二十九
ミカエルシュナはネリアが療養する一室を訪れていた。
ネリアの部屋は、外にふたりの見張りと、侍女がいるだけだった。そして大きなベッドにネリアが寝かされている。
寒々しいと思っていた部屋には、意外なほど暖かみがあった。いたるところに花が飾られ、優しい色合いの家具が飾られているからかもしれない。
「どなた⋯⋯?」
ネリアはあどけない表情でミカエルシュナを見つめた。まんまるの目は、彼女を必要以上に幼く見せている。
ミカエルシュナは優しく微笑んだ。
「はじめまして、ネリア様。わたくしはミカエルシュナと申します」
ミカエルシュナはそう挨拶して、そっとベッドに歩み寄った。
「綺麗⋯⋯女神様みたい」
どこか夢見るような口調でそう言うネリア。ミカエルシュナは小首を傾げた。
「お加減はいかがですか?」
「お加減?」
「痛いとか、苦しいとか、ありませんか?」
「ありません⋯⋯ふふ、女神様に心配されるなんて、夢みたい」
くふくふ屈託無く笑うネリアは、言葉通り健康そうに見えた。
初めて会った時に比べれば頬がふっくらして、顔色もいい。消え入りそうな風情だったのが、今は日だまりの花のような溌溂さを感じる。
だが身体を起こすことも、腕を上げることさえできない。まともに動かないからだ。
リハビリをすれば日常動作ができるぐらいには回復するそうだが、少なくとも今は歩くことさえできないでいる。
それでも、苦痛は無いのだとネリアは笑った。
「ねえ、女神様⋯⋯じゃなかった、ミカエルシュナさん」
「はい?」
「お兄様達はお元気? 何だか忙しそうで、なかなかお姿を見られないの。もうすぐ離れ離れになっちゃうのに」
ネリアは寂しそうに言った。それに、ミカエルシュナははっとする。
「ネリア様は⋯⋯修道院に行くことをご存知でしたね」
「うん。ここは⋯⋯私には優しくない場所だからって」
ネリアは頷き、眩しそうに目を細めた。
「何となく⋯⋯解る。ここは、私がいちゃいけない場所なんだって。忘れてるけど、解るの」
ネリアの記憶は、戻る見込みが無い。実際ミカエルシュナのことを覚えていないし、思い出したような素振りも無い。
それでも、全てを忘れきったわけではないのだ。皇宮にネリアの居場所が無いことを、何となく察している。
「⋯⋯そう、ですね。ネリア様とお兄様達は、同じ場所にいない方がいいでしょう」
「やっぱり⋯⋯」
ネリアはうつむき、ため息をついた。
「記憶を失くす前の私は、とても悪い娘だったのね」
「そんなことありません」
「そんなことあるわ。そうじゃなきゃ、お兄様達と一緒にいられないなんてことないもの。兄妹なのに」
兄妹なのに──まったくその通りだ。
兄妹なのに、助け合うことも、支え合うこともできなかった。だが、それはネリアのせいでも、ユリウスとルキウスのせいでもない。
皇太后や前皇帝──つまり、周囲の人間のせいだ。
ネリアは──一番の被害者なのに。
「ミカエルシュナさん。私、きっと悪い娘だったの。だから今こうなって、記憶が無いんだわ。じゃなきゃ⋯⋯お兄様達のお荷物になっていないの」
ネリアの目の端から、涙が流れた。静かに、しかしとめどなく流れる涙に、ミカエルシュナの胸が締め付けられる。
どうして、ネリアが苦しめられなければならないのだろう。ネリアはただ、皇太后の娘として生まれただけなのに。どうして、皇太后の罪業の結果を背負わなければならないのだろう。
ミカエルシュナは慰めの言葉が出てこず、ネリアの手を握った。
しばらくネリアの洟をすする音と僅かな衣擦れの音が部屋に響いていた。やがて、泣き止んだネリアが力無くミカエルシュナの手を握り返した。
「ごめんなさい⋯⋯泣いちゃって」
「いいえ。泣きたい時は、泣いてもいいのです」
ミカエルシュナはハンカチでネリアの涙を拭ってやった。
きっとこれまでのネリアは、泣くことさえできなかったはずだ。もし皇宮に留まっていれば、これからも泣くことができなかった。
だからいいことなのだと、ミカエルシュナは思うことにした。
「ネリア様⋯⋯」
「なあに?」
「わたくしと、手紙のやり取りをしませんか?」
突然の提案に、ネリアは目を瞬いた。そんな彼女に、ミカエルシュナは言葉を重ねる。
「今はまだ書くことができないでしょうから、誰かに代筆してもらって、手紙を送ってください。わたくしも、ネリア様に手紙を書きますわ。いずれ、リハビリも兼ねてご自身で書いていただければと思います。修道院に行っても、続けましょう」
「そんなこと⋯⋯いいの?」
「ええ。勿論、ネリア様がいいのであればですが⋯⋯きっと、お兄様もお許しになりますわ。それとも、わたくしと手紙を交わすのはお嫌ですか?」
「ううん⋯⋯ううん、やりたい」
ネリアは僅かに首を振り、しばらく考え込んだ。そして、ミカエルシュナを見返す。
「お兄様にも送ったら⋯⋯返ってくるかな」
「ええ、きっと。もし返さなかったら、わたくしがお兄様をお叱りしますわ」
むん、とと胸を張るミカエルシュナに、ネリアは笑った。サファイアの瞳を細め、大口を開けて。
何の憂いも無い、無邪気な笑顔だった。
「楽しみにしてるね」
「ええ」
──フローディア様、どうかこの方の人生に安らぎを。
──野花のように素朴で穏やかな日々をお与えください。
ミカエルシュナは心の中で、フローディア女神に祈りを捧げる。
そんなミカエルシュナに応えるように、ベッド脇の棚に置かれた水晶が輝いた。
───
「何てことをしてくれたんだ!」
皇都にあるデュラック伯爵家のタウンハウス。主であるデュラック伯爵は、娘であるニヴィエを怒鳴り付けた。
「ニヴィエ⋯⋯どうして魔剣ヴォーディンのことを皇太后殿下に伝えたんだ⁉」
「何のこと?」
「とぼけるな! 離宮での一件、あれはヴォーディンの能力だろう! あれの力を知っているのは、我が一族だけ⋯⋯あんな危険なもの、どうしてっ⋯⋯しかもその結果、皇太后殿下が亡くなるなど!」
「だって、あの方」
ニヴィエは小首を傾げ、睥睨するようにデュラック伯爵を見つめた。
「ユリウス様を殺そうとしていたのよ? 私のユリウス様に⋯⋯そんなこと、許されないわ」
「あの皇帝は危険過ぎると再三言っているだろう!」
デュラック伯爵は呻いた。
「ニヴィエ⋯⋯あの男を篭絡するのは無理だ。いい加減諦めなさい。我々が頂点を取り戻すのに、皇帝を手に入れる必要は無い」
「そんなの、関係無いわ」
「は?」
「デュラック家が頂点に立つとか、あの方の復権がどうとか、私はどうでもいいの」
ニヴィエは頬に手を添え、うっとりとした顔をした。
「私が欲しいのはユリウス様なの。ユリウス様だけが欲しいの。それ以外は、心底どうでもいいわ」
「なっ⋯⋯に、ニヴィエ! おまえは解っているのか⁉ おまえは」
「それより」
ニヴィエは父の声に被せるように、低く尋ねた。
「あのエルフを排除する方法を考えなきゃ。襲撃は失敗したし⋯⋯」
「ニヴィエ、あのエルフは」
「ああ、可哀想なユリウス様! 実の妹に命を狙われて、美しいだけの女に騙されて」
ニヴィエはデュラック伯爵の言葉を聞いていない。彼女の目に映るのは、今ここにいない皇帝だけだ。
「ご安心くださいませ、ユリウス様⋯⋯貴方のニヴィエが、貴方を悩ませるもの全てを排除しますわ⋯⋯私には、それだけの力があるのだもの」
異様な熱を込めて、ネリアは呟く。
託宣を伝える、巫女のように。




