70.スレイマン皇子の内緒話
突然の来客には慣れている侍女たちも、いかにも異国の皇子様然としたスレイマン皇子の来訪には度肝を抜かれたようだった。
イケメン好きのジョアナやユリアナは、彼から目が離せないという感じでずっと姿を追いながらお茶の準備をしていた。
しかし皇子様は私にべったりひっついて離れようとしない。
私は香水の匂いがつらくなってきて、何とか離れようとするのだけど、長椅子の私の隣に座って私の肩を両手で横抱きにしてずっと私の顔を見ている。
「皇子殿下、あの、少し離れてください」
『なんとつれない…あなたが私をお部屋にお誘いくださったのですよ』
自国語で囁き、私の耳朶に甘く口づける。
身体に電流が走ったような感覚に、私は思わず彼の身体を突き飛ばした。
「ちょっ…何をなさるのっ」
耳を抑えて振り向く私を、皇子は少しびっくりしたように眺め、それから可笑しそうにくくっと笑い出す。
『これはこれは…
意外と初心でいらっしゃる。
晩餐会でのもの慣れた感じとはずいぶんギャップがありますね』
そう言ってくっきりした二重の黒目勝ちの瞳を甘やかにきらめかせた。
『そんなところもたまらない魅力がありますね。
リンスター…私と、恋人同士しか覗くことのできない、深淵を見てみませんか』
私の右手を取り、手首の内側に形の良い唇をつけ強く吸う。
私は驚いて振りほどいた。
「わたくしが皇子殿下を部屋にお招きしたのは、お聞きしたいことがあったからですわ。
誤解を…なさらないでください」
スレイマン皇子はにこっと笑い、長い黒髪をさらっと揺らして首を傾げる。
「何でしょう?リンスター。
できることなら何でもお答えいたしますが、条件があります」
ルーマデュカ語に切り替えて、皇子はいたずらっぽく微笑んだ。
…なに?
身構える私に皇子はさらっと言う。
「ソロモンとお呼びくださいと、以前申し上げましたよね?」
「えっ?…ああ、そうだった、かしら」
忘れちゃったわ。
めんどくさい…けど、期待に満ちた子犬のような目で見られると、断れないわ。
「判りました、では、ソロモン殿下」
「殿下、は無しで!」
「…ソロモン」
「はい、何でしょう?」
「アンヌ=マリーのサロンに出入りしているって本当なの?」
私が思いきって核心を衝く質問をすると、ソロモンはすうっと目を細め、私の方に乗り出していた身体を起こした。
感情のこもらない静かな口調で「…どなたからお訊きになりました?」と問う。
私は今までとは違った少し嫌な感じの心臓の高鳴りを覚え、ソロモンの黒曜石のような深いダーク・アイを見つめながら答える。
「どなたということはありません。
王宮にいる貴族たちは、皆、噂しているのよ」
「ああ、…そういうことですか…」
ソロモンは少し考えこむような仕草をし、それから私を掬い上げるように見て「…人払いを」と低く言った。
私は一瞬、躊躇したが、肚を決めてジョアナに「悪いけど、皆、席を外してくれる?」と言う。
ジョアナは心配そうにしていた。
しかし私の表情を見て何か察するところがあったのか「かしこまりました」と言ってお辞儀をし、皆に声をかけて部屋を出て行った。
「さあ、お話してください」
私がソロモンに向き直って言うと「すごいお妃様だ。尊敬の念が深まりました」と言って居住まいを正す。
『人払いはしましたが、それでも誰かが聞いているといけないので、リンディア帝国の言葉で話しましょう。
確かに、私はアンヌ=マリー様のサロンに行っています』
驚いて『何故…!あそこがどういうところだかご存知なのでしょう?』と詰め寄ると、ソロモンは『聞いてください』と言って右手を上げ私を制する。
『アンヌ=マリー様からお誘いがあったのですよ。
私の歓迎晩餐会で、王太子妃殿下と司厨長が結託して、ひどく失礼な対応があったことをお詫びしたいと』
『えっ?!私っ?!』
驚いて言葉も出ない私に、ソロモンはくすくす笑いだし、うなずいた。
『ずいぶん身勝手で高慢で我儘な令嬢ですね。
若くてお美しく、大公爵のご令嬢で、王太子殿下のご愛妾で、まさにこの世の春を謳歌しておられる。
しかし、実のところはどうでしょうか。
お父上の公爵閣下に、王太子殿下ともども利用されている、という印象を受けました』
『どういうこと…』
呆然と尋ねる私に、ソロモンは浅黒い顔を引き締めて低い声で言う。
『これからお話することは、内緒にしてください。
約束できますか。
私の国では、約束を反故にする人間は一番罪が重いのです。
世界の果てまで追いかけても、必ず報復します』
私はごくりと唾を飲み、それからうなずいた。
『約束…するわ』
ソロモンは表情を緩め、私の手を取って甲にキスした。
『リンスターの勇気は称賛に値します』
『賭博のサロンは、隠れ蓑です。
真の目的は、ご禁制の品の密輸と売買。
私の国でも強力なものが生産されていますので、公爵閣下はそれを手に入れたいと考えているようです』
『それは…ご禁制の品って、何?』
ソロモンはふっと笑って『私のこの香りを嗅いで、何とも思われませんか?』と訊く。
『すごくくらくらするわ。
魅惑的な、不思議な香り…』
『ごく弱いものですが、これもその品のひとつです』
私は、はっとする。
『まさか…』
ソロモンは、蠱惑的な笑みを浮かべ、私の唇を長い指で押さえた。
『ご名答。
…麻薬ですよ』




