7話 夜叉先輩がお見舞いに来た。
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ラブコメの始まりの一つとして、空から見知らぬ女の子が降ってくるというものがある。
非日常的な出来事が可愛い女の子と結びつく事で主人公の心に大きな印象をもたらす王道イベントだが、見慣れた家の中に知らない人がいるという非日常は、空から女の子が降ってくるイベントとは異なり、悪印象しか与えない。
空中をフヨフヨと浮いているし真っ白な髪の毛をしていることから人間ではない事が唯一の救いか。
これでどこにでもいそうな中年のオッサンだったりしたら俺は迷わずお巡りさんを呼んでいただろう。
自分の神秘的で美人な容姿に感謝すると良い。
「ごちそうさまでした」
「はい。お粗末様です。主の本日のご予定は?」
「体調は悪くないけど、体力が戻ってないからシャワーを浴びて部屋で寝る」
「そうですか。それでは私は周辺の警戒にあたります」
「お前以上に警戒すべき事はないだろうけど、なんかあったら呼んでくれ。えぇっと……シロ」
「シロとは?」
「お前の名前。全然名乗ろうとしないから勝手につけた」
「私にはシュプレンヒルト・イール・ドラッセル・エクス・リシュタインという名があるのですが…」
「それじゃあなんて呼べば良いんだ?」
「しかし、体力が戻っていないとは困りましたね。一通りの法術は解いたのですが、一度失われた体力までは戻せませんし……」
「お前には文脈という概念がないのか?」
「どういう事ですか?」
「どういう事だろうね。とにかく、俺は疲れて眠いから後は好きにしてくれ」
「承知しました」
昨日何があったのだとか、お前は何者だとか聞きたい事はかなりあったが、病気の病み上がりの様な倦怠感があったから話は体力が戻ってからゆっくりと聞くことにした。
シュプシュプポッポーなんとかさんは話があっちこっちに飛んで話を聞くだけでも疲れるし、俺を助けてくれたのなら寝込みを襲ってきたりとかはしないだろうから放っておいて良いだろう。
とりあえず、眠い………。
◇◆
かなりの睡魔に襲われて眠りについたのだが、昼寝から目を覚ましたきっかけは些細な事だった。
家の外で誰かが言い争っている音が聞こえる。
「一時か」
置き時計が示す現在時刻は昼の一時。
サボらずに大学に行っていたら今は昼休みとなる時間帯だ。
とはいえ今日は大学に行かないと決めていた俺にとってはどうでも良い事だし、もう一度惰眠の世界へ行こうと思ったのだが……
「うるさい」
外の音がうるさすぎて全く眠れなかった。
シュプレンなんとかさんが警備をしてくれるんじゃなかったのか?
そんな事を考えつつ身体を起こして玄関に向かう。
「主はお休み中です! 何人たりともここを通す訳にはいきません!」
「どういうプレイをしていたかは知らないけれど、貴女に用はないわ。そこを通してちょうだい」
「貴女達からは魔の匂いがします。その様な者をこの私が受け入れるとお思いですか!」
「御託は良いわ。だったら力づくで通るまでよ」
開けっ放しの玄関から聞き覚えのある声がいくつか聞こえてくる。
夜叉先輩はてっきり大学に行っているもんだと思っていたけれど、どうしてここにいるんだ?
「こんちは夜叉先輩。どうかしましたか?」
「どうしたもこうしたもないわよ。伏見くんがいつもの電車にもいないし、学校にもいないから様子を見に来たのよ」
「あぁ、そういう事でしたか。ちょっと体調を崩して寝てました」
「そう思ってお見舞いに来たのよ。ほら、プリンとジンジャーエール」
「おお。なんかお高そう」
「そういう訳で入れてちょうだい。さっきからこの女が入れてくれなくて」
「この女って……。まぁ、良いや。どうぞ上がってください」
「お待ちください主。その女は魔の匂いがします」
「魔の匂い?」
「よく分からないけれどさっきからそればっかりなの。私、そんなに臭うかしら?」
夜叉先輩がそう言ってグイッと身体を寄せてくる。
まだ寝起きだからか抵抗できなかったけど、相変わらず柔らかいな。
いや、何がとは言わないけれど。
「い、いつも通りの良い匂いです」
「らしいわよ? 貴女のご主人様もこう言っている事だし、私は入っても良いわよね?」
「くっ。主がそう言うのでしたら問題ありません」
シュプ……もうシロで良いか。
シロが悔しそうな顔をしながら夜叉先輩を通す。
一緒に来ていた芦屋さんもその後に続こうとしたのだが、シロに止められてしまった。
「私はお通しいただけないのですか?」
「貴女は主に通しても良いと認められていません」
「おいシロ…」
「そうよ芦屋。貴女は伏見くんの家に入ることを許可されていないもの。そこで待っていなさい」
「かしこまりました」
「ちょっと夜叉先輩。芦屋さんが可哀想ですよ?」
「気にしなくて良いわ。芦屋は外で待たされる事が三度の食事よりも好きなの。それより、早く伏見くんの部屋に案内してちょうだい。伏見くんの家に上がれるなんて貴重な機会、おかしな浮遊霊と悪どいメイドに邪魔されてなるもんですか」
「あぁ、はいはい。分かりましたから押さないでください」
というわけでところ変わって玄関から俺の部屋である。
「本来なら美人な先輩が来たらそこらに散らばっているエロ本を慌てて隠すのだろうが、俺はあえてそのままにしておいた。どうせ夜叉先輩には俺がエロ本を買い込んでいる事はばれているし、隠して見つけられる方が恥ずかしいに決まっている。エロ本のスペシャリストは例え最愛の先輩が来ても堂々としているのだ。………とか、考えているのかしら?」
「て、テレパシストだったんですか?」
「あら、否定しないのね。伏見くんの最愛の先輩は驚いたわ」
「はいはい。それより早くその高級なプリンとジンジャーエールをください」
「プリンは私のよ。こっちはあげるから好きに飲みなさい」
「わざわざ人ん家でプリン食べなくても…」
「何か言ったかしら?」
「わーい。夜叉先輩がお見舞いに来てくれて嬉しいなぁ」
「よろしい」
先輩はそう言うと、テーブルに収まっていた椅子を引っ張って来て優雅にプリンを食べ始めた。
エロ本まみれの部屋で高級プリンを食べる美人すぎる先輩と寝癖だらけで高級ジンジャーエールを飲む俺。
カオスだな。
「それで、あの白い女は誰なのかしら?」
「それが俺にもさっぱり。昨日の夜、麻雀をやって帰って来たら急に寒気を感じて倒れちゃって、今朝気がついたらこのベッドの上で、シロが部屋の中にいました」
「シロ?」
「名前を聞いたんですけど長くて覚え辛かったんで、仮の名前です」
「そう。まぁ、良いわ。その前に、私があげた手袋はどうしたのかしら?」
「鞄に入ってますよ?」
「つけてちょうだい。今すぐに」
「? 別に構いませんけど、なんでですか?」
「折角贈り物をしたんだもの。身につけている伏見くんが見たいのよ」
「ははは。ご冗談を」
「良いからつける。さもないとその肌色の手袋を持ち帰るわよ?」
「これは皮膚って言うんです! まったく、分かりましたよ」
わがままな先輩の指示に従って黒い手袋をつけてやる。
プレゼントをしたからって、そんなに身につけてもらいたいものなのかね。
まぁ、普通に気に入ってるから良いんだけどさ。
「よっこいせっと。そう言えば、午後の授業はどうしたんですか?」
「伏見くんにメッセージを送っても既読すらつかないから2限から切ったのよ」
「え? ホントだ。全然気付きませんでした」
端末に夜叉先輩から数件のメッセージが届いている。
内容を読む限り、そこそこ俺の心配をしてくれていたらしい。
「ってあれ? 今さらなんですけど、何でうちの場所知ってるんですか?」
「お金を払えばこの世の中の事は大抵はどうにかなるのよ」
「それ、口癖にしようとしてます?」
「そんな事ないわ。芦屋に案内させたらここにたどり着いただけよ。詳しく聞きたいなら芦屋に聞きなさい」
「いや。別にそこまで気にならないんでもう良いです」
「そう。それじゃあ次は私から質問。伏見くんは昨晩どこで誰と麻雀をしたのかしら?」
「学校の近くの雀荘で、友達の芝と青い髪の少年と赤い髪の女性です」
「芝くんは知っているけれど、他の二人は知らないわね。伏見くんの友人なの?」
「いや、多分そうじゃないと思います。流石にあんなに派手な格好の人を見たら………あれ?」
「どうかしたのかしら?」
「いや………なんでもない…です」
おかしい。
普通に考えれば青い髪の少年と赤い髪の女性なんて目立ちすぎる格好の二人がそこらにいたら違和感を感じるはずなのに、昨日の俺は普通にあの二人を受け入れていた。
青い髪のエクスという少年が雀荘にいる事に疑問を持ちもしたが、それでもあの二人の容姿に対して美人だなとか美形だな以外の感想を持っていないのがおかしい。
普通あんな髪と目の色をした二人を見たらまずそっちに感想を持つはずなのに、俺はそこに感想を持たなかった。
何故だ? これも世界の変革による影響の一つなのか?
「伏見くん」
「ん? どうかしましたか?」
「私を抱きしめてちょうだい」
「はい?」
「だから、私を抱きしめてちょうだい」
「えぇっと。なんでですか?」
「あら、もしかして恥ずかしいのかしら? こんなに卑猥な空間に伏見くんの最愛の先輩を上げている以上に恥ずかしい事など無いと思うけど」
「それはそれ。これはこれです」
「あぁ、もう。くどいわね」
夜叉先輩はそう言うと、プリンを机の上に置いて俺の目の前にやって来たかと思ったら、体重をかけて俺を押し倒す。
体重を支えようとした手を払われた俺は、成すすべもなく先輩に押し倒された。
ちなみに左腕は夜叉先輩の御御足に拘束されている。
「あら、こぼさなかったのね」
「こ、こぼしたらベッドが汚れますし」
「そこは嘘でも先輩にもらった物だからと言いなさい」
「先輩にもらった大切なジンジャーエールですから」
「もう遅い」
俺に馬乗りになっている先輩が馬乗りのままジンジャーエールの入った瓶を取り上げて法術か何かで離れた位置に置く。
夜叉先輩って、本当に法術が使えたんだな。
「あれ? もしかして寝不足ですか?」
「どうして?」
「クマが出来てます。それと目が充血してる」
「気のせいよ」
「いや、でも…」
「気のせいよ」
「は、はぁ……?」
明らかにクマが出来てるのに、気のせいとはこれまた如何に。
触れて欲しくないのか?
「目をつぶってちょうだい」
「い、嫌です」
「目を閉じなさい」
「言い回しを変えても嫌です」
「それじゃあ目玉をくり抜くわ」
「怖いわ!」
目の前に綺麗な細い指を近づけられて思わず目を閉じてしまう。
片腕だけで夜叉先輩をどかすのは不可能だし、大人しく嵐が過ぎ去るのを待とう。
「そう、そのままよ。そのまま」
「あ、あの〜。俺はどうなってしまうのでしょう?」
「黙っていて。さもないと命を落とすわ」
「……」
あまりの恐怖に目を閉じたまま体を硬直させる。
ど、どうしよう。
さっきから冷や汗が止まらない。
俺は一体何をされるんだ?
そう思っていた矢先、首筋にひんやりとした何かが触れた。
感覚的には先輩の両手だろうか。
俺の首元を先輩の両手が撫でている。
緊張しているのか、先輩の手は珍しく汗で濡れていた。
もしやこのまま締め殺されるんじゃないかとも思ったが、俺の予想に反して先輩の両手は離れていく。
恐怖の時間はもう終わったのかと思って目を開こうとすると先輩の手に目を塞がれ、首筋にキスをされた。
そこまでされては流石に我慢の限界だ。
片手で俺の目を覆っていた夜叉先輩の右手を退けて抗議の声を上げる。
「な、にゃにするんじゃい!」
「大したことはしていにゃいわよ?」
「やかましいわ! 殺されるのかと思ったらキスされて、一人吊り橋効果か!」
「落ち着いて伏見くん。何を言っているのか理解できないわ」
「俺もだよ!!」
騒ぐ俺の上から夜叉先輩が退いて、再び椅子の上に座る。
くそう、危うく心臓が張り裂けるかと思ったぞ。
「な、何のつもりですか」
「何でもないわ。少し確認をしたかっただけよ」
「確認って何の?」
そう尋ねた俺を夜叉先輩がジッと見つめてくる。
顔の作りが良い人に真顔で見つめられると怖いんだよな。
もうダメだ。これ以上この雰囲気に耐えられない。
そう思って夜叉先輩に声をかけようとしたその時…
「主! ご無事ですか!!」
文字通りシロが飛んできた。
ベッドの上で冷や汗を垂らす俺の横に回り、夜叉先輩に向かってファイティングポーズをとる。
「やはり正体を現しましたね!!」
「あら、私は別に何もしていないわよ? ただ大事な後輩にキスをしただけ」
「そんなはずありません! 現に主の魂脈は乱れて……ってあれ?」
「どうした?」
「そ、その首の跡…まさか本当に口づけを?」
「ええ。伏見くんが強請って仕方なかったんだもの。仕方なくキスをしてあげたわ」
「あ、ああ、主! この様な魔の者とまぐわうとは何事ですか! ふ、不浄破廉恥です!」
「なんだよその単語。聞いた事ねぇよ」
「あら。私が伏見くんにキスをするのが破廉恥なら、そこら中に散らかっている卑猥な汚物はどうなるのかしら?」
「汚物言うなし」
「猥褻物」
「尚悪いわ!」
「ふふ、体調はもう良さそうね。それより、シロだったかしら? 伏見くんの後ろで白い顔が赤く染まっているわよ」
「え? ホントだ」
エロ本は今朝から散らかりっぱなしだしシロも今朝俺の部屋にいたはずなのに、なんで今になって恥ずかしがってるんだよ。
ていうか少なく見積もっても高校生ぐらいの容姿なのにエロ本を見て顔を赤くするとか、いくらなんでも無垢すぎないか?
悪気はなかったとはいえ、セクハラをしているみたいで罪悪感を感じる。
「あ、あぁ、主」
「お、おう。どうした?」
「こ、これは一体どういう事ですか?」
「むしろ疑問が尽きないのは俺の方なんだけど、そのエロ本は俺のコレクションだな」
「主はこれを毎日?」
「ええ。伏見くんは毎日欠かす事なくそのエロ本に全裸で頬ずりしているわ」
「してないわ!」
「え? していないの?」
「なんでそこで本気で驚いた顔!?」
「あ、主。差し出がましい事を言う様ですが、そういったえっちぃことは節度をもった上でですね…」
「不法侵入者のお前にまともな事言われたくねぇよ!」
こちとら夜叉先輩にキスされたばっかりでまだ平静を取り戻せていないのに、次から次へと厄介な問題を増やさないで欲しい。
この後はシロの事情聴取もやらないとだし夜叉先輩の家でバイトもあるし……今日はかなり忙しいな。
そう思うとついついため息が出てしまう不登校の俺であった。