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そのときには灰の月を  作者: しろてん
灰の鳥かご
16/20

16.


 赤毛の青年が頭の後ろに手を組み、気持ちよさそうに伸びをする。血塗れた面にどうにも眠たげな笑みが浮かぶ。昼間と同じような表情だが今は修羅の形相に見える。

 声を出してはいけない――、アウリスはじぶんに言い聞かせていた。

 緊張を堪える為に拳で唇を潰れるくらい押さえているが、その拳もふるふる震える。

「ん?」

 爪先立ちに伸びをしていた青年がぴたりと動かなくなる。

「っなんだ? 誰か来たのか?」

 別の男が小声で聞く。

 声の主はアウリスには死角で見えない。赤毛の青年の方は見張りとして戸口に立っているようだ。彼は制止するように片手を上げ、横顔を少し上向ける。ついでに鼻が子犬みたいにくんくんひくひく動いている。

「何だ?」

 見張りの沈黙に耐えかねたのか、誰かが重ねて聞いた。

「……んー、外には誰もいないんだけど」

 赤毛の青年は解せない様子で首を傾げるのをくりかえすが、一方の室内は彼の言葉で糸が切れたように弛緩した。

「なんだ脅かすなよ」

「なんなの挙動不審なんだけどこの兄ちゃん」

 安堵のため息が口々に聞こえる。

 しかしアウリスの方は気が気ではなかった。立て台の真下に身を潜めながら逆に一層追い詰められている気分だ。

 もしもこの場に警備の人間が現れたらアウリス自身だって見咎められるだろう。見つかれば当然施設を脱出できなくなる。

 けれど、目の前の現実はアウリスの予測したシナリオを超えている。

 黒炭の警備網に見つかるか、この血塗れの男たちに見つかるか。どちらか選べるのならば迷わず前者の腕の中に飛びこんでいく意気込みだ。

「ほら、てめえも中見っか? なんか心配だし俺が見張り変わるからよ」

 弓を持つ男が一人、そう言ってアウリスの視野を横切っていったのだが、何か別のことを気にかけている様子だった赤毛の青年がそのとき、急にふりかえり彼に殴りかかった。

 相手は呻く暇もなかった。多分何をされたのかもわかっていないだろう。次には筋肉質な背中から地鳴りを上げ床に倒れていた。更にその腹を赤毛の青年が蹴る。

 相手の男は何度足蹴にされても全くされるがままだ。静かで的確なこめかみへの一撃に意識がふっ飛ばされているらしい。

 アウリスは思わず目を閉じた。生理的な涙が頬を伝うのを感じながら、せめて目に見える残酷さだけでも遮断し、心を落ち着かせようとする。

「てめえ、何調子こいてんだ」

「やめとけって」

 残りの二人が小声で揉めている。唐突な仲間割れに罪人たち自身も困惑しているようだ。

 アウリスは最初動かずにいたのだが、そのうち瞼の奥の暗闇のせいで何も見えないのが怖くなってきた。

 アウリスはためらいがちに目を開く。それから、口を押さえるのとは逆の手に捲り上げている幕の方角をそっと窺った。

 松明の明かりに明るく照らされるその姿が見えた。

 倒れている男を前に腰を低くして、彼はまっすぐにこちらを見ているのだ。

 その眼差しは、なんと形容すればいいだろう。スズメを見事伏せ籠の罠にかけ、それまで身を潜めていた物陰から現れて満足げに眺めている子供のような、残酷で無邪気な眼差し。その飢えた輝きが血のこびりつく前髪のあいまに覗いている。

 アウリスは幕を捲る手を引っ込めた。そのまま呼吸をやめ、必死に身を丸めて体の震えに耐える。

「ああ、そんなところに隠れてたんだ。いるのはわかってたよ。ほんとは俺に見つかりたかったんでしょ。ねえそうだよね。本気で見つかりたくないんだったら、そんないい匂い、これみよがしにばら撒かないもんね?」

 青年が立ち上がり歩いてくるのが床板の軋み具合によく伝わる。心なしか目の前の垂れ幕が人影に翳っている気もした。

 アウリスは大きくした目でまばたきする。

 アウリスは動かない。動けない。さっき目があったのは気のせいかもしれない。でもその確証がない。この狭い倉庫には逃げ場もない。

 つんざく物音が襲ったのはそのときだった。

 アウリスは驚いて飛びだしていた。少し後になってわかったのだが、このとき自分を隠していた布が勢いよく一方向に引かれ、立て台の無数の武器が次々と無造作に床を打っていたのだ。

 アウリスの目の前にも長剣やら槍やらが倒れてくる。四つん這いでそれら障害を超えていくと、ザックの肩紐が急に強く締まった。背後のそれをむんずと掴まれたのだ。

(ぃやあ!)

 思わず悲鳴が脳に響く。実際は恐怖に喉が縮こまって何の声も出てこない。

 しゃがみこむアウリスにあわせて片膝をつき、赤毛の青年は不気味な程優しく彼女の肩を掴んで向直らせた。

「ん、見つけた」 

 アウリスは恐怖に全身が粟立った。

 目の前にいるのはもはや人間ではない。ただのくすんだ赤い塊。錆鉄の濃い匂いが彼から流れこんでくる気がする。吐き気がする。

 青褪めているアウリスに赤毛の青年はその端正な顔を近づけると、首の辺りをなにやら嗅いだ。さっきみたいにくんくんひくひくやっている。

 アウリスはその危うい距離に目を強く瞑って耐える。

「いいにおい」

 なぜか悩ましげなため息を漏らされた。

「やっぱり君だ。覚えてる? 昼に一回会ったんだけど。でも昼よりいい匂いがしてる。俺が大好きな匂い……」

 暖かい吐息がアウリスの耳にかかる。

「かわいいこが怖がってる匂い」

「――っ」

 アウリスはゾッとして目を開き、思わず見たくないはずの相手の顔を見上げた。彼女を見返しながら、青年は一見優しげな笑みを浮かべていた。

 身が総毛だつ。

 目の前の笑顔にはまるで邪気がない。血まみれの化け物なのだから醜ければいいものを、近くで見る赤毛の青年はいっそ禍々しいくらいに美しかった。

 多分、アウリスはこのとき初めて罪人という存在の意味を理解したように思う。

 アウリスは黒い瞳の吸い込まれそうな底知れなさから目を背けた。見返すとじぶんまでほの暗い狂気の片鱗に触れてしまうような感じがしたからだ。

「おい! さっきから聞こえてんのかてめぇ!」

 青年の背後で別の男が苛立った声をかけてきた。

 罪人たちはいつの間にやら去る準備が整っている。それぞれ武器庫の剣や甲冑で思い思いの武装している。殴られた男の方もしっかり覚醒していた。

「とっとと行くぞ」 

「つかでけえ音たてんなつってんだろ」

「やるならそのガキさっさとやりやがれ。大声出されたら堪らねえ」

 最後の長剣を持つ男の言葉にアウリスは震える。やる、というのはつまり息の根を止めるとかそういう意味だろう。

 一方の赤毛の青年は思いきり面倒くさそうに後ろをふりかえって一言。

「先行けば?」

「はぁ!? 何言ってんだてめえ! てめえがいねえとここの警備を突破できねぇんだよ!」

「つか任せろつったじゃん! 俺が先頭やりたいな、とか自信満々だったじゃん!」

「今の状況わかってる!? そろそろやべーだろ早く逃げようぜ!」

 三人の罪人たちはなにやら必死な様子で歯を剥いている。

「いったん黙れ! 全員うるせえ、誰か外の奴らに聞こえるだろーが!」

 一人の男がいきなり長剣を抜きさらし、それで場は静かになった。

 この男はどうやらリーダー格のようだ。ベルトに提げている鞘に剣を納め、そうしてあいた手でこめかみを揉んでいる。

「仕方ねえな。言い争ってる時間はねえ。俺ら三人はもう行く。いいな、兄ちゃん?」

「えっ、いや俺らだけとかで傭兵相手にするのは無理じゃねえ? 罪人だしよ、見つかったらふつーに殺されちまわねぇか?」

「兄ちゃんみてえに剣の扱い上手くねぇもんなあ」

「出来るさ、がんばれば」

「えっそうかな?」

「兄ちゃんがああ言ってんだ仕方ねえ」

 リーダー格の男は最後に赤毛の青年の方を一瞥する。

「俺らは行く。あとで後悔すんじゃねーぞ、兄ちゃん」

「うるさいなー」

 ほとほと辟易したようにため息をついた赤毛の青年が、困った笑みをアウリスに向けてくる。

「あんな人たちの話聞かなくていいからね。だいたい君は大声なんか出さないでしょ。君は賢いから。助けを呼ぼうとしたらそのちっちゃい口を耳まで裂かれちゃうのがわかってるだろうし、それに逃げようとしたら……」

 赤毛の青年は傍に落ちている剣を拾うとふりむきざまに投げつけた。

 その切っ先はまるで矢のごとくまっすぐに飛んでいき、先頭を歩いていたリーダー格の男の鼻先を掠めて扉に吸い込まれるように刺さる。

(っひ)

 思わず息をのんだアウリスを、赤毛の青年は楽しげに膝を抱いて覗き込む。

「ああやって後ろからぶつけてあげるからね。逃げたらだめだよ」

「いやあの俺らも出られんのですけど……」

 扉の前に身を硬くして佇むリーダー格の男から唖然とした声がかかったが、赤毛の男は無視する。

「さっきから気になってたんだけどね、この荷物なあに?」

 不思議そうに首を傾げ、アウリスの背中を指差す。緊張感の高まる薄暗がりの中、赤毛の男だけが楽しそうだ。

 背負うザックに青年の手をかけられてやっと、アウリスは正気に返った。

「っ離して」

「ん?」

 アウリスは身を捩って青年の手から逃れると、その反応に目を丸くする相手を睨んだ。後ろへ仰け反りつつ精一杯虚勢を張る。

「逃げるのはあなたの方です」

 声が震えないよう集中する。

「この変態、とっとと出て行ってください。ここがどこだかわかってるんですか。黒炭の施設ですよ。あのひとたちがいうとおりです、すぐにたくさん人が集まってきます」

「ふぅん」

「っ黒炭の教官たちは戦を知る本物の戦士です! 見つかったら絶対勝ち目はありません!」

「それは怖いなあ」

 さっさと退散しろ、と言うのにどこ吹く風、赤毛の青年はのんびりと片膝の上で頬杖などついている。アウリスが目を剥くと更に鼻で笑われた。

「でも、君は弱いんでしょ?」

「そ、それは」 

 言い返せない。新参者で、剣どころか木刀すら握らせてもらえないアウリスにしてみれば教官たちは雲の上も等しい存在なのだ。

「あのでもそういう問題では……」

 混乱するアウリスに、赤毛の青年は気のない様子で肩を竦める。

「他力本願、ていう意味わかる? 最近はさあ、ほんと多いよねそういう人たち。そんなことよりね、その背中の大きい荷物の話しよう。それってもしかして家出用? 俺考えたんだけどね。いい子はみんな寝てるこの時間に君だけうろちょろしてるのってやっぱり、一人でどこか行こうとしてるんじゃないかなって。ちがう?」

 赤毛の青年がそう言って首を傾げたとき、彼の向こう側に唐突に人が立った。

 青年のちょうど真後ろだ。現れたのは大柄なリーダー格の男。足音を忍ばせて近寄ってきていたのが、最後の踏み切りに床を軋ませて斬りかかってくる。

 その憑かれたような姿を、アウリスは言葉なく見ていた。

 リーダー格の男がこのとき何を考えていたのかアウリスにはわからない。やられる前に、という心境だろうか。さっきの赤毛の青年の一撃に鼻柱を掠められたから怒っているのかもしれない。赤毛の青年が利益より荷物になっていると判断したのだろうか。

 その結末は、どんな事情があったにしろ無残なものだった。

 背中に目がついているのではないかという俊敏さで、赤毛の青年は立ち上がった。ついでに迫りくる剣の持ち手を掴むと捻り上げる。標的を失った刃はそれがなければ確実にアウリスの体を貫いていただろう。

 リーダー格の男が手首を押さえて呻く。しかし後ずさることは許されず、おぼつかない足元を一蹴りに払われ床に転がった。

 その彼が取り落とした剣をつま先で軽く蹴り上げて自身の手にすると、赤毛の青年は仰向けの男に跨り、一抹の迷いなく刃を振り下ろした。

 鋼が歯を砕破する音が聞こえた、と思った。

 鍔まで余すところ僅かという深さで刃を突き立てられ、男の縦に破れた口と外れた顎から血のカーテンが溢れでる。即死だろう。

 四肢に痙攣が残っている躯の上で、赤毛の男が身を起こす。膝から下が新鮮な血を吸っていて、そのせいか足取りが重くどこかおぼつかない。手前の長剣は躯の頭部に刺さったままになっていた。その切っ先は床板の下まで届いていることだろう。

「俺ね」

 赤毛の青年が一言呟けば周りは潮のひくように速やかに後退した。

 アウリスも出来ればそうしたい。残りの二人の男たちの青褪める顔からは自分と同じ心の動きが見て取れる。得体の知れない物を目の前に置かれて手をつけられない恐怖。檻の脱出にひとまずつるんでいた彼らにとっても、この展開は異常なのだろう。

 アウリスにいたってはもう衝撃に泣き叫ぶことも思いつかなかった。さっき刃がじぶんに向かってきたときから腰が抜けている。そのことに情けないとも思わない、今ばかりは。

 周囲の奇異げな眼差しを集めつつ、赤毛の青年は幽鬼のごとく足取りでアウリスの方へ戻ってくる。

「俺、国境近くのリアっていう町で生まれたんだけどね。聞いたことない? 前の戦争で一回どっかに攻め落とされちゃった町。今はほんと何もないんだよ。廃れてて、みんな貧乏でね。あるときね、すごく小さい子供のときだけど、住んでいた裏路地の道ばたですごい綺麗な人形を見つけたの。俺それを持ち歩くようになった。多分遊び相手がほしかったんだよね。しゃべる相手がほしかった。だけどそれ、怖い大人に取り上げられちゃった。俺が初めて人を殺したときのはなしだよ。……ふふ、懐かしいなぁ」

 赤毛の青年はじぶんの赤い両手を見つめている。高揚しているような、虚ろなような目だ。

「俺が話してるひとに話しかけないでよ。襲うとかまじで論外だから、だってそれって俺から取り上げるのと一緒のことでしょ?」

 明らかに彼自身が標的だったのだが、真剣な口調でふりかえられた残り二人の罪人は、息を揃えて頭を上下する。

「あとね、君」

「っひ」

 アウリスは後ずさりしかけて背後の床に手をついていたのだが、凍りついた。辺りを見回した赤毛の青年が、近くに転がる剣をさっきと同じ要領で蹴り上げて握る。それを宙で一回転させた。

「ごめんね。俺さっき嘘ついた。ほんとうは怖くないよ。ここの教官のひとたちも訓練してる子たちも怖くない。というか大人はもう何人かやっちゃったしね」

 赤毛の青年が残酷な事実を告げる。

「俺ね、多分ここの訓練所のひとが相手なら勝てるよ。だからね、……んー。あれ? そう、うん、君はどうしよっか。……えー……」

 青年が急にうんうん迷いだす。

 アウリスは神経質なまでに彼を注視していた。

 いっそ頭が弱いんじゃないかと思うくらい挙動不審な言動が不気味でならない。気に障って仕方がない。

 けれど、ここで変に抵抗したら相手を更に刺激してしまうかもしれない。今よりもっとひどいことになるかもしれない。そう思うと、情けないが逃げようとする気力さえ失いそうだった。

 そもそも何故最初からそっとしておいてくれなかったのだろう。隠れているじぶんなんかにかまわずさっさと去ってくれればよかった。彼は罪人なのだ、長居して警備の者たちに見つかりたくはないはずだった。

(でもこのままだと……、わたしもさっきの人みたいに)

 殺されてしまう、かもしれない。多分。

 赤毛の青年の沈黙はアウリスの内に普段ならばしないような最悪の想像を募らせる。絶望に涙が滲んだ。

 そうしてアウリスの恐怖をじゅうぶんに煽ったと思ったのか、赤毛の青年は急に顔を上げ、悪戯げに笑んだ。

「俺と君の二人でここを出よう」

 青年が左手の剣を横へ捨てる。

 あまりに思わぬ言葉だったので「え?」とアウリスは自然に聞き返していた。赤毛の青年はゆっくり前かがみになって目線を近づけてくる。

「君はここを出たかったんでしょ。その荷物見ればわかるじゃない。だったら俺と一緒に行こうよ。夜道って一人だといろいろ不安でしょ。怖いでしょ? 知らないおじさんとかにアメちゃんやるからおいでとか言われるんだよ? 怖いじゃない」

 アウリスはますます身を硬くする。提案というより逃げ場のない決定事項のように聞こえる。

「さっき言ってたじゃない。君は弱い。俺は強い。だから君のことは俺が守ってあげる。代わりに君は俺の傍にいてくれればいい。望むのはそれだけだよ。ねえ、どう思う?」

「ど、どう思う……て」

 アウリスの喉から掠れた声が漏れる。

「あれ、どうして迷うの?」

 赤毛の青年は考え込む顔でこめかみに指を添える。

「……そっか。言葉だけじゃ説得力ないよね、じゃあ」

 次に、武器庫の隅で竦んでいる二人の方へ指差す。

「君を苛めようとしたあの二人を今からやっつけてあげる。そしたら俺の強さがわかるでしょ」

「えっ」

 赤毛の青年以外の三人の声が見事調和した。

「俺が勝ったら君は俺と一緒にくるんだよ。ね?」

(そ、そんなこと言われても)

 罪人たちが真っ青で顔を見合わせている。彼らの方へ初めて視線を向け、アウリスも困惑に押し黙っていた。彼らに苛められかけた覚えはない。というか主格は目の前の赤毛の青年だろう、現在進行形で。

 胡乱げな目つきでアウリスがふりむく先、青年は赤い髪を揺らして嬉しげに笑った。

「そんな不安げな顔をしないでよ。これからは俺が傍にいてあげる。君はすくすく大きくなればいいだけ。それでいつかもっと俺好みの可愛い女の子になって俺のお嫁さんになってね?」

 アウリスの背中を冷たい汗が落ちた。

 男が自分を見つめるときの満足げな目つきの意味をアウリスはやっと理解する。

(ほ、ほんもののへんたいだった……)

 いつ気づかれたのだろう。訓練所に来て一ヶ月近く経つ。アウリスはその間、誰にも性別を見破られていないと思っていたのだ。

 アウリスは思わず目を背けた。何か居た堪れない気持ちだった。彼の未知の熱を孕んでいる視線からほんとうなら全身すっぽり隠れてしまいたい。

 別種の恐怖に微妙な表情を浮かべているアウリスを、青年は可笑しげに目を細めて眺めているのみだ。

「さあ約束して。そしたら今すぐにあのひとたちを殺してきてあげる」

「……」

「ねえ、約束してよ」

 意気揚々と腰をかがめ、小指を差しだす赤毛の青年を前に白けるべきか気絶するべきか、アウリスはもうわからなくなりつつある。

(なんのつもりだろう)

 まさか本気なのだろうか、この男。彼程の技量があったら、アウリスが自らその腕に飛び込まなくてもさらりと連れ去ることは可能なのだろう。

 そんな想像がアウリスを悪寒で包んだときだった。

 急に床板が軋み、男が一人、甲靴を壊れるように鳴らして扉の方へ駆けていった。

 アウリスはその後ろ姿を慌てて目で追う。

 きっと場の異常なおどろおどろしさに耐えられなくなったのだろう。死体の転がる空間はただでさえ長居したくはないし、理不尽に脅されているわけだし、赤毛の青年の注意が完全にアウリスの方へ向くのを待っていたのかもしれない。

 男は暗がりの中へ吸い込まれていくかと思うと両開きの扉に体当たりした。

 最後の一人は魂の抜けたように部屋の隅に立ち尽くしているまま。

 扉が外側へ弾けたその一拍前に、赤毛の青年は動いていた。粗末な服の懐から短刀をまっすぐに放つ。

 刀身が一分のぶれなく標的の後頭部と首との隙間に吸い込まれていく。

 アウリスはその光景に視線を逸らさず見入っていた。

 ふと違和感を覚えたからだった。気づいたときから視線で追っていた男の動きが、短刀が刺さるより一瞬だけ早く、扉をあけたときに止まっていたように見えたのだ。

 次に、即死したはずの男が妙な猫背をした。その体の左側に、縦向きの細い刀身が覗いている。その小さな光にアウリスはやっと気づく。

 扉を開いたとき、男はすでに正面から貫かれていたのだろう。

 アウリスが理解に至るのとほぼ同時に、男の体躯は後ろへのめりこむように倒れた。濡れた枕が落ちてきたような重い地鳴りが響く。

 アウリスは戸口に立つ二人を見て嬉し涙する暇もなかった。



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