私と結婚してください
――二十一年前、母が震災で亡くなってから父はわたしをたった一人で一生懸命育ててくれて、調理系の専門学校にまで入れてくれた。でも六年前にその父も癌で亡くなったの。
当時二十才のわたしはそれまで住んでいた戸建ての家を出てマンションで一人暮らしを始めることになった。広い家から狭い家へ引っ越しするわけだから処分しなければならない物も多くて、その中には震災で亡くなった母の遺品もあった。
わたしはそのほとんどを物置の奥にそのままにしてあったの。とても処分することなんてできなかったから。でもそういうわけにも行かず、物置の奥に仕舞い込んでいたダンボール箱を十五年ぶりに開けた。
色々な物が出て来たわ。中には見覚えのある物もあったけれど、母の亡くなった当時はわたしもまだ五才と小さくてよく覚えていなかった。
ユースホステルの会員証や観光パンフレット、地図、旧国鉄の切符、フェリーの乗船券、等々そのほとんどが母の大切な思い出の品ばかり。
そしてその中に一冊の日記帳を見つけたの。わたしはその日記帳をぱらぱらとめくった。母はまめな性格だったから、旅立ちの日から毎日きっちりと書き込んでいた。
ところがね、九月三十日までは書き込まれていたのに、十月分のページがすべて切り取られていたの。わざわざ切り取るなんて、十月にいったい何があったのかとても気になったわ。
その日記帳の最後に、その旅で知り合った人々の名前と住所、電話番号とそれから一言何かメッセージを付け加えて書かれていたわ。そのほとんどが母の筆跡ではないから、きっとその時知り合った人とアドレス交換したのね。
でもいちばん最後のページに、青いインクで 2015、11、1『starry night』と横文字で書かれていた。住所もなくて、ただ国鉄舞子駅近くとだけ書かれていてなぜか大きく丸で囲んであったの。それまでに書き込まれていた住所氏名とは違ってそれだけが母本人の筆跡だった。
「なるほど、それだけは消さずに残していたってことですね」
「ええ、まだ先の未来の日付と店の名前でしょ。まるで母はわたしがそれを見つけるのを知っていたみたいでどうしても気になったから」
「それで店を訪ねたと」
「でね、行ったらちょうど店舗改装の最中だったの。でももうほとんどオープン間近で、入り口に従業員募集の看板が出されていた。わたし好みのお洒落なお店だったし、わたしはずっとソムリエールになりたくてちょうどその年の三月に調理の専門学校を出たところだったの。そして店の前にしばらく突っ立っていたら、突然ドアが開いて、この店長が出て来たのよ。応募ですかって? こんなことってある? これはきっと母の導きだと思ったわたしはすぐに、はいそうですって答えたわ」
「そうですか。それはやはりお母さんの導きですね。おそらく花井さんのお母さん、恵子さんはとても力が強かったのでしょう。その日記を将来あなたが見つけることも予知していた。それが花井さん、あなたにもしっかり遺伝していますね」
「花井さん、その日記帳、今はどちらに?」
「はい。実はわたし、ずっと鞄に入れて持ち歩いているの。こんなこともあるんじゃないかと言う気がしていたから」
「ちょっと見せてもらえますか」
「ええ、ちょっと取って来ます」
そう言って香織は出て行った。
「石田さん、あなたは彼女が恵子さんの娘さんだとご存知でしたか?」
俺は石田に水を向けた。
「いいえ、知りませんでした。彼女をここで雇うことになったのもまったくの偶然ですよ」
「恵子さんの導きね」
奈緒美がしんみりと言う。
「お待たせしました。これです」
香織は一冊の古びた日記帳を差し出した。俺はそれを手に取り、ぱらぱらとめくる。そして一番最後のページを見た時だ。
「あれ? 花井さん、これは?」
俺は最後のページを開いたまま花井に渡した。
2015、11、1『starry night』国鉄舞子駅近く
香織、ありがとう 石田さんをどうぞしっかり支えてあげてください。
またいつか会いましょう お母さんより
「これはわたし初めて見た」
「恵子さんの最後のあなたへのメッセージですね」
「あら? 石田さんを支えてってどういうことかしら?」
奈緒美がにっこり微笑んでいる。
「それは……」
香織が頬を染める。
「私から言いましょう」
「店長!」
「花井君、どうか私と結婚してください」
続く




