17.
突風が鋭く室内に吹き込んだ。
「わっ」
頭のてっぺんを掠められた。アウリスは思わず悲鳴を上げ、反射的にそれを追って後方の壁へふりむく。
一本の刃が壁の丸太のあいまに刺さっている。黒塗りの握り部分が長くて、鍔に優雅な花細工のある。見覚えのあるものだった。
アウリスが向き直る頃には既に室内を二人の少年が駆け抜けていた。
少年の一人は手ぶらで突き進み、状況が理解できていないらしく棒立ちをしている罪人の顎に、容赦なく肘鉄をくらわせた。罪人仲間の最後の一人がここで失神して脱落。
少年は失速することなく身を屈めながら床上の剣を拾い、赤毛の青年にそれを突きつける。
琥珀色の双眸は見事瞳孔を開いて据わっている。仇敵を見るような形相だ。赤毛の青年に避けられて壁に刺さった方の剣にはまったく見向きもしない。
アルヴィーンが赤毛の青年に行き着く数秒に、セツは扉のところで矢をつがえていた。倒れている罪人の装備から毟ったのだろう。
鮮やかな分担作業だ。
アウリスは引きずられるように動いていた。
なぜ急に踏みだせたのかはわからない。金縛りのように強烈だった恐怖は前ぶれもなく途切れ、代わりに別の何かが身を突き動かす。このときアウリスの頭には昼間に見たグレウとアルヴィーンとの手合わせの光景が浮かんでいた。
そして、似た感動を目の前の景色に覚えていた。
味方の出現に心が強くなる。
アウリスと話す為にあえて腰を低くしていた赤毛の青年には、アウリスの剣筋でも悠々届く。アウリスは手頃な剣を拾うと両手で構え、背後から彼の首筋に切っ先を添える。
「動かないで……ください」
自分を落ち着かせる為にも、ゆっくり言った。
赤毛の青年の正面ではアルヴィーンが抜き晒した剣で彼の顎を持ち上げ、ゼロ距離で喉元を脅している。十歩程先ではセツが充分以上に射程距離内で狙いを定めている。この近さで矢的を外したら笑いものだろう。
そして、背後にはアウリスがいる。赤毛の青年に逃げ場はないだろう。
けれど相手が相手である。じぶんたちが想像もしない方法と技術でこの場をあっさり血の海に変えた挙句、開いた戸口から堂々去っていくかもしれないというような、嫌な予感がつきまとう。
アウリスは不安を退けるために頭を振り、もう一度強い声で告げる。
「動かないでください」
赤毛の男が左手の短刀を床へ落とす。
(や、やっぱり何やら隠し持ってた……)
はなはだ油断ならない。
ぎょっとしたのを無表情の裏に隠し、アウリスは静かに息を吐く。手の中の太刀の重さに集中して、視線を切っ先に込めることにより気持ちを奮いたたせる。
「大人しくしてください。あなたをどうこうするつもりはありません。このまま、わたしたちがいなくなるまで動かないでください。それで何もしない。いいですね?」
「この男の子たちと行くの?」
赤毛の青年は刃が肌に沈むことを厭わずにアウリスをふりむく。
アウリスは押し黙った。不用意な事を言って相手を刺激してはいけない。
この後のことはあまり考えていなかった。ただ相手は罪人だ。人を、多分この施設の教官を何人か殺している。
まず一番に誰か教官に知らせに行くべきだろう。
ひとつ確かなのは、この赤毛の青年は自分たち子供でどうこうできる相手ではない、ということ。最優先すべきなのはじぶんとアルヴィーンとセツの三人で無事に倉庫を出ることなのだ。
赤毛の青年がゆっくり両手を宙に翳した。
「降参シマス」
(すごい棒読みだけど)
ひとまず抵抗する気はないようだ。面白くなさそうだが今度こそ丸腰なのだろう。
アウリスは正面のアルヴィーンに目配せする。
アルヴィーンは太刀を素早く逆手に持ち替えた。
「奥へ歩いて壁に手をつけろ」
(アルヴィーン、用心深い)
赤毛の青年をせっつき背を向けさせるアルヴィーンを見て、アウリスも補助をしようと隣に並んだ。背後ではセツが矢を引き絞り、赤毛の青年の動向を追っている。
赤毛の青年は一転して従順だった。何か仕掛けられるのではないかというアウリスの心配を裏腹に、すんなり壁に手をつく。アウリスはそれを見て内心安堵するが、そのときアルヴィーンの方が動いた。
「待ってください!」
アウリスは思わず止めていた。
赤毛の青年の背後で柄部分を軽く振り上げたまま、アルヴィーンが無言でふりかえる。
何か言いたげなその表情にアウリスは首を横に振った。
止めたのはもちろん赤毛の青年の為ではなく、アルヴィーンの為だ。
彼は相手を殴って失神させようとしていた。確かにそれで自分たちの安全はほぼ確定する。
けれど、それは成功した場合に限る。赤毛の青年の技量は底が知れない。そんな相手をやたらめったら攻撃するべきではないとアウリスは思った。
「大人しくしてたら何もしない、と約束しました」
アルヴィーンはアウリスの言葉に一度静止したが、振り上げている腕を下ろしてくれた。
「優しいなあ」
赤毛の青年が能天気なことを言っているが、今は無視する。
「アウリス」
「はい、……ちょっと待ってください」
アルヴィーンの鉄面皮が心なししかめられる。
けれどまだ撤退できない。壁に見事垂直に突き立てられている一本の太刀へ、アウリスは自らの剣を片手持ちにして近づいた。
「あの、もうちょっとそっちにずれてください」
「んー? 壁に手をつけるんじゃなかったの?」
赤毛の青年はわざとみたいに剣の少し上に手をついているのだ。
アウリスが睨むと彼は大人しく俯く。でも動いてくれない。
仕方なく、アウリスは剣先を相手の顔に向けながら、赤毛の青年の腕の下をくぐり、やっとのことで黒い柄に手を伸ばす。
「アウリス」
アルヴィーンが苛立った一瞥を投げてくる。
「そんなものはいい」
「よくないでしょう」
もうちょっとだから、とアウリスが続けようとすると「ちっ」という空気の震えが聞こえた。
(えっ、アルヴィーンに舌打ちされた……)
彼らしくない粗野な仕草だ。というより怒られてかなりショック。冷静沈着に見えて実は余裕がないのかもしれない。確かに状況は緊迫しているのだ。
「ご、ごめんなさい」
アウリスは急ぐことにして柄をやや乱暴に揺さぶる。アルヴィーンの刀は見事丸太のあいまを貫通している。
両手が使えれば楽なのだが、赤毛の青年を脅す刃を下ろす気にはなれなかった。どいてくれないので仕方ない。こうしている間中、赤毛の青年の執拗な眼差しがじぶんの行動を追っているのを感じる。
(まじめにやめて、その変な笑顔)
無視するのに無駄な労力がかかるのである。
木屑をたたせ、剣の鋭い切っ先がやっと外気に触れたときには、思わずアウリスはホッと胸を撫で下ろしていた。
「行きましょう」
慣れない二刀流になり、アウリスは赤毛の青年の腕を潜って後ずさる。
「行ってらっしゃい」
赤毛の青年が笑いかけてくるのを睨み返す。さすがの彼ももう追いかけてくる気はないだろう。
アウリスはアルヴィーンと同じに習って剣を構えたまま、彼と隣同士で用心深く、しかし素早く後退していく。ふと気になり、もう一人の罪人の方を見るがまだ失神していた。
外のささやかな風がうなじに感じられたとき、思わずアウリスは緊張が緩みそうになった。慌てて両手の剣を握りなおしたのだが、まるでこちらの気配を感じたかに、赤毛の青年が絶妙なタイミングで声を張り上げた。
「ほんとうにいいの?」
セツが弓を引く陰で目を細める。
アウリスはアルヴィーンの出した腕に後ろへ回され、背の高い二人のあいまを覗いた。赤毛の青年は約束どおり壁に両手をついたまま、毛先を肩の後ろへ流して天井を向いている。
「ほんとうに、その二人でいいの? 俺とおいでよ。俺実はすごく面倒見がいいんです。君はもう苛められることはないし、君のことは守ってあげるし、君の好きな首を取ってきてあげる。君が欲しいと思うひとの首は俺がみんな取ってきてあげるよ。ね?」
「何の話ですか」
「なにって、えーやっぱりダメ? どうして? 君にはまだ欲しい首がないの?」
「だから、何のことですか」
言い返すアウリスをアルヴィーンが肩越しにし、「早く」と小声で促す。
ここに長居する理由は一欠けらもない。
アウリスはしかし、扉に添えていた手を下ろしていた。身を翻し倉庫の奥をふりかえる。
――好きな首を。
その言葉を聞いたとき、自然とアウリスの足は止まっていた。頭には一つの面影が浮かんでいた。
アウリスはそのことに自分で戸惑い唇を噛む。
アウリスだってわかっている。
世界は白と黒だけで彩られているわけじゃない。綺麗なものばかり見てられるわけじゃないし、自分自身も綺麗ごとばかりじゃない。世界は複雑で、そしてこの世界は時々、ひどく汚くて、残酷で、怖ろしい。
「わたしは」
アウリスが言いかけたら、アルヴィーンはこちらを見ずに肩を押さえてきた。早く行こうと促しているのだろう。アウリスは自然とその手を握り返していた。体温の確かなぬくもりが魔法みたいに迷いを溶かしていく。
「あなたみたいにはなりません。それに、……もし、もしいつか誰かのことを殺したいくらい憎いと思ったら、そのときには、自分で始末をつけます」
「そう? 残念だなあ」
言葉とは裏腹に然程残念そうではない赤毛の青年が、壁を向いたままくすくす笑った。
「じゃあ、もうちょっとだけ待っててあげる。君がもうちょっと大きくなって食べごろになったときにまた会いに来るよ。約束。ね?」
嬉々と勝手な約束をされた。
アウリスは憮然と左手の剣を床に落とす。利き手の方の剣は持ち主のアルヴィーンに突っ返し、そのままザックを前に回して袋口に手を突っ込んだ。
それから、もぞもぞする気配にふり返りかけている赤毛の青年めがけ、投球。
ジャガイモはぽくっと彼のこめかみに当たった。
「あ痛」
「わぁああああ貴様はさっきから何挑発しておるのだ! 来い小僧!」
いきなりセツが逆上してアウリスの腕を掴んだ。
ずるずる引きずられて後退しながら、アウリスは赤毛の青年から執念深く目を逸らさなかった。彼は困った笑顔で頭に手を当てている。
(ざまあみろ)
倉庫の中ぎりぎりに残って全員の安全な退却を確認していたアルヴィーンが、両開きの扉をひとつづつ足蹴にして閉じる。
更に、取っ手のあいまに武器庫で拾っていた長剣を滑らせる。これで安易には扉は開けられないだろう。
外に出たところで、アウリスたちは誰からともなく夜空を見上げていた。急に頭上で開けた星空は驚くほど清清しい。なんだか随分長い間風を感じていなかった気がする。
アルヴィーンもセツも松明は持っていないから足元は暗いのだが、涼しげな月明かりが地上の建物の輪郭をはっきりさせてくれている。
アウリスは緊張が切れて抜け殻のようになっていた。ザックをセツに掴まれ、片手をアルヴィーンの剣と一緒に彼に掴まれ無理やり早足で歩かされている。どこへ向かっているのだろう。
「セツ、当番の教官を」
「はい」
幾ばかりか歩いたところで、アルヴィーンとセツが内緒話のような小声を交わす。
セツが闇の中へ小走りに消えていく。その後ろ姿は脇に弓、背中に矢筒をまだ持っていて臨戦態勢のままだ。
これから罪人たちの脱走を知らせに行くのだろう。
アウリスはやっと少し我に返り、自分の腕を引いて先を歩いているアルヴィーンを見上げた。
「あ、あの、ほんとうにありがとうございます。助けてもらいました。罪人たちは全部で四人います。全員一緒に逃げ出してたみたいだけど、赤い髪のひとが一人斬った」
(そう言えば、アルヴィーンも今夜人を斬ったのか)
アルヴィーンとセツの二人は当番で見張りにあたっていたのだろう。そして、騒ぎを聞きつけて倉庫を開こうとしたところで出てきた罪人を見て、斬った。
アウリスは俯き、アルヴィーンの手をぎゅっと握り返した。
今夜の一連のことはあまりに常軌を逸していた。頭の中がまだ整頓できず、どこか夢の中のようにも感じる。
幸い、背後の武器庫で扉を開こうとする音は聞こえてこない。自分たちがどのくらい離れたのかわからないので、単に距離が遠すぎて聞こえないだけなのかもしれないが。
「……アルヴィーン」
背後の闇を気にしつつ、アウリスはふりかえらない少年に話しかける。
「檻の見張りは誰か立ってたんでしょうか? あの、罪人たちが言ってたんですけど……もしかしたら、他にも死者がいるかもしれません。赤い髪の人はかなり剣が使えるみたいだし。そうだあの、呼びに行くのって教官一人だけでいいんでしょうか? というか倉庫の方も放置してきちゃったし。どうしよう。誰か何も知らずに入ったら大変なことになります。やっぱり戻ったほうが」
急に強く手を引かれた。成す術もなく前のめりになったアウリスの体をアルヴィーンは受け流すようにして立ち位置を交代し、そのまま彼女を背中から壁に押しつけた。
木工の戸がアウリスの体重を受け小さく軋む。知らぬうちに宿坊の裏手まで帰ってきていたようだ。
あまり痛くはなかったのだが、アウリスは相手の乱暴な行為そのものに驚いていた。眉をひそめ、正面に立つアルヴィーンを非難するように見上げる。
しかし、アルヴィーンはアウリスよりも機嫌が悪かった。
「何故こんな夜中に一人でうろついていた」
「え?」
「何故あの場所に居合わせた」
「なぜって、その……散歩? していて」
こんな言い訳しか考えつかない自分の頭の出来にアウリスはがっかりする。
案の状、アルヴィーンの視線は鋭くなった。普段の眠たげな無表情ではなく、琥珀色の瞳が夜行性の鳥類の眼みたいな強い輝きを放っている。
「こんな時間に一人で? おまえは解っていただろう。相手は罪人だった。それが解っていて何故すぐ隙を見て逃げない。何故挑発する」
アルヴィーンが急に身を離し、剣を反転させて勢いよく地面に突き立てた。アウリスの目の前で土が小爆発する。
「これのこともだ」
緊張した面持ちで凍りつくアウリスに、アルヴィーンは硬い声音で続ける。
「放って逃げてよかった。剣は振るう人間が生きていてこその価値だろう」
アウリスは逃げ腰になっていたが、その言葉にしょげた。
アルヴィーンは正しい。彼は、じぶんが現れたときにすぐアウリスが逃げようとしなかったことに怒っているのだ。
「ごめんなさい。……それ、施設の器材じゃなかったから」
「は?」
「盗まれたら取り返しがつかないと思ったんです。置いてったら、戻ってこないかもしれないから」
アルヴィーンの鋭い視線から逃げるように顔を背け、アウリスは地面に立つ剣を見つめる。
今夜、施設を出ようとして罪人たちと鉢合わせたことは不運だった。けれど、幸運だったこともある。アルヴィーンとセツがあそこで倉庫を覗こうとしていなかったら、今頃じぶんはここにはいないだろう。きっと一層悲惨な目にあっていた。
だから、あの場で悠長だったと責められたら、アウリスには返す言葉がない。
一方で、どうしてもこれを置いていくことは出来なかった。
三年前、セルジュ兄が家を出ることになって、父は彼に家宝の剣を授けた。それはきっと兄の宝物になるだろうとアウリスは思った。兄がもう家族ではなくなっても、家族だった時の思い出は形となり、彼の元に残るのだと。
同じ片親でも、アルヴィーンの剣の出所は定かではない。家族とは関係ないのかもしれない。
それでもきっと、大切なものなのだ。アルヴィーンは大事にしているように見えた。今夜見張りに出ていたときもそう、アルヴィーンはいつも、その花細工の剣を腰に差しているのだから。
「危機感がなさ過ぎる」
アルヴィーンが問答無用に吐き捨てた。
その通りなのだろう。アウリスは情けなさと彼の口調の冷たさに泣きそうになった。嫌われようと思ってしたわけでは勿論ないのだが、アルヴィーンが怒る理由もよく理解できた。
「……アルヴィーン」
「山奥だからって安全なわけじゃない。今夜のあれらは罪人だった。おまえが女だとばれてたらどうなっていたか解らない」
「はい、ごめんなさい」
(ばれてたけど)
だからこそ、恐ろしさは身に染みている。
アウリスは素直にしょぼくれ頭を下げた。
「えっ?」
次に二倍の速さで頭を持ち上げた。
アルヴィーンの言葉の違和感が浸透するのに時間を要したが、空耳ではなかったはずだ。
アウリスはアルヴィーンを凝視する。そこの地面に刺さる刃物みたいに鋭利な彼の面立ちは、胡散臭そうに眉をひそめている。
「あ、いえ。女の子って誰のことですか」
「おまえ女だろう」
「ちがいます」
「女だろう」
「ちがいます」
「そうか。ここでズボン下ろして見せてみろ」
「……。今は下ろす気分じゃないんだい」
アルヴィーンの右の眉が鋭い角度に上がる。そのままため息をついて背中を向けられかけ、思わずアウリスは彼の腕に飛びついた。
彼女を見下ろし、アルヴィーンは琥珀色の瞳をわずらわしそうに瞬きする。アウリスも言葉なく彼を見返す。
(えっ、だって……いつから?)
「最初に言ったろう。面倒だから傍に来るなと」
(最初から!?)
もしかして、ぜんぜんばれていないと思っていたのは自分と猫じゃらしだけだったのだろうか。
「セツは……?」
唖然と呟くアウリスの手を、アルヴィーンがさりげなく払った。
「多分知らない」
「そう、ですか」
アウリスはまだ衝撃から抜け出せず、その事実を反芻していた。ふと頭上が翳り、その気配に俯き加減の顔を上げようとしたところで、つむじに確かな体温が触れる。
何なのか気づいたとたん、アウリスの体は一気に緊張した。
アウリスが動かない異変に気づいているはずだが、アルヴィーンは黙って彼女の頭を撫で続けた。施設に来ることになり知らぬ間に短く切られていたブルネットが、所々癖がついて跳ねてしまうくらいに思いきりよく乱される。
アウリスは戸惑って、アルヴィーンの表情のない顔を言葉なく見つめるばかり。
ふとアルヴィーンが身を離し、地面の剣を一息に引き抜くと腰の鞘に収めた。
「先に行く」
「えっ、あ、はい。わたしも行きます」
機械的に向けられた背には、ついさっきまでの優しさは一抹もない。
(……ちっちゃい子扱い?)
何故今なのだろう。それとも何か別の意味があったのだろうか。
アウリスは腑に落ちなくて自分の手で頭を撫でたりしてみるが、相手の方は変わった様子もなく先へ行こうとするのを見て慌てて追いかけた。
ところが、アルヴィーンの背中は木戸を潜りかけ静止した。横向く彼の夕焼け色の前髪のあいまに瞳が動く。
アウリスも背後の喧騒に気づいてふりかえった。
中庭の南側辺りにひとつ、ふたつと松明の明かりがちらついている。
「セツが呼びに行ったんでしょうか?」
しかし何故馬の蹄の音まで聞こえるのだろう。
違和感を覚えつつ、アウリスは見に行くことにして外壁沿いに歩いていく。武器庫のことが気にかかるし、教官がいるのならばじぶんからも何か説明できることがあるかもしれない。
同じ意見なのか、背後で戸の閉じる音がした後にアルヴィーンも隣に並ぶ。
よくよく考えてみるとひどい夜だった。
今日一日で、アウリスはたくさんのことを知りすぎた。めまぐるしい情報を得て、まだ落ち着いて頭の整理が出来ていない。
施設を抜け出そうとしていたら、猫じゃらしの運送していた罪人たちに遭遇した。彼らは脱走する為に施設を漁り人間を殺し回っていたのだ。ここは、アウリスだけの問題ではない。毎日が同じ内容の繰り返しであるこの訓練所で、これだけの事件が起こることはひどく珍しいだろう。
そんな風に反芻しながら、しかしアウリスはまだ気づいていなかった。
今日一番の災難が、このとき山奥の施設に既に到着していたのである。