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百合の花

 ふと窓辺の席に目を移すと、あった。百合の花だ。

 例の白百合の一輪挿しがぽつんと無人のテーブルの上に置かれていた。他のテーブルにはなかった。なぜこの席だけ? それに店内はほぼ満席状態なのになぜ一番景色の良いこのテーブル席だけは誰も座っていないのだろう。予約席だろうか?

 その時、俺は不思議な光景を目にした。手前の席に座る女性が、その奥のテーブル席の方にスマホを向けていた。カシャ! 彼女は誰も座っていない席に向けてシャッターを切る。いや、その女性だけではない。よく見ると他にも数名、ある女性は小さなデジカメで、またある男性は高級そうな一眼レフで、やはりその席の方にカメラを向けていた。一体なぜだ?

 暫くその不思議な光景に気を取られていると、いつのまにか目の前に石田が立っていた。

「よくいらっしゃいました。さあ、こちらへどうぞ」

 相変わらずスマートだ。俺は石田に案内されるまま、スタッフルームへと向かった。

 スタッフルームは建物の北側に面していた。ドアを開けて中に入ると、真ん中に簡素なダイニングテーブルと木製の椅子が向かい合わせに二脚。向かいの壁にはどこかの山とエメラルドに輝く美しい湖の写真。右手奥の窓際には古びた事務机。広さは四坪あるかないか。窓から海は見えなかった。石田に言わせれば、海はお客様のもの、なのだそうだ。表の華やかな店舗とは随分対照的に地味な部屋だ。これも実直な彼の人柄の表れなのだろう。

「狭いところですが、どうぞ掛けてください。コーヒーでいいですか?」

「ええ、お構いなく」

「おーい、花井くん、コーヒーを二つ。特別旨いやつを頼む」

「はーい」

 ホールの方から快活な声がした。さっきの彼女、花井と言うのか。花井、花井、やはり思い出せない。どこかで見たと思うのは勘違いか。俺は椅子に腰掛けて石田の背後にある窓を見た。青い空の下、JR新快速がけっこうな速度で通り過ぎて行った。

「すぐそこに電車が走っているんですね」

「ええ、舞子駅は目の前です」

「いいお店です。石田さん料理はされないのですか?」

「いやいや、私に作れるのはごく普通のカレーライスとサンドイッチと、それと名物のくぎ煮ぐらいですよ」

「くぎ煮?」

「ご存知ありませんか? イカナゴの稚魚を佃煮にしたものです」

「ああ、昔、食べたことがあります。もうずっと昔です。橋もまだなかったな。淡路に渡るのに確かこの近くから、たこフェリーと言うやつに乗ったことがあった。その時売店で買った弁当に入っていました。少しだけど旨かったのでよく覚えていますよ」

「そうですか。じゃあ今度作って差し上げます。よろしかったらどうぞ」

「ありがとうございます」

「たこフェリーか、久しぶりにその名前を聞いた。懐かしいな。そのころは、神戸でもない明石でもない、静かなだけで、何もないところでね、車は皆ほとんどが第二神明バイパスを通るのでこの辺りを訪れるのは淡路に渡る船客と釣り人ぐらいでね、海水浴シーズンでもなければ閑散としとりました。その上……」

 少しの逡巡の後、石田は何かを思い出すように、少し遠い目をしながら呟いた。

「あの地震が、街を襲った」

「ああ……」

「当時私と家族は神戸市長田区の実家で被災しました。戦後すぐに建てた古い家でした。二階に居た私は幸い軽傷で済みましたが、一階で寝ていた父と十才になる息子が怪我をしましてね、それが元で父は長患いに罹って命を落としました」

「それはお気の毒に」

「もうあれから二十一年。月日の経つのは本当に早いと感じます」

「そうですね。あっという間です。ここもかなりの被害が?」

「ええ。でも不思議なことにこの辺りは実家よりもずっと震源地に近いはずなのに、致命的な被害は免れた。しかし当然ながら客足には大打撃でね、致命的ではないにしろ修繕やら何やらで金も掛かるし、オーナーだった父も入院してしまい、私一人で再開したとしても客が戻るかどうかもわからない。本当はあの時もうやめようと思っておりました」

「それは大変でしたね。でも今は、こうしてお店は流行っている。続けられて本当に良かった」

「ええ、おかげさまでね。昔から贔屓にしていただいたお客さんやまわりの人たちに励まされて何とか再開を果たすことができました。それで昨年心機一転、店を大きく改装して客足も順調、これですべてうまく行くかに見えた矢先にこの一件が起こりました。世の中そう易々とは物事は運ばないものです」

 ほんの少しの沈黙が流れ、石田は唐突に口を開いた。

「そりゃそうと、天宮さん、あなたさっき不思議な顔をされておりましたな」

「はい?」

「さっき私を待つ間に見ておったでしょう?」

 やっぱり見られていたのか。この御仁、人間観察力はなかなかのものだ。

「ええ、あれは……」

 石田は立ち上がり、窓の外を見つめながらゆっくりと話し始めた。俺はじっと話しに耳を傾けた。

 ――あれはこの店の全面改装が終わり、新装オープンがすぐ目の前に迫っていた時のことでした。オープンに向けてチラシも打った。地元の観光ガイドにも載せた。そして若いスタッフも入れて経営方針を決めるミーティングをやったところ、これからの時代、宣伝はネット中心だと言う意見が多数を占めた。 

 私はこの年なのでネット宣伝など、いやネットそのものにほとんど触れる機会などはなかった。それまでうちの店は、ネットの電話帳みたいなやつにはかろうじて名前と電話番号が出ている程度で、もちろんホームページと呼べる物もない。これではダメだと言うことになり、若い者達と相談して、きちんとしたホームページを作ろうと言うことになった。

 ホームページを作るためには当たり前だが写真が必要だ。私はネットのことには疎いが、昔から写真を撮る趣味があった。本当のところ、わたしは喫茶店よりカメラマンになりたかった。もちろんその頃はデジカメではなく古い銀塩ですがね。 

 若い者に言わせればそいつはもう過去の遺物らしくて、それでもまあ撮れなくはないが、一度撮ったものをスキャナーとか言うやつでパソコンにコピーしなきゃいけない。それは何をするにも手間が掛かっていけない。そこで私は奮発して新しいデジタル一眼レフを購入した。そしてプロのカメラマンを雇うことなくすべて自分で撮影はやった。まあデジタルもフィルムも基本的な撮影技術はほぼ変わらない。

 そして出来上がったページをグルメサイトに載せようと言うことになった。しかも登録するだけなら広告料は無料だと言う。後は来店した客が店を評価してくれる。良いものは良いしダメなものはダメと評価される。手厳しいが、やり甲斐はある。世の中進歩しているなと感じました。

「お待たせしました」

 先ほどの花井と呼ばれるウェイトレスが銀のトレーにコーヒーの入ったフラスコとカップ二客載せて入って来た。

 彼女は立ったまま、慣れた手付きで左手にトレーを支え持ち、右手でフラスコからカップに湯気の立つコーヒーを注ぎ淹れた。さすがはプロだ。

 辺りにコーヒーの甘い香りが漂い出した。

                                  続く


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