2-1 災害の邪竜【ブージャム】
ゲルバート・ライゼスが介護職員になることを志したのは、彼が六歳の時だった。
故郷である泉望郷で、祖父母や両親と暮らしていたゲルバート少年は、歳の近い他の子供がいなかったので、いつも祖父母に遊んでもらっていた。
――――王国歴一三二七年のある日。
ゲルバートが家の軒先で、ほのかに白光しながら空を飛ぶ精霊たちを捕まえて遊んでいると、祖父母が彼を家に呼び戻した。
「ゲルバート、家に戻っておいで。もうすぐお客さんが来るから、挨拶しなさい」
家に戻ったゲルバートは、両親が妙にそわそわしているのが気になった。父も母も、家の中を慌ただしく片づけて、普段は絶対に買わないような、首都にだけ売っている高級樹液入りクッキーを用意していたりもした。落ち着かない両親の様子に、ゲルバートも緊張しながらそのお客とやらを待った。
洗濯物を畳む祖母は、ゲルバートに機嫌良さそうに客のことを語る。
「これから来るお客さんはね、お婆ちゃんとお爺ちゃんの恩人なんだよ。偉い人たちだから、ゲルバートはちゃんと良い子にできるね?」
「うん」
ゲルバートが返事をすると、家の玄関扉が叩かれる音がした。祖母に連れられて、ゲルバートが玄関の方へ行くと、そこには――――
「お邪魔致します」
そこには、一人の老婆と一人の少女がいた。二人共、頭からは狐の耳を生やし、臀部からは狐の尻尾が生えている。
ゲルバートは口をぽかんと開けて、純白の衣服を纏う、その見目麗しい少女に目を奪われていた。自分よりもずっと年上であろう彼女を見て、ゲルバートの頭に浮かんだのは、“綺麗なお姉さん”という言葉。
生まれて初めて感じた胸の高鳴りに、ゲルバートは息を呑んだまま我を忘れていた。
そして、ゲルバートはこの時、初めてフォクシィという人種を知ったのである。
「お久しぶりです。ガーデニア・デンファーレ公女殿下。先の戦争で、この命をお救い頂いた御恩は忘れておりません。わざわざご足労頂き、感謝と光栄の至りにございます」
祖父母がひざまずき、ガーデニアと呼ばれたその少女に頭を垂れた。両親も同じようにしたので、ゲルバートはよく分からないまま、慌てて立ったまま頭を下げた。
ガーデニアはそんなライゼス一家に、申し訳なさそうに言った。
「やめてください。こちらこそ、あなたたち二人には私や兄上、両親も大変お世話になりました。今日はそのお礼をしに来たのです」
そして、ガーデニアは深々と頭を下げた。
「先の戦争で私だけでも生き残れたのは、あなた方の助力があってこそ。心より感謝を申し上げます」
ゲルバートの祖父母と両親は頭を下げたガーデニアに酷くうろたえた。ガーデニアの後ろに控えていた老婆が、目元を手で覆うのがゲルバートには見えた。
ゲルバートの祖母がガーデニアに近寄り、両肩に手を置く。
「ガーデニア様! お顔を上げてください! こんな異国の地で、私たちのような平民に公女様が頭を下げるなんて……!」
「いいえ! 命の恩人に頭も下げずにいる訳にはいきません! 両親や兄上だって、生きていたら、きっとそうしたに違いありませんから……」
ガーデニアを抱きしめる祖母の目から流れる涙を、ゲルバートはただ、不思議な心地で見ていることしかできなかった。
「終戦から一九年。サザンカラスでも、徐々にヒューマスを受け入れる方が増えています。ガーデニア様は貴族であるデンファーレ家の総力を挙げて、ヒューマスとフォクシィの友好関係を改善しようとしていらっしゃるんですよ」
フローラ・ムスカリムと名乗った、ガーデニアの付き人の老婆は誇らしそうにそう語った。すると、照れるガーデニアが言った。
「あの時、敵であるにも関わらず、暴徒たちからあなた方お二人が、私たち家族を助けてくれたのが忘れられなくて……。ヒューマスの人たちはみんな悪魔のようだって教えられてきたのですけど……、ヒューマスにも心優しい方がいるんだって、分かったんです。だから、他のフォクシィの人たちにもそれを知って欲しくて……」
「私たちもガーデニア様に助けて頂いたのですから、当然のことです。それに、あれはフローラさんのお陰ですよ。私と爺さんだけじゃ、あなたたちをあの戦場から無事に逃がすことはできませんでした」
「そうさなぁ。流石にサザンカラスで偉大なる魔法使いと呼ばれるだけはある」
「いえいえ、私はそんな……。昔の話ですし……」
「あっはは。フローラは昔からデンファーレ家に仕えて、私たちを守ってくれてるんですよ。ずっと一緒なんです。ね? フローラ」
「ガーデニア様……」
ガーデニアやフローラとライゼス一家総出で机を囲み、紅茶とクッキーを前に話しに花を咲かせている間、ゲルバートは何度もガーデニアの方に目を向けた。
家族がガーデニアやフローラと交わす小難しい話はゲルバートの興味を微塵も引かず、ゲルバートはただただ、ガーデニアの笑ったり寂しそうにしたりと、どう変化しても美しい表情に見惚れていた。
時折、ガーデニアは会話の途中、ゲルバートの視線に気づくと、見惚れる彼に微笑んだ。そうすると、ゲルバートはすぐに紅潮した顔を伏せて黙ってしまうのだった。
しばらくすると、祖父母たちはライゼス宅の外にあるベンチに会話の場所を移していて。
ゲルバートは話の内容がよく分からなくて退屈し、皆から離れ、空を泳ぐ精霊を捕まえて遊ぼうとし始めるのだった。
「なにやってるの?」
そんなゲルバートに話しかけたのは、ガーデニアだった。一人で遊ぶゲルバートを気遣って、祖父母たちとの会話から抜けてきてくれたのである。
精霊釣りをしていたゲルバートが、慣れた手つきで餌の羽虫に食いついた精霊を地面にまでたぐりよせると、ガーデニアは感心した様子で手を叩く。
「すごい! 精霊ってそんな風に獲れるんだ!」
精霊を釣ったのはゲルバートだというのに、ガーデニアのはしゃぎようと言ったらない。ゲルバートから精霊を渡されると、空にかざして宝石でも見つめるかのように、魚に似た三十センチ大の精霊の全身を観察していた。
小さな子供のように髪を振り乱してはしゃぐガーデニアを、ゲルバートは不思議そうに眺める。一人ではしゃいでいたガーデニアがゲルバートの視線に気づくと、恥ずかしそうに精霊をゲルバートに返した。
「ご、ごめんね。お姉さん、生きてる精霊さん初めてこんなに近くで見たから……」
あわあわと釈明するガーデニア。ゲルバートは精霊の鰓に木の棒を刺した後、彼女に釣竿を差し出した。
「やってみますか……?」
「え? いいの……?」
釣竿を手に持ったガーデニアの長い耳が、ぴこぴこと揺れていた。ゲルバートに教えてもらい、ガーデニアは釣竿の持ち方を覚えた。釣り針に付ける餌の羽虫に触るのを彼女は躊躇ったが、生まれて初めて触る虫の感触に背筋を震わせつつも、羽虫を死なせないように釣り針を背中に刺した。
羽虫が精霊の泳ぐ空に放たれた数分後、ガーデニアは激しい手応えに飛び跳ねた。
「わっ、わっ! え? これ、どうしたらいいの!? どうしたらいいの!?」
ガーデニアが持つ竿の先は、精霊に引かれるままに空を向いている。このままでは糸を切られると思ったゲルバートが、ガーデニアの横から竿を掴んで、地面と水平になるように倒す。竿がしなり、糸にかかる負荷が減る。
しかし、焦るガーデニアはついつい竿を上に向けてしまう。
「駄目! 駄目だって! 竿がしなるようにしないと!」
「え!? そうなの!? こう!?」
「違う! 違う!! もっと竿倒して! 逃げちゃうって馬鹿!! 下手くそ!!」
「あ!ひどい!」
二人は精霊を引き寄せることに熱中するあまり、互いの立場のことなど忘れて、暴言を吐き合いながら、精霊に引かれる釣竿と格闘した。
さらに数分後、ガーデニアの手の中には、ぐったりと疲れ果てた一匹の精霊の姿が在った。はしゃぐ彼女の隣には、同じく疲れ果てて座るゲルバートの姿も。
「わー! わぁー! やった! ほんとに釣れた! すごいすごい!」
苦戦の末、遂に精霊を手にしたガーデニアの興奮は最高潮だ。一方、ゲルバートはガーデニアについ言ってしまった暴言のことを気にして、不安になっていた。
ガーデニアが冷静になった時、彼女に怒られはしないかと。このことが祖父母や両親に知られたら、きっと腫れ上がって爆発するまで尻をぶたれるのだろうと、そう思って。
「ねえ、ゲルバート君」
びくり、と。
ガーデニアに声をかけられ、ゲルバートは委縮する。恐る恐る顔を上げ、ガーデニアに顔を向けた。
けれど、ゲルバートの予想から外れ、ガーデニアは。
「ゲルバート君って、友達になんて呼ばれてるの?」
ゲルバートの口がぽかんと開く。ガーデニアは少しも怒ってはおらず、その上何故か、ゲルバートが普段友達にどう呼ばれているか聞いてきた。
「“ゲル”……。って、呼ばれてます……」
「じゃあ、私も“ゲル”って呼んでいい?」
「え?」
「駄目?」
笑顔のガーデニアが、ゲルバートには女神か何か、それでなければ、この世の美しさを超越した聖母のような特別な存在に見えて。胸に湧くむずがゆい感情に戸惑いつつも、答えた。
「別に、いいですけど……」
「敬語じゃなくて、普通に話していいよ。ゲルは私の友達だから。私の初めてのお友達」
ゲルバートはなんだか恥ずかしくなってきて、うつむいた。
「私のことは“ガーデ”って呼んで。お父様とお母様は私のこと、そうやって呼んでたの」
ゲルバートは大きくなった今でも、その時のことをよく覚えている。彼がその時、どれだけの勇気を振り絞ったか。彼だけが知っている。
「……。ガーデ……」
ガーデニアの顔がぱっと華やいだ。彼女のその表情が、ゲルバートの背中を押した。
「家に……、この精霊持って帰ろう。ガーデ。そしたら、婆ちゃんが塩焼き作ってくれるから」
「うん!」
ガーデニアは微笑んで、ゲルバートの頭を撫でた。もしもガーデニアに狐の耳と尾さえなければ、二人のその様は仲の良い姉弟としか見えなかったに違いない。
ガーデニアと釣った精霊を木の棒に刺していると、家の方からフローラがやって来て。
「ガーデニア様。そろそろ戻らないと、折角淹れて頂いたお茶が冷めてしまいますよ」
「あ! ご、ごめんなさい!」
フローラに言われて、ガーデニアは慌てて家のベンチの方へ戻っていった。
フローラはしゃがんで目線を合わせ、残されたゲルバートに優しく礼を言う。
「ガーデニア様と遊んでくれていたんですね。ありがとうございます。ゲルバートさん」
ゲルバートからして見れば、齢百を超し、貴族の従者をしてきたフローラは、近所に住むヒューマスの老人たちとは一線を画す雰囲気を放っているように思えた。だから、ゲルバートは返事をできずに黙ってしまって。
「私のことは、フローラとお呼びください。ガーデニア様共々、仲良くしてくださいね」
フローラが差し出した手をゲルバートが握る。握手を交わしたフローラの手は温かかった。
「その精霊は、ゲルバートさんがお釣りになったのですか?」
「あ……、はい。片方はガーデが釣ったのだけど……」
フローラが少し驚いた顔をする。フォクシィのガーデニアを“ガーデ”と呼んだ、目の前のヒューマスの少年に、フローラは新しい時代の香りを感じ取る。
「あの……」
フローラは不思議に思った。ゲルバートがどうして心配そうに自分に声をかけてきたのか、ということに。
フローラを見るゲルバートは、不安そうな顔をしていた。何故なら――――
「大丈夫……、ですか……?」
フローラは、泣いていたからだ。
フローラは自分で気づかずに、涙をこぼしていた。有り得るはずのないと思っていた未来が来たのだと。長い時を経て積み重ねられてきた怨嗟に囚われず、真の平和を築くことのできる可能性を、若者たちの姿に見出したから。
「ええ……。大丈夫ですよ。あなたは優しい人なんですね」
フローラは涙を拭いて、ゲルバートの手を握った。
「さあ、ゲルバートさんも一緒に戻りましょう。ガーデニア様もきっとあなたをお待ちになられていますよ」
手を繋いだまま、フローラとゲルバートが歩き出す。再びフローラの手の温かさを感じて、ゲルバートはこの老婆に思わず甘えたくなるような、そんな好意を抱いた。
「そうそう。実は、今日から一か月ほど、ゲルバートさんのお家にガーデニア様と私を泊めて頂くことになったんです。これから、よろしくお願いしますね」
それはゲルバートにとって、一番幸せだった一か月。それ以降、彼の人生は陰の差した物に変わってしまったから。
フローラと二人で家に戻った後、ガーデニアと一緒に食べた精霊の塩焼きの味も、ガーデニアとフローラと過ごした日々も、ゲルバートにとっては忘れがたい思い出となった。
温かい思い出――――、になるはずだった。
あの“天災”さえ、彼らの前に“現れる”ことがなかったら。
“邪竜”などというものが、この世に存在さえしなければ――――