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そのときには灰の月を  作者: しろてん
灰の鳥かご
18/20

18.


 宿坊の裏口を素通りし、来た道とは逆――施設の正門の方角へ向かいながら、アウリスたちは駆け足になっていた。

 アウリスは得体の知れない胸騒ぎを覚えていた。耳を打つ喧騒が、徐々に景色として行く先の闇に浮かび上がる。

(やっぱり正門の方角?)

 立派な呼び方はしているが、殆ど崩れた石積みの瓦礫を目印にしているだけだ。古い兵站線跡を陣取って開拓しただけだから、城とはいえ雅さや飾り気はまったくと言っていいほどこの場所にはない。

 松明の橙色の明かりは、その門とも呼べない門を緩慢に行進していた。距離はまだ遠いが丁度アウリスたちと鉢合わせになりそうだ。

 巨大な灯りはやがて一つ一つの松明に見えはじめ、それらを掲げる集団の姿が目に飛び込んできたとき、アウリスは凍りついたかに足を止めた。

 やはり馬が混じっていた。正確には、三人の騎馬兵たちが行儀の良い蹄の音を鳴らしており、更に歩兵が五人、松明を手に前者を囲んでいる。

 彼らは一様に武装服と甲冑を纏っている。宿坊中の布団を掻き集めて売ったところで手に入らない程に上質な生地の黒いマント。そこに猛る金糸の獅子。

「……近衛師団」

 見間違えるはずもない。毎年、じぶんの家を訪れている王室近衛騎士の一団だった。

 考える前に足が下がる。

 厩の近くには馬の散歩用として馬場があり、木工の柵がひしゃげた長方形に仕切っている。アウリスはその角へ身を隠した。

 アルヴィーンの何か言いたげな眼差しが刺さる。事情はわからないだろうが、彼もアウリスに倣って身を屈め、柵の裏に貼りついてくれている。

(ほんとう臨機応変だなあ)

 武器倉庫に現れたときもそうだったが、アルヴィーンは十代そこそこの少年がうろたえそうな場面でうろたえない。先に行動、それから質問や不満があれば後で聞く、そういった冷静さを命がけの場面で持ち合わせているのだ。

 よくよく考えるとそれは異質だ。こちらなど臨機応変も何も、驚いて硬直し涙がぼろぼろ流れていたが、それこそ普通の反応だろう。決してじぶんが脆弱だとかではないはずだ。

 傭兵訓練の成果なのだろうか。そう言えば、セツも同様に表面上では焦りがまったく見られなかった。最後に怒鳴られた程度だ。アルヴィーンの方には舌打ちされて突き飛ばされて怒られた程度。

(やっぱり頼もしいな、アルヴィーン。用心深いし。手がというか足が出るのも早いし……)

 しかし、偏った目で隣の少年を賛美している場合でもない。

 アウリスは控えめに顔のみを覗かせる。

 宿坊の玄関口にはかがり火があかあかと炊かれていて松明の明かりが不要な程に明るく、近づく騎士団の姿は昼間のようによく見えている。

 階段上の玄関戸が開き、二人組みの教官が現れた。

 その姿は遠目にも迫力だ。全裸だ、二人して。腰周りの下着一枚だけ纏って、満身装備の騎士団の元へ階段を下りていく。

「ろしゅつきょう」

「意味解って言っているのか」

 思わず片言になったら隣のアルヴィーンに生かじり呼ばわりされた。

「気分が悪いんだろう。寝ているところを起こされて」

 確かに今の今まで寝床についていたのだろう。来客の為に身だしなみを整える暇はあったはずだからわざとだろうが。

「というか寝るとき裸なんでしょうか?」

「ふつうそうだろう」

 さもありなんとばかりに顔色を変えずに言うアルヴィーンを、アウリスは注視する。

 どうしよう。アルヴィーンのお宝情報入手だ。

(だけど何だか嬉しくない……)

 話題にこれ以上深入りする気にもなれないので、アウリスはすごすごと隣の少年から目線を逸らし、大人たちの対峙を見守ることにした。

 しかし、目の前の教官たちが見張り組ではないのであれば、そちらはセツの報告を受けて出払っているのかもしれない。武器倉庫の方は片が付いたのだろうか。

 近衛師団は教官たちの無茶振りにしっかり反応したようだ。この遠さでは顔色は見えないが、一番手前の騎馬兵が急に手綱を繰り前進し、それを見て立ち止まった教官たちの脇を掠る近さで回り込んだ。目線の高さが違うため、教官たちには上から見定められているように感じられるだろう。

「このような夜分に申し訳ない」

 騎士は厳かに切りだす。古豪の貫禄の滲む、渋い声だ。多分師団長だろう。

 教官たちの一人が怒鳴るような笑い声を上げた。

「申し訳ない? 馬から降りて礼もとらずに立派なこった。騎士団てぇのは腕っ節だけで行儀のイロハは習わんようですなあ!」

「礼儀を吼えるか、衣服も持たぬ山猿が。笑わせるな」

 師団長は頭にきたらしく言い返す。裸族相手につっこんでも多分きりがないだろう。几帳面なひとのようだ。

 そのまま何やら口論が勃発してしまった。控えている兵たちは顔を見合わせたりと居心地の悪そうにしているが、師団長も教官も退く様子はない。逆に白熱している。

 アウリスは思わず眉をひそめ、内緒話のような小声で隣のアルヴィーンに話しかけた。

「何であんな喧嘩腰なんでしょう?」

「騎士団と傭兵団は仲が悪い。こんなものだろう」

「そうなんですか? なんだか意外です、騎士も傭兵もする事は同じじゃないですか」

「だからこそ競いあうんだろう」

 そういう見方もあるか。双方、国と国王を守る機関だが、片や貴族出身、片や庶民出身では衝突するネタは絶えないだろう。戦場ではどうなのだろう。

「俺とセツは教官に知らせに行く途中だった」

 今思い出したようにアルヴィーンが口を開く。

「山ふもとへの道を警備していて、あの一団に遭遇した。来客のことを知らせようと施設に戻ってきたところで武器倉庫の騒ぎに気づいた。近衛は王都からの使者だという」

「王都からの?」

 その単語にアウリスの注意は惹かれたが、追求する間は与えられず前触れも無く轟音が響いた。

「きゃっ」

 思わず悲鳴を漏らしたアウリスの頭を隣が押さえ込む。大きな声を上げれば気づかれる怖れがあるからだろう。そこはわかるが、なぜ肘鉄なのだろう。まじめに涙が出そうなのだが。

(アルヴィーン、意外と乱暴者……)

 アウリスはアルヴィーンの体重が頭の上から離れるのを待ち、改めて何事か突き止めようとするが、再び空気が激しく震える。

 師団長が玄関先でラッパを吹いているのだった。ラッパは思わず呆気に取られる大きさで、神話に出てくる怪物の牙みたいだ。

 号令用の物ならば需要は果たしているが、ここで使うのはさすがに非常識だ。深夜で、人様の軒先である。

 アウリスは嫌な違和感を覚えていた。

 目の前の近衛師団はほんとうに近衛師団なのだろうか。王族の道を守りジークリンデの城へ行進していた、あの優雅な姿はどこにもない。じぶんのような幼い子供にさえ会えば跪き道を譲ってくれる。そんな控え目で礼儀正しい騎士たちだったはずなのに。

 けれど、その背中の黒地に金の獅子のマントは、甲冑の獅子模様は紛れもない、王室近衛師団のものだ。

「やめんか喧しい!」

 教官たちもさすがに驚いているようで諌めようとするが、

「黙れこの無礼者が!」

 師団長は同様かそれ以上に怒り心頭な様子。

「さっきから聞いておれば下層民が散々不敬三昧吹きおって! こちらは急使、いや何より勅命だと言っておるのが解らんのか!」

 どうやら言い争いが炎上したようだ。

 師団長は歩兵の一人にラッパを押しつけると、逆三角形の顎を逸らし、夜空へ突き抜けるような声を張り上げる。

「聞け、山猿ども! 我々はヴァルトール王国直属の使者である。我々は人を探している! 先に暗殺された領主、レオナート=ジークリンデ卿のご令嬢、アウリエッタ=ジークリンデ様だ! アウリエッタ様は御歳十二歳。背丈は120メリト前後、髪色は茶色、目は緑色。この界隈で彼女を見たとの目撃証言があった! 先に断っておくが、下層民の身で我ら勅使に楯突けば投獄程度では済まされん! それを心得、覚えのある者はただちに前へ出よ! それで全員、無罪放免とする! また、アウリエッタ様の身柄、または行方の情報を提供した者には最高3500シェルルを褒美としてとらす!」

 よくも息が続くものだと思うくらい、師団長の声は一気に山陰全土に渡る。教官二人組みは圧倒され、静まり返っているままの宿坊でも少なくない人数が叩き起こされているだろう。

 アウリスはすぐには動けなかった。

 近衛師団とは王室直属の自衛団のことだ。猫じゃらしは王族が王都に帰っていると言っていたし、サラン王妃かラファエアート王子が近衛師団を動かしたと考えてまず間違いないだろう。

 じぶんを一度殺そうとした、サラン王妃の企てか。

 それとも、じぶんとの約束を果たす為に、ラファエが迎えを寄越してくれたのか。

 迷う必要はなかった。大切な友人の身柄を保護してくれている恩人の元へ、こんな態度で来るはずがない。まるで夜襲ではないか。不自然だし、態度が横柄だ。だいたい、無罪放免とは何のことか。

(ちがう)

 王子ではない。

 そう思うと、状況を放ったらかしにして、寂しさがアウリスの胸を締めつけた。鼓動が早くなり、服の胸部分を握る手に汗が滲む。松明の明かりが涙にゆがむ。

 アウリスだって、丸きり疑っていなかったわけではない。

 あの日のことをじぶんはよく覚えているのだから。

 ヘリーネの仏頂面が記録更新された日。あの午後、乳母は王族直々の命令だったからこそ、アウリスを止められなかった。アウリスも女の子なので、狩りの同伴を許されるなんて初めてのことだった。

 アウリスを連れ出し、暗殺者の潜む森の奥深くへ誘導した人物。

 ラファエ王子だった。

 もちろん、アウリスは何も知らなかった。知らずに舞い上がっていた。嬉しそうに、従順な子犬みたいに彼についてきたじぶんを、王子はどんな想いで見ていたのだろう。

 王子は最後に泣いていた。

 猫じゃらしの針を受け、毒が回っていくじぶんの傍に膝をつき、ラファエは泣いた。必ず迎えに行くと約束した。

 アウリスはあのときの彼を信じたい。

(だけどもし、わたしの居場所がばれているなら……)

 界隈で目撃証言があった、と近衛師団長は言っていた。多分嘘だろう。この山奥には夜中怖くなるくらいに人気がない。

 となると、ラファエ王子が心変わりをし、王妃の探索に手を貸したのか。

 アウリスはそうは考えたくない。

 もしかすると、猫じゃらしの馬に乗せられて山に入るところを誰かに見られていたのかもしれない。

 しかし夜間のことだったし、アウリス自身は外套を着てフードを目深く被っていた。その辺りは猫じゃらしも注意していたはず。

 まったく目星がついていない、とも考えられる。依頼主は依頼を実行する人物のことを知らされないというし、暗殺の任務を請け負いそうな組織を片っ端からあたっているだけなのかもしれない。

 考え込んでいると急に服の首根っこを掴まれ、アウリスは我に返った。

「こんな所で何やってんだい!」

「おばば……?」

「早くおいで。猫じゃらしが呼んでるよ」

 紺色の上衣、白い手ぬぐいのスカーフを纏う老婆は、周囲を気にしながらアウリスに耳打ちした。いつもに増すしかめ面だ。その格好で寝てたんならアルヴィーン程じゃないけど引くなあ、とアウリスは混乱する頭で非常にのんびりしたことを考える。

 もたつくアウリスを連れて歩き出そうとし、飯炊きの婆はやっと、同じ柵の角に立ち上がっている少年に気づいた。

「何やってんだい、あんたは。油売ってないでさっさと目玉岩の方へお行き!」

 目玉岩とはアウリスがお気に入りでよく登っている、あの石壁のことだ。施設の人間はみんなそう呼んでいる。高いところに円い穴が二つ並んでいるからだろう。

 アルヴィーンは微かに眉をしかめた。

「あの周辺はグレウらが見張りに立っているはず。彼らがどうか」

「知らないね。てめぇで見てきな」

 お婆の素っ気無い態度から見て心配する程の事件ではなさそうだ。だが、何かあったのだろうか。肉だんごも一緒かもしれない。

 少々冷静になったアウリスはお婆に掴まれている手を引いた。

「おばば、猫じゃらしはわたしを売るの?」

 お婆だけではなく、立ち去りかけていたアルヴィーンもふり返る。

 お婆は面食らったような顔をしている。こちらの言葉には常時二倍で言い返してくる相手が黙り込んでしまうと、アウリスの方こそ言葉に詰まる。

「ちがうだろう」

 意外にもアルヴィーンが沈黙を破った。

「猫じゃらしはけっこう妙なものも拾うようだが、一度拾うとわりと手放さない。多分」

 拾うとって、犬猫のことみたいだ。しかも、多分って。というか妙な物って。

 ひどく漠然とした答えだったが、アウリスはアルヴィーンの言葉に心を押された。彼の静かな声音には自信が溢れているというか、気持ちを揺さぶられるというか、感情的な部分で妙な説得力があるのだ。

「俺は目玉岩の方を見てくる。そのあとでおまえと合流する」

 堅苦しいが多分、後でそっちの様子も見に行ってあげるからね、と言っているのだろう。

「わかりました。ありがとう」

 アウリスの返事にうなずき、アルヴィーンは小走りに風上へ消えていった。さりげなく真剣の方を抜き晒していたようだ。だいじょうぶだろうか。

 こちらも悩んでいる暇はない。

 アウリスは柵越しに身を隠しながら、お婆の骨まで掴む握力に耐えつつ、その年とは思えない尋常でない足の速さになんとか食らいついていった。






 客室に到着したとき、既に猫じゃらしの他に医師のフェゼルが同席していた。

 ならず者の猫じゃらしと相反して、フェゼルは見るからに善人格な男だ。人命を救う職業だし、貴族紳士のように上品に顎鬚をたくわえている。

 この二人は仲が良いようだ。そう言えば、アウリス暗殺の為の出張にも一緒していた。今夜も二人で飲んでいたらしく、度数のきつそうな葡萄酒の瓶とグラス一式が盆の上に出ているが、今それらは食卓の隅に追いやられている。

 猫じゃらしはアウリスを見るや否や、フェゼルの方に注文を出した。

「じゃあ、腰に巻く大きさの布な。あとタライ、いやタライはやりすぎ?」

「やりすぎというか、やらせ感溢れてるよねえ」

「そう。じゃあ他何か適当なもの頼む」

「はいはーい。おまけでお注射つけちゃいますよー」

 柔和な笑顔で立ち上がったフェゼルが、アウリスとお婆の方へ目を眇めつつ、早足に開いたままの戸口を出て行く。何の話だったのだろう。

 残された部屋の主は、例の白い夜着一枚を纏い、炎の消えた暖炉の傍の揺り椅子に腰下ろしている。

 猫じゃらしがアウリスを呼んだのは当然、外の近衛師団と関係あるだろうから、彼はもっと以前に騎士たちの存在を知っていたことになる。もしかすると、セツが武器庫の一件のついでに報告したのかもしれない。

「アウリス、ここへ来い」

 黙っていれば美しい濃緑の瞳は今も何を考えているのか読み取れない。

 アウリスは動揺に竦む足を前へ出して近づこうとするが、背後で戸が閉じるのと同時に腕を掴まれた。

「待ちな」

 お婆はアウリスではなく猫じゃらしを見ている。

「猫じゃらし、あんたこの子を売るつもりかい?」

「あぁ?」

「つか何でまだ寝起きの格好なんだい。騎士団はもうすぐそこまで来てんだよ!」

 アウリスの腕を放したお婆は、ついでにフェゼルの座っていた椅子を足蹴にし、奥の猫じゃらしの方へ詰め寄っていく。その横顔はまさしく般若だった。飯炊き場で木ヘラやオタマ片手に踊りまわっている時よりおっかない。

 一方の猫じゃらしはお婆の剣幕に慣れているらしく面倒くさそうに手をひらひらさせる。

「怒鳴るなババア。だいたいあんたはそいつを置くことに反対してただろうが」

「ああそうさ。反対だった。人様の子を預かるって意味をあんたは解っちゃいない」

「説教かよ」

「黙って聞けよ。わたしは反対だった。女児を施設に置くなんざ、ろくな事情じゃないに決まってるからな。あのとき、あんたの我侭に押し切られた結果が今夜だ。きな臭ぇお偉いさんたちがきな臭ぇ要求をしてきなさった。いいかい、猫じゃらし。あんたはてめぇだけじゃない、この施設の、黒炭の子供らみんなを危険に晒してんだ」

 さすがに効いた。正論を、お婆らしくない弱気な声で伝えられたらもう、こちらの言い分なんて出ない。溜めていた言葉も何も崩壊する。

 歩み寄る足を止めたアウリスをお婆がふりかえる。皺が増えて魔女を飛び越え妖怪みたいな面相になっているが、何よりその悲痛な眼差しがアウリスを狼狽させる。

 卑怯かもしれないが、アウリスはお婆が歩いてきても、まともに顔をあわせられなかった。

 押し黙るアウリスの頭上で眉をひそめ、お婆はため息をつくと疲れたように頭を振る。その手はアウリスの腕を握った。

「反対だったさ。だけど一度預かった子なんだ。それを今更てめぇらの都合で追い出すのかい? そんなこたあ許さない。わたしゃ許さんよ。アウリスはうちの子だ」

 アウリスは涙が止まらなかった。腕を掴まれているまま、逆の手でお婆の服の袖に掴まる。

 ごめんなさい、いつも口答えばっかりして。

 ありがとう、庇ってくれて。

 お婆がこんな風に言ってくれるとは正直思わなかった。

 アウリスは施設にとって面倒な存在でしかない。それを解っていて、お婆はアウリスにここに居ていいと言っている。

 喧嘩しながら。一緒にごはんを作りながら。思えばいつも、お婆はアウリスに他と別け隔てなく接していた。ジークリンデ家の貴族ではなく、特異な存在としてでもなく、施設の子として見てくれていたのだろう。

「決めるのはあんたじゃねえだろう、ババア」

「ぬ」

 言葉に詰まり、お婆が唸る。

 猫じゃらしの言うとおりだ。情けない泣き顔を晒しながら、アウリスは拳で頬を拭いつつ猫じゃらしの前に立つ。

 猫じゃらしは口調と同じ醒めた眼差しでアウリスを見返す。

「あんた胸ぺちゃんこな」

 どこを見返しているのだろう。

「それならいけそうだ」

 絶句するアウリスに猫じゃらしが唇を歪める。なんという自信に溢れたあざとい笑顔。

「アウリス、わかってるだろう。今更逃げられねえ。もう遅いってやつだ、コソコソ山を降りようとした所で見つかって捕まって殺されるだけ。それじゃあ俺も困るんだよ。あんたにはまだ用があるからな」

 猫じゃらしのぎすぎすした言葉をアウリスは黙って聞いた。

 猫じゃらしは口が悪く底意地が悪く、人をバカにするのが大好きな男だ。少なくとも、アウリスはそう思っている。

 だけど、何も考えずに軽口を叩くだけの愚か者ではない。そういう分別はある。それを知っているから、多分お婆の方も口を噤んでいる。

「考えがある。ただしあんたが俺の言うとおりに出来るならだ。ただでさえ時間がねえ。口答えせず、何でも俺の言うことに従えるか? そう約束出来るか?」

 猫じゃらしは前のめりになり、膝に手をかけてアウリスとの距離を縮める。

「今度は自分で選べ、アウリス。あんたは生きたいか?」

 猫じゃらしの生真面目な顔を見るのは今日二度目だ。すぐ外には近衛師団が待ち構えているという、この暗雲立ち込める状況で、しかし猫じゃらしは躊躇していない。迷わず、アウリスに決めろといってくれる。

(ありがとう)

 アウリスはもう心が決まっていた。

 猫じゃらしに伝えることはないだろう。彼のこんな胆の据わりっぷりにじぶんが助けられたのは今回だけではなかった。それを、ほんとうはアウリスも自覚している。

 だけど、恥ずかしいし嫌いだから感謝なんてしない。

 代わりのようにそっと肩の力を抜いて、アウリスは猫じゃらしに自らの額を近づけ、彼お得意のあざとい笑みを浮かべ返した。


 




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