黒いモヤの『アレ』が、いる。
アレの存在に気が付いたのは、保育園の年長の冬。母さんが仕事帰りから行方不明になって、暫く経ってからだった。
そのころの私は、母さんがいなくなった淋しさで誰とも遊ばず、園庭の片隅でよく泣いていた。
そんなとき、真っ黒な人影のようなアレが近寄ってきて、涙を拭ってくれた。
初めのころは、アレの存在に救われていた。
皆に腫れ物のように扱われる中で、アレだけはいつも側に来て涙を拭ったり頭を撫でてくれていたから。
私は、アレに『クロさん』と名前を付けて、沢山の話をした。
母さんがいなくなったこと、父さんが夜に一人で泣いていること。
父さんの帰りが遅い日は祖母の家に行かなきゃいけないけれど、そこで母さんの悪口ばかり言われること。
祖母の家は散らかっている、妙に臭いし、蝿がよく飛んでいて気持ち悪い、なんて話も。
ある日、保育園のガキ大将だった健太が「おまえ、すみっこで、ずっとひとりではなしてて、きもちわるいぞ!」と私を指差して怒鳴りつけてきた。
そのときの私は、健太が何を言っているのか分からなかった。だって、私はアレに触れられたし、話も出来ていたから。
アレは言葉を発さないけれど、私が何かを言えば、頷いて返事をしてくれいた。だから、実在していると思っていた。
「ほら、こっちこいよ! いっしょにあそぶぞ!」
「う、うん……」
健太にグイグイと手を引かれ、遊具まで引きずられるようにして歩いた。
さっきまで側にいてくれたアレは、その場から動くことなく、ただ私に手を振っていた。まるで『よかったね、遊んでおいで』とでもいうような雰囲気で。
その日から、私は徐々に健太やその友だちと遊ぶようになった。
時々一人になってアレと話そうとしたけれど、直ぐに健太に見つかってしまい、友だちの輪の中に連れ戻される。
暫くは手を振ってくれていたアレは、徐々に何の反応もしてくれなくなった。
そして、卒園の日にアレは消えていなくなっていた。
小学校に上がって、初めて雨が降った日だった。
猫のキャラクターが書いてある傘を差して、可愛いでしょ? なんて、黒い傘を振り回している健太に自慢していたときだった。
電信柱の横にアレがいるのが健太越しに見えた。
私は慌てて駆け寄って、アレの手を掴んだ。
「クロさん! ここにいたの!? なんできえたの!? さがしたんだよ!」
真っ黒なアレは、ニタリと口を大きく開けて笑った。
全身が真っ黒だからだろう、真っ白な歯が妙にギラついて見える。
アレはそっと私の手を振りほどくと、私の両脇に手を入れて掲げるようにして抱き上げた。
「■■■■■■」
アレが何かを言ったけれど、外国語のような不思議な言葉で理解できない。
何かが腐ったような臭いの生温かい息が、顔にかかって吐きそうだった。
クロさんはこんな風に笑っただろうか? こんな臭いはしていただろうか?
そんな疑問を抱いたときだった。
「だめだ! こはるっ!」
健太の悲痛な叫び声が聞こえた。
どうしたんだろう? と、そちらに視線を向けると、健太が傘をバットのようにしてスイングし、アレの体を殴った。
私を抱き上げていたアレは、バシュンという音とともに消え、私は地面に落ちて足首を挫いた。
「クロさんがきえちゃった……。っ、けんたのバカ! なんでこんなことするのっ」
「おまえ……しにたいのかよっ!」
健太の言う意味が分からなかった。
なんで『死ぬ』なんて話に飛躍するんだろうかと。
「あのくろいやつは、ユーレーだ。みえるやつをつれてくんだよ」
「ゆうれい?」
「うん。とうちゃんが、ぜったいにみえてるってきづかれるな、っていってた。みえてるってわかったら、くわれるって」
「たべられるの? でも、クロさんはそんなことしないよ」
だって、『クロさん』は、いつでも私の話を聞いてくれていたから。
「アレと、いまのヤツはべつのやつだ」
「ちがうクロさん?」
「うん、ちがうヤツ」
健太は、アレのことをいろいろ教えてくれた。健太の家は代々、幽霊とかそういったことに関する仕事をしていること、お父さんは仕事で家にいないことが多いこと、お母さんは、アレが『見えない人』だということ――。
それから、黒いアレの退け方も教えてもらった。
黒いもので振り払うように殴ると、しばらくの間消えるのだとか。
「かんぜんには、きえないけど、にげるじかんは、できる」
「だから、いつもくろいカサなの?」
「うん」
雨が降っていない日は、あまり出会わないのだとか。それならなんでクロさんは毎日必ず保育園の片隅にいたんだろうか? と不思議に思うだろうが、このときの私は幼すぎて、そのことには思い至らなかった。
その日、家に帰って父さんに黒い傘が欲しいと頼んだ。
アレが怖いものだと認識したこともあるが、健太がアレを祓うのがとても格好良かったから、私も同じものが欲しかった。
黒い傘を手に入れた私は、それだけで自分が強くなったと思えるようになった。
でも直ぐに、勘違いだったのだと痛感する。
梅雨になると、アレはどんどんと増えていった。雨で気が滅入る人たちが多く、そんな人たちの黒い感情がアレを呼び寄せるのだとか。
健太は、絶対にアレの顔を見るなよと、私に何度も言い聞かせていた。
なのに私は、言うことを聞かなかった。
クロさんをこっそりと探していた。
バケツをひっくり返したような土砂降りの中、友だちの家から帰っているときだった。
通っていた保育園の近くを通ったとき、園の入り口にアレがいた。
「っ! クロさん!」
このとき、街中にいるのは違うものだと分かっていたが、園のところにいるのなら『クロさん』のはずだ、なんて何の根拠も確信もないのに、アレに駆け寄った。
真っ黒なモヤのようなアレは、白い歯をギラリと光らせながら歪に笑い、口を大きく開いた。
「■■■■■■」
その瞬間、私は死ぬんだなと思った。
「こぉはぁるぅぅぅぅぅぅ!」
黒い傘でアレから自身を隠すようにして、ギュッと瞼を固く閉じた。
その直後、健太が私の名前を叫ぶのが聞こえた。
べチャリと何かが濡れた地面に落ちる音。
恐る恐る瞼を押し上げると、青白い顔の健太が地面に倒れていて、黒いアレは消えていた。
「けん……た?」
倒れて動かない健太を目の前に固まっていた私を尻目に、保育園の先生が救急車を呼んでくれた。
子どもが水溜りで足を滑らせて倒れている、と。
私は、不運な事故の現場に居合わせた可哀想な子という扱いだった。
翌日、父に付き添ってもらい健太のお見舞いに行った。
病院の個室に入ると、泣き腫らした健太のお母さんと、難しい顔をした健太のお父さんが、昨日と変わらず真っ青な顔でベッドに眠る健太に寄り添っていた。
「…………ごめんなさい」
入口から動けず、出た言葉はそれだけだった。
私のせいで――――そう発した瞬間、健太のお母さんが真っ赤に腫れた目を見開いて、私のもとに駆け寄ってきた。
そして、よくわからなかったけれど、早口で何かを叫んでいた。
健太は二度と目覚めないかもしれない、ということだけが分かった。
「よしなさい」
健太のお父さんが静かにそう言った瞬間、全ての音が消えたように感じた。全身がビリビリと痛むような空気だった。
「すみません、妻は気が動転しておりまして」
「いえ。大変なときに不躾に訪れてしまい、申し訳ありませんでした」
父親同士でいくつか言葉を交わしたあと、健太のお父さんが私と少しだけ話せないかと聞いてきた。
父さんに心配そうに見られたけれど、私は大丈夫だという意味も含めコクリと頷いた。
「部屋の隅で少しだけ話そうか」
少し広めの個室の片隅で、健太のお父さんと向かい合う。
父さんと健太のお母さんは、眠る健太の側に座ってこちらをジッと見ている。
ほんの数メートルの距離。
話す内容が聞こえるのはいいのだろうかと思っていると、健太のお父さんがこちらの声はあちらに認識できないようにしていると言った。
健太のお父さんは不思議な力を使える。健太からそう聞いていたから、納得した。
「小春ちゃんが、見えてるのは聞いている。きっと健太が君を護ろうとして失敗したのだろう?」
「っ…………ごめんなさい」
「謝らなくていい。君のせいではない。怖かったね」
健太のお父さんはそう言うと、難しそうな顔を少しだけ柔らかく緩め、私の頭を撫でてくれた。
私は大泣きした。健太のお父さんに抱きついて、ずっとごめんなさいと叫び続けた。
だって、私が悪いのだから。
言いつけを守らなかったから、健太は――――。
健太のお父さんから、アレを見えなくすることが出来ると言われたが、断った。
もう二度とアレを直視しないこと、関わらないことを約束した。
見えることを奪わないで欲しかった。
見えることだけが、健太との繋がりになったから。
あれから七年、健太は今も目覚めない。
毎日のようにお見舞いに行っている。
雨の日には黒い雨傘を差し、晴れの日には黒い日傘を差し、アレを見ないようにして歩く。
時々襲ってくるアレは、傘で殴って逃げている。
「健太、また梅雨になったよ。今日もね――――」
部屋の片隅に立ち尽くす黒いモヤのようなアレは見ないようにして、健太に話しかける。
青白い顔で眠り続ける健太の身体は、ちゃんと成長している。でも、黒いモヤのようなアレは、あの日の健太と同じ大きさ。
健太のお父さんが、健太の病室にいるアレを放置していることを不思議に思ったこともあったが、今は納得している。
アレは健太なのだろう。
「ねぇ、戻ってきてよ。健太。淋しいよ……」
保育園の片隅にいたクロさんは、母さんだったのだろう。そして、母さんはもう死んでいる。
健太の身体はまだ生きている。でも魂が身体にはない。だから、目覚めない。
健太や健太のお父さんと約束したから、アレとは話さない。
健太は雨の日にアレが出ると言ったが、今の私にはどんな天気の日でも見えている。
ただ、雨の日にはとても増える。
もしかしたら、見える力が強くなったのかもしれない。
中学生になった今も、父さんの帰りが遅い日は、祖母の家に行く。
一人でいるのは淋しいからと嘘をついて。
アレの存在をハッキリと認識するようになってから祖母の家に行くと、アレがいることに気が付いた。
初めは祖母の家に行くのが怖かった。
だって、アレがずっと祖母の後ろをついて歩いているから。時々大きな口を開けて、祖母の頭を噛んでいる。その度に、祖母は頭痛がすると寝込む。
この七年、ずっとそれを横目で見続けている。
母さんが働くことを祖母は反対していた。当時からなんとなく気付いてはいたけれど、嫁姑問題は根深かったのかもしれない。
母さんがどこに行ったのか、どこにいるのか未だに何も分かっていない。
行方不明者届は出しているが、失踪届の申請はしていない。
父さんは、未だに母さんの帰りを信じている。
祖母の後ろにいるアレは、時々私の側に来て頭を撫でてくれる。
私は、それに気付かないふりをして、頭痛がするという祖母の看病をし、未だにボヤき続けられる母さんの愚痴を聞く。
「あの嫁は本当に気が利かなかった。小春は優しく育ってくれて嬉しいよ」
「うん。おばあちゃんが育ててくれたからね」
私は、アレに関わらないと決めたから、ただ笑顔で見守るだけ。
アレが、クロさんだとしても、母さんだとしても、話しかけることはない。
祖母の家の奥座敷がいつからか締め切られていることも、詮索はしない。
ただ、見守り続ける――――祖母の最期を。
私がこんなことをしていると知ったら、健太は叱ってくれるだろうか?
いつか、全てが終わったら、健太の病室にいるアレに話しかけるのも、いいかもしれない。




