2-3
ゲルバートが逃げたことを確認したガーデニアは、杖を構え、一人で邪竜と対峙していた。
無謀であると知りながらも杖を振り、呪文を唱える。
「――――‘ヴァニタス・ハルジオン’!!」
ガーデニアが魔法で邪竜に向かわせたのは、森の更に奥にあった腐りかけの山犬の死体。それから、森中に残っていた、精霊や羽虫に、鹿の死体まで。
紫の霧を纏った無数の死体たちが、邪竜に向かっていく。その様は、まるで台風や雪崩といった災害を思わせた。
それは、ワンダリオで忌み嫌われる、死体を操る魔法。
デンファーレ一族だけに伝わる、禁忌の死霊術である。
邪竜はそれを見て、何を思っただろう。己に迫る死体の嵐を前にして。
ただ、少なくとも、ガーデニアには――――
「そんな……」
少しの動揺も見せることなく、荒れ狂う死体の全てを魔法で焼き尽くしたようにしか見えなかった。
邪竜という絶対的な存在の前に、ガーデニアは膝を折った。この世には決して越えられない壁があるということを、思い知らされた。
瘴気がガーデニアの体を麻痺させ、逃げる力も抵抗する力も奪ってしまう。
力を失って地面に倒れたガーデニアへ、邪竜が長い首を伸ばし、毒を滴らせる湾曲した牙を見せつけた。
自分が毒で溶かされ、飲み込まれる様を幻視して、ガーデニアの顔が引きつった。
抵抗できず、逃げられず。想像して、恐怖して。
獲物をいたぶり楽しむかのように、邪竜はその様を眺め続けて。存分に楽しむと、口をさらに近づけて、彼女を飲み込もうとした。
だが、ガーデニアは邪竜のその余裕に救われることとなる。
「ガーデ!!」
牙を剥く邪竜の頭に投げつけられたのは、青煙の木の実。邪竜は首を動かして難なくそれをかわしたが、割れた木の実から湧き上がる煙は辺りを包み込んだ。
ゲルバートがガーデニアの手を掴んで、引っ張った。けれど、ガーデニアは瘴気に侵され動くことができない。それが分かると、ゲルバートは瘴気を吸い込まないよう、息を止めながらガーデニアを抱き起こし、背負い上げた。
ゲルバートは頑張るけれど、彼の幼い体ではガーデニアを背負って逃げることはできそうにない。
「ゲル……。なんで……?」
背負われたガーデニアが、瘴気から少しでも離れようと、ふらつきながら進むゲルバートに嘆いた。
どうして戻ってきてしまったのか、せめて、ゲルバートだけは生きて逃げられたかもしれないのに。
「ガーデを置いて逃げるくらいなら……、一緒に死ぬ!」
「ゲル……」
瘴気から逃れた二人の前方の何もない空間から、またも邪竜が次元の翼で回り込み、姿を現す。
ガーデニアを背負ったまま邪竜と目を合わせ、少しずつ後退しながら相対するゲルバート。
「ガーデはお前なんかにやらないぞ! それ以上近寄ったら、ぶっ飛ばしてやる!」
邪竜を前に勇気を振り絞るゲルバートの背で、ガーデニアはこの少年が自分に向けてくれる好意を心の底から嬉しく思った。女性一人満足に背負えない小さな体一つで、自分のために、世界中の大人が逃げ出すような怪物へ立ち向かってくれる彼が、ガーデニアには誰よりも愛おしく思えて。
彼がガーデニアもろとも邪竜の牙にかかる前に、ガーデニアが瘴気に蝕まれて気を失ってしまう前に、その小さな背中を少しだけ強く、優しく、抱きしめた。
「ありがとう……。ゲル……」
「――――‘ジルバ・スカビオサ’!!」
しかし、ゲルバートたちが死ぬことはなかった。
何故なら、‘彼女’がそこに来たから。
「申し訳ありません。遅くなりました。ガーデニア様、ゲルバートさん。救難信号の三本の狼煙、確認致しました」
ゲルバートたちの前に現れたのは、フローラだった。ゲルバートと気を失ってしまったガーデニアを守ろうと、杖を構えて邪竜に立ち向かう。
邪竜の横腹にはいつの間にか巨大な氷柱が突き刺さっており、邪竜は痛みにうめき声を上げた。
ゲルバートが青煙の実を使って出した、三本の煙。危険が迫っていることを知らせる救難信号であるそれを見て、ゲルバートたちの危機をフローラは知ったのだ。
「――――‘ホワイト・ヘリオトロープ’!!」
フローラは杖を振り、さらに邪竜の体に氷柱を突き立てた。空中で構成され、風の力を付呪されて高速で飛ぶ氷柱は、邪竜の強靭な表皮と筋肉を抉っていく。氷柱にまとわる風は、邪竜の瘴気を吹き飛ばした。
「古代文明を滅ぼした邪竜ともあろうものが、油断したようですね。私程度の魔術師の技もかわせないとは……!」
邪竜の体から血が溢れだす。間断なく突き立てられる氷柱を受け続け、邪竜は全身に数多の傷を負う。邪竜は氷柱にまとわるのが風だけではないことに気が付いた。
邪竜の目は、氷柱の表面に禍々しい紫色の古代文字が並んでいるのを見つけ、忌々しそうに唸る。
「魔力で構成されていながらも、肉体と同じ性質を持つ特殊なその体。対邪竜に特化したこの封魔のロストエンチャントで、あなたの魔力を削りきる」
フローラが回避行動を繰り返しながら、破壊魔法である氷柱に数々のエンチャントを施し、邪竜へ向けて射出する。邪竜は氷柱を避けず、興味深げに身に受ける。
優勢に見えたフローラを襲ったのは、長く伸びた邪竜の尾。筋肉張り詰める尾は、フローラが全身に硬化の力を付呪していたにも関わらず、彼女の体を弾き飛ばし、木にぶつかった衝撃で内臓までも破壊した。
地に転がったフローラは、苦しそうに口から血を吐いた。苦しみながらもなんとか手を伸ばし、落とした杖を拾おうとした。
例え体が潰れようとも、戦う意志は折れぬまま。フローラの手が、力強く杖を握る。
けれど。けれど。フローラは、“それまで”だった。
倒れたフローラに迫った邪竜の咢が、彼女の腹部を噛み千切ったのだ。
「フローラさん!!」
絶叫し、駆け寄ろうとするゲルバートをフローラが手で制す。致命傷を負い、今にも意識が消えてしまいそうな激痛にも構わずに、フローラは邪竜を睨む。
「この子たちを殺させはしない……。この子たちは、希望。私の……、この世界の……!」
今度はゲルバートたちを食らおうと、邪竜が首を伸ばす。
彼らの目前まで伸びた邪竜の頭部に、氷柱が上から突き刺さった。続いて、邪竜の腹を穿つ氷柱が三本。邪竜は上下の顎と腹部に巨大な穴を穿たれた。
頭部を上から貫いた氷柱は、確かに邪竜の脳も貫いたはずだった。しかし、邪竜は生きている。脳が潰れても、体にいくつ穴が開いても、邪竜は平然と思考し、活動していた。
不死身としか思えない邪竜に、ゲルバートは戦慄した。
邪竜は自分の腹に開いた大穴を見て、首を傾げて笑っているようだった。腹の穴からは、今しがた食らったフローラの肉が零れ落ちている。「これでは人を食っても、全部出てしまうじゃないか」とでも言いだしそうに、邪竜は息耐える寸前のフローラに不気味な笑顔を見せる。
それから、げらげらげらげらと、口を開いて笑った後――――
邪竜は不気味な笑い声を残し、次元の翼を広げ、その姿を消した。
「……」
ゲルバートは自分が無事なのが、信じられなかった。邪竜に感じた恐怖は抜けず、脅威が去っても緊張が解けることはない。
気絶したままのガーデニアをそっと地面に下ろし、体を震わせながら、ゲルバートはフローラに近寄った。
腹部を邪竜に噛み千切られてしまったフローラの姿は、ゲルバートの目には見るのも恐ろしいほどに痛々しく思えた。その上、近寄るに連れて、ゲルバートは更に恐ろしい事に気が付いて。
「ゲルバートさん……」
フローラの全身に這う、赤黒い蛇のようなうごめく模様。
それは、地面に散らばった邪竜の血が古代文字の形になってフローラにまとわりついた、彼女の体を蝕む邪竜の呪いであった。
邪竜は自分を傷つけた者に、こうして呪いを残すのだ。死に至らしめるまでの衰弱と、絶えることのない不快感を与え続ける、怨邪の呪いを。
フローラに呼ばれたゲルバートは、勇気を出して彼女に近寄った。
「フローラさん……。なんで、なんでこんな……」
傷つき変わり果てたフローラの姿に、ゲルバートは涙を流す。フローラが震える手を伸ばす様を、ぼやけた視界の中に必死に探した。
何かを言おうとしているようだった。声も発せられぬようになっても、フローラが何かを伝えようとしているのが、ゲルバートには分かったから。ゲルバートはしっかりと、フローラの手を握る。
フローラの手の冷たさに、ゲルバートは彼女との別れを悟った。
我慢ができなくなって、泣きじゃくり、繋ぐ手に温かさを取り戻させようとするように、力を入れて。
涙で潤んだゲルバートの目には、もう何も見えてはいなかった。だから、彼は気づかない。フローラの手から溢れだす緑色の光が、ゲルバートの手に移っていくことに。
フローラが彼に、ムスカリムの家系に受け継がれてきた、“ロストエンチャント”の魔力情報化された記録を託したことに。
その時、ゲルバートは知らぬうちに、秘匿され、継承されてきた太古の魔術の知識を、脳に刻みつけられたのだ。
未来への希望も、古代魔術の知識も、ただの子供に過ぎないゲルバートに託さなくてはならなかったことを、フローラは悔やんだ。
「ご……、ごめんなさい……、ね……」
最期にようやく発せられたその一言に、ゲルバートが顔を上げたのを見届けて、フローラは悲しみを胸に目を閉じた。
フローラ・ムスカリムは、こうしてゲルバートの心と脳に大きな運命の楔を打ち込んで、息を引き取ったのであった。
後でゲルバートが聞いた話では、竜の巣観測所からの警報は、ゲルバートとガーデニアが出かけてから後に発令されたとのことで、ゲルバートたちを襲った邪竜は“ブージャム”と呼ばれる個体であるらしかった。
そして、ブージャムはフローラに退けられた三日後、完全に再生した体で別の町に現れ、十人超の市民を食らうと、巣に戻り、再び長い眠りについたという。