかりで取っ手のところを持ち、早足に通り過ぎていく。
お婆が立ち止まらずに少年たちと同じ方向へ歩きだしたのを見て、アウリスは慌てて肩に担ぐ棒を下ろした。それを空の桶と一緒にして、近くの木組みの壁に立てかける。飯炊き場では早くも調理が始まっているようで、湯気の熱気が空気を白く滲ませていた。様々な食器の音やら、人々のがなり声などが合わさって、ひどく騒々しい。
飯炊き係が行きかう周囲では、こうばしい匂いが風に乗ってたきあがっている。働く人々を避けるようにして行くと、やがて足を止めたお婆がアウリスをふりかえり、石積みの炉場の並びを指さした。
「おまえはここの番をしな」
「番?」
アウリスは炉場の上でコトコトいっている蓋を取ろうとした。とたんにお玉で手首を叩かれる。
「熱いのが見てわからんのか」
痛む手首をさすりつつ、アウリスは炉場を見渡す。石造りの炉は六つあり、すべてに木製の蓋がされていた。
「何を作ってるの?」
「米だ。炉場の中で火が燃えていて、その上に、さっきの大鍋が乗っかってる」
蓋の下は少年たちの担いでいたのと同じ大鍋らしい。さらに、一つの炉で十人分の米を炊く、と説明したお婆が、火かき棒の先を二股にしたような道具を渡してきた。これで蓋を取れということらしい。
「火が消える頃には焦げあがっちまってるんだ。そうなる前に飯が炊けたら呼べ」
「だれを?」
「その辺にいる奴、誰でもいいさ。みんな要領はわかってるからね。焦がしたら飯抜きだよ」
お婆が火かき棒もどきを押しつけ、そのまま去ろうとする。アウリスは慌てて呼び止めた。
「お婆。わたし、いつまでここにいればいいの?」
「飯が炊けるまでだ」
「そうじゃなくて!」
アウリスは思わず声を荒げた。
「……わたし、いつまで男の子の恰好してればいいの?」
立ち止まったお婆が、一拍数えてふりむき、背中に両手をまわしてのんびりと歩いてきた。
「やかましいね、この子は。それは猫じゃらしに聞きな。ま、その調子じゃあ、あいつが帰る前に色々とばれちまって追い出されてるかもしれんがね」
それを聞いてアウリスは口を噤んだ。十歳少年設定は絶対なのだ。真実を知るのは目の前のお婆と、アウリスをここへ連れてきた猫じゃらし。それに、毒のせいで昏倒していた間に下町で回復するアウリスの側についていて、一緒にここへやってきた医者。その三人のみだった。他の人間には誰にも知られてはいけないらしいので、人前で女の子みたいにしゃべっては約束違反になる。
だけど、いつまでこんなことを続けなければならないのだろう。つい大声を上げてしまうというものだ。約束ばかりさせられて、アウリスは他には何も知らされていないのだから。肝心の理由がわからないで、こんな状態がいつまでもつだろうか。
「じゃあ、猫じゃらしはいつ帰ってくるんだ」
「あいつに聞いてないのかい?」
アウリスは首を横に振った。森で出会い、アウリスに薬草をくれた男。月光に透けた葉の色を凝縮したような深緑の目をしたその男は、用事だと言ってすぐ去って行った。アウリスは彼に連れ去られるままついてきて、この訓練所に置き去りにされた。もう四日も前のことだ。
「猫じゃらしは、遠足みたいなものだと思えって、言ってた」
アウリスが倒れた日、あの森で側にいたのは猫じゃらしだけではなかった。猫じゃらしはこう言った。この訓練所に来たのは、ラファエアート王子がアウリスのために手配した、遠足みたいなものだ、と。
(ラファエさまは、いつ迎えにくるの……?)
あのあと、三日近く下町の宿で毒が抜けるのを待った。そして今、馬を駆りやってきたこのひどく遠い地で、アウリスは一人、右も左もわからずにいる。
アウリスの真剣な眼差しを受け、お婆は大袈裟なくらいに深いため息をついた。
「猫じゃらしはな、黒炭の審議会の一人なんだ。ふだんは南のラーケンブラにいる」
「しんぎかい? ラーケンブラ?」
「管理職だよ。はみだし者の集まりの傭兵団にも運営ってもんが必要さ。猫じゃらしはあまり戦場には出ない。あいつはラーケンブラで花園を切り盛りして、その才を発揮してるのさ」
「はなぞの?」
アウリスには聞いたことのない単語が多く、あまり理解できない会話だった。ぽかんとするアウリスに気づいているのかいないのか、お婆はのんびりとお玉でじぶんの肩を叩いた。
「そう。貴族の中でも上流な紳士方にだけ花開く、高級な花園さ。えてして、英雄は色を好むと言うだろう? 殿方の口は腰紐といっしょに一発で緩んじまうのさ」
くかかっ、とお婆が真っ赤な口の中を見せて変な笑い声を上げた。前世は魔女でまちがいない。
「旅人よ、旅先でのお国風を知りたきゃ女どもに聞け、とな。昔のひとの賢い言葉さ。情報屋にはうってつけの場所だろう? 娼館ひとつで傾国の危機、ともな」
「しょうかん……!?」
アウリスの素っ頓狂な声を聞いて、お婆はやっと、そぐわない会話だったことに気づいたようだった。アウリスの蒼褪めた顔を覗いて苦笑する。
「子供にはちと解らん話だったか」
アウリスは首を横に振った。
「娼館が、何かくらい知ってる」
そんなところに入り浸っているのか、あの男は。微妙に蕾の開きどきにさしかかったか否かという多感な年頃の少女の内で、絶対もうこれ以上落ちようがないと思っていたはずの男の株が奈落へ転落した瞬間だった。
仏頂面で大人しくなったアウリスを、お婆は面白げに眺めていた。
「剣のけいこしたり、耳にいれるべきでない話をどっかで入れてきたり。手に余る子供だね」
「べつに」
アウリスはムスッと炉の蓋を火かきもどきでつついた。
「わたしのお兄様は片親なの。どこかの娼館の娘が生んだんだって」
お婆はまさに藪蛇が出たという顔をした。アウリスは黙り込んだ相手を尻目に、淡々とした口調で続ける。
「それで、お兄様はわたしの九歳の誕生日のあとにいなくなったの。国を守りに行く、ってことになってたけど、ほんとうはちがう。追い出されたのよ。片親だから、家を継ぐ権利がなかったから」
「そうかい。でも、家族は寂しいもんだろ? 私にはなんとなし解る気がするね。生まれたときから育ててたんじゃあ、親だって実の子も同じさ」
「お父様はよくいないし、お母様はわたしを産んだときに亡くなったからいない」
だけど、家族の話をしているとなんだか家が懐かしくなってきて、アウリスはため息をついた。兄がいなくなったときは、アウリスも、姉のリシェールも深く哀しんだものだ。
アウリスのしゅんとした静けさをどう取ったのか、お婆は横目で見ていたあと、お玉で彼女の体を打った。
「いたっ」
アウリスはじぶんの体を抱くと非難の目でお婆を見た。
「胸に触らないでよ」
「何が胸だい、このお玉の方が丸いってもんよ」
「これから大きくなるのよ!」
「言葉使い」
「大きく、……なるんだい?」
「……」
「な、なるのです」
お婆は死んだ魚のような目をして「もう誰それかまわず「ですます」してな」と吐いた。名案だ。