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そのときには灰の月を  作者: しろてん
灰の鳥かご
11/20

11.

 

 河原を出たあとはふり返らなかった。落ち着いてから食べようと思って残しておいたシチューの椀のことも、すっかり頭から抜けていた。

 傭兵団『黒炭』の訓練所として機能する古城には、地下を合わせて三つの階がある。城にしては比較的に低い造りだ。

 寝床、図書館、医務室を収容する一階は必然的に少年たちの生活の場になっている。食物の貯蔵庫と武器庫のある地下も、飯炊き係りや他の雑用を任されているアウリスにとっては馴染みのある場所だった。

 一方で、二階には一度も踏み入れたことがなかった。お婆や教官たち大人用の寝室があるらしく、また、訓練が出来ないくらい天候の悪い日には二階の大食堂で学問の授業が開かれるのだという。

 猫じゃらしはどこにいるのだろう。どうやって見つければいいだろうか。

 初めて登る石の階段を歪曲する壁に沿い走って行く先で、アウリスはすぐにその疑問の解決策を見つけた。

 二階の通路はざっと見たところ、一階と特に変わらない。均等な間隔で燃えているかがり火のあいまに、訓練所の医師のフェゼルの姿が見えた。出てきたばかりの木戸をふりかえり、閉じているところだ。

「先生!」

 アウリスは声を張り上げた。まるで最初から彼女がそこにいるのを知っていたかに、フェゼルは慌てた風はなくふりかえり、にこりと笑った。三十代半ばくらいの精悍な容貌に、たっぷりたくわえられた焦げ茶色の口髭が少々不釣り合いだ。

「やあ、アウリスくん。ちょうどよかったよ、猫じゃらしに君を探しに行けと言われてたんだ。手間が省けたな」

 フェゼルは明るい表情で言った。面倒事がなくなって嬉しいと思っている安堵した口調だ。

「わたしも猫じゃらしを探してたんです。あの、あのひとはここに?」

 焦っているせいで、アウリスは少々行儀悪くフェゼルに対して挨拶を省いた。一秒でも早く、目当ての人物に会いたかった。

「うん。取り次いであげようね」

 フェゼルは気にした風はなく言い、木工の戸をノックした。

「猫じゃらしー? アウリスくんが今部屋の前に来てるから入れるね」

 返事を待つのかと思いきや、フェゼルは取っ手を握り、戸を室内に向かって開けた。

 木戸は床から少し浮いているのか、音もなく開く。アウリスは慌てて身だしなみを整えた。何やら得体の知れない洞窟の中を覗き込むときのように、まず頭だけを戸口に出す。

 部屋には戸口から緋色の地に青丹で唐草模様を入れた絨毯が敷かれていた。その色彩だけで雰囲気が華やいで見える。子供たちの六人部屋よりも深い奥行きに二つ、戸口を入り左手に一つ、合計三つの窓が円型にくり抜かれていて、山奥の涼しさと暖かな陽射しを迎え入れている。

 木工の食卓、椅子一式、ナイトスタンド、鏡棚が絨毯の上に心地良く配置されており、奥壁には三人掛けの長椅子が置かれていた。腰掛け用の家具にはどれも同じ象牙色の布が張られていて、背もたれと座面は柔らかそうだった。

 無人の室内には衣擦れの音がしている。引き寄せられるように踏み出したとき、背後でフェゼルの挨拶もなく戸が閉まった。

 アウリスがたじろいで戸口をふりかえりかけると、それが見えたようなタイミングで声が響いた。

「アウリス」

 思わず飛び上がり、きょろきょろ見回す。と、壁際でロウソクを灯す燭台の向こう側に、裸の腕がにょきりと生えた。真鍮の燭台の三つ枝が前触れもなく四本目を生やしたような不気味さだった。

 細い手首がおいでおいでをする。傭兵という生業にしては一つも日焼けしておらず、病弱だったセルジュ兄を思いださせた。

「ここへ来い」

 低い、一度聞くと忘れない艶やかな声だった。猫じゃらしに間違いない。

 それ以上何も起こらないのを見て、引っ込められた手を追うように踏みだした。

 唐突に、ここに来るまでに何の準備もしていなかったことにアウリスは気づいた。焦り過ぎだ。猫じゃらしに会ってまずどうするのか。彼とまず何を話すのかといった、優先順位の整理をつけていなかった。

 考えをまとめることは再会するのに重要だ。最初にここに置いてけぼりにされたときみたいに、あの人を喰ったような男にまた煙に巻かれてしまったら、どうしようもない。

 しかし、今さら後にも退けないのだった。室内の右壁にある吹き抜けの戸口に立ち、アウリスはおずおずと中を覗く。

 その隣室は寝室らしく、中央には質素だが大人二人が添い寝できる大きさの寝台が置かれていた。紺地の羽根布団が、同じ色の二つ並ぶ枕の方まで被せられている。猫じゃらしはその横に立ち、壁にはめ込まれた鏡台に向かいつつ、脱衣の最中だった。

 窓辺の萌木色のカーテンが音もなく揺れている。同じ隙間風に煽られて、男の白金の髪がうなじの辺りに揺れていた。森の中で初めて出会ったときにはフードに隠れて見えなかったもので、今は毛先から水滴が散り、服の襟を濡らしている。お風呂に入ってきたのだろうか。いや、今服を脱いでいるしまだなのだろう。暑いから水を被っただけなのかもしれない。

「よぉ、坊ちゃん」

 どこか挑戦的な艶を孕んだ声で、猫じゃらしはふりむかずに言った。その表情は鏡越しにアウリスに見えた。特に何も考えていなさそうに目を伏せ、指先で肩の甲冑の紐をほどいている。

「浮かねえ顔だなぁ、もう女だってバレちまったか?」

「いいえ」

 アウリスは答え、一歩踏み出した。

 カーテンドレープが翻る先に見え隠れする猫じゃらしの姿は、騎士みたいだった。傭兵団の上官用の制服なのだろうか。ジークリンデの敷地内を巡回していた警備兵たちのものと似ている。純白の重たげなローブが右肩に斜め掛けされているのを見ると、警備兵よりか位が高そうだ。美しく結い上げられた髪を飾る髪飾りの数々も、よそいきな感じがする。

「今帰ったんですか?」

 アウリスは無難なところからはじめた。

「ああ、アデカ領の鉱坑の方に行く用事があってな、ここは道順だからついでに一泊していくことにした。昼前に着いて、ここの教官に挨拶して部屋に通されて……、とりあえず飯がまだだな」

「向こうの部屋の机の上にあったみたい」

「フェゼルが置いてったんだろ。あんたは? 飯は?」

「食べました」

「そうか」

 猫じゃらしの肩の甲冑が外れた。両腕の甲冑はもう取り外され足元に重なっていて、猫じゃらしは今脱いだものもそこへ落とした。軽い音をたてて甲冑が沈む。

 アウリスはもう一歩踏み出した。この日まであまり顔を合わせていないせいもあるだろうが、猫じゃらしを前にすると得体の知れない緊迫感を抱く。一度は殺されかけた相手なのだから当然かもしれない。

 つぶさに見ていると、猫じゃらしの方は軽くなった肩をゆっくり回し、次に懐を漁った。

「忘れる前に渡しておく。あんたのだ」 

 そう言って、何か投げてきた。アウリスは慌てて両手を伸べた。大きさに比べて意外に重い感触が沈み、手のひらを開いて見る。

「最初に会った時にあんたが着ていた服の懐に入ってた。服は捨てたが、そっちは大事なものかもしれねぇから取っといた」

 服は捨ててポケットの中身は残しておくと言う判断基準はまったく理解できないものだっただろうが、アウリスは猫じゃらしの言葉を聞いていなかった。

 急に目頭が熱くなる。アウリスは下唇を噛んだ。うっかり嗚咽まで出てしまったらどうしようもないと思ったからだ。

 手の中にあるのは、見覚えのある黒い牙だった。レアトールの大狼の牙。ラファエアート王子がくれたもの。一度は彼に返そうとしたけれど、どうしてもと言われて譲られたものだった。

「……ラファエさまは、一緒に来ていないの?」

 声が寂しさに震えた。

「来てない。王族と旅するような身分にはないんでね」

 猫じゃらしが何の感情もこもらない声でそう説明した。

 アウリスは両手で牙を包んだ。花びらか何か、簡単に押しつぶせる物を握る力加減で暫く温めていたが、やがて半袖の服の胸ポケットにしまった。それを待っていたのか、白い肩掛けがばさりと鼻先に降ってきた。

「そこの壁の掛け具にかけろ」

 言われるままに見ると、鉤状の金属が一列に並んでいる。なんでわたしが、と思わないでもなかったが、今は反論する気も失せるくらい落ち込んでいるので、アウリスはただ俯いた。しょんぼりと肩掛けを抱く。

「ラファエさまはいつ来るの」

「言葉づかいに気をつけろ」

「……いつ、来るんですか」

 アウリスはうでに力をこめた。

「あなたは今までどこにいたんですか? ラファエさまに言われて匿ってくれてるんでしょう? ラファエさまはあなたに何て言ったんですか? いつ迎えに来てくれることになってるんですか?」

 言い終えるより先に、猫じゃらしのため息が聞こえた。アウリスは顔を上げ、相手の眼差しと鏡越しにかちあった。あからさまに面倒くさげに顎を逸らしている。

「……ラファエアート王子殿下があんたとした約束とやらは俺の知ったこっちゃねえな。ただ、迎えに来るのは無理だ」

「でもラファエさまは迎えに来るんでしょう?」

「暫くは無理だって言ってんだろ、依頼主の目もあるから」

「依頼主の目?」

 猫じゃらしは初めて鏡からふりむいた。

「あんたの死を望んだのはこの国で一番偉い女だ」

 こともなげに猫じゃらしは言った。アウリスはまばたきをくりかえし、小首を傾げる。

「この国でいちばん……?」

 オウム返しにしているときに、やっと気づいた。

「王妃さま?」

「そう、サラン王妃」

 猫じゃらしがうなずいた。さすがに真剣な話の最中だと思ったからか、動きを止め、中途半端にボタンを外したシャツの襟元を無遠慮にはだけた姿で佇んでいる。

 アウリスは仰天して声が出せなかった。

 サラン王妃。ラファエの母であり、七年戦争の果てにここヴァルトール国へ嫁いできた、美しい国母のこと。

「普段は依頼主が誰かを明かすのはご法度なんだがな」

 付け加えるように言い、居心地が悪いのか、猫じゃらしは頬のあたりを人差し指で掻いた。アウリスは目を皿のように大きくした。

「うそ! そんなのありえないわ!」

「何で、ありえない」

「だって王妃さまでしょう? どうして王妃さまがそんなことをするの!」

 そのとき、唐突にアウリスの頭に一つの景色が蘇った。

 記憶が揺さぶられる。今年の夏は例年より風がつよく、乾燥していた。王族たちと共に過ごす夏。今年、初めて狩りに誘われた日の、一場面。

 アウリスは即座に強く頭を振り、その記憶を払った。

 まさか、こんなことがあるはずがない。じぶんが小言をくらうのは自慢ではないけれどいつものことだ。王族が、ラファエがジークリンデを訪ねて来ているときは特にそうだった。少々はしゃぎすぎて、よくヘリーネに怒られたりしている。

 けれど、それらは普段の悪戯やらとなんら変わらない、他愛のないもののはずだ。

「……心当たりがありそうじゃねえか」

 鏡台に凭れる猫じゃらしがからかうように言う。ほんとうになんて嫌味で薄情なやつだろう。

「……殺されるような身に覚えは、ありません」

 絞りだすように、それだけ答えることしかアウリスには出来なかった。それは本心だった。なのに、なぜこんなに動悸が上がるのだろう。冷や汗が浮かび、口を押さえる手のひらがしっとり濡れている。

 部屋の隅に凍りついているアウリスを一瞥すると、猫じゃらしは何か考えるように視線を泳がせ、次にシャツを脱いだ。

「幸い、巷じゃぁ、あんたは死んだってことになってる」

 猫じゃらしは相変わらず酷薄な程に淡々と告げた。

「あんたの王子がうまくやったんだな。とは言え、まだ何も終わってない。なんたって躯が無いからな、サラン王妃はそれを探そうとするかもしれない。今のところは依頼を受けたのが俺だってことはバレてない。黒炭が関わっていたこと自体知られていない。依頼主にはわからないようになってんだ。綻びがあるとすれば王子の方からだろうよ。十四、五のガキに一人の人間の存在を丸ごと隠すような知恵はまず、ねえからな。まあ、それで俺が手助けしてんだが」

 今、王家一行様は王都に戻ってるよ、と猫じゃらしは続けた。彼の話によるとこうだ。ラファエアート殿下との狩りの最中に、ジークリンデ家の第二公女、アウリエッタ=リア=ジークリンデは落馬し、行方不明になった。落ちた崖の高さからして多分死んだのだろう。遺体は谷底の沢の方へ転がって、そのまま激流に呑まれて流されてしまったらしく見つからない。そんな風に、巷には事実として広がっているという。

 アウリスは、にわかには呑みこめなかった。しかし、猫じゃらしがこんな嘘をついて得する理由なんていうのも特に思いつかない。

 だとすると真実なのだろうか。あの黒髪と黒い瞳の美しい王妃が、じぶんの死を望んでいる……?

 アウリスはその可能性を考えようとしたけれど、考えれば考えるほどに目の前の現実から離れていくような気がした。受け入れたくないから逃げようとしているのかもしれない。

 混沌とする思考は結局、一つの所に辿り着く。

「わたし、家に帰らなくちゃ」

 アウリスはポツリと漏らした。 

「あぁ?」

 返事の声はあからさまに不機嫌だった。アウリスはムッと猫じゃらしの方を向き、思わず息をのんだ。いつの間にか猫じゃらしは半分裸になっていた。

 アウリスはこれまで成熟した男の体を見たことがなかった。そう唐突に気づいた。訓練所では暑い日などに、少年たちがシャツを着ずに歩き回っているのを見たことがある。彼らは下町の子供たちと比べると鍛えているのだろうが、成長過程の体格と、今目の前の体つきはどうにも比較がならないくらいに違いすぎている。

 とは言え、猫じゃらしは何歳くらいなのだろうか。話しこんでいる時はひどく年上な感じがするのだけれど、引き締まった体躯と肌のハリを見るからに、多く見積もって二十代半ばか、三十には満たないだろう。もっと年のいった長身痩躯の男だと思っていたけれど、とんだ間違いだった。

 猫じゃらしはあまり戦場に出ない、というお婆の言葉を思いだす。だったら何のために鍛えているんだろう。過去に剣の鍛錬を受け、それが身につき、持続されているという証なのかもしれない。

 それにしたって、戦場に出ないのならば体中の傷跡はどこから来たのだろう。小さな擦り傷、火傷のようなものが多く、また明らかに刃で斬り伏されたらしき跡もいくつか彫られている。なまじ人形のように整った骨格をしているから、それらの部位の変色や引き攣れは、ひどく不気味でいびつだった。

 屈強な首筋、少年たちより厚い肩幅、それから鎖骨へと毛先から水滴が落ちるのを眺めていると、ふと見つめ返す視線を感じた。ハッとアウリスが顔を上げるのと同時に、柔らかい薄青のシャツが視野に舞った。

「それもかけておけ」

「っ、……なんでわたしが!」

 思わず噛みついたアウリスに、猫じゃらしが氷のように鋭い翠色の双眸で一瞥をくれた。

「あんたは世話になってるって自覚があるのか? ここで何枚のパンを食った。何杯飯をあけた? あれらがタダで出ると思ってんのか?」

 正論を出されると、アウリスはうっと詰まった。窮地に立たされまいと口の中でボソボソと呟く。

「……猫じゃらしが花園を切り盛りして作ったお金で、買ってるって言うんですか。全部の子供たちの分を?」

 そんなはずないだろう、という中途半端な反論のつもりだったのだが、猫じゃらしの方は驚いた風に片方の眉を吊り上げた。

「あんた、それ意味解って言ってんのか」

 憮然とうなずくアウリスを見て、不機嫌な虎みたいに猫じゃらしが唸った。

「飯炊きのババアか。面倒なことを吹き込みやがって」

 猫じゃらしはため息をつき、唐突にアウリスとの話に興味が失せたかに背を向けると、鏡台の前で首にかかっている飾り物をひとつずつ外しだした。

 腕が重くなってきたアウリスも、仕方なく猫じゃらしに渡された衣服を片付けに行った。こんなことはしたことがないので要領がわからないけれど、鉤状の軸に一つずつ掛けたら落ちなかったのでよしとする。

 猫じゃらしの言いたいことが、アウリスにはあまり理解できていなかった。確かに、アウリスは食事の出所を気にする生活をしてきていない。心のどこかで甘えていた部分があったかもしれない。今は自分自身でお水場に立って料理を手伝っているのだから、食べられて当然だという気さえしていた。

 だから、アウリスは新しい提案を口にするのに躊躇しなかった。

「ねえ、猫じゃらし。わたしをジークリンデの家まで送ってください」

「はぁ?」

「家に帰らなくちゃ。お父さまに相談したいんです」

 猫じゃらしがアウリスの言葉を追うようにふり向いた。感情の伺えない顔で、まるでアウリスを観察しているように視線を離さない。

 そのまま彼はまっすぐ歩いてきた。ひたり見下ろされると、アウリスは居心地の悪さを覚えた。それを隠す為に身じろぎする。真正面に立たれた威圧感に体は後ずさりしようとしているが、なんとなく彼の目の前でそれをやると恥ずかしい気がしたので耐えていた。

「……なんですか」

 聞けば、猫じゃらしは一つまばたきをした。暗く澄んだその瞳に何かが過ぎったような気がする。哀愁、だろうか。まるで憐れんでいるような?

(不憫だとか思われてるのかな)

 それも今更な感じだ、と意地で視線を交えたまま、アウリスは思った。こんな奇妙な表情をされる理由に覚えがなく、なんとなく不気味だ。

「家へ戻ってどうする、ん?」

 果たして、猫じゃらしは彼特有ののらりくらりした調子を発した。視線は外さないままだったが、その瞳の中にあった刹那の感情の波はすっかり消え失せていた。

「ジークリンデの家に戻ったら王都にも連絡が行く。あんたが生きてピンピンしてる事をサラン王妃に知られてもいいのか?」

「そんなこと言ったって、ここに居続けてもしかたがないでしょう?」

 アウリスは反論した。何も、家恋しさに考えなしに提案したのではない。

「あなたの話がほんとうだったら、すぐジークリンデの家に戻らなくちゃならない。確かに、王妃さまに見つかったら危ないかもしれない。そこはちゃんと考えてます。もしかすると王妃さまはまだ、わたしを殺したいと思ってるのかもしれないし」

 言っている側からゾクッとうなじが粟だつ。

「も、もっとも、あなたの話がほんとうだったら、ですけど。でも、もしも真実なら、お父さまに相談したいんです。お父さまにちゃんとお話して、国王さまのお耳に入れてもらえたら、どうにかなるかもしれないでしょう? そう思うんです。だから、どうしてもジークリンデの家に帰らないといけない」

「なんで国王がどうにかしてくれると思う」

 猫じゃらしが静かに返し、アウリスは眉をひそめた。

「だって、国王さまはきっとそんなこと許さないはずです。……王妃さまがわたしを殺そうとしたとか」

「なんで国王が許さないと思う。あんたたちは仲良しさんなのか?」

 アウリスはますます困惑した。彼女にはじぶんで考えた策が最善に思えたし、多分間違っていないと感じられていたからだ。

「……だって、お父さまは国王さまのところで働いてる」

 アウリスは上目づかいに猫じゃらしを見る。少女の睨むような眼差しを受け、猫じゃらしは片眉を持ち上げた。また生意気な態度だとか思われたのかもしれない。

「……レオナート=ジークリンデ卿か。確かに政界での影響力がある。その分、そっちのせいであんたがとばっちりを喰らったのかとも考えられたが」

「え?」

「そうすると辻褄の合わねぇ部分がある」

 アウリスに理解できない会話の速度だった。怪訝と見上げると、猫じゃらしは何の前触れもなくその場で腰紐に手をかけ、一気にズボンを引き下ろした。

 ぐるんとアウリスは背中を向けた。後ろでは衣擦れの音が遠慮なく響いていて、信じられない想いがする。

 初めに戸口を潜ったとき、脱衣中に婦女子を招き入れるというところで違和感があったけれど、更に婦女子の目の前で下まで脱いでしまうなんて。

(な、何なの、このひと……?)

 公女育ちのアウリスにはまったく理解できない人種であった。きっと、当人は顔色ひとつ変えずにケロリとしているのだろう。暫くして衣擦れの音が止み、聞こえてきた声には憶測を裏づけるふてぶてしさがあった。

「おい何やってる。ここへ来い」

 アウリスがおそるおそるふりむけば、猫じゃらしは寝台の端に腰おろし、紺色のベッドシーツで下肢の膝の辺りまでを巻いていた。

「鏡台の上に化粧箱があるだろ。髪留めを入れるやつだ、持ってこい」

 猫じゃらしはしゃべり疲れたかに片手を後ろにつき、上半身を支えた。アウリスの鋭い視線をまったく意に介さずにくつろいだ風だ。

 あいた手で髪を掻き上げるついでのように、猫じゃらしが髪留めを外すのをはじめた。

(わたしは小間使いじゃないのに)

 何より、まだ話は終わっていない。しかし、その分不躾を不躾で返し、相手を置いてけぼりにしてすげなく退場するという選択肢もまた無いのだった。アウリスは仕方なく、のろい歩みに精一杯の不満を表現して猫じゃらしに近づいた。



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