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「真」の救世主

 誠の胸中に渦巻くのは、やり場のない焦燥感だった。

 あの茶髪の男――轟貴也が去った後の街は、上っ面は平静を取り戻しているように見えたが、そこには確かに「毒」が落とされていた。

 魔王軍の兵士が理不尽に打ちのめされ、街の人々は男の暴挙に、戸惑いと恐怖を隠せずにいる。


 誠は、貴也が召喚されたという「城」へと足を向けた。

 重厚な石造りの門をくぐり、王宮の敷地内に入ると、そこには不自然なまでの静寂が広がっていた。本来なら勇者なる者の召喚の儀が成功し、歓喜と希望に満ち溢れているはずの場所。しかし、漂ってくるのは、まるで葬儀の後のような、重苦しく、そしてひどく「汚染されたかの様な」空気だった。


 玉座の間へと続く大扉は半開きになっており、そこから漏れ聞こえてくるのは、押し殺したような嗚咽だった。


 誠がその扉を押し開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは、無残に蹂躙された「希望」だった。 豪華な絨毯の上には、数人の老臣たちが、まるで魂を抜かれた抜け殻のように座り込んでいた。その中央で、一人の少女が膝を突き、床に涙を滴らせている。煌びやかなドレスとは裏腹に、その背中は小さく、激しく震えていた。


「……あ、あの。大丈夫ですか?」


 誠が控えめに、しかし精一杯の気遣いを込めて声をかけると、

 少女──第一王女ルナがゆっくりと顔を上げた。

 誠はその顔を見て、息を呑んだ。 その瞳は、あまりにも激しく泣き腫らしたために、真っ赤に充血している。絶望、困惑、そして言いようのない屈辱。王女として育てられてきた彼女が、これまでの人生で一度も向けられたことのない種類の「悪意」に晒されたことは明白だった。


「……貴方は……。その顔、まさか....彼と同じ……異世界から来た、救世主様?……」


 ルナの声は、ひどく掠れていた。誠が頷くと、彼女の隣に立っていた女騎士――アイリスが、一歩前に踏み出した。彼女の頬は真っ青に腫れ上がり、そこには大きな掌の形をした無惨な痣が浮き出ている。腰の鞘は空で、彼女がこの国の武の象徴として誇りとしていた剣は、離れた場所で無残に転がっていた。


「救世主……?ヤツは……!」


 アイリスは、折れそうな声を絞り出した。その瞳には、誠に対してではなく、ここを去った男への、煮えくり返るような怒りが宿っていた。


「あやつは……あの轟貴也という男は、救世主などではありません。人の皮を被った、得体の知れない怪物そのモノ! 殿下が……魔王軍に支配され、傀儡と化したこの国を救ってほしいと、大量の魔力を注ぎ込んだ儀式で、礼を尽くして出迎えられたというのに……。あやつが口を開くなり放ったのは、祝福ではなく、呪いのような言葉だった……!」


 アイリスの言葉から、数刻前にこの場所で行われた惨劇が、誠の脳裏に再現されていく。


 貴也は、自分を召喚したルナの顔をまともに見ることもせず、ただ不機嫌そうに「伊勢の山奥か」と吐き捨てたという。そして、必死に語りかける王女に対し、こう言い放ったのだ。


『……おい、姉ちゃん。あんた、誰の許可得て俺の正面に立っとるん?』


 その場にいた全員が、自分の耳を疑ったという。 王国の象徴である王女に対し、貴也は「三歩下がって歩け」と命令し、挙句には『売女みたいで格好悪いわ』と侮蔑した。変わった訛りで、どこか柔らかい響きを帯びたその言葉は、かえって彼が抱く「特権階級に生まれ育ったモノ故の傲慢さ」と「底知れない、女性への蔑視」を鮮明に浮き彫りにした。


「私が……私が、主君への無礼を許せず、ヤツに剣を向けました。救世主と言えど、礼節を欠く者は正さねばならぬと。ですが……」


 アイリスは、自分の震える拳を見つめた。 貴也は、彼女の剣を指先で弾き、あざ笑ったのだという。アイリスが「武人」として積み上げてきた研鑽を、ただの「弱い女」と切り捨てた。


『いいか、姉ちゃん。得物持つのはなぁ、力のない女の仕事やに。自分じゃ何もできやん弱い女が、せめてもの護身に持っとくのが武器やわ。武人がそんなもん頼るようになったら、終わりやでさ』


 その言葉と共に、貴也はアイリスの顔面を強引に掴み、床へと押しつけた。 誠は、街で兵士が粉砕された音を思い出し、背筋が凍るのを感じた。アイリスが受けたのは、身体的な痛み以上に、その魂(人生)を真っ向から否定されるという屈辱だった。


「私が……悔しさのあまり涙を流すと、あやつは私を見下ろして、こう仰ったのです……」


 ルナが再び顔を伏せ、嗚咽混じりに貴也の言葉をなぞった。


『……泣いとんの? 難儀やなぁ。ええか、教えたるわ。女の涙なんてなぁ、しょんべんと一緒やでな。出しとればスッキリするかもしらんけど、周りから見れば汚いだけで何の価値もないわ。そんなもん見せて、男が優しくしてくれると思ったら大間違いやに』


 玉座の間に、冷たい沈黙が降りた。 誠は、怒りで視界が狭くなるのを感じた。 「女の涙はしょんべんと一緒」。 それは、人が他者に対して向ける言葉の中で、最も残酷なものの一つだった。感情の奔流を、排泄物と同じだと切り捨てる。その一言で、ルナとアイリスの心は完全に打ち砕かれたのだ。


 さらに、行方不明となっている母親――女王の救出を乞うたルナに対し、貴也は鼻で笑い、『そんな顔しとったら嫁の貰い手なくなるでさ』と追い打ちをかけ、極めつけにこう言い捨てて去っていったという。


『そんなんさ、ドブに顔突っ込んで死ねばええよな』


 城の出口の扉が蹴破られた音が、今もルナの耳には残っている。 誠は、震えるルナの肩にそっと手を置こうとして、躊躇い、そして力強く拳を握り込んだ。 あの謎の男に路地裏へ放り出された自分は、「貧乏クジ」を引かされたのだと思っていた。だが、この王宮の人々が引かされたのは、そんな生易しいものではなかった。 彼らは、救世主の名を借りた、最悪の「毒牙」を自らの手で招き入れてしまったのだ。


「……あいつは、どこへ向かいましたか?」


 誠の声には、これまでにない冷徹な響きが混じっていた。 アイリスが顔を上げ、街の北側を指差した。


「おそらく……冒険者ギルド『盾の乙女』です。あそこには、自らの足で立とうとする、腕利きの女性冒険者たちが多く集っています。あやつの思想は、彼女たちの存在と相反します……なので...」


「行かせない‼︎」


 誠は、一言だけそう言うと、踵を返した。もう、誠の中に迷いはなかった。自分が「救世主」なのかどうかなど、今はどうでもいい。

 ただ、同じ世界から来たあの男が、これ以上この世界の、誰かの誇りを踏みにじることだけは、絶対に許せなかった。


 誠は、走り出した。夕暮れに染まり始めた街を、風を切って駆ける。 その先にあるのは、女性たちが集うギルド。そして、そこには今まさに、茶髪を揺らしながら、ねっとりとした笑みを浮かべて扉を蹴り開ける轟貴也の姿があるはずだ。


「待ってろよ、轟……!」


 誠の瞳に、静かな怒りの炎が灯っていた。

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