近年定番と化した異世界転生予定者と神様の、転生前の最初で最後の会話。
目が覚めると、見知らぬ空間にいた。
辺りを見回すも、何か家具が置いてあったりするわけでもなく、部屋の中という感じはしない。それどころか、果てしなく無の空間で、遠くには地平線が見えていた。
そこで呆然としつつ手をついたときに、少し不思議な感触がして、足元に目をやった。
綿のような地面であった。白いなとは思っていたものの、フワフワとしたその地面は手で強く押してみると、少しだけ反発するようであった。フワフワだけど少しだけ弾力があるというその不思議な綿の感触を楽しんで、ハッとした。
ここは一体どこなのか──と。
自分はついさっきまで海水浴場にいたはずでは──と。
右手では地面の感触を楽しみながらも、左手は眉間を抑え、その深刻な表情を覆い隠していた。
どれだけ記憶を辿れど海水浴をしていたという、それさえ不確かな情報にしか行き当らないのだ。海水浴場に電車で向かって、そこから水着に着替えて、泳いだような泳いでないような──そして、そこから何があればこんな場所に辿り着くのかの見当がつかない。
ここがフワフワとした──というよりはベッドの上などであれば、ナンパが上手くいってどうのこうのと憶測を立てることもできたのかもしれなかったが、しかし、地平線が見えるほど広い部屋というのがこの日本にあるのかと問われて、俺は首を縦には振らないだろう。
もしかしたら俺が知らないだけであるのかもしれないが、少なくとも家の近所にはないし、あの海水浴場の近くにもない。あったのならおおよその見当はついている。そんな施設があれば目立つに違いないのだから。
だとすれば、ここは──と、いよいよどうにも考えの及ばなくなった頭に、脳に、直接声が響いた。
穏やかな老人の笑い声の様であった。困惑し途方に暮れている俺を嘲笑しているのだとすれば悪趣味なことこの上ないが、どうにもそうは思えず、思わず助けを求めた。
「あの、ここはどこなんですか!何で頭に声が聞こえるんですか!普通に話しかけて欲しいんですけど!」
そんな叫びは通じたのか、目の前に閃光が奔った。
白い光に包まれた球体のような何かが現れると、今度はそこから、スピーカーか何かの様な仕組みなのだろう、声が聞こえてきた。
「ほっほっほ」
と、またも笑い声であった。質問に答える気が無いのかと思いその球体に近付くと、近づいて行っているはずなのにも関わらず、その距離はなぜか引き離された。
「邪念を持つからじゃよ。叩き割ろうとか考えとったじゃろ」
「思考を……読まれてる……!?」
「当然さな。それくらいできんで何とするか」
球体は変わらず穏やかそうな声で言う。
ここがどこなのかとか、この球体は何故浮いているのかとか、どうやって思考を読んだのだろうとか、そんなことを考え困惑しているこちらに対して、向こうはどうにも楽しそう──と言うよりはどこかマイペースな風に、カラカラと笑いながら言うのだった。
「な、なぁ、ここは?」
しかし向こうのペースに合わせていれば話が一向に進まないだろうと察した俺は、まず第一にと現在地を尋ねた。ここがどこなのかが分かれば、帰る手立てもあるのかもしれない──なんて、そんな思考もまた読まれていて、
「もうここからは帰れんよ」
と、文字通り見透かされた風に突き付けられた。
「な、なんでだよ!出せよここから!」
と、激昂したように叫んだ。本当は激昂とまで入っていなかったのかもしれなかったが、未だ困惑の渦から抜け出せていないながらも、その言葉の意味を、意図を、聞き出そうと必死だったのは確かだった。
「出すも何も、ここは外じゃからな」
「外……いやまぁそれはそうなのかもだけど、帰せよ!家に!」
「あぁ、すまんな、言葉が足りんかった。外というのはの、お主でいうところの現世の外という意味じゃ」
「現世の……外……?」
「あぁ、じゃからここは自ずと、あの世になるのかの?」
と、老人の声は言う。
あの世。
理解するのにどれだけの時間がかかったのかは分からない。分からないが、何とか理解して飲み込んだとき、俺は泣いていた。死んでしまったのだと、それをここにきて自覚させられたからだった──なんていうことはなく、調子に乗って酒を飲んだままひと泳ぎしに行ったらおぼれて死んだという記憶が、その球体に映し出されたからであった。
情けなさ過ぎて泣いてしまった──人生初めてのナンパをしようとして、女の子の気を引こうと奇をてらったことをしようとして、ブクブクと海の藻屑になっていく自分の姿を見せられて、恥の上塗りをするかのようにわんわんと大泣きしてしまったのだった。
そして一通り泣き腫らした頃、その球体はようやくというか、これに関しては自分の所為だという認識があるものの、本題に入った。
本題というのは何かと言えば、「新しい人生を歩んでみる気はないか?」というものであった。
「新しい、人生?」
「そうじゃな。聞いたことないかの?異世界転生というヤツ」
「あ、あぁ、アニメとかの……」
あまりそういう作品を読んだり観たりするタイプではなかったものの、そんな自分でさえ聞き覚えの一つや二つはある、今や定番の決まり文句であった。今やタイトルにそれが入っていない作品を探すほうが難しいのかもしれない。
「えっと、どういう感じに……?」
「どういう……あぁ、なるほどな。大体考えている通り、お主の世界でいうところの──そうじゃな、およそ十四世紀ごろの欧州に近い世界じゃな」
「えぇ……生きるの大変そう……」
「大丈夫じゃよ。そっちの世界には魔法があるからの。明かりをつけるのに電気は要らんし、火をつけるのにもガスは要らん。水道代だってかからんし、人によっては魔法で家を建てる者もおるくらいじゃ」
「皆そんな感じなの?」
「皆ではないの。魔法は偶に扱える者がおるくらいじゃな。魔力自体は皆持っとるが、そこから火を起こせる者を捜すとなると、数は限られる。火を起こせてなお水も作れる者を捜すとなると、数はもっと限られる。更に風を起こせるものとなると、ほぼおらんな。全くではないがの」
「……それは、俺も使えるのか?」
「ほっほっほ、この話をしておいて使えませんでしたなんて、そんなことするわけないじゃろ。全ての魔法を使いこなせるようにしておいたから、扱いこなしてみるといい」
「す、すげぇ……でも、何で?」
「何で……お主を拾い上げたことかの?」
「あ、あぁ。分かってるんだろうけど」
「まぁ、見ておれんかったからじゃな。たまたま覗いてみたら、神である儂ですら同情してしまうようなものがおったから、ついな」
心に突き刺さるような、同情の目を向けられたような気がした。
しかし、様々な魔法が使える身体を手に入れられるというのは、今後の事を思うと幸運なことなのかもしれない。やはり人は本能的に、優れた者や強い者に惹かれやすいのだろうし、わざわざ酒を飲んで海に入るなんて真似をしなくとも、ナンパは上手くいきやすくなるかもしれない。
忘れたい過去だが、それが上手くいけば断ち切れる過去でもある。出来れば自分として、この世界で成功したかったというところではあるものの──と、そこでふと思った。
「こういうことって俺のほかにもあるのか?」
他にも俺のように転生している人間がいたのだとすれば、そいつらが先にその世界で目立ってしまっていて、自分の活躍する場面がなくなってしまっているのではないか──と。
二番煎じだなんてよく言うが、二番煎じならまだ味がする分上出来だ。しかし、十番煎じだとか百番煎じになってくると、最早お湯でしかない。誰がそんなお湯に目をくれるのだろうか。
折角転生できるというのなら、その手の作品よろしく異世界で雑魚相手に無双して名声を勝ち取りたいと考えるのは、やはり自然な事だろう。そんな時、既に俺が無双するための世界を踏み荒らしている存在がいるのだとすれば、邪魔でしかないのだが──と、そんな考えもまた読まれていたようで、球体からはため息交じりの乾いた笑いが聞こえた。
「心配するな。儂もこれまで多くの日本人を転生させてきた、言わばその道のプロじゃ。言わんとすることは重々承知しとるし、そんな初歩的な失態は晒さんよ」
「初歩的……ということは、昔は同じ世界に送ったこともあったってことか?」
「まぁの。皆細々と暮らすもんじゃと思っとったからな。まぁええじゃろと思って、むしろ、同郷の者がいた方が心細い思いをせんで済むと思っての善意じゃったが、見事に衝突しとったの。それからはそれぞれ別の世界に送っとるわ」
「まぁ、そりゃそうだわな……ってか、日本人だけなの?」
「そうじゃな……それ以外の者がここに来たことはないかもしれん。とは言っても、日本人だからと言っても、死んだら全員がここに来るわけでもないんじゃがな」
「条件とかあるのか?」
「ある──というより、心当たりもあるんでないかの?」
心当たり──そう言われて、これまでを思い返して、一つだけそれらしきものがあることに気が付いた。
「そういう、ことか」
「そういうことじゃな。お主の家、仏壇と神棚がそれぞれ置いてあるじゃろ」
「あぁ。アレが原因だってのか?」
「そうじゃ。儂ら神全てを信仰の対象に据えた神道と、死んだ人間があれやこれやして転生するという価値観のある仏教──これが噛み合った結果じゃろうと、儂は思っとるよ」
と、自称神は言った。
宗教観念の希薄さの様なものが、日本人を異世界という名の死後の世界へと導いていたというのか。
「自称じゃないわ。神じゃよ、神」
「ふぅん……にしても転生って、俺の記憶とかはどうなんの?」
魔法を使えるようになったというところまではいいのかもしれないが、そのこと自体を忘れていたら世話ないだろうと、そんなことを尋ねたのだが、「記憶を消したら転生させた意味ないじゃろ」と、明らかに馬鹿にしたような物言いをされた。
確かに、記憶を消して魔法の才能を与えたのだとすれば、その場合、ここに俺がいる必要性はないのだろうし、少し考えれば分かるはずのことだという意味では言い返せなかった。
「まぁの、お主の身体を受精卵にまで戻してから母親の胎内に戻すなんて、そんなサイケなことをするわけじゃないからの」
「サイコじゃない?」
「どっちでもいいんじゃよ。しかしまぁ、お主からの連続性が無いという意味では、これを厳密に転生と呼んでいいのかというのは、儂自身納得しきれておれんの」
「連続性?」
「うむ。これまでに溜め込んだ知識なんかでいえば、それはそのまま次の人生にも引き継げるんじゃがの。しかし人間は全ての物事を記憶しているわけではなくて、どうでもいい事だとか、昔の事だとかは勝手にどこかへ仕舞われるんじゃよ。そういった既に忘れてしまった様なものも、何かのきっかけで思い出すことは出来るんじゃが、普段は脳の奥底にしまわれている所為で、それを転生先にまで持っていくことができないんじゃよ」
「昔の……でもそういう記憶も俺を形成してる部品みたいなもんなんじゃないの?」
「そうじゃ。それに、記憶というのは何も脳にある者だけを指す言葉ではない。体が覚えた──例えば自転車の乗り方だとかを手続き記憶というんじゃがの?そういった物は引き継ごうにも引き継がれんのじゃよ」
「なるほど……じゃあ、それは俺であって俺じゃないのか……?」
「厳密にはな。持っていけるのは長期記憶と、今覚えておる意味記憶、それから人格に影響しかねないエピソード記憶だけかの。まぁ、次の世界で覚えることの方が多いハズじゃし、ここらで整理整頓と思っておれ」
と、球体からは笑い声が聞こえた。今でもパッと思い出せるようなことは引き継がれるのだろうが、昔ちょっと調べたことがあるくらいのモノだとかは向こうに行けば忘れているらしい。
それもそうだ。もう一回調べ直せば「そういえば前こんなの調べたな」と思いだせるのだろうけど、今ここで昔調べたことを思い出してくださいと言われたところで、そもそも何を調べたのか、何を忘れているのかさえよく覚えていないのだ。そんな知識まで持っていくことはできないのだろうが、少し悔やまれる。
「つまりはその次の世界の……赤ちゃん?が、俺の今持ってる知識を受け継いで生きることになるって感じか?」
「そうなるの。前作のデータを引き継げるゲームみたいな感じじゃな。意識も人格もお主で間違いないんじゃろうが、この感覚は実際に入ってみんと分からんから、説明のしようがないの」
「誰に引き継がれるんだ?」
「誰……あぁ、良い家のイケメンな子供がいいというお主の潜在意識は、ちゃんと理解しているから安心せい。まぁでもお主、新しく子供に生まれ直すんじゃから、そのことはちゃんと覚えておれよ?」
「そ、そっか……てか、潜在意識まで覗いてんじゃねぇよ。恥ずいだろ」
「あんな死に方したお主が言うと説得力があるの。それと、お主の意識や記憶が目覚めるのは、生まれてから少し後になるということも、言うておかねばならんの」
「と言うと?」
「初めからお主の意識がはっきりしておると、恐らくは母体の中で目を覚ますことになる。普通の人間ならあり得ん事じゃが、転生という尋常ならざる行為を挟んどるせいで、それが普通にあり得てしまう」
「母体の中か……暗いのか?」
「正気を保てるとは思えんな。生まれて早々精神を喪失しとるなんて、洒落にならんじゃろ?」
「確かに」
それでも、生後一週間もすれば意識は覚醒していくらしい。そんな状態で目覚めたところで何もできないのがオチだろうが、しかし、乳飲み子であるがゆえの特権もあるはずだ──そう、乳飲みが。
「ほどほどにしておけよ、忌子だと言われて捨てられる可能性もあるんじゃから」
「!?」
釘を刺された。しかし救いでもあったと、ここは素直に受け取っておくことにした。さっき十四世紀のヨーロッパに近い世界だとか言っていたわけだし、下手な生き方をすれば森に捨てられたりしかねないのだ。
「どんな願望を叶えるでも勝手にすればよいが、儂がわざわざ拾い上げたお主の魂じゃ。無駄にするでないぞ」
と、球体の神は呆れたように言う。
すると同時に、自分がいたこのフワフワとした空間が、端からパタパタと折りたたまれるように小さくなっていき、その内意識は暖かな光の中に包まれていくのであった──。
そしてその後、魔法の力で異世界を無双する一人の男の姿が、遍く宇宙の何処かにあったのだという。