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オンネトー

「それで、明日は何時頃こちらを出発されますか?」

「九時ぐらいかな。明日の夕方に釧路港に着けばいい。釧路までならおそらく四時間もあれば着く計算でいるから、ただその前に最後の目的地の釧路湿原に寄るつもりでいるんだが」

「え、それはせっかくの新婚旅行に水を差すことになりませんか?」

「いいや、全然。旅は道連れ。それに新婚旅行なんていう堅苦しい旅じゃない。僕が来たかった北海道に無理やり嫁を連れて来ただけのこと。ハネムーンにユースホステルはないだろう? 彼女、本当は西海岸に行きたかったらしい。本物のドナルドダックに会いたかったそうだ」

 そう言いながら彼は助手席の嫁をちらりと見る。嫁の表情は険しかった。こいつはまた言わなくてもいいことを言う。その顔だ。この新米の旦那はこの先きっと尻に敷かれるに違いない。

「僕は明日の早朝に撮影に行きます」

「早朝? 九時ぐらいまでに戻るなら大丈夫だよ」

「すみませんわがまま言って」

「わたしもいっしょに行っていい?」 

 間髪を入れずに恵子が言った。

「いいよ。その代わり夜明けには出かけるよ。足がないからオンネトーまでは三キロほど歩くよ。それでも良かったら」

「あ、オンネトーか。明日俺たちもここを出たらオンネトーは最初に寄るつもりにしてるけどね。その時いっしょに行けばいいんじゃない?」

「いえ、どうしても早朝の写真が撮りたいので。すみません」

「あなた、二人で行かせてあげて。もう最後なんだから」

 ――もう最後なんだから

 奈緒美のこの言葉が彼の胸に重く突き刺さる。奈緒美は敏感に二人の気持ちを察知していたに違いない。


 翌朝。午前五時三十分。黎明(れいめい)のぼんやりした空に星はもう見えなかった。晴れているのか曇っているのかもはっきりわからない。

 夜明け前の凛とした空気の中、二人は足早に歩き始めた。気温はおそらく氷点下に近いだろう。足元からサクサクと音が聞こえる。霜だ。しかし周りがまだ薄暗くてよくわからない。

「寒くない?」

「少し寒い」

「バイクならすぐなんだけど、ごめんね」

「ううん、歩くのもいいよ。石田さんとこうやって歩くのも」

並んで歩く二人の吐息が真っ白く染まる。

「手、貸して」

 左側を歩く彼が、恵子の左手を掴もうとした時、その手を振り払うように恵子は言った。

「こっちがいい」

 そう言うと、彼の右側を歩いていた恵子は、さっと左側に回り、彼の左腕に両手を絡ませてぴったり寄り添った。彼は右手をそっと恵子の手に被せる。恵子の細い指は氷のように冷たかった。

「石田さんの手、あったかいな。わたしね、二人並んで歩く時は、左側じゃないとダメなの。不安になるの」

 恵子はいったいどれぐらいの時間、左側を歩いて来たのだろう。今自分のいる右側にいた男はあいつなのか。彼は恵子の過去に嫉妬した。それが伝わったのか、恵子は彼の左肩にぎゅっと顔を埋める。

「ああ温かい。涙が出そうなぐらい」

 東の空が少しずつ白み始めていた。もうすぐ夜が明ける。それから二人はぴたりと寄り添いながら無言で歩いた。時が止まればいいのに、もうこのままずっと着かなければいいのに。そんな二人の足元を朝靄あさもやがうっすらと覆っていた。

 やがてエゾマツ林の木々の向こうにミルク色の湖面が顔を覗かせた。オンネトーだ。

 オンネトーは、アイヌ語で「年老いた沼」あるいは「大きな沼」を意味している。雌阿寒岳の噴火により西を流れる螺湾川らわんがわが堰き止められてできた周囲二・五キロほどの沼である。   

 その水は強い酸性のためほとんどの生物は棲めない。酸性の湖水と山から流れ込むきれいな水の化学反応のおかげで湖面の色は一瞬たりともじっとしていない。青緑系に染まることが多いが、ただその色はぼやけた感じはなく、まるで人工的に着色されたようにまったく迷いのない色だ。この世の物とは思えないほどの美しい色を次々に映し出している。それこそが、どうしてもフィルムに収めたかった景色であり、彼の今回の旅の第一目的だった。

 朝早いせいか周りには誰もいなかった。道路を外れ、エゾマツ林を抜け、二人はゆっくりと湖に近付く。するとそこには見たこともない光景が広がっていた。思わず恵子が呟いた。

「すごい。白い蓋を被せたみたい」

 水温が高いのだろう。すぐ足元の水は濁り一つなく澄み切っているのに、中ほどから対岸の紅葉に染まる山の真下までずっと、まるでスモークを炊いたような乳白色の湯気がゆらゆらとすべてを覆い尽くしていた。

 不思議だ。よく見ると手前の浅い湖底にたくさんの倒木が沈んでいる。恐ろしく澄んだ水だ。二人は暫しそのミルク色に染まる湖面を眺めていると、やがてそれはやって来た。神々のショーの始まりだ。

 正面には山頂に雪を抱いた二つの山。右手に阿寒富士。そして左手には雌阿寒岳。左手雌阿寒岳の頂よりさらに左の山の斜面が白く輝き、やがて黄金色の太陽が姿を現した。日の出だ。

 湖にきらきらと光が舞い降りる。湖面を覆い尽くした乳白色の霧が手前からゆっくりと晴れて行く。そして徐々に姿を現したのは大きな大きな鏡だった。さざなみ一つない巨大な鏡は正面の山々を何の迷いもなく寸分違わず映し出していた。無音の世界。まるで時が止まったみたいだ。

 彼は全身に鳥肌が立つのを感じていた。写真を撮ることも忘れて呆然と立ち尽くしていた。恵子も同じだった。自然に涙がこぼれていた。二人とも暫く動くことができなかった。

 

 どれぐらいの時間が経ったかもわからない。その時、二人の背後でエンジン音が聞こえた。すぐにその音は二人の約三十メートル背後、今来た道を左から右に通過して行き、暫くの間、湖岸沿いの道を進むエンジン音は小さくなったり、大きくなったりを繰り返し、やがて消えた。再び静寂が辺りを包み込む。山を映しこむ鏡の湖面も緊張を保ったまま微動だにしない。

そして恵子が沈黙を破って言った。

「壊してもいいかな?」

「え?」

「わたし、壊してもいいかな。壊したい」

「壊すって?」

 彼がそう言うや、恵子は足元の小石を拾うと力いっぱい湖に向かって投げた。すぐ目の前に対岸の山が迫って見えてはいたが、実際にはかなりの距離がある。恵子の投げた石は、シンメトリックな湖面までは到底届くはずもなく、かなり手前の倒木が多く沈んで見える湖面にポチャンと落ちた。透き通った湖面に小さな波紋が広がる。山を映した鏡を壊すことは決してなかった。

「ダメね。届かない」

 彼女は淋しそうに言った。それはまるで彼の心に投じられた小石のようだ。恵子と言う名の小石だ。だが実際と同じで恵子の石は、彼の心に小さなさざなみを起こしただけで山々を映す鏡面を割ることはなかった。

「恵子ちゃん」

 彼は水際に立つ恵子の背中越しに話し掛けた。小石の波紋を見つめていた恵子がゆっくり振り返る。

「俺、君に言わないといけないことがある。今まで何度も言おうと思ったけれど、結局ずっと言えなかった」

 彼の吐息が事のほか白く輝いて見えた。振り向いた恵子の視線は何かに怯えているようだ。

「俺、北海道から帰ったら、結婚するんだ」

                                  続く



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