13.
九歳のアウリスは中庭の芝生の上を駆けていた。着ているのは卵の殻に似た退屈な白い色の無地のローブだ。余分に長い袖が後ろになびいている。
やがて一本の樹木にたどり着くと、アウリスはそれを登り始めた。長い袖は触手のように小さなからだに巻きつき動きの邪魔をするが、高いところに登るのには慣れているのであまり苦労せずに目的の位置まで辿れた。
ちょうどそのとき、追いかけてきた少年の姿が開いたままの裏戸に現れた。
ラファエアート王子は戸を出たところに数秒佇み、優雅な足取りで中庭に入る。その肩には黒地のドレープがかかっている。昼食に出たときのままの格好のようだ。金の糸で刺繍された猛る獅子の紋章が、アウリスのいる夏の枝葉のあいまにも見えた。
王子は木の下で周りを確認するように見回したあと、まっすぐに見上げた。
「エッタ」
物怖じしない、澄んだ声がかかる。
(なんで? どうしてラファエさまはいつもわたしの居場所がわかるの?)
いや、まだ見つかったとは限らない。もしかすると、あてずっぽうに声をかけただけなのかも……。
アウリスはとりあえず息を潜めてみることにした。音をたてないように注意していたら、通り過ぎていくかもしれない。
けれど、その期待は見事に外れた。
「そんなところでかくれんぼ?」
ラファエはそう言って困ったように笑う。その濃い紺の瞳はアウリスの白いローブ姿にまっすぐ向いていた。
「エッタは高いところが好きだな。……だけどね、エッタ。食事を放り出して遊びに行くのは感心しないな。俺の話もまだ終わってないんだよ」
「あ、遊びに出たんじゃないわ!」
言ってから、アウリスはしまった、と思った。
ラファエの方はさっきより屈託なく笑った。アウリスの反応が返ってきて安堵しているのだろう。
ラファエさまなんかとはもう、口利かない。
アウリスはそう言ってお昼ごはんを抜けてきたばかりだったのだ。
(まっさきに無視の誓いを破っちゃった……)
「エッタ、降りておいでよ」
「……いや」
アウリスは幹を抱く腕に力をこめた。
誓いは間違えて破ってしまったけれど、せめて態度だけは怒っていようと思った。
王子は静かな木のてっぺんを眺め、目を細めている。木漏れ日がまぶしいのかもしれない。若葉の緑色が透明に近く透けている光の中、少女の姿は何者にも懐かない野良猫みたいに見えているだろう。脅威にはならない小さな爪を立て、背中を丸めて、それでも精一杯威嚇している、子猫。
ラファエにこの木を登るのはたやすいだろう。それでアウリスを捕まえることは簡単だ。そこはアウリスもわかっていた。けれど、彼はそうしなかった。
「エッタは俺が言ったことに怒ってるの?」
王子はそう言って地上で二の腕を組んだ。無理やり捕まえるようなことはしない、という意思表示のように。
「エッタの兄君が家を出ることになったのを当然だと言ったから? そうだね。ごめん、エッタの気持ちを考えない発言だった。俺が言いたかったのはちょっと、違うんだと思う」
「どう違うの」
ラファエがはっとしたように言葉を切った。
「どう違うの? ラファエさま」
アウリスは蚊の鳴くような声で聞き返す。彼女の耳にはまだ残っていた。今年、王族の出迎えに混じることも、一緒にご飯を食べることも許されたことのなかった七つ上の兄セルジュがとうとう、屋敷のどこにもいなくなった。そのことを王子に教えたら、王子はこう言ったのだ。
セルジュは家を出て片親としての責務を全うするだろう。それは当然のことだよ。何も、エッタが悲しむことはない――。
兄のセルジュが屋敷を出て一月も経っていなかった。遠い国境の警備兵になると彼は言った。剣を握り、国を、妹のアウリスを守るのだと。
それは誉れ高いことなのかもしれない。だけど、屋敷の誰もが知っていたのだ。セルジュは片親だから家督を、家名を継ぐことは許されないのだと。そこで、他所へ行くしかなかったのだと。
少なくとも、アウリスには後者の方が真実に近いように思えた。兄はここに居場所がないから、追い出されただけ。そもそも病弱の兄が兵士になりたいなんて思うはずがない。
(なのに、ひどい)
アウリスは木幹に寄り添ったまま、おもむろに足を下ろした。王子はそれが当然だと言った。そのときの怒りが内によみがえる。
「エッタ」
手ごろな枝をつかむのをくりかえして木を降りていくと、背中に呼びかけられた。何を勘違いしているのか明るい声だ。
地面との距離は一階の出窓辺りの程度。
アウリスは王子を肩越しにふりかえり、勢いよく飛びかかった。
両手両足を宙に広げ、じぶんに向かってくる少女を見て、ラファエはとっさに二の腕を伸べた。結果、彼女を捕まえるのには成功したが足を滑らせた。成長期の骨格は本格的に背も伸びだして雄のものへと著しく変化をはじめていたが、それでも子供の体格だ。二つ下の少女の体重と彼女の怒りの勢いと、重力とを支えきるにはいささか力不足だったらしい。
ラファエの踵がずるっと土に跡を残し、彼の背中は次の瞬間地面を打った。その腕のなかでモゾモゾと動きがある。
転倒の痛みを息を止めることで耐えきった王子が顔を上げるのと、その頬をアウリスが打つのが同時だった。
次に、妙に静かになった。木漏れ日の中に葉がこすれる音しかしない。
アウリスはじぶんのしたことに我に返り、右手を見た。痺れるそれが現実であることを伝える。心臓が早鐘を打っている。アウリスは信じられないような顔をして、じぶんの跨っている相手を見た。王子も同じくらい信じられないという顔をしていた。
「エッタ……」
呆けたようなその声に、途方もない罪悪感がアウリスを襲った。
「っ、ラファエさまのせい!」
アウリスはとっさに怒鳴り返した。
「わたしのせいじゃないもの! ひどいこと言うから! ラファエさまがっ」
「うん、ごめん」
「ラファエさまが悪いんです! だって、ラファエさまが、ラファエさまが」
アウリスは痛いくらい後悔していた。それを振り払いたくて大きすぎる声を上げた。その震える拳に、白い手袋をした手がかかる。
「うん、エッタのせいじゃない。俺が悪かったんだ」
顔を上げたアウリスに、ラファエがうなずいた。
「ごめんね、エッタ。俺が悪い。……俺はね、この夏ジークリンデに来るの楽しみにしてた。去年楽しかったから。だけどエッタは違うように見えた。迎えに出てくれたときからずっと浮かない顔してた」
「それは……」
セルジュ兄様がいなくなってしまったからだ。だけどラファエは誤解したんだろうか。王子が会いに来てくれたのは嬉しかったのに。
「もしかしたら、俺、意地悪が言いたかったのかもしれない」
「でも、わたしが落ち込んで見えるんだったら、それはセルジュ兄様のことがあるからです」
「うん、だからだよ」
アウリスにはラファエの言う意味がよくわからなかった。兄のことで落ち込んでいるから、王子は怒ったというのだろうか。
「俺は兄弟がいない。だからエッタの気持ちはわからない。わからないのにひどいことを言って悪かった。……だから、俺が悪いんだよ」
ラファエはそう言って自らの頬に手を添えた。それを見て、ますますアウリスは困惑する。ラファエがじぶんに打たれた頬にくりかえし触れている様子は、どこか嬉しげな感じがしたからだ。
(わたしだったら絶対、やり返してる)
しかもラファエはヴァルトール王国の王子なのだ。きっと、じぶん以外に張り手をかまされたことなんて無いに違いない。
「なんで怒らないんですか?」
思わず素直に聞くと、王子はその綺麗な目をしばたかせた。じぶんでもすぐに解らなかったのか、ラファエは考え込むように首をかしげる。
「うん、そうだな」
ラファエはおなかに乗る少女を抱え、上半身を起こした。
「セルジュのことで悲しい顔をしているエッタを見るより、俺に怒っているエッタを見る方が気分がいいから」
王子の答えはやっぱりアウリスにはよくわからなかった。
でも、悲しい顔を見たくないといわれたのは嬉しかった。戸惑いながらも、子供らしい単純さで機嫌はすっかり上を向いた。
「ねえ、ラファエさま」
「うん?」
アウリスは王子の上からのっそり退いた。
こういう距離で兄と話し込んだ日々がある。病弱な兄の起き上がる寝台の端に腰をおろし、隣同士になっていろいろな話をしたものだ。ふと頭の隅に思い出した。
「さっき、セルジュ兄様のことで言いたかったのは違うことだって言ったじゃないですか」
「言ったかな」
「言いました。違うことってなんですか?」
アウリスに顔を覗き込まれ、ラファエは上半身を少し後ろにのけぞった。困った風に笑っている。あまりこの話題が好きじゃないのかもしれない。それか、気が進まないのだ。せっかく少女の機嫌が直ったのにまたそれを悪くするようなことを言うかもしれないと考えているのだろうか。
「うーん、そうだな」
ラファエは珍しく言葉を濁すようにした。
「……エッタは、『星の宿』という御伽噺を知ってる?」
「ほしのやど?」
「知らない?」
アウリスが首を横に振ると、ラファエは簡単に説明した。
『星の宿』は、石を手に握って生まれてくる人々の話だ。その石は星の石と呼ばれ、人それぞれ色や形が違う。人はじぶんの星の石をずっと肌身離さずに持っていて、やがて死んだら、石は星の宿と呼ばれる宇宙に返っていく。そして、そのひとの一生のはなしが宿の中でずっと大切に保管される、というような内容だ。
「俺も最後まで読んでないんだけど、この話は責務の話なんだ」
「せきむ?」
わたしに星の石があったら何色だろうなあ、などとアウリスはぼんやり想像していた。難しい話に首を捻り、遅れて相手の方を見ると、王子は地面についた片方の肘に体重をあずけ、空の方へまぶしげに目を細めている。その様子は何か見えないものを見ようとしているようにも見えた。
「エッタ、人には生まれながらの責務があるんだ。それは人によって違う。物語の中で星の石の色や形が違うように、パン屋にはパン屋の、肉屋には肉屋の、城の使用人たちには使用人たちの責務がある。エッタや俺にだってあるんだよ」
「わたしにも?」
「そう。そして、兄君にもある。片親のセルジュの責務は家を継ぐことではなく、剣を取ることで国に貢献することなんだ。セルジュはその責務を立派に受け入れた。だから家を出たんだよ。そして、責務を最大限に果たせるよう、優秀な兵士となるために日々努力を重ねるだろう。それは悲観することではなく、むしろ称えるべきことだ。応援するべきことなんだ」
王子は静かに語った。漆黒の髪が端麗な面立ちの片側に流れ、ふりむいた彼はゆっくりアウリスの顔を見上げた。
アウリスは黙っていたが、複雑な気持ちだった。そもそも難しい話だったのでよく理解した自信がない。
けれど、論理ではないところで何か違和感を抱いた。理屈ではない、話の核と言うべきような部分で、なにか納得いかなかったのだ。けれど、それをちゃんと言葉にするのは難しかった。
(それに、……やっぱりお兄様がいなくなって寂しいわ)
その気持ちは何を言われても、じぶんの内で変わらないだろう。
「じゃあ、ラファエさまはじぶんの責務を受け入れるときがきたら、何も言わずにそうするんですか?」
けっきょく別のことを聞いたアウリスに、王子が小さく笑んだ。
「もちろんだよ」
ラファエは片手を翳した。白い手袋越しに見上げる青空に視線を留め、それよりずっと暗く、ずっと澄んだ色の瞳を細めた。
「俺はこの国の長男にして唯一の王子だ。……俺は生まれながらの次代の王なんだ。力を手にする者は同じだけ責務を負う。もちろん、俺はその責務を受け入れるよ。受け入れるだけじゃない。それをどこまで全うするのかが重要なのであれば、それを超える」
「超える? 責務を?」
アウリスが聞き返すと、王子はまた少しだけ笑った。
「俺は尊敬する父を超える指導者になりたいんだ。それが俺の夢だよ」
王子はアウリスをふりかえり、また空を見上げた。
「俺は歴代の王の誰より優れた王になる。それにはまず天下統一だな。この大陸の四つの国と七つの部族を統一する」
「てんかとういつ! すごいわ」
「そして俺は、大陸の隅から隅までを治める覇者になる」
「すみからすみ?」
「そうだよ」
「帝王さまね」
「そうだ」
アウリスとラファエは額をくっつけるようにしてクスクス笑った。
(ラファエさまったら、機嫌がいいみたい)
アウリスは初め話に置いてかれまいと真剣に聞いていたけれど、ラファエが冗談ばっかり言うので気が抜けてしまった。なんてデタラメな話だろう。
(大陸中のぜんぶの国を治める、てっぺんの帝王様! ふふ、おかしい……)
「エッタはどうなの?」
「わたし?」
「リシェール嬢が結婚して家を出たあと、エッタはジークリンデの女主人になるの?」
「お姉様が結婚?」
「いつかはするだろ?」
ラファエは他人事のようにさらっと言う。
「エッタは多分、領内の有力な貴族家の貴公子と結婚するんだろう。もしかすると王都の貴公子かもしれない。融合を経てジークリンデ家はより繁栄する。……そんなところだろうな」
ラファエの声が唐突に低く落ちた。
王子が近くの草をむしり、宙に投げつける。アウリスはそれを何を思うでもなく眺めた。
王子と違い、アウリスはじぶんの将来のことをあまり考えたことがない。「そんなんじゃ、お嫁に行ったときに恥ずかしいでしょう!」と乳母のヘリーネが口癖みたいにうるさく言うから、多分いつか結婚するんだろうと、うすぼんやり考えるくらいだった。
「ジークリンデの家と、治める領地をより繁栄させることが、エッタの責務だな」
そう言う王子の方がずっとアウリスの将来を想っているみたいだ。それに感化され、アウリスは想像してみることにした。
「……わたし、やっぱり剣を習いたい」
「は?」
アウリスは考え事をするのに空を見上げていた視線を伏せ、王子をふりかえった。
「思うんですけど、一緒にジークリンデを治める旦那さまは強いほうがいいでしょう? 弱い人と結婚したって家や領土は繁栄しないもの。だから、わたしは剣を習って、わたしに勝てた人を旦那さまにします」
その言葉に、ラファエが声を上げて笑った。
「なにがおかしいんですか」
怒ったふりをしながら、アウリスも堪えきれず若干頬が緩んでいた。
「わたしは真剣です。ラファエさまの天下統一ほど大きな志ではないけれど要所です」
「確かに要所だ」
「でしょう? ジークリンデの領地は羊肉がおいしいのですもの、押さえておかなくては」
アウリスは立ち上がり、出来るだけまじめな顔で振り返った。地面に半分寝そべるような格好のまま、王子は笑っている。いつもの彼の穏やかな笑みが、アウリスは好きだ。けれど、ラファエが声を上げて笑うのを見るのはもっと好きだった。
「ラファエさまが安心して天下統一できるように、わたしはこのジークリンデの地を守り、潤しましょう。そして、黒い漆と金箔を塗った美しい馬車を用意して、毎年百頭の羊の子を王都へ送ります」
一年ぽっちで見違えるくらいに大人になった少年の顔があどけなく笑む。それを見て、アウリスはとうとうお芝居ができなくなった。王子の手が伸びて彼女のうでをつかむ。そのまま引き戻され、アウリスは一緒になって笑った。
「ジークリンデの羊が毎年百頭手に入るのか。それは楽しみだ。けれど、エッタはひとつ忘れている」
「え?」
「帝王の為に馬車に入れて贈呈するものだよ」
ラファエは悪戯な笑みを浮かべる。
「おまえ自身」
「わたし?」
「そうだ。エッタが来ないと羊肉の正しい調理の仕方がわからないから」
「そんなのわたしだってわかりません」
ふと、遠くで木戸の開く音がした。
子犬のように地面に転がってじゃれあっていた二人は動きを止め、屋敷の方を向く。目線の高さに整えられた青い芝生のむこうに、王妃と使用人たちがやってくるのが見えた。その背後には乳母のヘリーネの姿もある。
アウリスは慌てて身を起こした。
隣に王子も立ち上がり、二人してあわただしく服の泥を払ったり身づくろいをしているうちに、大人たちが歩いてきた。まず、王妃の使用人が一人、王子に近づき彼の手をぬぐう断りを入れた。使用人は、去年もいた黒髪の美男子だ。はじめから取り決められていたかのように、無駄の無い動作でハンカチを水筒の水で濡らし、王子の手を拭う。
アウリスはその様子を眺めながら、じぶんもヘリーネにハンカチで手を清めてもらった。ヘリーネはいつもの仏頂面だけど、いつもより険しい気がする。
(そういえば、お昼食をとんずらして来てしまったのだっけ)
アウリスはやっと思い出し、やや緊張したお辞儀をした。
「王妃さま、ご機嫌うるわしう」
挨拶に次いで、この昼の無礼を詫びた。ちらっと目線だけ上げると、王妃はまんべんない寛大な笑みを浮かべている。
「いいのですよ」
その一言で許され、アウリスはほっとした。やっぱり王妃さまは見た目と同じでとても優しい方なのだ。
一連の挨拶が済むと、王妃がふと孔雀色の扇を伸べた。
「私の愛しい王子。リシェールにはもう会いにいきまして?」
王子は戸惑うようにアウリスの方を見てから答えた。
「え、いえ、母君」
「リシェールはね、やや気分が優れないと言って食事の後にお部屋に戻ったのです」
「えっ、そうなんですか?」
思わずアウリスは口を挟んでいた。ヘリーネが茶色の炎が飛び出してきそうな目で睨む。
王妃は気にした風はなくゆったりとうなずいた。
「使用人に聞いたところ、今は落ち着いているようですよ。王子、リシェールの様子を伺って差し上げてはいかがでしょう? リシェールもあなたの顔を見ると元気が出るかもしれませんよ」
「そう、ですね、心配ですし」
王子が真摯な顔でうなずく。
アウリスも同感だった。この昼にこの王子が例の「意地悪な」発言をしたとき、席を立つ直前に見た姉の顔色は青ざめていた。多分、王子の言葉が聞こえたからだ。リシェールも兄の話に傷ついたのだのだろう。
(……わたしも、ラファエさまの後にお姉様に会いに行こっと)
アウリスはそう決めた。
言葉少なく王子と別れると、ヘリーネを背後に控えさせ、完璧な淑女のお辞儀で王族たちを見送る。王妃はあの美男子の使用人にドレスの先を持たせていて、その桜色が彼の手から零れ、青い芝生の上を舞っていた。
あの夏の日よりやや涼しい風が頬を撫でていく。
山奥の川の香りのする風だった。アウリスはつられるように顔を上げた。
黒炭の訓練所に聳える石壁の穴に身をひそめ、一人で見上げる青空は涙に滲んでいた。
あの夏、ジークリンデの敷地で王子と遊んでいたじぶんは、二、三年後のじぶんがこんなところにいるなんて想像もしなかっただろう。一度も来たことのない遠くで、一人ぼっちでいるじぶんなんて。
アウリスは手の中の黒い牙を見下ろす。
猫じゃらしと喧嘩をして彼の部屋を飛び出し、今になっても頭の中は混乱していた。外はもう日が暮れようという時刻だ。陽射しは徐々に薄くなり、やがてミカンみたいな太陽が空一面を朱に染め上げるだろう。
そのときに向けて確実に低くなっていく山の気温から己を守るように肩を抱きつつ、アウリスはふと、ラファエに聞かされた話を思い出した。
題名は星の宿、だったろうか。人には生まれながらに責務がある、という内容のはなしだった。じぶんはここで何をしているんだろう。ラファエの言うように、生まれながらに定められたものがあるのだったら、じぶんがここにいるのはそのせいなんだろうか。定められたものの一つなんだろうか。兄のセルジュが家を出ることになったのと同じ理屈なんだろうか。
アウリスにはわからないけれど、今じぶんの内にあるやるせなさは、兄が去るときに感じたものととても似ている気がした。
ラファエはこれも当然だと言うのだろうか。
王妃がじぶんを殺そうとしたことも。そうして、ここへ連れてこられたことも。
(わたしが悪いの? わたしが何かしたの?)
ドレスなんかない。羽根布団を二重にしたフカフカの寝台もない。羊肉も出ない。
そんなところへ来てしまった。誰も知らない山の中で土にまみれ灰にまみれ、家から、ジークリンデの暮らしから、途方もなく離れた遠いところに。
こんなところで、どうやってジークリンデ家に生まれた責務を全うしろというのだろう。
どうやって辛抱しろというのだろう。
「どうして……」
どうして、あの川の向こうには白馬が現れないのだろう――。
ひときわ強い風が吹き、アウリスは飛ばされまいとするかに身を小さく畳んだ。膝を抱え、その後ろに鼻のてっぺんまで埋める。
そうして岩と一体化したみたいに動かないでいると、ふと遠くで鐘の音が響いた。
食事の準備にかかるときの合図だ。すぐ行かないといけない。
飯炊き係たちを川原に呼びつける集合の鐘は、はやし立てるように何度も響く。アウリスは立ち上がろうとしたところで、身に力が入らないことに気づいた。こわばるばかりで体が動かない。
そうしているうちに、物悲しい鐘の音を聞きながら涙が止まらなくなってきた。
なんだか、何もかもが嫌になる音だ。
黒い牙のネックレスを握りしめ、アウリスは締めだそうと耳をふさいだ。木々のてっぺんばっかりの退屈な景色も川の匂いも下で呼ぶ肉だんごの声も、みんななくなってしまえばいいと思った。