別の世界のきみ
キーンコーンカーンコーン。
授業が終わり、昼休みを知らせるチャイムが鳴ると「修也一緒に食おう」とか「里沙、食べよ」という声とともに、ギギギと机を動かす音が教室で響きはじめる。
見えない埃が舞い、机同士がくっつけられ、あちこちで四角形のブロックがつくられていく。
僕は手元のお弁当包みをほどきながら、その光景を耳で聴いていた。
『ねえ、一緒に食べない?』
肩を叩いて、そう声をかけられる。
そんな想像を何回したかわからない。
でも、それからすぐ、そんなことは起こらないのだと学習した。
やがてしんとした空間に、僕の机だけが、まるで孤島のようにポツンと教室の真ん中に残される。
冷えて固くなった米粒を噛みしめながら、目には映らないその光景が、いやでも鮮明な映像となって脳裏に映し出された。
「今日の夜、オンラインでやるから必ず来いよ」「授業で出された課題やってないから写させてー」とか、いろいろ耳にしながらも、自分のことには一切触れられない。
教室のど真ん中で、こんなに浮いているのに、まるで人からは見えていないようだ。
まるで自分は幽霊のようだといつも思う。誰にも認知されず、机に縛り付けられた地縛霊。誰も自分に話しかけようとも、目をむけようともしないのだから。
そして早々に食べ終わると、そのまま椅子から立ち上がり、なるべく音を立てないようにして教室から出ていく。いつものルーティーン。閉める扉は後ろ手にゆっくりと。幽霊は音を立ててはいけない。
廊下はとても静かだった。
教室から聞こえてくる笑い声からどんどん離れていくにつれて、気持ちが少しだけ軽くなるのを感じる。やっと抜け出せた、そう思ったのも束の間、
「邪魔」
一瞬、それが自分にむけられた言葉だと思わなかった。ものにむかって言っているんだと思った。容赦なくぶつけられる肩。人間だと思われてない。
でも、僕はそれに耐えるしかない。
ゆらゆらと自分の足を追うように、廊下を歩いていく。どこへ行くかは自分でもわからないまま、ただ、足が進んでいく先を目で追っていた。
やがて階段にぶつかり、下におりていくのかと思ったが、ちょうど階下から笑い声が聞こえてきたので足は自然と上を目指した。
誰もいない場所。屋上。空いてるわけないか。でも……。
屋上への入り口は硬い鉄の扉に塞がれていた。試しにノブを回してみても、ビクともしない。やっぱり。引き返そうとした時、ガチャと音がした。外から扉が押し開かれて、眼鏡をかけたとても背の低い女子生徒がこちらを恐る恐る覗き込む。
「入ります?」
言われて、思わず頷いてしまった。
冬の冷たい空気が刺すように吹き込んでくる。灰色の空。遠くには山。がらんどうとした屋上の景色が広がっていた。
眼鏡の女子生徒はそこでお弁当を広げていた。いや、広げているというのは正確じゃない。小さな折り畳み椅子に座って、段ボール箱の上にお弁当箱をのせている。
「完全に青空食堂ですけど、よければ」
頭上には寒々しい冬空が広がっていた。彼女が言うような爽やかなニュアンスは残念ながら感じられない。
「寒いけど、でも人は来ませんよ」
「……」
僕はそこに腰をおろさせてもらうことにした。灰色のコンクリートに直接お尻をつける。まるで氷の上に座っているみたいだった。漫画だとひゅうという擬音が聞こえそうな、そんなイメージが頭をよぎった。
でも不思議と、胸は温かいような気がした。
「よかったら、食べませんか?」
そう言って風呂敷のなかから割り箸を出してくれる。
「でも……」
「気にしなくていいですよ。だれも見てませんし」
……あなたはそれでいいんですかと、思わず聞いてしまいたくなるくらい、無防備な人だった。
「……すいません」
そう言って、ピンクのプラスチック製お弁当に入っている玉子焼きを一つもらった。
口の中で玉子焼きを咀嚼しながら、フェンスの外に広がる寒空を見つめる。何をやっているのか自分でもわからなかった。
「つらいですよね、毎日」
「え?」
「わたしもつらい」
「……」
乾いた頬に涙が伝った。ドライアイだ。拭わず、吹きさらしのままにする。
「寒い」
そう言って彼女は鞄から赤のマフラーを出した。小さな手でそれらを手繰り寄せると、自分の首に何重か巻きつけた後に、僕の首にもそれを回した。
「……」
感傷的な気分だったせいか、その場の空気に流されるように彼女の丁寧な手つきで首をぐるぐる巻きにされてしまった。
「あったかい」
そう言って肩を寄せてくる。その距離の詰め方に戸惑いを覚えながらも、突き放すことも逆に彼女の背に手をおくこともできず、ただ彼女の小さな重みを感じていた。
「先生かと思ったんです」
「え?」
「ドアをガチャってされたから」
「ああ」
「でも、なんか弱々しい感じだったし。もしかしたらと思って開けてみたら……勇気出してよかったです」
「……そんなに、信じていいんですか?」
「え?」
「だって僕たち、初対面だし」
どうして助けてくれたのにこんなことを言うんだろうと、自分のことがよくわからなかった。
「つらそうな顔、してたから」
「……」
「わたしたち、助け合った方がいいでしょう? たぶん」
彼女の指がのび、手の甲を触った。おそるおそるといった調子で。
僕は、怖かった。
ちょうどそのとき、予鈴のチャイムが遠くに響いた。
「あ……」
逃げるように立ち上がった僕に、何か言おうとした彼女のかすれ声が漏れ出た。
「……ごめんなさい」
謝罪の言葉を背に、僕は暖かい校舎のなかへ逃げていった。
休み時間にはいった教室のなかで、静かに腰をおろしながら、何をするでもなく、ただぼうっとする。
それがどんなに難しいことかを、僕はよく知っていた。
「お前、三組の真澄と“キス”したってほんと?」
高校生ならば特別おかしくもない話題。
でも僕は、その単語を聞いただけで、まるで心の中に突然手を突っ込まれるような感覚になる。
体温が急激に上がっていくような羞恥。感覚器官である耳はいやでも“声”を拾ってしまう。
「はぁ? 誰から聞いたんだし」
からかわれた仲間は特に動揺することもなく、平然としている。周りの生徒たちも自分の会話に興じている。
「Dキスしたんだろ。ちゃんと教えろって」
すぐ前で声高に叫ばれる、本来日常で使われることのないセンシティブな単語。それに心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚える。
机の下でつくった握りこぶしを隠しながら、もうやめてくれと祈っていた。
話すのは構わないから、せめて人の聞こえないところで話してほしい。
「お前真澄ちゃんとどこまで“ヤった”の? ちゃんと教えろって」
思わず耳を塞ぎたくなる衝動を抑えるように、両手で顔を覆う仕草をすると、
「こいつどうしたの?」
という声が聞こえたので、余計に焦りが生じてしまい、額に汗が滲んだ。
「てか今日、なんでいるの」
「俺の椅子なんだけど、そこ」
声がこちらにむいているのを意識しながらも、両手で顔を覆ったままでいると、
「ねえ……ねえ!」
だん、と握りこぶしで机を叩かれた。
「そこ俺の机なの」
「……」
「わかった?」
喉が塞がれたような緊張で言葉を出す余裕もなかった。それでも、なにか口を開けば自分の負けだと思い、しばらくそのままでいると、ちっ、という舌打ちとともに、男子生徒はおもむろに立ち上がると、
「だからどけって!」
思いきり椅子の足を蹴ってきた。
慌てて立ち上がり、席を譲り渡す。そして、そのまま出口にむかって走った。静まり返った教室のなかで、ガララッと扉を開けて出ていく音を、まるで他人事のように聞いていた。
「やっとこれで座れるわ」「おい、やり過ぎだぞお前」などの声とともに、いま自分が座っていたであろう机をズラす音を耳にしながら、僕はまた、人気のない廊下を歩きだした。
喋り声も、水道の蛇口を捻る音もない、誰もいなくなった無音の校舎のなかを歩くように。
自分の居場所はどこにあるんだろう……。
気付くと僕の足は、自然階段をのぼっていた。
トントン、と鉄の扉をノックしてから、ノブを捻ると、
「あ……」
こないだの眼鏡をかけた女子生徒が、一瞬バツが悪そうに視線を落としかけたが、えっ……という戸惑いとともに、
「どうしました……?」
動揺したような声を出した。
「……」
「……」
しばしの間沈黙があったが、僕はゆっくりと扉をあけて屋上へ出た。すぐ傍でじっと自分の様子を見ている彼女の横を素通りしながら、ゆらゆらと歩く。そのうち顔面に溜まった熱と、外気との温度差で頭がぼうっとなりながら、その場にへたり込んでしまった。
「……何があったんですか」
上から声がかけられたが、顔をあげられなかった。横座りになったまま立ち上がれず、自分の意思とは関係なく勝手に肩が震えていた。
「寒くて……すごく、寒い……」
怖いんじゃなくて、寒いから震えている。
待っててください、という声が聞こえた気がした。目の焦点はずっと灰色のコンクリートを見つめていた。それからすぐにジャンパーのようなものを肩からかけられる。
「大丈夫ですか」
視界の隅で、まだ自分の手が小刻みに震えている。
その手に、小さくか細い指が重ねられた。
ほっ、ほっ、と小さくついていた息が、やがて大きなリズムで感情を伴って乱れだした。そして体の芯が痺れたようなどこか心地いい震えとともに、ぽたっぽたっとコンクリートに水滴が落ちていく。
「大丈夫です、大丈夫です」
幼い子供のように肩を揺すられながら、うっ、とえづくような感覚とともに、感情が肺の奥から絞り出されるような気がした。
「うっ……うっ……」
どこかで自分の泣き声が聞こえていた。そして顔を厚地の生地に押し付けられ、頭に腕を回されていた。
次第に震えが収まっていくとともに、自分が抱きしめられていることに気付いた。
紺色の制服を濡らしてしまった。そのことを謝りたかった。
……なんて僕は弱虫なんだろう。
いつから自分はこうなってしまったんだろう。
昔はこうではなかった。
どちらかというと内気な方で、友達が喋っているのを外から見ていることが多かったけれど、それで苦痛があったわけではなく、わりかし平気で見ていられた。
それが、いつの頃からか、そういう光景が心の膜を突き破ってくるようになった。
廊下でも教室でも、みんないつでも誰かと笑っていて、その瞳に僕が映ることはなくて、そんな光景を輪の外から見ていると、ふいに目尻が湿ってきて、悲しくもないのに目が潤んでくる。
そういう風になってしまった。
ほんとうに、何も悲しくないのに、生理反応のように目元が熱くなってきてしまう。心では平気なのに、脳が勝手に疎外感をつくりだして、自分に押し付けてくるみたいに。
いつだったか、それなりに仲の良かった同級生と話をしているときに、僕を除いた二人の中で会話が盛り上がっていた。前だったら、その様子を見ても普通に笑顔で見守ることができたのに、その時の僕はそれを見守りながら、瞬きをした瞬間につーっと目尻から涙が溢れてしまった。
慌てて制服の袖で目元を拭ったら、え? 泣いてるの? と、その二人がきょとんとした目で僕を見てきた。
泣いてないよと誤魔化しても、泣いてるじゃん! 目濡れてるよ、と指摘され、何も言い返せなかった。
それ以来、僕は壊れてしまったと思った。
こういう時は笑うんだ。笑え、笑ってくれ! と命令しても、自分の表情は言うことを聞いてくれない。
人が笑っているのを見ると、途端に目尻が湿ってくる。
それに負けまいと鉄面皮をつくると、“いつも硬い顔をしているやつだ”と人から誤解されてしまう。
違う、そうじゃない! 喋ろうとしても、感情が邪魔をしてくるんだ。
悲しくもないのに、目尻が湿ってくるんだ……。
だから、そのまま口を開くことができなくなって、笑ったりすることができなくなって……。
どこにいても、何を見ていても、襲ってくる疎外感に耐えられなくなって、次第に僕はうつむいて生きるようになった。
感情が怖かった。安定した自分を乱す、毒物のように感じた。できることなら、切り離してしまいたい。
人が針で刺される程度のことに、自分は耳元でラッパを吹かれるように感じる。
「……僕、おかしいんでしょうか」
体育座りで灰色のコンクリートお尻をつけて、両膝をぎゅっと抱きしめるように、僕と彼女は寒々とした色をしている空を見ていた。
「そんなことないです! わたしも、“おかしい”ってよく言われますし。忘れ物は多いし、こんなところでご飯食べてるし……」
赤い縁の、ちょっと派手な眼鏡。幼い肌を、こないだの赤いマフラーが覆っていた。
「ありがとう。……赤、好きなんですね」
「気付くと赤ばかり身につけちゃいます」
そのとき、キーンコーンカーンコーンというチャイムが聞こえた。
戻らなきゃ……そう思った。
「……また、来てもいいですか?」
「もちろん。わたしたち……友達、ですよね……?」
確かめるようにそう言った彼女に、僕は小さく頷いた。
トントン、とノックすると、
「どうぞ」
という声が聞こえたので、入っていく。
先に来ていた彼女はブルーシートのようなものを広げていた。
「ちょっと引いてみました。わたしだけならいいけど、椅子ではやっぱり食べにくいと思って」
「……ありがとうございます」
青い作業用のようなシートの四隅に、どこからか持ってきたらしい小石が置かれて、風で飛ばされないようにしていた。
「二人で座る大きさはと考えていたら、なんだか殺風景な感じになってしまいました……」
「……いえ、いいんです」
「どうぞ、座ってください」
そう言われ、シューズを脱いでシートに腰をおろさせてもらう。ほぼ直につけているようなものなので、膝がとても冷たかった。そして相変わらず、風も容赦なく吹き付ける。
「じゃあ、食べましょうか。あ、お弁当ありますか?」
「持ってきました」
そして寒空の下でのお昼がはじまった。ラップに包まれたおにぎりをかじりながら、
「……この間は、すみません」
ぽつりと、そう言ってみた。
「え?」
「いきなり、泣いたりして……」
「あ……いや、全然大丈夫です! わたしは、嬉しかったですから……」
「え?」
今度はこちらが疑問形を浮かべる。
「頼ってくれたことが、嬉しかったんです。それに、もう来ないと思ってたから……」
「……」
「よかったです」
喋るごとに、白い息が上がっていく。そのせいで眼鏡が曇るのか、彼女はつるに手をかけてそれを外した。
裸眼の、生の顔立ち。
それほど悪くない。
ただ、肌は浅黒かった。それが、パッと見の印象を一段も二段も下げているんだろう。
「ふわぁ、すごい曇ります」
袖で曇った部分を拭っている様子を見ながら、この前のことを思い出していた。泣きながら抱きしめられて、慰められて……。
異性にそんなことをされるなんて、初めてだった。
「? どうしました?」
「いや……」
そう言って、また食事に戻っていく。
またある日。
「あの」
僕は、ポケットからあるものを取り出した。
「え? これは」
「こないだのこと、お詫びしたくて。でも、何が好きかわからくて」
缶コーヒーのホットカフェオレを、彼女にむけて手渡した。
「……ありがとうございます」
「いえ……」
「乾杯、ですね」
プルタブをあけたそれを、カンと小さく打ち合わせると、両手で自分の口へ持っていった。
胸の中が温まる。
はっ、と息を吐くと、身体にたまった生暖かい校舎の空気も一緒に、全部白い息となって寒空へ漏れていくような気がした。
「温かい」
「……」
「ここは冷えるので、なおさら」
「でも僕は、校舎より、居心地いいです……」
「あはは。まあ、たしかに」
「あの」
「なんです?」
「どうして、屋上の鍵を持ってるんですか?」
「あー、わたし、天文部だったんです」
「だった?」
「すぐ辞めてしまって。ただ、その時にこっそり屋上の鍵を複製させてもらって……」
「……そうですか」
「よかったら、もう一つ、渡しておきます」
「え?」
「わたしがいない時などに、使ってください」
「……はい」
「あ、」
「……?」
「雪ですね」
「え?」
「手のひらをむけてみて」
「……?」
「ほら、こうです」
「あっ……」
「ほら、雪ですよ」
「……」
「……あ、ごめんなさい。手触っちゃって……」
「……いえ。積もりますかね……雪」
「積もったら、しばらくここにはこれないですね……」
「増田」
「……」
「……おい、増田!」
ドスの効いた声に肩を震わせて振り返ると、担任が苛立ちのつのった表情をして僕を見ていた。
「ちょっと話があるから、ついてこい」
どこか有無を言わせぬ圧のある口調に、僕は屋上へ行きかけていた足を引き返さざるを得なかった。耳栓をポケットに入れ、そのままうつむいて担任の後ろを歩いてゆく。
体育の教科担当である大西は、学生の頃はレスリングの選手だったらしく、地方大会でも優勝経験があるとのことで、体格はよく声も野太かった。そして日頃の言動から、僕に対して良い感情を持っていないことは知っていた。
体育館の横にある、狭い空き教室へ着くと「入れ」と短く言われる。
「そこに座れ」
そして向かい合わせになっている机の、手前側の席についた。
対面に大西が腰をおろし、一対一で向き合う形となる。
「まず単刀直入に言うけど、最近お前耳栓してるだろ。あれはなんでだ」
「……」
「言いたくないのか」
それはこちらを気遣ってというより、言葉を引き出させるための一歩引いた脅しのように聞こえた。
「……いや」
「あのな。はっきり言うけど、みんなお前のこと良く思ってないぞ」
心臓が収縮していくのを感じた。脈打つ鼓動が早くなる。
「ああいうことされると教室の空気が悪くなるんだ。みんなが気持ち悪くなるんだよ。わかるか?」
「……でも」
「あ?」
「すごく、耳障りなんです。アイツらの声が」
「……」
「大声で、すごく嫌なこと、喚いてて……」
「具体的に何を言ってるんだ」
「それは、その……」
言葉を紡ごうとして、口の中で消えてしまう。
その沈黙を察してか、大西はあとの言葉を引き継ぐように、
「あのな。高校生だったら、あのくらい当たり前だぞ。それに大人になって、例えば飲み会なんかに参加するようになったら、ああいう下ネタくらい当たり前にある。……お前はちょっと、自分の過敏さに気付いてないんじゃないか?」
「気付いて……知ってます。わかってます」
「……」
「でも、気になるんです。すごく。いやなんです。あの、注意してもらえませんか」
追い詰められた獲物が睨むような、という比喩が浮かんだ。
「……」
「注意してください……先生からも……」
震えながら、一言一言、やっと押し出すように言った。
「……まあ、俺からも言うけど、でもお前も良くないところはあるんだぞ」
「……」
「協調性がない。自分から喋らない。喋りかけても、あ、うん、しか言わない。それじゃ、誰もお前と関わろうとはしないだろ」
「……」
「……まあ、わかった。でも、耳栓は外せ。あれは誰が見ても良くないからな」
そして空き教室を出ていこうとしたとき、「あ、あとな」と呼び止められた。
「お前、昼休みいつもどこ行ってる?」
「……え?」
「いつも弁当箱もってどっか消えるって聞くぞ。……まさか勝手に外出たりしてないよな」
「……」
「もし、そんなことしてるんだったら、やめろよ。それ退学処分の対象になるぞ」
廊下を歩きながら、“退学”という言葉が何度も頭に浮かんだ。ならそうしてくれた方が楽なのに。この学校を追い出してくれるなら、その方が自分にとっても楽だ。
僕は、いつもの階段をあがり、屋上を目指した。
彼女に訊きたいことがあった。
“あの、もういやだって思ったこと、ありませんか?”
“もう、いいって……”
“どこにも居場所がないなら、もういいって……”
“そう思うこと、ありませんか?”
“ある一部の人間はどこへ行っても異物で、弱虫で、だからそういう生き物は淘汰されるのが自然界のルールだと思うんです”
“世界とのチューニングが上手くできないんです”
“一生、死ぬまで人と共鳴できないんです”
“この世界で、生きていく自信、ありますか?”
屋上の扉の前まできて、ノックをした。
でも、返事がなかった。もう一度、ノックをしてみたけど、やはり声は返ってこない。
僕はポケットから鍵を取り出した。以前、彼女からもらった複製したもの。それを鍵穴に差し込み、ガチャリと回す。
錠が開いて、重たい鉄の扉を引く。
ブルーシートが置いてあった。手つかずのまま、放置されるように。
隅に缶のカフェオレが二つ置いてあった。
それ以外は何の変哲もない、荒涼とした冬の屋上の風景が広がっていた。
僕は、しばらくその場で頭の整理をつけてから、フェンスのほうへと歩いていった。
格子状になったその金網を触る。そして指をかけた。
ゆっくりと登っていって、フェンスを越えると、またしがみつくように外側へとおりていき、コンクリートの段に立つ。
みんなの声が背中を押してくる。
“邪魔”
“みんなお前のこと良く思ってないぞ”
“アイツなんで喋んねえの?”
“正直、痛々しいよね……あの子”
“お前は自分の過敏さに気付いてないんじゃないか?”
こことは、別の世界へ――何も考えなくていい、誰も自分を責めない世界へ行こう――。
『待って!』
手を引かれる。あるはずのない手に。
でも、止まらない。
そのまま下に広がる、青い空間へと落ちていくのを感じた――。
ネットで見たような気がした。
自分が通う学校で、十年前に飛び降り自殺があったという記事を。
亡くなったのは高校二年の女子生徒で、たしかいじめを苦に屋上から飛び降りたとあった。
死ぬ直前に捨てたと思われる赤いマフラーも、そこで発見された。
どうして命を絶ったのかには触れられず、ただ事件の詳細だけが淡々と書かれていて、そのときは頭の中から流してしまった。
あのときは、まだ自分にとって死が遠くにあったから。
でも、ようやく合点がいったような気がした。
どうして彼女があそこにいて、自分なんかの話し相手になってくれて、自分を抱きしめてくれて、救ってくれたのか。
ずぶ濡れの制服。背中に受けた衝撃があまりに強くて、立ち上がれなかった。しばらくそうして、ぷかぷかと水の上に浮かんでいると、空から大きな白い塊が降ってくるのが見えた。
牡丹雪だった。水分を含んだ湿った雪が、空からまるで祝福するように降ってくる。
“積もったら、しばらくここにはこれないですね……”
頭上に見える屋上から、赤いマフラーをした生徒が手を振っているのが見えた。
ばいばい、だろうか。それ以外にも、なにか手をメガホンの形にして、なにか言っている。
「あなたのこと、好きでした! 好きになっちゃいました! だから、もう少しだけ、生きてみてください――」




