ある時ある場所、あった事
前後不覚、とはこういう事を言うのだろう。いや、正気は保っている為、少し違うか。
別段、健忘症という訳でも無い(診断は無い自己分析だが)のに、この風景は見覚えが無い。深い霧は十メートルも視野を通さず、新緑の木々を隠している。
どこまでも続きそうな、そんな小道。左右を並木に囲まれたそこに、私は立っていた。
「えぇ...と、どうしたものだろう。」
規則正しく並んだ木々は、高さ三メートル程か?少し大きな印象を受ける。石畳で舗装された道を、とりあえず歩いてみる。
そういえば、私は何をしていたのだったか。何か目的があったのか。
「...ふむ?もしかして大変な状況か?」
ひとまず状況を確認しよう。手足は無事、持ち物は無し。服装は...制服。そうだ、私は学生である...筈だ。年齢、18。性別、女性。よしよし、覚えている(?)。
そして、ここは...そこからは分からない。ただ何となく、物悲しさを感じる場所では、ある。風も無く、石を踏む音が良く響く。静寂と孤独。そんな場所だ。
「一つくらい物があっても...あるじゃないか。」
道端に落ちていたのは、一つの硬貨の様だ。見たことも無いお金では、価値も分からない。
何でこんなところに、と思う。しかし、あるのだから仕方ない。見渡してみれば、薄くなった霧の向こう側に、多くの物が散乱している。
「何かしら、今の慰み程度にはならないものか。...これは?」
それは何かの名札の様だ。掠れて文字は読めず、僅かに潮の香りがした。そんな、古い布だ。
見渡せば、そこには古いものが多い気がする。錆びた金属板?や、黄ばんだ紙の本等。
「むぅ...新しい物もある。何かしら共通点でも、と思ったのだが。」
時代、特性、素材もバラバラ。強いて言うなら、見慣れない物が多い位か。中には見慣れた物もあるが、総量に比べ少ない。
ふと気付けば、いつの間にか道を逸れていた。帰り道を見失うのは困る。私は直ぐに戻ろうし...行く手を阻まれて止まる。
「なんと...!犬が要るとは。もしかして絶体絶命という奴だろうか...。」
唸る犬から、少しずつ距離を取っていく。背を向けずに、ゆっくりと。
気付けば、辺りは動物に囲まれていた。小動物園は可愛らしいが、敵意を剥き出す獣は、恐怖を掻き立てる。
「は、はは...乙女らしい悲鳴も出ないな、この状況は。」
膝が震えているのが分かるが、分かってどうしろと?足下の物...いやは周辺は布しかない、武器があっても使えないが。
走る、どっちへ?防ぐ、どうやって?痛い、嫌だ。怖い、何故?
ぐるぐると思考が混乱するが、やがて霧が深くなる。すぐに己の足さえ見えなくなり、私はがむしゃらに走った。何かに足をとられ、顔が石を擦る。
「い、ったぁ...。少なくとも、人里に近くはなさそうだな。うぅ、擦りむいてしまった...。」
涙が滲む目で周囲を見渡しても、そこには霧がかかるばかり。視界も通らない中で、仕方なく道なりに這う。仕方ないじゃないか、立ったら道が見えなくて不安なんだ。
ふと、手もとに一冊の本が転がっている。日記の様だ。裏にはnameの横に、弥生と書かれている...名前か?まぁ聞かない名では無いか。
「こんなところにあるのだ、読んでも良かろう...。」
不安が紛れれば、それで良い。ページを開く。
......
...
物珍しくは無かった。日常の事を、少しばか正直なくらい素直に、綴ってある日記だ。
ただ、書いていた人は都市伝説が好きだったらしい。八尺様や口裂け女、桃源郷や失せ物の里等、変な事が書いてある。
「何故に日記に書くのだ、それを...。」
八尺様、ポツポツと喋る八尺の長身の女性。口裂け女、そのまんまの見た目で鎌を持ってる。
桃源郷、滝壺の底にある理想郷。失せ物の里、失くした物と忘れられた物が集まる場所。
...これ、何の役に立つのだろうか。
「物語とかならば、キーワードの一つや二つあると言うのに。現実のなんと無情な事か。」
口裂け女くらいなら、私でも知っている。まぁ、それは関係ない。日記は...一応、持っておこう。持ち主もこんなところには、探しには来ないだろう。
「とにかく戻ろう。道を辿れば良いのだろう?」
石畳を、私は進む。帰る為に、ひたすら。
卒業式というのは、どうしてこうも煩いのか。はしゃぐ生徒を見ながら、俺は溜め息をつく。朝から花粉症に悩まされ、頭が痛いってのに。
「おう、拓坊。卒業おめでとさん。」
「わざわざ来てくれたんですか?」
「送り迎えだよ。お前の伯父さんが飯くれるって言うから。」
「そっか、父さんも母さんも仕事だから。」
卒業式の日くらい休めよなぁ。まぁ他人の事情なんざ知らねぇけど。
「おぉ、たっくん!私の日記帳見てない?失くしちゃったけど、見つけるチャンス今日だけじゃん!」
「えぇ?弥生さんの日記...見てないけど。」
「そっか、残念。そいじゃまたねぇ。あっ!蓮菜っち、何処見てるの?それより日記...」
そそっかしいのが去ると、拓坊は校舎を振り返る。
「おっ?泣くか?」
「いえ、卒業しても忘れたく無いなぁ、と。」
「高校生活なぁ...俺は花が欲しかった。」
大事な思い出も、下らねぇ記憶も、人は忘れてく。そいつは少し寂しいが...
「爺クセェぞ、拓坊。」
「うっさいですよ。」
ネタバレ
誰にも覚えられない。それは、死よりも明確な決別かも知れません。失せ物は探せますが、忘れたモノは?
意味怖というよりは、怪奇物ですが。名前も忘れた彼女が、現世に戻れるといいですね。