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生きていてくれてありがとう

 道は平坦に見えてわずかに上り下りを繰り返していた。そのわずかな勾配も今は信じ難いほどの負担だった。気温は五℃もないはずなのに、あっという間に額から汗が噴き出す。恵子は上着を脱いでトレーナーを腰に巻きつけ、上はTシャツ一枚だ。

 わずか五キロほどの道のりが永遠に続くように思われたその時、恵子は彼に話し始めた。

「わたし足手まといになってごめんね」

「いいや、絶対にそんなことない。少し休む?」

 彼はウエストバッグから懐中電灯を取り出してCBのキーをオフにした。その途端に訪れる静寂。そのまったくの無音さに驚く。

 だが思ったほど暗闇ではない。青白い光が辺りを覆っていた。

 二人は空を見上げた。森の木々の間から見える夜空には、まるで洪水のような星々が輝いていた。星夜光。みごとな星明りだ。

「きれい」

 こんなにも光り輝く夜空を見たことはなかった。

「わたしね、あなたにずっと黙ってたの」

「え?」

「ここへ来たわけ……」

 二人はバイクを路肩に停め、ガードレールに腰掛けて話し始めた。

「ほんとはね、わたしね……」

 冷気が二人の火照った体を急速に冷やす。彼は恵子の方を向き、じっとその次の言葉を待った。恵子の横顔が星々の青い光に照らされて闇の中にぼんやりと浮かんで見えた。

 汚れのない美しい横顔だ。まるでこの星夜光と共に地上に舞い降りた無垢な精霊のようだ。

凛とした空気の中に、やさしい恵子の声が響く。

「わたしね、ほんとは、死ぬつもりで北海道ここへ来たの」

「え」

「驚いたでしょ? ごめんね」

 彼は何も言えなかった。

「短大卒業して、ある大手のホテルに就職したの。そこで、妻子ある上司とそういう関係になったの。で、わたしに子供ができた」

 恵子は星を見ながら淡々と話す。まるで自分に言い聞かせるように。

「でも産めなかった。その人の言われるままにわたしに宿った小さな命、殺したの。それでやっと目が覚めた。完全に遊ばれていたってこと。よくある話。それでホテルも辞めて、ここへやって来たってわけ」

 僅かな沈黙。星明りの中、世界のすべてが停止しているように思えた。恵子はずっと夜空を見上げている。その青白い横顔にひとすじの涙がこぼれ落ちる。

「生きていてくれてありがとう」

 彼はやっとそれだけ言った。それ以上言葉は出なかった。

「石田さんがお礼を言うのって何かおかしいよ。でも涙が出る。なんでかなぁ」

「もう死ぬとか言わないで」

「うん。大丈夫。もう言わない」

「よかった」

「初めに泊まった富良野の宿でね。そこのお母さんがとてもやさしくしてくれたの。それで事情も聞かずに、よかったらここで暫く働かないかって誘ってくれて、取り敢えず、刑は執行猶予になった。きっと季節はずれに若い女がふらっとやって来て、様子が少しおかしかったのね。全部バレてたみたい」

 彼はそっと恵子の肩に上着を掛ける。汗で濡れた下着が冷たく肌に張り付いていた。

「ありがとう。やさしいね。わたし、死ななくてよかった。石田さん、あいつのこと、忘れさせてくれる?」

 一瞬、自分の帰りを待ち侘びる婚約者の面影が彼の脳裏をよぎる。だから彼は「忘れさせてあげる」とは言えなかった。

 その代わり、恵子の肩を抱き寄せ、幼子を撫でるように彼女の頭をやさしく撫でた。何度も撫でた。卑怯だ。でも恵子は初めて声を上げて泣いた。小さい子供のようにえんえんと大声で泣いた。彼女の悲しい声は、青い夜の静寂しじまに溶けてゆく。

 暫く泣き続けて、彼の方を向き、そして言った。

「わたし泣きたかったの。今やっとわかった。ずっと泣きたかったのよ。でも泣けなかった。ああ、これでようやく前に進めそう」

                                   続く


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