皮
私、平井正美が家路についたのは、二十一時を回ってからの事だった。
家から一時間の場所になかった物を、更に一時間移動して探せば帰宅に二時間かかる。
簡単な理屈。しかし必死だった行きの私がそれに気づいたのは、帰りの私になってからだった。 つまりそんなものは存在しないって事で、ちょっと哲学的だと思う。
しかし今、後悔している私はいない。
目的の物は手に入った。そう考えて紙袋の中を覗く。 これを渡せば、弟も機嫌を直すだろう。
もちろんだけど、周囲はすっかり暗くなっていた。
私の家に近道で帰るには、人通りの無い路地を通らなければならず、心細い事この上ない。
こんな事なら弟に迎えを頼めば良かった。件の路地に入りながら私は考える。
「アレ?」
そんな中、私がふと気づくと、道の真ん中に人が座り込んでいた。辺りは暗く、私に背を向けている為よく分からないけれど、多分女の人だ。
「あの、大丈夫ですか?」
怪しい。そう思う前に、私はその人に声をかけていた。目的を遂げて気を抜いていたのもある。
でもそれ以前に、肩を振るわせるその人が本当に辛そうだったのだ。
「痛いぃ。痛ぃのぉ」
背を向けたまま、その人は搾り出すように言った。
「痛いって、どこがですか? 救急車を呼びましょうか?」
紙袋を地面に置いて私が問いかけると、女の人は後ろを向いたまま手に持った物を私に差し出す。
差し出されたそれは最初、ゴム手袋のように見えた。
肌色で、でろんとしていて、薄っぺらい。
しかしそれにいくつか穴が開いていること。そして中でも一番大きな穴の周りに赤いラインが引いてあるのを確認し、私は息を飲んだ。
これは、口紅だ。そしてこの穴は、口。その上にはべちゃんこにつぶれた鼻があり、両脇にはまつげのついた眼孔が開いている。
まるで騙し絵のように、一つ正解が分かった途端それぞれのパーツに説明がつく。
つまり、そう、これは、人間の顔の皮だ。
「あ、あ……」
声が出ない。頭の中では作り物だ作り物だ作り物だと、常識が高速でアラートを鳴らし続ける。
しかし目の前にある、まるで叫びを上げているような顔面の皮のリアルさが、その常識をいつも簡単に押しつぶそうとする。
その恐怖に押し出されるように、私の常識が、落ち着こう、冷静になろうとして当然の帰結をしようとした。
痛いだなんて言っているけれど、これが、この人の顔の皮なんかな訳はない。だってこれがこの人の顔の皮だとしたら、本人の顔はどうなってしまっているのか。
その問いに答えるように、蹲っていた女の人がゆっくりとこちらを向く。
きっと、ただの悪戯だ。そうだ、そうに違いない。そうであって。
最後には祈るような気持ちになって、私はその人の顔を見た。
見ようとした。
その瞬間、私の視界は赤黒い、蠢く肉塊に覆われていて。
バクン、ゴリ、グシャグシャ。
私、平井正美の人生は、あっけなく終わった。