14.
アルヴィーンとグレウの決闘は中途半端に終わったらしい。
何でも、近くにいた教官たちが止めに入ったのだとか。騒ぎが勃発してより様子を見ていたが、少年たちが徐々に収まりのつかない域で剣を応酬しはじめたところで待ったを入れたらしい。アウリスに言わせると最初から大怪我を免れない試合をしていたように思えたが、そこは長く訓練所にいる者たちとの感覚の差だろう。
戦いになると、少年たちは場の熱に飲まれて後先なんて考えない。だから、それを止めるのはいつも周りの役目だという。特にアルヴィーンとグレウはこの訓練所きっての腕前だから、教官たちに大事にされているみたいだ。
アウリスがその檻の存在に気づいたのは、肉だんごと何度目かにそんな話をしていたときだった。
中庭の乾いた砂が夕焼け空に向けて巻き上がっていく。夕食帰りの人の列に混じり、宿舎へ向けて歩いていくのとは逆側の離れたところに、木工の大きな檻が置かれていた。子供たちからはわざと遠ざけてあるようなその距離感には好奇心を惹くものがあった。実際にあれを見るのは今日で二度目だ。
「ああ、猫じゃらしが運んでるんだろ」
アウリスが足を止めると、肉だんごも彼女が見ているものに気づいた。
「行き先はどこだったかな、どっかの鉱坑。教官たちが言ってたじゃん」
「あれ何ですか?」
「なにって、罪人だよ」
「罪人?」
「ああやって連行されてるんだろ。町で見たことないか?」
アウリスは首を横に振った。罪人ならば見張りの者がついていそうなものだが、中庭のその一角にそれらしき姿はない。檻の粗末な四角形は、疎外感たっぷりにぽつねんと取り残され、赤い日差しの中で地面に長くて濃い影を落としている。しかしよくよく見てみると、確かに何かがうごめいているようだ。
「おい、どこ行くんだよ」
「ちょっと見てこようかなって」
おもむろに歩き出したアウリスの腕を、肉だんごが後ろからつかんだ。
「やめろって。教官が食事んときに言ってただろ? あいつらに近づくなって」
アウリスが川原を去った後にあの檻の話をされたのだろうか。
「ほんとに見たことないのか? 町中でもああやって運ばれてるじゃないか」
「ねえ、一緒に見に行きませんか?」
「だからダメなんだって」
「じゃあいいです。自分だけで行く」
アウリスは罪人も、罪人を運んでいるところも見るのは初めてだ。
(ほんとうに人が動物みたいに檻に入れられてるのかな……)
その想像に好奇心が強くなる。猫じゃらしとの一件の後でずっと気持ちは腐っていた。その気晴らしにはいいようにも思える。
アウリスは肉だんごを振り切り広い中庭を横断した。少し遅れて背後でお手上げと言わんばかりの大きなため息が落ち、次に肉だんごの足音がじぶんのそれに重なる。
近づくほどに、肉だんごの言葉通りの景色がアウリスにもはっきり見えはじめた。粗末で頑丈な丸太組みの檻は大人が立ち上がれるほどの高さはなさそうだ。そこに四人の男がいる。それぞれ檻の柵部分に背中を預け、疲れたようにしゃがみこんでいる。
二人の子供が近づくのに気づいたのか、一人がほかの三人の注意を惹くように顎をしゃくった。
アウリスの方も注意深く眺めていた。ここまで近いと、相手の姿に乞食、という単語が浮かぶ。見たことがあるのではなく、話しに聞いたことのある存在だ。それに、変なにおいがする。汗か尿か、そんな汚物と泥が混じったにおいだ。相手の体に染み付いているのだろう。たいして嗅ぎたい匂いではない。どうやら、罪人というのはあまり見て楽しいものでもないようだった。
アウリスにはボロ雑巾にしか見えない羽織りを着た男が一人、木組みのあいまに声をかけてきた。
「おい、何見てんだ」
「ぼっちゃん、水持ってねえか」
別の一人が掠れた声で聞いた。喉が渇いているらしい。アウリスはベルトに提げている水筒に触れ、そのまま近寄ろうとするが腕をとられる。
「よせって、アウリス」
肉だんごが内緒話みたいに小さな声で言った。アウリスは背中にぴったり張り付いている彼を見て、もういちど檻のほうへ顔を向ける。
木組みのあいまには大人の腕がやっと通る大きさはある。向こうから手を伸ばしてくれたら二歩ほど先で水筒を手渡せるだろう。
けれどアウリスはためらった。相手が罪人だと聞いて警戒しているのもあるが、単に居心地悪い。みすぼらしく汚い相手の姿に戸惑うだけでなく、そんな相手にとって、檻の外側の小ぎれいなじぶんはどう見えているのだろうかと思った。きっと、あまり好印象ではないはずだ。
「聞こえねえのか、この餓鬼!」
痺れを切らしたように、一人が怒鳴りつけてきた。
「その腰の水よこせって言ってんだ! さっさとしねえとこの檻破って木の切れ端眼球にねじ込むぞコラ!」
「ああ、そりゃあひでえよ。綺麗な目をした子供じゃねえか。なあ、別のモン別のとこにねじ込んでやろうか」
別の一人が厭らしい声で笑う。
アウリスは知らずと一、二歩下がっていた。その手前に大きな影が落ちる。
「お?」
「なんだあ、豚が」
さっきの二人がはやし立てるように言う。やっとショックが抜けて見上げれば、アウリスの手前には肉だんごが立ちはだかっている。
「こいつら気前がいいじゃねえか。水だけじゃなく子豚の丸焼きも用意してくれんだってよ」
「おぅ、いい感じに脂のってんじゃねーか」
「ほら! こっち来い!」
檻の中で退屈していたのだろう。格好の獲物を得たと言わんばかりに男たちは気色ばんでいる。
檻の中に浮かぶ薄笑いにアウリスは身を硬くする。さっさとこの場から離れればいいことだ。そう思うのに足は動かない。怖くて竦んでいるのもあるかもしれないが、何より身に覚えの無い侮蔑を投げかけられることに戸惑い、とっさに反応できないでいた。
一人が柵を掴んで大きく身をゆすると、檻全体がゆれだつ。アウリスの正面の肉だんごから息を呑むのが聞こえた。彼も後ずさりをするという選択肢が抜け落ちているのか、引け腰になりつつ、手に馴染むその木刀を引き抜いた。
一触即発という雰囲気。アウリスは檻に入った人間が見たいとか馬鹿な考えを起こしたじぶんを呪った。
「アル中のお父さんに殴られて育った挙句に高血圧とかお医者さんに言われて気が立ってる短気なおじさんの肉と比べると、確かにその子は柔らかいんじゃない」
「んだとコラア! 今何つった餓鬼!」
一人の男がかっと目を開いた。眼球の白いところが血走っている。
アウリスと肉だんごは同時に首をぶんぶん振っていた。今のアル中とか高血圧はじぶんたちじゃない。
「ん?」
相手の男が気づいたように仲間たちと顔を見合わせ、後ろを振り返ると、その目の前に残影みたいなものが走った。鈍い嫌な音がする。
糸が切れたように倒れた男の方を見ず、アウリスが視線をまっすぐに向けると、そこには新しい男が屈んでいた。
天井の木組みを掴み、窮屈そうにしながら、男は高い背を低めて片膝を折っている。少年とも言えるような若い面立ちだ。ジャガイモ袋を縫い合わせたものを外套代わりにすっぽり肩から被っただけの服を着ている。その足元は裸足だ。
「てめえ、何調子のってんだよ」
厭らしい笑いをした男の方が詰め寄ろうとし、それをもう一人が制した。
誰も目を向けていない床の男の様子をアウリスは伺ってみる。檻の粗末な板張りの上で泡を吹いていた。半目になっていて、右の耳の穴から血が出ている。
(し、死んでない。よかった……)
普段ならば暴力交渉があった時点で怯んだかもしれないが、この訓練所に来てからは少し免疫が出来ているかもしれない。それに、相手は殴りあいなんて当たり前だろう社会のはみ出し者だという事前の知識がある。
アウリスが状況を理解し、改めて目を向ける間に、加害者の男が正面に出てきた。体つきだけを見れば床に伏す男がクマで、この人物はコジカという感じがする。あまり体育会系には見えない。さっきのは相手の隙を突いたから一発で倒せたのだろうか。
「君たち傭兵団の子?」
若い男は木組みのあいまに手首を休め、にこりと笑った。他の男二人は彼を相手にしないことにしたのか、左右にやや距離をあけて立っている。
「毎日ここで訓練してるの?」
「あ、ああ」
肉だんごがしどろもどろに返事をする。
「へえ、えらいなあ。いつもその木刀で練習してるんだ? あのね、剣の構えってさ、見ただけでその人の強さがわかるんだって。俺は太刀筋とかあんま知らないんだけど、様になってるよ? 君かっこいい」
男がしゃべると、自然と彼の薄い唇に目がいく。それは毒の実みたいに赤かった。男の赤毛の短髪よりまだ赤い。
この状況でお世辞なんて言われても素直に受け取れない。きっと何か企んでいるのだろう。
(肉だんご、ほだされてないよね)
アウリスが心配になって前に立つ肉だんごの顔を見ようとしたとき、柵の向こうにいる男がまた声をかけてきた。
「さっきはごめんね。お兄さんたち、喉が渇いてるのはほんとうだよ。朝から一滴も水をもらってないんだ」
それで、気がたってるのかもしれないね、とさらっと話題をつなげ、男は木組みのあいまに手を通した。
「水もらってもいい? ちゃんと後で水筒は返す」
朝から何も飲んでいないというのは本当だろうか。それなら喉も渇くはずだ。
アウリスと肉だんごは顔を見合わせた。状況は振り出しに戻っている。柵のあいまに伸び、催促している腕は引き締まっているが筋肉質という感じではない。木組みの一本のように長細い。
アウリスは上目遣いで正面の男を伺う。こちらに仰向けになった手があまり汚れておらず、一見女性的なほどにほっそりしているのを見て、彼女はわずかに安心を覚えた。
「おい」
肉だんごが小声で制する。アウリスは慎重に歩を進め、相手の手のひらに彼が欲しているものを置いた。
「ありがとう」
男は手を引っ込めると、じぶんが飲むのかと思いきや、そばで待機している二人の男の方へ水筒をやってしまった。受け取った男は獣のように唸り呷るように飲みだす。
赤毛の男が再び檻に凭れたので、アウリスの視線はじぶんの水筒から彼へと戻った。
「君もここの傭兵なの?」
なぜ二回同じことを聞くんだろうと思いつつ、うなずいた。
ふうん、と男は笑んだ。アウリスにはあまり免疫のない表情をしている。それに気圧され、アウリスは相手を見る視線が弱くなるのを感じた。多分世の中では色気と称される類のものだったが、彼女には凄まれているとか、脅されているみたいに感じられた。
「君は罪人に興味があるんだ? 檻が珍しい?」
ほんとうのことなので、アウリスはおそるおそるうなずいた。男の背後では他の二人が水筒を奪い合うようにして飲んでいる。アウリスは彼らの方を目線で示す。
「あなたは、その、いいんですか?」
「ん、優しいね」
よくわからないことを男は言った。
「ちょっと確認したいんだけど、ここって黒炭の訓練所だよね? まだジークリンデの領内かな」
「はい」
「どのへんか知ってる?」
「どのへん……場所はよくわからなくて」
「そっか。本格的な施設なの? この古城を宿舎代わりにしてるみたいだね。緑の多い良い所じゃない。何人くらいで居るの?」
「五十人、くらいでしょうか」
教官たちや飯炊きのおばばを入れたら六十人前後だろう。
男が何事か考え込む。
一応会話が出来る相手のようだと解り、アウリスは好奇心が再び膨れるのを感じた。
「あなたがたはどこから来たんですか?」
どこで捕まったんですか、とアウリスは聞きかけ、失礼だと思いなおした。
男はアウリス本人と彼女の後ろで抜刀したままの肉だんごとを見比べる。楽しげに唇の端を上げた。
「んー、いろいろ。俺たちはこの檻の中で知り合っただけだから、他の三人のことは知らない。でもね、お兄さんたちはべつに悪い人じゃないんだよ」
「たち、って。他の三人のことは知らないんでしょう?」
「あそっか。かしこい子」
男は笑みを深めた。左右の手を別々に木組みのあいまに入れて、アウリスの方へ凭れるように見下ろす。感覚的に距離は近くなったが、アウリスは逃げたいとは思わなかった。男の方も、アウリスの緊張がとけかかっているのを目ざとく見つけて態度を崩すことにしたのかもしれない。
「聞いてくれる? 俺ね、ほんとはぜんぜん納得してない」
男は不平を言う口調になった。真っ赤な唇を尖らせている。
「もう三日前のことなんだけど、なんかピリピリしたおじさん達にすごい形相で町中追っかけ回されたの。挙句にこうやって捕まっちゃった。菓子パンの店でパン盗んだだけだよ? 麦のやつ一ローフぽっちだよ? それでこんな扱いされるなんて割りに合わない。そう思わない?」
肩を竦め、ドロボウの男はやっと回ってきた水筒に口をつけた。アウリスを水筒の陰から見下ろすようにして長い一口を嚥下する。それから、口を放すのと同時に満ち足りたような、物足りないような微妙なため息をついて、水筒の方は腕だけを後ろにやって他の二人に返す。
「俺たちがどこに連れてかれるか知ってる?」
アウリスは首を横に振った。肉だんごを見ると黙って肩を竦められる。肉だんごは鉱坑がどうとか言っていた。猫じゃらしも彼自身の行き先を語っていた気がするが、よく思い出せない。
アウリスの顔を見つめ、男は大げさなくらい物悲しい表情になった。
「アデカ領の地下の坑道。俺、鉄かなんか採掘する重労働させられに行くんだって。これから二年。うら若き青年にそれはないんじゃない。地底だよ? しかも鉄掘れって、なんか汗臭くない? 女気なくない。それがパン一ローフ盗んだ報いだとか言われても納得できないでしょ」
「……でも、盗みは罪です」
アウリスは少しだけ考えたあと遠慮がちに言った。
「あなたは、ジークリンデの領の出身なんですか?」
アウリスは国法と領法の区別があまりつかない。家庭教師に習っている途中なのだ。それで領内の犯行だったのかどうか知りたくなっただけなのだが、相手の反応は予想外のものだった。
「そう、そこ」
アウリスの問いに、男は何故かここが重要だといわんばかりの強い口調になった。
「お兄さんは流れ者だから出身とかあんまないんだけどね。捕まった場所がジークリンデ領だったのが悪かった。というかタイミングの問題かなあ。こんなときじゃなかったら絶対見逃してくれてたと思うんだけど。あれじゃない、領主が死んだのからまだ一月も経ってないでしょ? それで城下町の警備兵とかさ、いろいろ殺気立ってたみたい。困るよね?」
赤毛の男がため息をつく。大げさなくらい眉根を寄せ、悲しそうな顔をしている。
けれど、アウリスは言われている意味がわからなかった。横から別の男が口出しする。
「けっ、だからなんだ。貧民外じゃあ毎日のように人がバッタバッタ死んでんだよ」
「んー、まあ、国境でもそうだろうけどね。領主様となると世間は一大事じゃない」
赤毛の男がたそがれるみたいに頬杖をつく。そのわざとらしい仕草もアウリスの目には入らなかった。
「領主?」
「領主って……、んー、土地を治めている貴族のこと。そっか、こんな山奥にいると世間話とか聞くことないのかな」
アウリスの呟きが聞こえたらしい。赤毛の男は世知らずの相手をしているような口調になり、それを語った。
「ここら一体はジークリンデの領なのは君も知ってるでしょ。その領主様はレオナート=ジークリンデっていうんだけどね。そのひとが暗殺されたんだ。もう、一週間以上も前の話だよ」
猫じゃらしは早めに寝室にこもっていた。
旅で疲れているのか。いつも変な時間に寝るのか。夕焼けがようやく完全に薄れ、群青色の夜の帳が下りたばかりの新鮮な闇が漂う窓辺に、小さなロウソクの火に照らされた寝顔がある。
起きるどころか、身じろぎをする気配もないと思ったのに、その寝顔はうっすら瞼を開いた。まるで、アウリスが枕元に立つのを待っていたかのようなタイミングだ。
ロウソクの火に炙られ、深翠の瞳は奇妙に紫がかっている。その一対が、突きつけられた木刀の先端を認めたようだった。
「お父様を殺したの?」
アウリスは静かに口を開いた。身じろぎ一つなく、猫じゃらしの瞳だけがアウリスの方へ向いた。
「違う」
ベッドシーツの奥で、声は少しくぐもっていた。寝起きだからかもしれない。
ちがう。
猫じゃらしの言葉をアウリスは頭の中で反芻した。俺じゃない、違う、という意味だろう。
木刀の柄部分に力をこめると図らずと刀身が震えた。息が詰まり、アウリスは声を出すのに苦労した。
「ほんとうなの? お父様が殺されたという話」
一語一語、発音するのにすごい集中力を要した。頭がその事実を飲み込みたくないといっているのだろう。
アウリスは猫じゃらしを見つめた。彼の目は開いていて、傍のロウソクの火を頼りにまっすぐに眼差しを返している。
寝に戻っているわけではない。けれど、猫じゃらしは沈黙していた。それが答えなのだろう。
体中に冷然としたものが満ち、それが指先から流れていくようだった。完全に力が抜ける前に、アウリスは木刀を視線の先の顔に投げつけ、寝台の上の相手に掴みかかった。