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ミミック・コミュニケーション  作者: ごぼふ
二章 化け物
7/39

ラブロマンス

 逃げ出した少女を、俺は笑い顔で追いかけていた。

 口の端が上がってれば笑い顔と定義するなら、これは笑い顔で相違ないだろう。

 その頭が胴体の二倍ほどになり、象牙のような歯が並び、その間から腕ほどもある舌が飛び出していたとしても、である。

「ヒャ、ヒャハ! ヒャヒャヒャヒャ!」

 口を開く度、上顎、というか頭の上半分がカパカパと炊飯器のように九十度上を向き、その度に俺の視界が月を捉えようともだ。

 夜の学校で、異形の化け物が少女と追いかけっこ。 三流ホラーのような光景である。

 しかし、これはあくまで現実であり、俺は目の前を走る少女を捕まえ――。

「ヒャ、ホヒャ、ゴキャ…誤解だぁ!!」

 説得しようとしていた。

 そりゃそうだ。 取って食おうなどとは思っていない。 そんなの一度もした事はない。

 少女を追いかけるうち、ひたすらに重く喋り辛かった顔が、穴の空いた風船のように段々と縮んでいく。

 しかし口の端は依然破れたままで、剥き出しになった歯茎と尖った牙が、さっきからありましたよとでも言うように耳まで続いている。

 自分の口が、顔が、頭が何故こんなおかしな事になっているのか。俺は知らない。

 生まれる前からこんな、人間の皮を被った化け物として生まれてきたのか。 それとも何かのきっかけでこうなってしまったのか。

 ただはっきりしている事は、俺が大きく口を開けば唇の端が破れる事。

 更に大きく笑えばそれが首の後ろまで行き、頭まで巨大化していくと言う事だ。

 そのおかげで、俺は笑う時はもちろん、あくびにも気を使わねばならない。

 頬にイタズラなどされないよう、親しい友人を作る事も避けてきた。

 今までだってバレそうになったことはある。 今日なんて二回もあった。

 それでも、それにしたって、こんな致命的な事は初めてだ。

「待て! 違うんだ、これは……!」

 呼び出したからには、相手だって知っていて然るべきだと思っていた。 だから少し脅かしてやろうとしただけなのだ。

 それが、いきなり逃げ出すだなんて。

「ヒッ!」

 悲鳴だかしゃっくりだかをあげ、前を走る少女が振り向いた。

 恐怖に染まったその顔は……間違いない。

「片瀬! 片瀬姫足!」

 それは同じ水泳部所属。 平素から俺を恐れていた少女、片瀬姫足だった。

 名前を呼んでも、もちろん足を止める事はない。

 それどころか、叫んだ拍子に直りかけた口がまた少し破れた。

 彼女が俺を脅した犯人? なら何で今更逃げる。 知ってたんだろ俺の口の事を。

 いや、そもそも姫足がそんな事するようなタマか?

 何かがおかしい。 ちぐはぐだ。 そう思いながらも、辻褄の合う説明は出てこない。

 むしろ頭は混乱を増すばかりだ。

 俺はひとまず考えるのをやめ、彼女を追うことに専念した。

 頭の重さで出遅れた分がようやく帳消しになる。 もう少しで追いつきそうになった所で、俺達は馴染み深い建物にたどり着いていた。

 俺が毎日部活を行っているプール。 その手前の更衣室の扉に片瀬は手をかけた。

 彼女は素早くポケットから鍵を取り出すと、鍵穴に差し込む。

 中に逃げ込む片瀬。 それが女子更衣室だと気づき、俺は反射的に躊躇う。

 その隙に彼女は扉を閉め、鍵をかけてしまった。

 ……まずい。 普段のプールの入り口は、ここと隣の男子更衣室。 それにいるかちゃんが普段待機している事務室だけだ。 

 その三つの扉はここから見える。

 しかし、今日だけはもう一つ穴がある。 彼女もそれを目の前で見て知っている。

 そう、あの壊れた金網だ。 壊した? 今はそんな違いどうだって良い。

 ぐずぐずしていればあちらから逃げられる。

 しかしそう読んで、俺が裏側に移動した途端こちら側から逃げるかもしれない。

「ちくしょっ」

 迷っている暇は無い。 俺は腰を屈めてドアノブに視線を合わせた。

 口を思いっきり開けると、バリバリという不快な音が耳に響く。

 躊躇うな。 躊躇うな。

 自分に言い聞かせながら、まるでネズミ捕りのように勢いよく顎を閉じる。

 ガキン! それは歯がドアノブとかち合った音ではなく、歯と歯がぶつかった音だ。

 目測を誤った訳ではない。

 目の前のドアには、既にドアノブが無い。 その部分にはぽっかりと穴が開いている。

 金属をかじったと言うのに、俺の歯には何の歯ごたえもなかったのだ。

 俺は喉奥に転がってきた金属製の物体を飲み込んだ。

 だからと言って、これが原因で腹を壊す事もないだろう。

 ……俺は歯も胃も常人とは違う。 というよりこの口で飲み込んだものは胃には行かないようで、翌日トイレで発見されることもない。

 向こう側で、プラスチック製のすのこの上にドアノブの欠片が落ちたらしい。 それが何度か甲高い音を立てた。

 俺は扉に手を当て、ゆっくりと押し開ける。

「いやぁぁぁぁ!!」

 瞬間。 部屋の中で尻餅をついていた片瀬が悲鳴を上げ奥へ、プールへと逃げ出した。

 ……くそ、選択を間違ったか。 思いながらも彼女を追いかける。

 彼女からすれば、鍵をかけようやく一息つけたと思ったら、恐ろしい音と共にドアノブが落ち、その向こうから恐ろしい歯やらギラついた目からが見えたといった所だろう。

 どこの恐怖映画だ。

 頭が元の大きさに戻ったことを確かめながら、シャワーを抜け、消毒槽を飛び越える。

「落ち着け! 違う、違うんだ!」

 何が違う。 こんなのどう見たって人間じゃない。

 目をピカピカさせ、間接からキュインキュン音を出している奴が「ロボチガウ」などと言っているようなものだ。

 森で熊に会えば誰だって逃げる。 落とし物ですよなんて聞き入れられるものか。

 俺は、今の俺はそういう存在だ。 いや、もっと禍々しい。

 もちろん片瀬は足を止めない。

 スタート台の横を、第一コース、第二コースと飛び越えていく。

 彼女が向かう先は、やはり金網に隠されたあの穴だ。

 そもそも追いついてどうする? どう説明する? こんなナリの奴が言う事を信じてもらえるはずが無い。

 それならいっそ口を封じ……。

 やめろ、やめろやめろ違う俺は違う違う――。

 浮かんだ考えを無理やり消し、彼女の足を止める言葉を考える。

 走っている、プール。

「プールで走ると危ないぞ!」

 出てきたのは、くだらな過ぎる言葉だった。 言った瞬間頭を抱えたくなる。

「え?」

 その所為で、片瀬は可哀想に思える程間抜けな顔で振り向き、そして――。

 コケた。

 俺の言葉に言霊が宿った訳は無く、あまりのアホらしさに彼女の膝から力が抜け、頭の中が運動をつかさどる部分まで真っ白になったせいだろう。

 どうあれ、彼女は生粋のドジっ子でもこうはできないだろうと言うほどに綺麗にコケ、頭から今日は人を徹底的に愛するらしい地面につっこんだ。

「だ、大丈夫か?」

 そのサマに、俺は原因が自分である事も忘れ、小走りに駆け寄った。

「こ、来ないで!」

 しかし、その足を竦ませるに相応しい声が、夜のプールに響いた。

 片瀬は怯えている。

 目は見開かれ、小さな口から覗く歯は、かちかちと絶え間なく打ち合わさっている。

 4と書かれたスタート台にすがりつき、必死に足を動かしているが、震えるそれは足の裏と大地の接触を許さない。

 どうしようもない拒絶のポーズだ。 どの国だろうがこのボディランゲージが示す意味は変わらないだろう。

 一瞬、頭に血が上りかけた。 俺だって、好きでこんな口をしている訳じゃない。

 しかし、その熱は上ったのと同じ速度で唐突に冷める。

 ……でも、そりゃそうだろう。 それはそうだ。

 俺はマフラーで、いまだ破れている口の端を隠した。

 だからこそ俺だって、この口の事を隠して生きてきたんだ。

 誰もこんなもん受け入れられるはずが無い。 自分でも不気味だ、吐き気がする。

「……ごめん」

 反射的に謝ってから、俺は言葉を続けた。 顔を逸らし、声をしぼり出す。

「本当に、その、お前を食おうなんて、思った訳じゃないんだ。 こんな口で、説得力が無いだろうけど」

 片瀬のしゃくりあげるような呼吸が耳に響く。

「普段も、別に片瀬の事を驚かしたいわけじゃないんだ。ただ、ただ……」

 俺がおかしな事をするのは、口が裂けそうになった時に突飛な行動を取っても不審に思われない為。 それが第一だったが、もう一つ。

 普通に振舞っていても、俺のいびつな部分を誰かに見破られそうで怖かった。

 例え口が裂けなくても、俺の精神構造は普通の人間とは異なっているのではないか。

 それが日常の受け答えに出て、それで俺の正体が発覚してしまうのではないか。

 それが怖くて、俺はいつでもおどけていた。

 しかし、怯えきった彼女に、そんな自分の内情を語るのも空しい気がした。

 どれだけ悲惨な事情を言われようが、怖いものは怖い。

 言葉を尽くしたって、それが化け物の口じゃ無駄だ。

「……お前の前にはもう現れないようにするから、この事は秘密にしてくれ」

 結局言いかけた言葉をしまい、そう告げて俺は彼女から背を向けた。

 多分、部活はやめる事になるだろう。 更には学校も。

 彼女が話したなら、家だって出て行かなければならない。

 じゃなきゃ実験動物だ。

 両親も、綾菜にだって迷惑がかかる。

 アイツにだけは説明しようか。 いや、同じ顔されたらその場で死にそうだ。

 だからって、俺には彼女を食い殺す事なんて出来そうになかった。

 それをしてしまえば、俺が今主張している一切合財が嘘になる。

 俺は正真正銘、化け物に成り下がるだろう。 いや、もう充分化け物だけどさ。

「ま、待って!」

 歩き出した背中に声がかかる。

 俺は思わず足を止め、勢いよく振り向いていた。

 びくりと片瀬が体を震わせた後、ぶるぶると首を振った。

 なんだ、何でもないのか。 ため息をつき、また首を戻す。

「ち、違うの!」

 またも背後からそう叫ばれる。

 もう一度、今度はゆっくりそちらを向く。

 ぶるぶるぶるぶる。

 首を前に戻す。 今度こそ歩きだす。

「まって、違うの、止まって!」

 さっきとは立場が逆だ。 しかし彼女は俺の足を止める言葉を持っていた。

「私は、貴方なんて怖くない!」

 もう一度、振り向かざるをえなかった。

「超震えてるじゃん」

 そして、つっこまざるをえなかった。

 彼女は相変わらず目の端に涙を浮かべ、体は見て分かるほど震えている。

「ふ、震えてない!」

 片瀬が自分の体を抱き、そう叫ぶ。

 俺は口を開け、直りかけていた頬を破って見せる。

「ひっ」

 片瀬が悲鳴を上げる。

 そりゃそうだ。 あぁ、そりゃそうだ。 諦めて、俺は立ち去ろうとした。

 いい加減独楽のように回転しすぎて目が回りそうだ。

 しかし、その時、温かいものが俺の手を包んだ。

「……ッ!」

 片瀬が、俺の手を握っていた。

 もう振り返るまいと決めていたのに、首を回し、顔を彼女に向けざるをえなくなる。

「怖く、ない」

 片瀬は、相変わらず震えながら、俺を見上げ、笑って見せる。

 その時の俺の衝撃が、理解できるだろうか。

 彼女の目の前にいるのは、人間ではない。

 彼女はそれが分かっていない訳ではない。 体の震えがそれを証明している。

 それでも、片瀬は俺の手を取った。

 あるんだ、こんな事が。

 言葉が出なかった。

 そして、握られた手をどうして良いのかも分からなかった。

 先程から片瀬が俺を引き止めたにも関わらず逃げようとしたのは、彼女に期待してしまうのが怖かったからだ。

 化け物の俺が、もしかして受け入れられるのではないかと。

 それが今、叶えられている。

 夢じゃない。彼女の体温が、震える手がそれを証明している。

 本当に良いのか? この人を信じてしまって良いのか?

 俺は……。

「怖くないよ」

 気づけば、俺の手のほうが震えていた。 彼女に向き直ると、握った俺の手にもう一方の手も重ね、笑顔を深くする。

 もう、我慢できなかった。 俺は彼女の手を振りほどく。

 そして彼女の背中に両手を回し、思い切り抱きついた。

「え、あ、ちょ!?」

「こんな事をしても?」

 試すように、彼女に問いかける。

 実際は、彼女に甘えたくて甘えたくて仕方なかった。

 目の前にずっと待ち焦がれたものがあるのに、我慢などできない。

 この口が耳まで裂けても、そんな事は言えないが。

「うん、大丈夫……」

 体は相変わらず震えていたが、片瀬はそう答え、俺の背中に手を回してくれた。

 そしてぽんぽんと、俺をあやすように背中を叩く。

 自分の足も震えているくせに。 まぁ支えるのにちょうど良かっただろうと、俺は自分に都合よく考えた。

「もっと色んな事して良い?」

「それは……もうちょっと仲良くなってからかな」

 余裕が出てきて軽口を叩くと、彼女もそれに応えてくれる。

 そうか、こういう子なんだな。 抱きしめてからそれを知った。

 軽く笑って、名残惜しいが体を離す。 考えてみたら、女の子抱きしめるなんていうのも初めてだったな。

 しかし、彼女の足を見た時に気づいた事があったのだ。

「片瀬、膝から血ぃ出てる」

「え? あ、本当だ……」

 転んだ時に擦りむいたのだろう。 彼女は困り顔をしているから拭くものなど持っていないようだ。

「まったく、ハンカチ持ってる大輔さんに感謝しな」

 制服を漁ると、びっくりする事にハンカチが入っていた。 しかもフリル付き。

 そういえば綾菜に返してなかったな。今朝綾菜に血を吹かれたとき、強奪したままだったと今更気づく。

 ここに来るまで動転していて、着替える気が起きなかったのも幸運だった。

「あの」

 屈もうとした俺に、片瀬が呟く。

「ん?」

「姫足が良いな、呼び方」

 そんなことを言いながら微笑むのだから、もう一回抱きしめられても文句は言えまい。

 グッと堪えて、俺は頷いた。

「わかったよ、姫足」

「うん、大輔ちゃん」

「ちゃん!?」

「い、嫌かな?」

「嫌ってか……」

 呼ばれた事ないぞ、そんな呼び方で。

 しかしまぁ、うん、なんか悪くない響きだ。 新鮮でもあり、なんか懐かしい。

「いいよ、大輔ちゃんで」

 屈み、片瀬……姫足の膝にハンカチを押し当てながら返事をする。

 目を細めてしまったのは、その呼び名がくすぐったかったのと、彼女の足が夜闇にまぶしかった所為だ。

「うん、大輔ちゃん!」

 多分姫足は、足よりももっとまぶしい笑顔で頷いた。

 見上げられないのは、更にもっとまぶしいものが見えてしまう可能性があるから。

 今は、自分のこんな真っ赤なチェリーっぷりも微笑ましい。

「……でも、学校では言わないほうがいいかもな、それ」

 三橋に睨まれそうだし。 鹿子にからかわれそうだし。 綾菜に冷やかされそうだし。

「それじゃ、秘密だね」

「あぁ、秘密だ。もちろんふぉの口の事もな」

 笑いながら、口の端を破かないように指を差し入れて見せる。

「うん!」

 あぁ、姫足はやっぱり眩しい笑顔で頷いていた。

 見上げてしまってから、それに見惚れる。

 ごめんなさい、僕は穢れない純情ボーイにはなれそうもないです。

 姫足のスカートの中は穢れなき純白ガールでした。

 そこで、そういえば、と思い出す。

 結局彼女があのメモを寄越したのか? いや、彼女の態度からしてそれは無さそうだ。

 では――。

 ドボン。

 と、彼女の足の間から見える景色。 そこを何かが通過した。

 それは水音を立て、プールの反対側に落下する。

 姫足もそれに気づき、振り向いた。

 俺は立ち上がり、何が落ちたのか確かめる。

 すると、月に照らされ、水中に何かが影を落としているのが見える。

 俺達の直線状にある四番コース。 そこに筆で線を引くように、黒いモノが伸びていく。

「え?」

「大輔ちゃん!」

「え?」

 混乱している俺を、姫足が突き飛ばした。

 尻餅を痛がっている暇も無い。

 スタート台の下から一気に飛び出した何者かが、姫足の頭上から彼女に覆いかぶさる。

 そしてそのまま顎で着地し、ジェットコースターのレールのように体を滑らせ、俺の前でそれは鎌首をあげた。

 後には、姫足の姿が無い。

「え?」

 それの見た目は、巨大な蛇だった。

 体長五m。 鱗は夜より黒く、月の反射を受け滑らかに輝いている。

 腹は人の肌のような質感を持っており、作り物ではない証にゆるく上下していた。

 横幅が広く、頭が大きい。 その頭が上を向き、喉がゴクリと動いた。

 あぁ、口に入れたものを飲み込んだんだ。

 口に入れたもの?

 そこにいない、姫足に決まっている。

 いや、今まであの口の中に納まっていたのか? いくら大きいといっても、頭の大きさは一m程度。 それに蛇が獲物を飲み込むには、長い時間をかけると聞いた事がある。

 呆然とする俺を蛇が笑った。 口の端を上げ、確かに笑った。

 これは、蛇じゃない。

 蛇の皮を被った、化け物だ。

 まるで睨まれた蛙のように、体が動かない。

 それでも、凍った体を何とか地面から引き剥がそうとする。

 熱源は、握られた手の温もり。

 それを頼りに、俺は腰を浮かし、相手を睨む。

 ――この、化け物!

 腰のバネを使い体を一気に起こすと、俺はそいつの頭をめがけ口を開いた。

 蛇が驚いたかのように、まぶたが無いはずの目を見開く。

 瞬間、頭の中に何かが過ぎた。

 それが何かと考える前に、口が閉じていた。

 大きく開けたはずの俺の口は、唇の端を破いただけに留まり、まるで蛇に接吻するかのような距離で留まっている。

 蛇の目が細められたかと思った時には、奴は首を捻り、凄まじい速さでプールサイドを駆け抜けていた。

 そして、急に曲がり金網の一角に体当たりする。

 それはあっさりと倒れ――当たり前だ、立てかけてあるだけなのだ。  蛇はそこからしゅるりと屋外へ逃げ出した。

 追い、かけなければ。

 顔を突き出した間抜けな体勢を引っ込めるのに、かなりの力を要する。

 俺が思考のまとまらないまま蛇を追おうとすると――。

 ビー! ビー! と、突然大きな音が夜の学校に響く。 びくりと体が震えた。

 ビ……。

が、布団に遮られた目覚まし時計の如く、それはすぐに鳴り止む。

 なんだったんだ、なんなんだいったい。

 走って追わなければ。 そう思うのに、体がのろのろとした歩みしかしない。

 意味が分からない、沢山の事が起こりすぎて。

 正体がバレて、追いかけて、拒絶されて、受け入れられて、でも、その子が食われた。

 俺は永遠に彼女を……いや、追いかけなければいけない。

 俺は立ち上がった。

 まだ消化されてないかもしれない。 あんなにあっさり飲み込まれたのに?

 今、腹を割けば助かるかも。 御伽噺じゃあるまいに。

 とにかく追いついて……。 あの速さじゃ無理だ。

『本当は分かってる』

 違う!

『あれは助からない』

「違う!!」

 叫んで、違和感に気づく。 今俺が叫び返したのは、何だ?

 見回した俺の側には、倉庫しかない。 姫足が気にしていた、開けずの扉だ。

 そういえばあの時にも、声を聞いた。

「誰か、いるのか?」

 問いかけるが、返事は――。

『ええ』

 あった。 短く、はっきりと。

 混乱する頭。その限界が今まさに訪れようとしていた。

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