15.
なんで。どうして。
喚きたてるアウリスの口を猫じゃらしが手で塞ぐ。
少女の甲高い声がうるさいのもあるだろうが、周りに聞かせないためだろう。ここでは彼女はアウリエッタではなく、アウリスだからだ。
当のアウリスはそんな約束なんて忘れていた。暴れる手を猫じゃらしが掴み、片手に束ねようとするので身を捩って逃げる。
「っおい」
猫じゃらしの苛立った声と共に肩を押さえられる。固定されたアウリスは猫じゃらしに顔を覗かれる。
「父君のことは、残念だった」
とたん、体が弛緩した。
猫じゃらしがいつもとは違う真摯な目でアウリスを見ている。
若葉が月光を透かすのに似た暗い緑色が、ロウソクの明かりに紫色にたゆたうようだった。その一対を見つめ返すアウリスの目にじわりと涙が滲む。
「声、出さねえか」
聞かれても、アウリスには小さく頭を上下することしか出来ない。
掴まれる両手はまだ拳を握り、震えていて、肩は荒い息をしており、顔は興奮に火照ったままだ。けれど、アウリスのうちの破壊的な衝動は急速に萎えていた。
そして、後に残るのはえもしない無力感。見えない冷たい大きな手で撫でられたみたいに、全身から体温が奪われていく。
大人しくうなだれるアウリスを見て、猫じゃらしが寝台の上で身を退く。彼のローブはかなり着崩れていて腰紐をひっかけるだけの無残な姿になっていた。ロウソクの明かりに露になる肌には、赤く細かい線が幾つも浮かんでいる。
「あー……」
自身を見下ろし、猫じゃらしが微妙な声を漏らした。猫に襲われたような有り様に驚いたのだろう。
平淡な眼差しがアウリスのつむじに降り、それから開いたままの寝室の戸口へ向いた。
「とりあえず茶でも淹れるか」
返事をしないアウリスの腕を掴むと、猫じゃらしは彼女を強引に引きずるようにして立たせ、寝室を出る。
隣室では既にかがり火が燃えていた。来たときに気づかなかったのはアウリスの気が動転していたからだろう。
うすぼんやりした灯りを頼りに、猫じゃらしが奥へ歩いて床上に転がっている皮袋の荷を蹴飛ばす。すると壁際に煉瓦造りの小さな暖炉が現れた。
猫じゃらしはその傍にかがみ、木炭をくべてきぱきと火を起こした。
勝手知ったる風に動き回るその背中を眺めながら、アウリスはかがり火の影に立っていた。
猫じゃらしはきっと床についたばかりだったのだろう。かがり火を放ったらかしにして眠るのは危険だ。すぐ起きるつもりだったのかもしれない。それとも、見張りの人間は建物内のかがり火を見回るのに客室へも来ることになっているのだろうか。
アウリスは思考のまとまらない頭を横に振った。立っていても仕方がないと気づき、室内中央の食卓へ寄ると椅子に腰下ろす。
炎の中の木炭が弾け、会話のない薄暗がりにぱちぱちという小さな音が響く。
「ジークリンデ卿が亡くなったのは十一日前のことだ」
芯の甘い、低い声が沈黙を流した。
「城下町に出ていて襲われたらしい。現場から走り去る複数の人間を御者が見ているらしいが、証言はそれだけだ。真昼間で人が多かったのが逆に犯人を特定し辛くしている。……卿は鋭い刃物で後頭部を貫かれていた。その前に抵抗した痕跡があったらしいがな、即死だったろう。痛みを感じる暇もなかっただろうよ」
十一日前。
その日、じぶんはここで何をしていただろうか。アウリスは思い出そうとする。でもよく覚えていない。
こんなに遅れて知らされるなんて、怒ればいいのだろうか。それも何か違うと思った。
「ずいぶん淡々と話すんですね」
結局別のことを口にする。
猫じゃらしはどんな話題の時もけだるそうだ。どう考えても非常識としか思えないタイミングで嫌な笑みを浮かべることもある。
けれど彼は相手から目を逸らさない。
怒る気が失せるのは多分そのせいだ。猫じゃらしが、眉一つ動かさずに悲しい知らせを自ら語ってくれたから。
「べつに」
猫じゃらしが短く言う。手の中で火掻き棒が半回転した。
「俺だったら親の最期がどんなだったか知りたいだろうと思うからな」
猫じゃらしが食卓の方へ歩いてくる。そこに並ぶ茶器を漁ると、水瓶の一つから水をケトルに移し、暖炉の方へ戻っていく。
再び訪れた沈黙に、アウリスは膝元に重ねて置く両手を見た。
じぶんという器が寒気がする程に空っぽになっているのを感じる。同時に、心すべてが散々に引き裂かれているようでもある。
呼吸が苦しい。
痛む胸を押さえ、前かがみになるアウリスの中で、静かな激情はやがて一つの結論に至る。
「王妃さまが?」
言葉にしたとき、どす暗い感情がアウリスの胸を満たした。
「わからない。調査中だ」
猫じゃらしが静かに返す。
……嘘だ。
こんな偶然、あるはずない。
「ジークリンデ卿は政界じゃあ勝ち組だった。そういう意味じゃ、卿を狙う輩がいるのは今に始まったことじゃねえ。卿が死んだ今実際に一荒れきてる。そっちに手間取ってあんたの所へ戻ってくるのが遅れたんだ」
悪かったな、と猫じゃらしはついでのようにぼそっと言う。
そのことで無為な言い争いをしていたときはふてぶてしい態度をしてたくせに。
アウリスはなんだかおかしくて小さく笑った。笑えることが自分でも不思議だ。
火掻き棒の先端にケトルを引っ掛け、猫じゃらしが茶器の盆の方へ戻ってくる。そのまま分厚いミトンを嵌め、手際よくお茶の準備をはじめた。
白くて綺麗な花柄のコップがかちゃかちゃ打ち合い並べられていく。
「お父様のことを知っていたの?」
上目遣いに聞くアウリスに、猫じゃらしは手元を見たまま唇を歪めた。
「知らねえ奴はこの商売にはいねえよ。レオナート=ジークリンデ卿は地方軍務財務長官で、参謀会にも席があった。発言力のある偉大な貴族様だったよ。七年戦争を終わらせた真の英雄のひとりでもある。当然知らねえ奴はいなかった。それに、王都の貴婦人方にも評判でねえ。四十過ぎで女がいねえのは参議会じゃひとりだしな」
「え、そうなの?」
「あぁ?」
「お父様、四十超えてたんですか」
アウリスの言葉に猫じゃらしは虚を突かれたような顔になる。ふつうは父親の年齢を知っているものなのだろうか。
アウリスはもともと父についてあまり知らなかった。
年齢のことは、七年戦争に出ていたり十九歳の片親の息子がいるから、多分三十はいってるよな、くらいの認識をしていた。
そう言えば、乳母のへリーネに聞かされたことがある。父君は十四歳で早々母君と結婚なさいました。けれど七年戦争が始まり、父君は国と奥方様を守るために戦場へ出たのです、そこでたくさん活躍して、その功労に国王陛下にご拝謁賜ったのが、ジークリンデ家の栄誉のはじまりであったのですよ。そう言っていた。
アウリスはそれを聞いて、じゃあその戦から帰ったときにセルジュ兄様を連れていたのね、と聞き返したのだが、編み棒を繰る手を止めて睨まれた。
ジークリンデ家の最初の子供は、リシェール様です。そう乳母は言った。
そんなことをとりとめもなく思い出す。
俯くアウリスの視野にも入るようにと、猫じゃらしがコップの一つを食卓の端に滑らせてきた。暖かい湯気が頬を撫でる。
「……お父様は」
コップの赤い小さな花模様を見つめていたあと、アウリスは猫じゃらしをふりむいた。
銀髪の青年は行儀悪く食卓に背を凭れ、コップに口をつけている。目線をわざと外しているのだろう。
猫じゃらしの気遣いを感じられた気がして、アウリスは少しだけ笑う。
「お父様は女のひとに大人気だったんですか?」
「ああ、すさまじかった。奥方の後座を巡って東西南北の花が王都で競いあいだ。だが結局、卿は誰も正式に迎えなかったな」
「へえ。なんででしょう?」
「なんでって……あー、ん、何でだろうな」
なぜか猫じゃらしが困っている。傍若無人の代名詞みたいな男が今夜はどうしたのだろう。見ているとこっちも調子が狂う。
アウリスは目線を外すことにして、手の中に暖めているコップと向き合った。
「お父様、あまり家にいなかったんです。夏になると国王様とそのご家族を連れて帰ってきてた。それだけでした。城にいる間もあまりしゃべるわけじゃなかったし。というか、偶然すれ違って挨拶するくらいだったかもしれません」
父はほんとうに寡黙なひとだった。口を開くといえば、使用人頭に何か言付けているところくらいしか見たことがない。
「そんなお父様が、一回だけ夏以外に戻ってきたことがあります。セルジュ兄様がいなくなった春だった。家にあった大きな剣を兄様にあげたんです。赤っぽい色をした鞘の、綺麗な剣。兄様も得意になって稽古場で振り回してました」
「……一斥染めの太刀?」
猫じゃらしが驚いたように口を挟む。
「そう、そんな名前です」
「まじかよ。あのなぁ、一斥染めの太刀ってのは、ジークリンデ卿が戦での栄誉を称えられて国から賜ったものだ」
「うん、知ってます」
アウリスはうなずき、ついでのようにテーブルの端に顎を乗せた。
「わたしはその頃から剣が好きでした。兄様の稽古を見せてもらいにいったこともあります。……その年、お父様は他に変わった風はなかった。セルジュ兄様がいなくなっても、夏になったら普通に国王様たちと一緒にやってきた。だけどね、お父様が帰った後、その年わたしに剣の稽古の先生がついたんです。もちろん、わたしは何も言ってません。お父様は多分ヘリーネか誰かに聞いたんだと思います」
アウリスはコップを包んでいた両手を開く。目線上に翳す手のひらにはもう剣タコは薄くなってしまっていた。
ここにきてもう何十日、剣を握っていないだろうか。
嬉しくて、楽しくて、九歳のその日から出来るだけたくさん剣を振るようになった。剣のお稽古は週に二度と決められていたのだが、今思えば父がそう言い残していたのだろう。無骨な手になりすぎるとお嫁に行く先がなくなってしまうかもしれないからとか、心配していたのかもしれない。
そんな父だった。
よくお戻り下さいました、いただきます、ごちそうさまでした、気をつけて行ってらっしゃいませ、父とアウリスとの間にはその四つの言葉しかなかったような気がする。
けれど、アウリスはそんな父の存在感が、嫌いではなかった。
寂しく思ったこともある。反感を覚えたこともある。
無関心だったわけでは決してない。
羊肉の盛られた食卓の角で、周りの騒ぎを遮断したように静かにカトラリーを滑らせていた父の横顔が、嫌いではなかった。
「……」
思わず手で口を塞ぐ。
俯き、嗚咽を漏らさないようにしているアウリスの隣で、猫じゃらしが身じろぐ。けれどその気配はどこへも離れて行かなかった。
両手のあいまからしゃっくりみたいな息が漏れる。
前触れもなく緩んだアウリスの涙腺は見事な勢いで水分を出しきったようだった。ものの五分ほどで、アウリスは目頭が乾ききって痛いくらいになっていた。
猫じゃらしがコップを置く音がする。
いつの間にか両足を畳み、椅子の上で膝を抱えていたアウリスの正面に影が落ち、彼女のコップを持ち上げる。暫くして頭上でずず、と紅茶を啜る音がした。
(泣きだしたら追い出されるかと思ってたのに……)
やっぱり変な男だ、猫じゃらし。
アウリスはすぐ横に揺れているローブに手を伸ばし、白い袖に顔を埋めて、ちーんと鼻を鳴らした。
「……」
袖はすぐ放したが、無言の威圧感が尚も注がれ続けている。
アウリスはその源を見上げた。
「王妃様がやったの?」
猫じゃらしは返事をしない。
今に始まったことじゃない、とさっき彼は言った。それは王都での話のはずだ。父が、いかに政界で活躍しそれと同時に敵を作っていたのだとしても、わざわざ遠出の先で狙うだろうか。王都を離れたジークリンデ領へあえて足を運んで事件を起こす、というのはおかしい気がする。
「あなたはどう思いますか?」
やはり返事はないが、アウリスはかまわずに続けた。
「……猫じゃらしは、毒と解毒剤をいつも一緒に持ち歩くって言ってました。あれはほんとうですか? 本当は、最初からどっちも使うつもりだったんじゃないでしょうか。ラファエさまが頼んでなくても、あなたはあの森でわたしを殺めるつもりはなかった。そうじゃ、ないですか?」
「その話をする気になったのか?」
ふと食卓の端で猫じゃらしが腰を低くした。衣擦れの音が流れ、不機嫌な月みたいに冷艶な面立ちが少女の上に影を落とす。
「答えを持ってるのはあんたの方だろう、アウリス。あんたは何を知ってる。あの日何を知った、何を見た?」
アウリスは小さく笑った。
猫じゃらしがじぶんを助けたのは気まぐれからじゃない。傭兵団黒炭の情報屋として、優秀に恥知らずに情報を漁りかき集めようとした。それだけだったのだ。
我ながら、ジークリンデ家は国王に領地を賜った名門貴族だ。何か事件があれば人は騒ぐ。
ヴァルトール王妃は、その家の十二歳の娘だけでなく領主本人まで口封じしようとした。そこまでして守りたい秘密とはなんなのか。猫じゃらしは今も当然知りたいと思っているのだろう。
それでも、アウリスは今もこうして、生きている。
猫じゃらしのおかげでアウリスは助かったのだ。
「なあ、教えてほしいのは俺の方だよ。アウリス」
猫じゃらしのきれいな声は人の心の弱さにじわりと染みこむようだった。食卓の端に腰掛け、猫じゃらしは手を伸ばしてアウリスの目元に張りついている髪を避ける。その手は決して味方ではないけれど、暖かかった。
少々行儀悪い音をたてて椅子を引き、アウリスは立ち上がった。そのまま部屋の戸口を出ていく。
寒々しい石造りの通路を見ると、後ろ手で戸を閉める。
――ここを出よう。
帰ろう、じぶんのいるべき場所へ。
猫じゃらしは止めようとはせず追いかけてくる様子もなかったけれど、かがり火を頼りに、やがてアウリスは全速力で駆けていた。
とはいえ、家に帰るためには下準備が必要だ。
猫じゃらしは手助けしたくないの一点張りだった。お婆や肉団子にはばれたら止められるかもしれない。
幸い、今夜は月が明るい。
人々が寝静まった深夜、アウリスはまず地下の食貯庫に寄り、簡単な携帯食を見繕った。ドアの傍で山積みになっているジャガイモを数個、重過ぎない程度にザックに詰めたあと、冷温庫の中の干し肉を味付け程度の量で拝借する。
訓練所では夜間警備が立つ。少年たちの訓練も兼ねているのだろう。要所により警備網が異なっており、食貯庫、そして武器庫がある施設の東側では、だいたい、一刻に一度、二人組みで見回りにくるらしい。
松明は炊けなかった。残念だが、この闇の中に不審者がいることを知らせてしまう。
おかげで、アウリスは地底の倉庫の闇の中で完全な手探りだった。見つかるよりはましだ。そうじぶんに言い聞かせるのをくりかえす。
幸い、水は寝る前に用意できている。飯炊き係りの用事で倉庫に来たことがあるから、食料の方もあまり迷わずに入手する。
行き道より重くなったザックを背中に感じながら、足音をたてないよう、用心深く階段の隅っこを登って地上へ出る。
ザックの中身は食料の他に、松明用の布地と僅かな樹脂、火打石、そして外套と着替えの服が一式だ。念のため長旅用の軽装をしている。
馬があれば心強かっただろう。
が、厩は警備が特に厳重だ。肉だんごによると、グレウを含む数人の年上の少年たちがふもとの町に夜遊びに出ていたのが最近になってバレたらしい。
(つっぱりさんのやりそうなことだわ)
逆に言うと、ふもとまでは一晩で行って帰られる近さなのだ。
町に出たら何とかなるだろう、とアウリスは思っている。我ながら楽観的だ。しかし悩んでいても現状は変わらない。
幸い、ジークリンデの領内であることはわかっている。人気のある場所に出たら、家への道筋など情報を集められると思う。
アウリスにはまだ今一猫じゃらしの立ち位置がわからない。彼か、もしくは教官たちが脱走したじぶんを追ってくる可能性はあるだろう。蹄の音で彼らに気づかれない為にもやはり馬は使えない。
最後の目的地、武器庫へと、階段先で右手の角にある木戸を見つけた。物音をたてないよう、特に背中のザックに細心の注意を払いながら、まず隙間だけ開く。のっそりとしゃがんで外を覗く。完全に不審者だ。
目を走らせ、人がいないのを確認して外へ忍びでた。
アウリスはそこで一度立ち止まった。満月の冴え冴えとした明かりが中庭に満ちている。思わずほっと安堵の息をついた。
地底の暗がりを吸い込んでいた目が慣れるのを待つと、移動開始だ。
中庭の隅を、建物の影に沿い素早く行く。
武器庫は他の建物とは少し離れたところにある。扉はいかにも頑丈そうな、重圧の木製の両開きだ。けれど閂や鍵の類はかかっていないから、今夜も押すだけであっけなく開いてくれた。
身を捩るようにして隙間に入り、すぐ後ろで扉を閉じる。
アウリスは扉を背に佇み、外に出たときと同じに目が慣れるのを待った。呼吸を落ち着かせる為に深く息をする。
ここは地底と違い完全な闇ではなく、丸太組みの壁の繋ぎ目から外の月明かりが薄ぼんやりと差し込んでいる。
それでも奥になるとまったく見えない。
アウリスは怖気づきそうな足を叱り、前へ進んだ。
指折りする程度の数だが、掃除の手伝いにここへ来たことがある。そして、武器庫内は食貯庫内より物の配置に変化がないはず。
日の中で見たその景色を、アウリスはもう一度脳内に組み立てようとする。
今触れているのは多分弓だ。秋から冬に渡って練習が始まると聞いている。確か右側の奥に整頓されているはずだ。
一人旅の護身用には短刀か長剣が妥当だろう。長剣の方が望ましいけれど、じぶんにも操れる程度の重さのものでなくてはならない。
(確か、中央に大きい立て台みたいなのがあったな……)
暗い倉庫からさっさと出てしまいたくて気持ちが焦る。物の輪郭が黒っぽいガイコツの形にしか見えない。それになんだか寒い。必要以上にここにいたくなかった。
そのときだった。室内中央へ向けて踏みだした足元が一瞬明るんだ気がした。
(……え?)
迷っている時間はなかった。
アウリスが目を向ける先では扉と壁との繋ぎ目が断続的に輝き、翳っている。松明の炎が徐々に近づいているのだ。
「静かにしろや!」
唐突に外で話し声がした。
「てめえこそ何大声出してんだよ!」
「どーすんだよ、どーすんだよやべえよ。つか何やってんだよ」
「んー。でも、やらなきゃやられてたと思うよ」
「兄ちゃんの言うとおり、……っと、ここかな?」
会話する声には聞き覚えがあった。
アウリスはとっさに身を丸め、進行方向に思いきり転がった。ぶつかった肩の方でがちゃん、と音がする。
外の話し声が止んだ。
もしかすると今の物音が聞こえたのだろうか。
だとしても今さらどうしようもない。じぶんが目的の位置でちゃんと隠れていることを祈りながら、息を潜める。
アウリスの頭の方角で床の軋む音がする。両側の扉が開かれていくと月明かりと松明の光の洪水が注いだ。正面に降りる布の幕越しにも眩しい。あんなに怖がっていた夜闇がじぶんの傍を離れていくのにヒヤヒヤする。
「誰もいねえのか」
その言葉が聞こえるまでが永遠に思えた。
アウリスは今武器の立て台の下に転がっている。立て台は食卓用のテーブルだろう。前に見たときは縦に長く、横幅の方も人が両側で食事につける程度に広かった。武器を傷つけない為か木工の表面には布製の幕が敷かれていて、その長さは四方の床まで達している。
即興だったが隠れるのにぴったりな場所だった。布の幕と、立てかけられている武器によってアウリスの姿は完全に隠れているはずだ。
(まだ油断は出来ないけど……)
アウリスが息を潜めている部屋で、侵入者たちは彼女の存在に気づかず会話を続けている。彼らが歩き、重力が移動するたびに、それがアウリスの全身に響く。
「やっぱし武器庫か。すげえなコレ」
「へええ、立派なもんじゃねえか。このへん売ったらぜってー金になるぜ」
「黒炭っておっきい傭兵組織だしね。鍛冶師とか専属でついてるんじゃない」
「つか何のんびりやってんだよ! つかどーすんのさっきの! さっきのあれっ、あれっ」
「どーすんだどーすんだ煩え。しつけーよ」
「正当防衛です」
「いやてめぇで襲いかかってたよねー、この兄ちゃん」
「過ぎたことはもーいいじゃねえか。ビビってんじゃねえよ」
誰かがうんざり唾を吐く。別の誰かが、強度を確かめるためか弓を引く音がする。
(……やっぱりおかしい)
アウリスはずっと違和感を覚えていた。会話の声に確かに聞き覚えがあるからだ。
けれど、この声の主たちはここにいるはずのない人間たちだった。
見つからずに家出をするという決意とは別に、まったく関係のない好奇心が芽生える。
アウリスは目の前を塞ぐ分厚い幕をそっと抓み、床上すれすれに捲った。人の足元、しかも靴のつま先程度の高さだから気づかれないはずだった。寝転がったまま、その隙間から外を見上げる。
薄闇を過ぎる松明が見えた。
そこで、アウリスの指先の感覚がなくなった。
やはり、昼間に見た檻の中の人間たちだった。一箇所に固まらず、警戒していないのかと奇妙に思うくらい無遠慮に人様の施設を歩き回り、武器を漁っている。死角からも床板が軋むのがしきりに聞こえている。
「まぁ、確かに早くした方がいいかもね。気づかれて騒がれる前に出よっか」
そう言ったのは戸口に立つ青年だった。
アウリスは彼から目が離せなかった。
恐怖に喉がこくりと鳴る。昼間檻の中で微笑んでいた彼は、その髪と唇の色がまったく目立たないくらい、真っ赤な返り血を頭のてっぺんから全身まで被っているのだった。