ミミック(擬態の方)
“彼女”が学校の裏門に到着したのは、二十二時十分であった。
辺りは既に闇に包まれており、時たま後ろを車が通る程度で人通りもない。
鉄門扉の裏門は取っ手に足をかけるコツさえ知っていれば、簡単に乗り越える事が出来る。
警備システムが死んでいることは確認済みであった。
左右を念入りに確認した後、彼女が門を乗り越えたその先は、ランニングコースの林へと通じている。
進入に成功した彼女は林の中を慎重に進んだ。幸いにも月明かりによって視界が不自由になる事はない。
目的地はこの学校の校舎裏である。
三分ほど歩いて校舎裏に辿りつくと、そこには先客がいた。学生服の男である。
彼女はその男に気づかれないように、林の陰に隠れると、彼の様子を観察し始めた。
制服を着た男は、まだ残暑の厳しい九月だというのに厚手のマフラーを巻き、落ちつかなげに、それを口元に上げたり、熱そうに首元に手を入れたりしている。
月明かりに照らされた物憂げなその顔は、低めの身長と併せて彼を少女のようにも見せた。
相手が自分に気づいていないと確信した彼女は、次にどうしようかと考えをめぐらせ始める。
そんな時。
「ぷっ」
先程まで、ともすれば怯えた様子だった男が、急に吹き出した。
「ふふふふ、あは」
この状況にあって、何故。彼女が相手の真意を図りかねている間にも、男は体をくの字に曲げ、笑い続ける。
「くく、く、ははは、あはははは」
男は息継ぎをしない。笑い続ける。やがて彼は、折り曲げていた体を今度は逆に月へと向かってそり返した。
パリ、パリパリ。
同時に、どこからか玉ねぎの皮を破るような音が聞こえてくる。
とても小さな音なのに、それは彼女の耳に深く深く入り込んできた。
「あはは!ハハッ、ハハハハ! ヒャーアッハッハッハ!」
笑い声はどんどん大きくなっていき、夜の空気を震わせる。
バリッ! と、一際大きい音が響いた。
同時に、彼の口もより大きく開く。
――その光景に、彼女は目を見開いた。
大口を開けた男の口の端が、耳まで届いている。
本来あった唇のラインは、まるで彼の面の皮が紙でできていたかのように破れ、めくれ上がっていた。
そして、顎のラインなど知った事かと耳の横にまでずらりと並ぶ歯。
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――」
彼の変化は、それで終わらなかった。
「アハハハハ! ヒャッ、アハハハハ!ギャハハハハハハハハハ!」
男の頭が破裂した。 かと思ったが、違う。
彼は口を更に大きく開けたのだ。
例えば、唇に沿って人間の顔に鋸を入れればこうなるか。
口から伸びた亀裂は耳の下を通り過ぎ、首まで裂けている。
顎に続いて頚動脈がその存在を無くし、蝶番は首の後ろ。
彼が笑い声を上げる度、後ろに倒れそうになりながら、まるで宝箱のように口から上全体が開閉する。
ガチンガチンガチン! と、いつの間にか、男の口が閉まるたびに大きな音が鳴るようになっていた。
その音の正体は肥大化した男の歯、もしくは牙である。男の歯はいつの間にか大根のように大きく、氷柱のように鋭く変形していた。
それに併せて彼の頭部自体が、常時の三倍ほどの大きさにまで膨れ上がっている。あるいは頭に箱を被っているようにも見える光景である。
しかしその頭には、ゴムのように伸びきった、少女にも見えたはずの顔が、歪んで張り付いていた。
比率もめちゃめちゃ。まるででたらめ。こどものらくがき。
生き物であるかすら判別がつかない怪物に、男は一瞬で変わってしまった。
いや、違う、アレは……化け物だ。
人の皮を被っていた化け物が、今まさにその皮を破り、正体を表したのだ。
「ひゃは、ひゃ、ひゃは…」
笑いが、収まっていく。
がくんがくんと揺れながら、その視線が下へと戻っていく。
「ひゃはぁ、あ?」
いつの間にか茂みから大きく顔を出していた彼女と、目が、あった。
食われる。
本能でそう察し、彼女は悲鳴を上げて逃げ出した。