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君はもう帰るべきだ

 その時、遠くに光が見えた。

「車だ!」

 やがてその光は二人を照らし出し、彼は大きく手を振った。車は二人の傍で止まった。横浜ナンバーのスプリンタートレノだった。車にはカップルが乗っていた。

「どうしました?」

 運転席の窓が開き、ドライバーが声を掛けた。彼は今までの経緯を説明した。

「僕たちも野中温泉まで行きますよ。よかったら乗って行きますか?」

「よろしいのですか?」

「ええもちろん」

 助手席の女性が言った。バイクはここに置いて行くことにした。明日にでも部品を調達して取りに戻ることにして、取り敢えず今は宿まで送ってもらうことにしよう。凍死だけは免れそうだ。

「助かりました。一キロほど押しましたがさすがに上り坂はきつかった」

「そりゃそうでしょう。あんな大きなバイク。それにこんなところで遭難したらクマに襲われますよ」

 運転していた男は冗談交じりに言ったが、それはあながちウソではない。夜は野生動物のものだ。人間は入れない。さっきもシカの縄張りを侵してしまったからこうなったのだ。

「横浜ナンバーですね?」

「ええ。横浜市から来ました」

 男は言った。銀縁メガネのよく似合う、人の良さそうな男だ。彼らは新婚旅行の途中だそうだ。男は山田信雄、女の方は山田奈緒美。六月に結婚したばかりだそうで、愛車で二人きりの北海道ハネムーンだ。

 クーペ車のトレノ後部シートは狭かったがとても暖かかった。体の芯まで冷え切った二人には有難い。しかしそれはヒーターのせいばかりではないのだろう。この車の中には、今の彼と恵子が決して持つことができない温かいものが満ち満ちていた。

「でも、わたしたち明日帰ります」

 その時助手席の奈緒美が少し淋しそうに言った。彼女もメガネを掛けている。

「あした?」

「ええ。明日。釧路からフェリーで」

 たった一週間しか休めなかったらしい。時代はバブルに向かって一直線。一週間でも休むことは大変だったのだろう。それに比べれば、彼は二ヶ月もここにいる。そしてもし、恵子に、もうここでいっしょに暮らそうと言われればきっと躊躇するぐらいに自由だった。それはこの新婚カップルから見れば羨ましい限りだったのだろう。

「君たちはどうするの?」

「まず壊れたバイクを修理ですね」

「それから?」

 彼はまだこの先どうするかはっきり決めていなかった。ただ雪で走れなくなるまでにはここを離れなければならないと言うことはわかっていたが、具体的に何も決めてはいなかった。だから返答に困った。

「僕、こっちへ仕事辞めて写真を撮りに来たんです。二ヶ月前に」

「おお、羨ましい! いいなあ。二ヶ月も! 俺も学生の頃初めてここへ来て、いつか絶対来たいって思っていたんだ」

 助手席の奈緒美はピクリとも反応せず、無言のままだ。その顔は要らないことを吹き込むなと言わんばかりだ。

「でも八年も勤めた会社辞めちゃったから、帰ったら無職ですよ」

 彼は自虐で奈緒美の顔色をそっと窺った。奈緒美の表情が少し緩む。

「そうか、まあ、そうだろうな。で、そっちの彼女は?」

 信雄は新嫁の不安がまったくわかっていない。

「わたしは六月からペンションでアルバイトしていました」

「それも長いな。え? じゃあ二人はこっちで知り合ったの?」

「ええ。今月の初めに富良野で出会っていっしょに」

「素敵ね」

 やっと奈緒美の表情が緩んだ。

「でも今日はっきりわかりました。僕はいいけど彼女にはこっちの冬は過酷過ぎます」

「え、わたしなら大丈夫よ」

「いや、今日の事故のこともあるしね」

「だから?」

「はい。会ったばかりで大変厚かましいとは思いますが、どうか明日、釧路まで彼女を乗せて行ってもらえませんか?」

「え、こっちは別にかまわないけど。どうせ行くし。なあ?」

「ええ、いいわ。女の子一人じゃ不安でしょうから」

「そんな、わたし」

「恵子ちゃん、ごめん、君はもう帰るべきだ。僕ももうそろそろ家に帰ろうと思っていた。ただいっしょに帰れなくて申し訳ない。それに大した故障ではないけれど、こんな僻地のことだから、バイクの修理にどれぐらい期間がかかるか見当も付かない。おそらく大きな町に行かなければ部品は手に入らない。それまで君に付き合わせるわけにはいかない」

 恵子はほとんど泣きそうな顔だ。

「君の言うことはわかった。確かにこれから先は、越冬の覚悟でもなけりゃここにはいられないよ。僕も昔、こちらで冬を越したことがあるからわかる。かわいそうだけど帰った方がいいと思うよ。こっちのこれから先は半端じゃない」

 そうは言われても唯々諾々と言うわけにはいかない恵子だった。

「わかりました。そうね、いっしょに居られるのは雪が降るまでって言ってたものね」

 不承不承だ。

「本当にすまない」

 ――嘘だ。

 彼は自分の心に鍵をかけたのだ。これ以上恵子といるとどうなるか、わかっていた。

                                続く



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