後編
「もう……やだ」カノンがしゃくり上げて泣きながら、言った。「ここから出たい……。家に帰りたい……」
「泣くのをやめて。あいつに見つかる」
私は優しくそう言いながらカノンの背中をさすった。偶然、Tシャツの上からブラのホックを外してしまったが、彼女はそれにすら気づいてすらいないようだった。
カノンを落ち着かせるため、私は聞いた。「ここには何人ぐらい隠れてるの?」
「わかんない」カノンの嗚咽は止まらなかった。「新しい人が来るたび、減って行くぅぅぅぅ……」
カノンの嗚咽の合間にヒソヒソとどこかで会話する声が聞こえた。近くに隠れている人が迷惑がっているのだろうか。実際、彼女の泣き声があいつを呼び寄せてしまいかねない。
「ねえ。棚の一番上に隠れたらどうかな?」私は思いつきを口にした。「結構この棚、高いだろ。一番上の段に隠れたら兵隊は登って来られないんじゃない?」
カノンは涙を拭いた。埃だらけの顔を引き締めて、言った。「棚の上をよく見てみて」
どういう意味かと思い、周囲の棚を見上げて息を呑んだ。
棚の一番上からどす黒い血がゼリーのように流れ落ちている。一箇所だけではない、そこかしこから。
「あいつの弾、曲がるんです」カノンはようやく落ち着きを取り戻したようで、ブラのホックを留めながら言った。「まるで意思を持ってるみたいに。何度も見ました、棚の一番上に隠れてる人が下から撃ち殺されるのを」
「追撃弾かよ」私は呟いた。「一番安全そうでいて、一番危険ってわけか……。逃げ場もないし」
「一番隠れてそうなところをまず探すでしょ、かくれんぼでも? 棚の上とか大きな空の段ボールの中とかをあいつはまず一番に探すわ」
「あいつ……さっき……」カノンがまた泣き出すかとも思ったが、私は聞かずにはいられなかった。「根住さんに敬礼までしたくせに、後ろから刺したよね? なんで……」
「あいつの視界からあの人が隠れたからよ」カノンは確信をもって答えた。「目の前にいる人間は殺さないけど、すれ違って視界から消えた途端、標的と見なされるんだわ」
「でも、根住さんが殴りかかろうとした時は、隠れてなんかなかったのに……」
「わからない」カノンは少し考え込む。「あからさまに敵意がある人間は隠れてなくても当然のこととして敵と見なすのかも」
兵隊の歩く気配がしばらく消えている。物の怪も休息を取るものなのだろうか。
私はカノンに提案してみた。「あいつをこっちから襲ってやっつけることは出来ないだろうか」
カノンは恐ろしいものを見るような目を私に向けた。「そんなこと……」
「あいつの前に立っている限り襲って来ないのなら、敬礼でもして油断させてから、突き飛ばして押し倒すんだよ。マウントを取るんだ」
「そんなの誰もやってみてないと思う……。どうなるかわからないもの……。進んで殺されに行くようなものじゃない……? さっきのあいつの動き、見たでしょ?」
頭に再び浮かんだ。根住を射殺した時の、あの高度に訓練された一連の動作が。
「みんなで力を合わせるんだ」私は周囲を見回しながら、諦めずに言った。「仲間を集めるんだ。数で押せば、あいつも全員は撃ち殺せない」
「誰が一番前を務めるの? 一番前の人はまず間違いなく殺されるよ?」
「それは……」
「言い出しっぺのあなたがやる?」
私は言葉に詰まった。
「それに団結なんて出来る筈がないわ。ここに来た人達はみんな1人ずつ来たんだもの。知らない人同士ばっかりよ。知らない人のために命を投げ出せる?」
「じゃあどうしたらいいって言うんだ!」
「わからないわよ!」
私は少しヤケを起こしていた。立ち上がると、周囲に隠れている筈のみんなに聞こえるように、大声を出した。
「みんなであいつをやっつけよう! 力を合わせれば倒せる筈だ! このままじゃ1人ずつ殺されるのを待つだけだろ! ここに集まってくれ!」
ピリピリした空気が漂った。会話する囁き声さえ聞こえず、誰もが余計に気配を消してしまった。
「みんな自分だけは助かりたいんだよ」カノンが小声で言った。「進んで盾になりたい人なんているわけない」
「でも、あいつを何とかすることが先決だろ」私も声を潜めた。「あいつは1人ずつしか殺さない。殺される役の人が胸に鉄板でも入れて撃たれて、死んだふりをするんだ。そうしておいて、みんなで……」
「胸を撃たれるとは限らない。頭を撃たれたらどうするの?」
「その時は仕方がない」
「仕方ない……って!」
「とにかくそれであいつの攻撃は止まる。1人殺したからしばらくは殺さない。その隙に」
「1人ずつしか……ってルールもどうだかわかんないよ? さっきのあの人がそうだったみたいに、あからさまな敵意があるなら全員まとめて標的にするかもしれないじゃない」
「あの銃は確か単発しか撃てない。まとめて連射することは出来ない」
「腰に日本刀も差してたでしょ」
「それでも全員瞬時にぶった斬るなんてことは不可能だ」
「全員まとめて金縛りにされたら?」
「それでもやってみるしかないだろ」
「どうなるかわからないことは怖いんだよ。誰もやってみたことのないことをするのは……」
「じゃあどうするんだ!」
私の大声に反応したように兵隊が動き出した。ギシャリ、ギシャリという靴音が徘徊しはじめる。
カノンは身を縮ませ、私は耳をそばだたせて棚に背中を張りつかせた。
見つかりにくい隠れ方はやはり相手の歩く音を聞きながら、近づかれないように移動することだ。しかし所々行き止まりになっている場所があり、そこに追い詰められてしまったらアウトだ。
カノンがそのポイントを把握していたので、私は彼女について移動した。
そのうち遠くで男性の慌てふためく声が聞こえ、続いて駆け出す足音がした。金縛りにかけられたのか、それはすぐに止まり、ゆっくりと銃を構える音が静かなフロアに響くと、大きな銃声が轟いた。
私の後から新しく中4階に迷い込んで来る者はなかった。エレベーターのランプは嘲笑うようにこのフロアを無視して上下に行き来している。
兵隊は動き出しては静かになりを繰り返し、あれから銃声を三度聞いた。
「お腹空きましたね……」カノンが膝を抱いて座りながら、言った。「今、何時なんだろう……」
私がここへ来たのは昼の2時ぐらいだったと思う。体感的にはあれから4時間は経っている。
私は時計を見ようとポケットからスマートフォンを取り出そうとして、ようやく思いついた。
「そうだ! スマホで外と連絡が取れないかな。なんで思いつかなかったんだろう!」
「みんなまずそれを思いつきますよ」
「……って、ことは……」
「自分のを見たほうが早いです、説明するより」
私は自分のスマートフォンを取り出すと、電源ボタンを押した。待ち受け画面にはアンテナも時計もなく、何やら見慣れないものだけが映っていた。セピア色の画面の中に、火の玉のようなものがゆっくりと動いている。
「なんだ……こりゃ……」
「やっぱり火の玉?」カノンは確認するように聞いた。
私は無言でうなずき、スマートフォンをポケットにしまった。圏外どころか操作すらできない。
しばらくお互い黙っていた。少し離れて向かい合って座りながら、彼女のほうを見ると、眠そうにしている。
眠っているところを見つかったらどうなるのだろう、撃たれるのだろうか、それとも見過ごされるのだろうかと疑問が湧いたが、カノンにそれを聞いても仕方がないと思って口にはしなかった。
カノンはうとうとしかけては顔を起こし、眠らないよう自分に喝を入れているようだった。彼女の眠気覚ましを手伝おうという気持ちもあって、私は聞いた。
「非常口か従業員用の出入り口とかは……。もちろん探したよね?」
「真っ先に」カノンは頷いた。「あるけど重く閉ざされてました」
「窓は?」
「あれの他にはありません」
カノンが視線で示した先に、小さな窓があった。
天井間際の高いところに、人1人がようやく通り抜けられそうな低い窓がいくつも並んでいる。
窓の外は暗く、昼間からずっとこの暗さなので、外に通じているのかどうかもわからない。明り取り用でなければ何のための窓なんだと思ったが、調べてみる価値はありそうだと感じた。
「あそこから出ようとした人は、いたの?」
「脚立があっちの壁に立て掛けてあったので、たぶんいたんだと思います」
「その人は? 出ようとして、どうなったかは、不明?」
「わからないし、出れたとしても、ここ4階と5階の間ですよ?」
「でも、外壁に梯子か何か、あるかもしれないし……」
「脚立のあったところの窓は開いてなかったんですよ? それに昼間でも暗かったんだし、無駄だと思います」
「君はここから出る気があるのか?」私はついイライラしてしまった。「やってみる前から諦めてどうなる!」
「……そうですね」カノンは傷ついたように斜め下を向いた。「……私、怖がりだから……。ごめんなさい。……窓の外、見てみましょう」
「あ……いや。その……」怒鳴るような声を出してしまった私はすぐには立ち上がれなかった。何かフォローをしてからでなければ。それで、聞いた。「怒鳴ってごめん。あの……。君は1人でこのショッピングモールに来たの? 誰かと一緒?」
「1人です」
「君みたいな……その、可愛い人が、1人でって……。なんか、おかしい気がするけど」
カノンは黙った。私は自分の頭を軽く叩いた。
「出たいよね? ここから」
私が当然のことを聞くと、彼女は深く頷いた。
私が脚立のあるところへ行こうと立ち上がろうとすると、カノンが口を開いた。「私……」
動きを止めて「ん?」と顔で尋ねると、彼女は話し出した。
「アイドルのオーディションに受かって、東京に行くことが決まってたんです。東京に着て行く服とか買うためにここに……」
私はべつに驚かなかった。その話が当然と思えるほどに、彼女は綺麗だ。
「母も応援してくれて……。やるからには一番になりなさいって。トップアイドルになってみんなを笑顔にしてやりなさいって。私も母の言葉に乗せられて、すごく、やる気になってて……。生きるのが楽しすぎるって思えるぐらい、やる気満々になってて……。でも、エレベーターの中4階のボタンを押しただけで、こんなことになって……。
出たいんです。
外に出たら、やりたいことが待ってるんです。それはどうなるかわからないから怖いけど、やってみたいことなんです。だから、ここから出たい!」
彼女の気持ちが伝わって来た。とても怖がりな彼女は、このフロアにいるだけで相当の恐怖を感じているのだろう。東京へ出るための勇気は持てても、ここでは持てないのだ、どうなるかわからないことをしてみる勇気は。しかしそれとは矛盾するように、ここから出たいという気持ちも強くある。
私にはここを出られても特にやりたいことはない。平凡な日常が待っているだけだ。彼女だけは何が何でも出してあげたいと強く思った。それでつい、臭いことを言ってしまった。
「君は俺が守るよ」
カノンは顔を上げた。埃で汚れた顔の中から大きな宝石の目が、頼るように私を見つめた。
「君は知らない者同士団結力なんか持てないって言ったけど、僕らだけは団結しよう。僕は君を、守る」
私の言葉に勇気づけられたのか、カノンは強い目になり、立ち上がった。
「窓の外を確認しましょう」
私達は兵隊の気配に注意しながら、脚立があるという場所まで歩いた。
二つ折りの脚立は梯子状に伸ばされ、壁に立てかけられてあった。その先端は窓のすぐ下まで届いているが、窓は開いていない。
「おい?」私は思わず声を上げた。「星が見える。外は夜空だ。外だぞ」
「昼間でも外は暗かったのに……」カノンも興奮した声を出す。「見えます! 確かに星空!」
「問題は窓が開くかどうかだな。この脚立をここに立てかけた人も、窓が開かなくて諦めたのかもしれない……」そう呟いて、私は窓の外に新たに嬉しいものを見つけ、声を上げた。「おい? あそこ! 梯子が見えないか?」
暗くて気づかなかったが、確かに窓の外から上へ向かう白っぽい梯子がついている。カノンも目を凝らし、よくよく確認して、うなずいた。
「梯子だ! 梯子があるよ!」笑顔で振り向くと、私に言った。「一緒に昇ろう!」
私は高く一直線に伸ばされた脚立を見た。アルミ製のそれは柔らかそうで、頼りなさそうに見える。
「2人で乗ったらたわんでしまって危なそうだな。下手すると後ろに倒れてしまうこともあり得るよ。1人ずつ行こう」
「どっちが先に行く?」
「君が先に行って。僕が脚立を支えとくから」
カノンはうなずくと、昇りはじめた。私のことも早く昇らせようと気遣っているのか、それとも逸る気持ちの現れか、早足で昇って行く。結構な高さがあるのでやはり、真ん中を過ぎたあたりから脚立がたわみはじめた。
私は下で脚立を支えながら、周囲の物音に耳を傾ける。兵隊が歩いている気配はなかった。
カノンが一番上に辿り着いた。窓の上部についているレバーを持ち、ひねる。
「開きそう?」
私がそう尋ねた時、すぐ近くの棚の陰で嫌な物音がした。
ギシャ……
兵隊だ。歩いている気配がなかったのは、どうやらすぐそこの棚の陰で休んでいたからのようだった。私がまばたきもせずに凝視していると、棚と棚の間から横向きで姿を現し、回れ右の動きでまっすぐこちらを向いた。捧げ銃を私に向かってする。これは敬礼の一種だ。私のことを味方だと思っているのだろうか。
「開いたわ!」
上のほうからカノンの喜ぶ声がした。
窓は下部を軸にして外側に向かって開いていた。入り込む風が棚に並べられた段ボール箱の埃を散らす。
嬉しそうに私のほうを見下ろすカノンの顔が恐怖で固まる。
ゆっくりと兵隊は歩き出した。しかしカノンを見上げることはなく、まっすぐ私のほうへ向かって来る。
私の頭の中がぐるぐると回った。このまま兵隊が歩き続けて、私達の側を通り過ぎたら、撃たれるのはどちらだろう。
兵隊に近いほうの私だろうか。それとも窓の向こうに隠れようとしているカノンを優先的に標的と見なすのだろうか。
どちらにせよ、このままでは兵隊の視界から外れた瞬間、根住のようにどちらかが射殺されるのは明白だ。
ならば、どうする? 殺られる前に、やるか。捧げ銃をしている兵隊に敬礼を返して油断させ、タックルをかましてマウントをとるか。しかしあの高度に訓練された兵隊の一連の動作が頭に甦る。複数人でかかるならともかく、1人ではおそらく殺られるのは私のほうだろう。
閃いた。
ヤツはこちらが隠れず前にいて、敵意を見せない限りは撃って来ない。しかし横を通り過ぎ、ヤツの視界から消えた途端に攻撃して来る。それならば……
ヤツが私の目の前まで近づいた。私は降伏を示すように両手を軽く挙げながら、ヤツのほうを向いたまま、後退りをしはじめた。
カノンが動きを止め、不安そうに上からこちらを見つめている。窓の外へ出ようとした途端に隠れている者と見なされ撃たれるだろうことをわかっているようだ。兵隊は本当にカノンに気づいていないのかもしれない。いや、棚の上に隠れている人間に気づくぐらいだ、それはないだろう。ならば、このまま私が後退を続ければ、撃たれるのは彼女だ。
その時がチャンスなのだ。
兵隊はその時、至近距離で私に背中を向ける。そこにタックルをかまし、ねじ伏せてやる。その上で叫べば、さすがに近くに隠れている人が力を貸してくれるだろう。近くに隠れて見ている人はいる筈だ。兵隊を取り押さえたと叫べば、たとえ見ていなくても誰か来てくれる。
誰も来てくれなくても、少なくともカノンは助かる。
私は彼女に誓ったばかりだ。君を、守る、と。
兵隊が、カノンの横を通り過ぎる。
カノンが兵隊の視界から自分が外れたことを確認すると同時に、急いで窓の外へ身を乗り出した。
兵隊が、振り返った。
私の目の前に、ぼろぼろに風化した軍服の背中が晒された。
その背中は広いが、押せば簡単に崩れそうにも見える。
「うあああああーっ!!」
私は叫びながら体ごと、そこへ突進しようとしたが、体はまったく動かなかった。金縛りに遭ったように。しかし明らかに、兵隊は私に金縛りなどかけてはいない。私は動かない体を必死で動かそうとする。足は自分のものではないように床の上に留まっていた。
銃声が轟いた。
弾道が弧を描き、ほぼ窓の外に脱出していたカノンの頭部にぷしゅりというような音を立てて穴を穿つのを私は聞いた。そのままカノンは掴んでいた梯子から手を離し、糸が切れた人形のように、仰け反る格好で窓の向こうへずるりと落ちて行った。私はただ立ち尽くしたまま、それを見ていた。
兵隊が再び振り返った。その顔が見えた。私と同じ顔をしていた。兵隊は私に向かって敬礼をした。私も震えながら、敬礼を返した。
私のすぐ横を通り過ぎ、兵隊は私の後ろへ歩いて行った。
なぜ私の体は動かなかったのだろう。しかしその時の私には何も考えられなかった。兵隊が歩き出すと、私は急いで脚立を昇りはじめた。ヤツの殺意が戻らないうちに。
白い梯子は上へ上へと続いている。眼下には夜の町の灯りが広がっている。私は窓から出ると、梯子を震える手で握りしめ、力を振り絞って昇った。上へ、上へと。
後悔は、落ち着いてから、すればいい。
髑髏のような満月が空にあり、私は荒い息を吐き、ただ生きることだけを求め、上へ、上へと、昇って行った。