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三十五年後の今日

「俺、北海道から帰ったら、結婚するんだ」

「え?」

「ごめん、君を騙すつもりはなかった。俺には五年間交際している女性がいる。会社を辞めて実家に戻る時にその女性にプロポーズした。北海道から帰ったらきっと迎えに行くって。だから彼女を裏切れない」

 恵子の表情が見る見る悲しみで曇って行く。彼の白い吐息は一瞬で恵子の心を凍らせてしまった。

「どうして今そんなこと言うの?」

 恵子の瞳から一粒の涙がすっと零れ落ちた。

「今言わないと、俺、自分で自分を抑えられなくなる」

 彼には旅先で出会った、五才年下の恵子は可愛かった。初めに彼の心で生まれた小さな感情は、やがて旅を続けるうちに純粋な愛おしさに変わった。そしていつしかそれは耐え難い思いへと変貌を遂げる。やり場のない苦しみへと。

「もっと早くに君に会いたかった」

「……わかった。もうこれ以上あなたを苦しめたくない。ああ、でもその台詞、まさか一年に二度も聞くなんて思わなかった。あなたの口からは絶対に聞きたくなかったな」

「ごめん。俺、神戸戻ったら、親父の喫茶店手伝っていると思うから、もしまた近くに来るようなことがあったら寄って」

 恵子はじっと彼の顔を見つめる。

 二人の間に一瞬の沈黙が流れた。

「ごめんなさい。または、もう、ないのよ」

「そうか。そうだよね」

「そんな悲しい顔しないで」

「ごめん」

「あやまらなくていいよ。あなたの行いは間違っていないもの。男らしいよ。とっても。その彼女、大事にしてあげて。だからわたしのこと、もう忘れて」

 そう言った途端に恵子は嗚咽を上げた。

「恵子ちゃん……」

「うそ、うそよ。お願い、わたしのこと……どうか、忘れないで」

「忘れるわけなんてない」

「ほんと? じゃあ、一つだけでいいから何かあなたの思い出をちょうだい」

「思い出?」

「うん」

 そう言いながら恵子は自分の首に巻かれた藍染のバンダナを解いた。

「これでいいわ。これ、わたしにちょうだい」

「それは君のために買ったものだから……」

「ありがとう。大事にします。この北の大地で二人同じ時を過ごした大事な思い出として」

「戻ったら本当にもう会えない?」

「ええもう会わない」

「友達としてなら」

「ダメ。石田さんが言ったのよ。自分で自分を抑えられなくなるって」

「そうか。わかった」

「会いたい? こんなわたしでも会いたい?」

「うん」

「そうね……」

 恵子は一度目線を逸らし、少し困った顔で何かを慮るように言った。

「じゃあ、今から五十年。五十年経ったらもう一度会いましょう」

「五十年! 長すぎるよ。俺、八十才になってしまう。生きている自信がない」

「じゃあ三十五年でどう?」

「三十五年経ったら六十五才か。それでも気が遠くなるけど、わかった。」

「わたしは六十ね。きっと二人ともあの紅葉みたいにいい色に落ち着いてるわ」

「恵子ちゃんの連絡先は?」

「それはダメ。お互い教えないでおきましょう」

「じゃあどうやって会うの? 三十五年も先のことなのにどうやって?」

「わたしあなたのお店に尋ねて行きます。三十五年後の今日、十一月一日。だから店を教えて」

「店か。国鉄山陽本線の舞子駅近く、starry nightと言う名前の喫茶店だ」

「スターリーナイト? 星の輝く夜?」

「ああ、星降る夜だ。親父は星夜光と呼んでいた。初めはstarry night lightって言う名前だったけれど、いつのまにかstarry nightになった。言い難いからかな」

「まるで夕べいっしょに見た星空みたいね。青白い光が降り注いでいるみたい。素敵な名前」

「三十五年か。大きな目標ができたよ。どんなことがあってもそれまで店、続けないといけないな」

「わたし、必ず行くから。待っていて」

「うん。ありがとう。この一ヶ月、本当に楽しかった。まるで夢のような一ヶ月だった」

「ええ、わたしも。あなたには心から感謝しています。ここへやって来た時はもう何もかも捨ててしまうつもりで、この命さえも捨ててしまうつもりで来たのよ。でもあなたに出会って、わたしこれからまだまだたくさんの楽しいことが待っているんだって思った。人生捨てたものじゃない。あなたとお別れするのは辛いけれど、でも帰ってもしっかり自分の人生を生きて行くつもりよ」

「三十五年後に再会したとき、もしも二人とも独身だったら、その時は俺と結婚してほしい」

「プロポーズの予約?」

「もしそれが叶わなかったら、また生まれ変わってその時は必ずいっしょになろう。その次が無理なら、またその次、それが無理ならまたまたその次に、いつか必ず君と結婚できる時まで、何度でも生まれ変わってずっと君を待つよ。未来永遠に、いつか君と僕の人生がぴったり同じ道を歩むまで」

 恵子のつぶらな瞳からきれいな涙の雫が零れ落ちた。彼は思わず恵子を抱きしめた。山を映した湖はずっと変わらない。太古の昔から、遥か未来までずっとその姿は変わることはないだろう。二人を包み込んだオンネトーの時は止まったままだ。

                                  続く


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